ファッションへの熱が冷めたと言うより、ファッション感覚の重心が、服から顔とか身体、装着品などにじわじわずれてきていると言う事じゃないかと思います。
それともう一つ、今何が流行っているかを意識して、その先端を皆が追い掛けると言う構造が、もはやファッションの基本形ではなくなってきていると言う事もあるかと思います。
ファッションって、資本主義と一緒に歩んできたものです。
情報格差や地域格差と言った差異に付け込み、そこから搾取すると言うのが資本主義の構造戦略ですが、それを言わば時間的な地平で動かすのが「流行」と言う現象。
新しいもの、時代遅れじゃないものと言う差異を、強迫観念の様に植え付け、絶えず商品を買い替える様煽り続けてきたのです。
要はお金さえあれば幾らでも演出できる。
その意味では資本主義下での「流行」と言う現象も、愈々最終フェーズに入ってきているのかも知れません。
ファッションって元はと言えばカムフラージュ、「擬態」です。
その両極の間の、どの辺りを落し処にするかと言うゲームに過ぎない。
ファッションは今、「アフター・ファッション」と言う地点に差し掛かっている。
人々が今「探し求めて(シーク・アフター)」いるのは「ファッション以降(アフター)」だと言えそうです。
鷲田 清一 哲学者
愛媛新聞 稜線の思考から
ファッションに何かの時代文化を読み取ろうとするのは、人々の意識を煽る効果はあるでしょうが、意味がないらしい。