「生命体としての人間」と「人格あっての人間」が対立しているのです。
医療倫理では、今、四つの基本原理が認められています。
@自律、A善行、B無危害、C正義の四つです。
これらの原理は、次元の異なるものを並べているので、場面によってはお互いがぶつかり合う事があります。
@自律:自律とは、他者に強制や干渉される事なく、自分の人生や身体、行動について決める権利がある事です。
この様に、カントの義務論的倫理、ミルの功理論的倫理の何方にも合致する事から、自律原理は基本的に重要な原理である事が分かります。
A善行:他者に対して善い事をする事です。
この原理は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の、慈悲や同情心から他者を援助すると言う徳とも一致します。
B無危害:ヒポクラテスの「誓い」にもある原理です。
医師が患者に危害を加えない事を要請します。
実は、治療行為も患者の体に危害を加える行為なのですが、治療の利益が危害を上回るから許されるのです。
ですから治療行為では、危害を最小限にする事も要求されます。
C正義:先ず形式的には、同じ種類の人は同じ様に扱う事です。
裕福とか貧乏に関わらず、同じ病気の同じ様な症状の人に対しては、同様な内容の治療をする事が要請されます。
「生命の尊厳」を主張する人は、命を絶対視し、どんな極限状態でも人為的に命を絶つ行為を否定します。
宮川俊行は次の様に生命価値の相対性を明らかにします。
「先ず生命の価値は地上の諸価値の一つとして当然、絶対的ではありえない。
それは一つの有限存在として有限な価値でしかない。
第二にそれは独立して意味を持つ価値ではなく、あくまで人格との内的・本質的な結び付きに基づき大きな価値を保有するものに過ぎない。
人格に従属し、人格からその一切の価値を与えられるものである。
身体は、確かに人格にとって唯一の掛け替えのない地上的条件ではあるが、条件でしかないものである」(「安楽死の論理と倫理」東京大学出版会)
そして、次の様な判断を導き出します。
「価値は大きさに従って自己の尊重を要求する。
然し『生命の尊厳』原則が厳存する限り、それは只例外としてのみ認められ得る。
即ち真の極限状況においてのみ、他の特別に重大な価値が生命に対して優先される事を、倫理は承認するのである」
社会防衛や懲らしめ、報復、正義を理由に公的権力が堂々と人の生命を奪っているのです。
他方で、近代市民社会が「生命の尊厳」を最大限に尊重しようとしている事も事実です。
安楽死に対する倫理学の見方も、私たちのこうした常識的見方に合致する物です。
ここで問題になってくるのは、先ず「真の極限状態」とは何かと言う事です。
次に、生命よりも優先されるべき「他の或る価値」とは何かです。
宮川は次の様に整理します。
@個々の生命は、世界と人間の有限性から他の或る価値と二者択一的・矛盾的に競い合う事があり、生命の放棄を黙認せざるを得ない事も、事情次第ではありうる。
これが極限状況であり、真の極限状況であるか如何かは良心が判断する。
A人格の尊厳に相応しい死に方、耐え難い苦痛からの解放、過度の重荷からの家族の解放などの実現が、生命の価値より優る重大な価値であれば、安楽死が倫理的に容認される。
B関り度合いの大小も考慮に入れ、行為の倫理的評価がなされる。
但し、それが異例の事である以上、法制化には馴染まないのではないか、と私は思います。
現実の追認に留めるべきではないでしょうか。
許されるのか?安楽死から
良心が判断する?。
真の極限状況下の例外として認めざるを得ないケースが論理的、倫理的にあり得る事は納得できる?。
有限存在として有限な価値でしかない、?。