2020年02月12日
順番
晩年の母に私はなるべく手紙を書くようにしていました。
特別養護老人ホームに入所したのは2017年の春、その年の秋から亡くなる2019年の夏まで。
約2年間で60通の手紙を書きました。奇しくも60通目の手紙を投函した日に母は亡くなってしまい、ホームから母の荷物一式を引き取った日の朝、着いたそうです。
母は携帯電話を持っておらず、また呼び出しの電話をしても歩けない母と話すことができません。
交わせる手段は手紙のみ。あとは岩手まで行くしかありませんでした。
手紙を送っても母が一人で読むことはできません。
そこでホームの寮母さんに読んでもらうか、まだ生きていた頃、母を見舞った父が読んで聞かせていました。
そんな父がたまに口にしていました。
「なあ、俺にもときどき手紙を書いてくれよ。」
と。
しかし父には休みのたび電話をかけていました。
寂しがり屋だったんですね。
たまに電話をサボると、
「おー、ずいぶん久しぶりだなぁ。」
いやいや、休みは週に2回あるから、まだ7日しか経ってません。
また、男親と息子というのも、どうも照れがあります。手紙は。
それが死ぬってわかっていたら書いたんですけども。
高齢者が亡くなるときって突然来るんですね。
母もそうでしたし、父だってあっという間でした。
よく、すい臓がんは早いとか高齢者の癌は進行が遅いとかいいますが、それは癌の話です。
すい臓がんで逝ってしまった叔父は半年。同じくすい臓がんの叔父は2か月。
2カ月であっても、とても早いと思っていました。
それが父の場合、肺に水が溜まったと入院したのが2018/10/1。
入院中は電話で話すこともできて、10/7には元気に退院しました。
10/15、今度は肺炎で入院したと連絡がありました。
電話をしたら一度は苦しそうに出て、その後は電話にも出ません。
これは良くないと、娘を連れて見舞いに行きました。
それが10/23。
病室に入ったとき、
「〇〇か?」
と私の名を呼んだ気がしました。
しかしその後は
「痛い」「苦しい」
しか言いません。目を閉じたまま。
正直に思いました。
「このまま生きることが幸せなのか?」
私たちには何もできることがないので翌24日、岩手を後にしました。
24日の深夜、札幌に帰宅して翌朝父が死んだと電話が来ました。
もちろん、そのまま、また岩手行きの準備が始まりました。
そのときってなんか、悲しいけどほっとする気持ちの方が強いんですね。
私は人の死は物理的な“停止”でなく、天に召されると思っているからです。
長い人生、お疲れさまでしたと。
10/15に入院して10/25に亡くなった。わずか11日。
もう2度目の入院をしてから手紙を書いても遅かったんです。
子供の頃には親が死ぬなんてこと、考えたくもありませんでした。
もし死んでしまったら号泣してしばらく立ち直れないだろうとさえ思いました。
でも“老い”というのはそれを仕方なく思わせるものです。
母だって晩年はホームで寝てばかりの毎日でした。
だから私は両親、どちらの死に対してもまだ涙していません。
それでは悪いと、朝から酒を飲んで両親を回想し、涙してやろうと思うのですが、まだそれができる時間がありません。そのうち時間はやってくるでしょう。
さて、最近、少し変化した心境があります。それは、
「次は俺が行くから待っていてくれ。」
という心境です。
今までなら人の死というのは他人事であるかのように、実感がありませんでした。
でもだんだん年を取ってくると、どうしても“順番”を考えてしまいます。
結婚して子供ができて、子供は大人になり親が亡くなって子供は結婚して所帯を持つ。
あとは私にすることがだんだんなくなってきます。
死後を信じる信じないは人それぞれ。
しかし死ねば先に亡くなっている先祖や恩人が迎えてくれる。
そんな話は誰もがきっと聞いたことがあると思います。
とはいえ、私はあと何十年も生きるつもりです。
でも最近、もし私が死んだら誰が迎えに来てくれるのだろう?
そんなことを考えるようになりました。
自分のこととして。
そしてそう考えるとなぜか、安心する自分がいるんです。
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