2018年05月11日
地震
私がまだ小さな頃、東北に住んでいて、十勝沖地震を体験しました。
おぼろげですが、金魚鉢の水がタップンタップンとあふれたのを憶えています。
あとから“アサヒグラフ”(画報誌)で4階建ての団地がパタンと倒れている写真を見ました。
その後、宇都宮に住んでいたときにも直下型の大きな地震を体験しています。
さらに東京へ引っ越したときには、2週間に1度は震度2〜3の地震があったと記憶しています。
「東京ってずいぶん地震が多いんだ」とその頃は思っていました。
その後に北海道へ来ました。
北海道は釧路、根室など東側によく地震があります。
私の住んでいたのは西側だったので、あまり地震に遭うことはありませんでした。
住んでいたところでは年に1回くらい、震度1〜3の地震があるくらいでした。
しかし、今から十数年前、震度5弱の地震が来たのです。
だいたい、学校の下校時間でした。
私は家の2階にいて、娘が中学校から帰ってきてすぐでした。
親だから、まず子供のもとへ行くべきだったでしょう。
しかし、そんなこと、とてもできませんでした。
近くにある物を倒れないように押さえている、、
いや、押さえているつもりで物につかまっているのがやっとでした。
また同じ町でも地域によって揺れ方にかなりの差があったようですね。
我が家は一応、戸棚やタンスなどに耐震補強はしてあったので、大丈夫でしたが、地域によっては食器棚が倒れ、食器が散乱したり、給湯器が壊れたなんて家もあったようです。
それでも倒壊する家はなかったので、家はけっこう頑丈なものと思って良いのか、それとも震度5弱で倒れる家などないのか。
2011年の東日本大震災では最大震度が7と言いますから、その揺れはすごかったでしょう。
しかも長い時間に及ぶものでしたから、恐怖心というのは想像しかできません。
まして、たびたびくる余震。ストレスはひどいものだったでしょう。
ちょうどその年、地震の翌月に岩手県に行きました。
そこであった人はたびたび
「あ、余震だ」
と言っていました。
でも、私に揺れは感じませんでした。
もう揺れに対して麻痺してしまい、何かのはずみで余震と感じてしまったのでしょう。
東日本大震災こそ経験しませんでしたが、行く先々で割と大きな地震を体験してきた私。
地震に憑かれているなと思っていました。
でも違うんですね。
日本全国、どこにいても地震には遭うのでしょう。
特に熊本地震から、西(南)にも地震はあるのだという認識に変わりました。
そして最近では西(南)に地震が多くなってきたように思います。
札幌市は地震の少ないところです。
年に2〜3度はありますが、札幌近辺が震源地になることはまずなく、遠くで起きた大きな地震が札幌まで伝わるという程度で済んでいます。大きくても震度3です。
でも札幌市と近郊に大きな断層が4つあるといわれています。
そのうち大きな地震が起きてもおかしくはありません。
防ぎようのない地震は、とても恐ろしいと思います。
また、大惨事というのは翌日、あるいは未明の地震であれば早朝の新聞で知ることがほとんどだと思います。
1993.7.12 北海道南西沖地震
1995.1.17 阪神淡路大震災
2011.3.11 東日本大震災
いずれも新聞で、その惨事を知りました。
東日本大震災のとき、翌日からは津波警報と現況を伝えるテロップのテレビ画面。
そして自粛されたテレビCM。
北海道南西沖地震のとき、私は焼肉例会に出席していました。
会場が海に近い野外での例会でした。さらに夜。
誰かが「揺れている」と言い、
それを機に、ある人はラジオを持ってきて現状を知ります。
でもラジオはまだ、現地の惨状を伝えるものではありませんでした。
やがて津波警報と避難勧告が。
しかし、もっとも被害の大きかった奥尻島は離島のため、あれほどの惨事になっているのを恐らく地元の人しかわかっていなかったのだと思います。
思えば不謹慎なことですが、焼肉例会で飲酒していた私たち。
緊迫感がありません。
海が近かったため、十数メートル先の港まで水位を見に行きました。
いつもなら岸壁から2mくらい下にある水面が、岸壁の30cmくらいまでせり上がっていました。
消防車が鐘を鳴らしながらやってきます。避難しなさいと。
パトカーもやってきます。
しかし、さらに不謹慎なことに私たちは、それでも宴を続けていたのです。
翌朝、新聞を見てびっくりしました。
なんと常識を逸していたのかと恥じました。
おぼろげですが、金魚鉢の水がタップンタップンとあふれたのを憶えています。
あとから“アサヒグラフ”(画報誌)で4階建ての団地がパタンと倒れている写真を見ました。
その後、宇都宮に住んでいたときにも直下型の大きな地震を体験しています。
さらに東京へ引っ越したときには、2週間に1度は震度2〜3の地震があったと記憶しています。
「東京ってずいぶん地震が多いんだ」とその頃は思っていました。
その後に北海道へ来ました。
北海道は釧路、根室など東側によく地震があります。
私の住んでいたのは西側だったので、あまり地震に遭うことはありませんでした。
住んでいたところでは年に1回くらい、震度1〜3の地震があるくらいでした。
しかし、今から十数年前、震度5弱の地震が来たのです。
だいたい、学校の下校時間でした。
私は家の2階にいて、娘が中学校から帰ってきてすぐでした。
親だから、まず子供のもとへ行くべきだったでしょう。
しかし、そんなこと、とてもできませんでした。
近くにある物を倒れないように押さえている、、
いや、押さえているつもりで物につかまっているのがやっとでした。
また同じ町でも地域によって揺れ方にかなりの差があったようですね。
我が家は一応、戸棚やタンスなどに耐震補強はしてあったので、大丈夫でしたが、地域によっては食器棚が倒れ、食器が散乱したり、給湯器が壊れたなんて家もあったようです。
それでも倒壊する家はなかったので、家はけっこう頑丈なものと思って良いのか、それとも震度5弱で倒れる家などないのか。
2011年の東日本大震災では最大震度が7と言いますから、その揺れはすごかったでしょう。
しかも長い時間に及ぶものでしたから、恐怖心というのは想像しかできません。
まして、たびたびくる余震。ストレスはひどいものだったでしょう。
ちょうどその年、地震の翌月に岩手県に行きました。
そこであった人はたびたび
「あ、余震だ」
と言っていました。
でも、私に揺れは感じませんでした。
もう揺れに対して麻痺してしまい、何かのはずみで余震と感じてしまったのでしょう。
東日本大震災こそ経験しませんでしたが、行く先々で割と大きな地震を体験してきた私。
地震に憑かれているなと思っていました。
でも違うんですね。
日本全国、どこにいても地震には遭うのでしょう。
特に熊本地震から、西(南)にも地震はあるのだという認識に変わりました。
そして最近では西(南)に地震が多くなってきたように思います。
札幌市は地震の少ないところです。
年に2〜3度はありますが、札幌近辺が震源地になることはまずなく、遠くで起きた大きな地震が札幌まで伝わるという程度で済んでいます。大きくても震度3です。
でも札幌市と近郊に大きな断層が4つあるといわれています。
そのうち大きな地震が起きてもおかしくはありません。
防ぎようのない地震は、とても恐ろしいと思います。
また、大惨事というのは翌日、あるいは未明の地震であれば早朝の新聞で知ることがほとんどだと思います。
1993.7.12 北海道南西沖地震
1995.1.17 阪神淡路大震災
2011.3.11 東日本大震災
いずれも新聞で、その惨事を知りました。
東日本大震災のとき、翌日からは津波警報と現況を伝えるテロップのテレビ画面。
そして自粛されたテレビCM。
北海道南西沖地震のとき、私は焼肉例会に出席していました。
会場が海に近い野外での例会でした。さらに夜。
誰かが「揺れている」と言い、
それを機に、ある人はラジオを持ってきて現状を知ります。
でもラジオはまだ、現地の惨状を伝えるものではありませんでした。
やがて津波警報と避難勧告が。
しかし、もっとも被害の大きかった奥尻島は離島のため、あれほどの惨事になっているのを恐らく地元の人しかわかっていなかったのだと思います。
思えば不謹慎なことですが、焼肉例会で飲酒していた私たち。
緊迫感がありません。
海が近かったため、十数メートル先の港まで水位を見に行きました。
いつもなら岸壁から2mくらい下にある水面が、岸壁の30cmくらいまでせり上がっていました。
消防車が鐘を鳴らしながらやってきます。避難しなさいと。
パトカーもやってきます。
しかし、さらに不謹慎なことに私たちは、それでも宴を続けていたのです。
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