本来、会社は業績を上げ、規模を拡大して社員を募集、どんどん大きくなっていくべきです。
しかし、リストラはこの逆。経費を削減し規模を小さくします。
音響メーカーの主だったものには、アイワ、オンキョー、クラリオン(日立グループ)、三洋電機、ソニー、ダイヤトーン(三菱電機)、ティアック、Technics(松下電器産業)、パイオニア、マランツ、ヤマハなどがります。
昭和45年、日本ビクターのVTR事業部に高野鎭雄部長が配属されました。
VTR事業部は「会社のお荷物」と呼ばれるリストラ寸前の部署。
本社が開発した業務用ビデオを組立て、企業やホテル相手に販売するが故障が多く、半分は返品されたとか。
本社と切り離され、独立採算制をとっていたというので、かなり深刻な部署だったのでしょう。
その頃は各社、家庭用VTRの開発が盛んで、中でもソニーは技術力を活かし世界企業まであと少し。
昭和47年、業績が悪くなっていた日本ビクターはリストラを。本社のVTR開発部門を廃止、今後は改良と販売のみを行うことになりました。
開発部門にいた50人の技術者たちは高野さんのVTR事業部に配属されてきます。
高野さんはこれを願ってもいないチャンスととらえます。
というのも大正15年、世界で初めてブラウン管に「イ」の字を映し出した天才技術者、「テレビの父」と呼ばれた高柳健次郎さんは戦後、日本ビクターの技術顧問に就任。
配属されてきた技術者50人は、高柳さんの教え子だったのです。
それでも本社は高野さんの部署へ30人のリストラを要求。高野さんの部下は水増しした計画書の提出、また新たな営業部門を作り、20名の技術者に慣れない営業をさせ、本社をごまかします。
しかし、この営業から技術者たちは消費者のVTRに対する生の要望、声を聞くことになります。
ソニーがベータマックスの家庭用ビデオを発売開始してから遅れること3ヵ月。日本ビクターの最終試作機が出来上がります。
しかし高野さんは試作機の発表には慎重でした。
まず試作機の評価を、日本ビクターの親会社である松下電器の創設者、松下幸之助さんに託します。
試作機を見た松下幸之助さんは言います。
「ソニーのベータマックスは100点満点だ。しかしこの試作機は150点だ」
と。
さらに高野さんは4年かけて作り上げた試作機を、無条件で他社に貸し出します。
これは遅れを取ったソニーや、海外メーカーに対して極めて有効な戦略でした。
ソニーから遅れること約1年、1976年9月、日本ビクターはようやく新製品を発表します。
VHS第一号機です。
ソニーのベータ方式は最長1時間録画に対して、VHSは2時間。さらに3倍録画で6時間。
テープを機械上面からでなく、前面から装填できる「フロントローディング」はシャープ。
これでビデオデッキの収納は場所を選ばずに済みます。映像を早送りできる機能は三菱電機が。
無条件の貸し出しでVHSは各社の技術が追加され、さらにはアメリカ、ヨーロッパの企業にも無条件で貸し出しを続けたことから、7年後にはついにソニーのベータマックスの市場を抜き、世界標準規格になりました。
こうしてかつては「窓際」と言われたVTR事業部を、一人もリストラすることなく270名、全員を守り抜いたのです。
ところで
「ビクターワンちゃん」
って聞いたことありませんか?
ビクターのマーク、犬が蓄音機に耳を傾ける姿には意味があります。
実在した犬をモデルにしているのです。
この犬、“ニッパー”について、時間がありましたら以下をご残照下さい。
“わんちゃんホンポ”
https://wanchan.jp/osusume/detail/2804
2017年12月30日
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