2017年11月25日
勝海舟と西郷隆盛
賛否両論あるようですが、私は勝海舟を認めていますし、尊敬もしています。
海外列強から植民地支配されることもなく、明治維新を迎えられたのも、勝海舟の働きが大きかったと思います。明治維新について、様々な人物が登場しますね。
(私はあまり詳しい方ではありません。)
西郷隆盛、中村半次郎、島津斉彬、坂本龍馬、中岡慎太郎、高杉晋作、桂小五郎、山岡鉄舟、徳川慶喜などなど、キリがありません。
中でもやはり、西郷隆盛と勝海舟の対談は、明治維新への大きな架け橋になったのでしょう。
以前から面識のあった二人。
勝海舟は1823/3/12生まれで幕府の人間。
西郷隆盛は1828/1/23生まれで薩摩藩の人間。
初めて会った感想で、西郷隆盛は「勝先生にひどく惚(ほ)れ申し候」と手紙を書いていますし、勝海舟は後に「この世に恐ろしいまでの人間を二人見た」そのうちの一人と言っています。
4年が過ぎ、いまや陳腐化した幕府に焦りを感じながらも要人に就く勝海舟。
勝海舟の元へ薩摩藩ら新政府軍、官軍による江戸総攻撃は3/15と伝わります。
3/13、14の両日、勝と西郷は対談。
その結果、江戸無血開城が現実となりました。
映画やドラマではこの対談についてあまり深く触れません。
中には、勝が「江戸総攻撃は中止してくれ」といい、西郷が「わかった。では江戸総攻撃は中止だ」と、
ほんの何秒かで終わってしまうドラマもありましたが、実際はそんな簡単なものではなかったといいます。
お互い、戦だ死罪だと、友人知人、親戚らが殺された、仇同士です。
もし幕府側が身を引くとすれば、家臣や家族たちは家を失い、路頭に迷うかもしれません。
対談では勝が「江戸総攻撃を見合わせてくれないか」と求めます。すると西郷は
「ならば江戸城を明け渡してくれるか」
勝は「城はお渡し申そう」
西郷は「武器弾薬は如何?」
勝は「お渡し申そう」「ただし、少し猶予が欲しい」と。
すぐに引き渡せば徳川方の強硬派たちが城に引きこもり戦いになる。
西郷は「これは引き伸ばし作戦なのか?」互いに腹の探り合いです。
・勝海舟は「成(な)すなかれ、天意に違(たが)うことを」
と言っています。
・西郷隆盛が座右の銘とした言葉は「敬天愛人」〜 天を敬い人を愛す 〜
どちらも私欲を捨て「天」を大切にしました。
「天下の大権は『私』に帰せずして『公』に帰するや必せり」
「無私の哲学」で平和解決した二人。
互いの立場に執着し殺し合うより、江戸100万の民を救おうとする二人の英断。
通じ合った二人ならこそ実現できた江戸無血開城だったのでしょう。
この江戸の無血開城は、血を流さない革命として世界に類を見ないものです。
その後、西郷は明治新政府の要職に就いた後、私欲のなさゆえ、私利私欲に走った周囲の要人から煙たがられ、策略にはめられて西南戦争で自刃します。
策略とは西郷が作った私塾に通う若い衆を焚きつけ反乱を起こさせ、それをかばう西郷を朝敵として討つというもの。明治維新の立役者である西郷は維新後に悪者として殺されてしまいました。
その様子を勝は見事に詠みあげています。
〜 濡れぎぬを ほさんともせず子どもらの なすがまにまに果てし君かな 〜
また、西郷の亡き後、勝が西郷に贈った詩(うた)から抜粋します。
ああ君よく我を知れり
而(しこう)して君を知る
亦(また) 我に若(し)くは莫(な)し
訳)
君ほど私をよく理解してくれた者はいない
そして私以上によく君を理解する者もこの世にはいない
海外列強から植民地支配されることもなく、明治維新を迎えられたのも、勝海舟の働きが大きかったと思います。明治維新について、様々な人物が登場しますね。
(私はあまり詳しい方ではありません。)
西郷隆盛、中村半次郎、島津斉彬、坂本龍馬、中岡慎太郎、高杉晋作、桂小五郎、山岡鉄舟、徳川慶喜などなど、キリがありません。
中でもやはり、西郷隆盛と勝海舟の対談は、明治維新への大きな架け橋になったのでしょう。
以前から面識のあった二人。
勝海舟は1823/3/12生まれで幕府の人間。
西郷隆盛は1828/1/23生まれで薩摩藩の人間。
初めて会った感想で、西郷隆盛は「勝先生にひどく惚(ほ)れ申し候」と手紙を書いていますし、勝海舟は後に「この世に恐ろしいまでの人間を二人見た」そのうちの一人と言っています。
4年が過ぎ、いまや陳腐化した幕府に焦りを感じながらも要人に就く勝海舟。
勝海舟の元へ薩摩藩ら新政府軍、官軍による江戸総攻撃は3/15と伝わります。
3/13、14の両日、勝と西郷は対談。
その結果、江戸無血開城が現実となりました。
映画やドラマではこの対談についてあまり深く触れません。
中には、勝が「江戸総攻撃は中止してくれ」といい、西郷が「わかった。では江戸総攻撃は中止だ」と、
ほんの何秒かで終わってしまうドラマもありましたが、実際はそんな簡単なものではなかったといいます。
お互い、戦だ死罪だと、友人知人、親戚らが殺された、仇同士です。
もし幕府側が身を引くとすれば、家臣や家族たちは家を失い、路頭に迷うかもしれません。
対談では勝が「江戸総攻撃を見合わせてくれないか」と求めます。すると西郷は
「ならば江戸城を明け渡してくれるか」
勝は「城はお渡し申そう」
西郷は「武器弾薬は如何?」
勝は「お渡し申そう」「ただし、少し猶予が欲しい」と。
すぐに引き渡せば徳川方の強硬派たちが城に引きこもり戦いになる。
西郷は「これは引き伸ばし作戦なのか?」互いに腹の探り合いです。
・勝海舟は「成(な)すなかれ、天意に違(たが)うことを」
と言っています。
・西郷隆盛が座右の銘とした言葉は「敬天愛人」〜 天を敬い人を愛す 〜
どちらも私欲を捨て「天」を大切にしました。
「天下の大権は『私』に帰せずして『公』に帰するや必せり」
「無私の哲学」で平和解決した二人。
互いの立場に執着し殺し合うより、江戸100万の民を救おうとする二人の英断。
通じ合った二人ならこそ実現できた江戸無血開城だったのでしょう。
この江戸の無血開城は、血を流さない革命として世界に類を見ないものです。
その後、西郷は明治新政府の要職に就いた後、私欲のなさゆえ、私利私欲に走った周囲の要人から煙たがられ、策略にはめられて西南戦争で自刃します。
策略とは西郷が作った私塾に通う若い衆を焚きつけ反乱を起こさせ、それをかばう西郷を朝敵として討つというもの。明治維新の立役者である西郷は維新後に悪者として殺されてしまいました。
その様子を勝は見事に詠みあげています。
〜 濡れぎぬを ほさんともせず子どもらの なすがまにまに果てし君かな 〜
また、西郷の亡き後、勝が西郷に贈った詩(うた)から抜粋します。
ああ君よく我を知れり
而(しこう)して君を知る
亦(また) 我に若(し)くは莫(な)し
訳)
君ほど私をよく理解してくれた者はいない
そして私以上によく君を理解する者もこの世にはいない
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