劉 備(りゅう び:字・玄徳)とは?
黄巾の乱の鎮圧で功績を挙げ、その後は各地を転戦。諸葛亮の天下三分の計に基付いて蜀の地を得て勢力を築き、魏・呉・蜀の鼎立の原因を作った。後漢の滅亡を受けて皇帝に即位し、蜀漢を建国した。
明代の小説『三国志演義』では主人公として登場する。
三国志演義の劉備
小説『三国志演義』は、黄巾の乱によって世が乱れる中、劉備が関羽、張飛と桃園の誓いを結び、義勇兵を起こす場面から始まる。
史書が伝える劉備が、その武勇と人気によって諸勢力に重んじられ、同時に警戒されたのに比べて、『演義』の中の劉備は、武勇を関羽、張飛をはじめとする武臣達、知略を諸葛亮などの謀臣に預け、多様な個性を周囲に惹き付ける中心として位置している。しかも、若い時は母子で草鞋を作り行商し、吉川英治の小説『三国志』では当時庶民では高級品であったと言われる茶を母に飲ませるために金を貯めていたという苦労人として描かれている。その人を惹き付ける魅力となるのが、儒教の理想とする君子的高潔さであり、これによって奸雄・曹操と対立軸を構成している。
『演義』の中の劉備は「雌雄一対の剣」と名馬「的盧」を愛用している[23]。剣は先祖伝来のものであり、劉勝の末裔であることを示すものだったとしている。なお、吉川の小説では旅先で黄巾族に襲われているところを救ってくれた張飛に対し礼としてこの剣を渡したが、旅先から戻りこれを知った劉備の母がひどく悲しんだとされている。この剣は張飛と再会し義兄弟の契りを交わした際に劉備の手に戻った。的盧は千里を駆ける名馬であるが、凶相を持つため乗り手に祟りをなす馬である(詳しくは的盧の項を参照)。
呂布に追われている時に逃げ込んだ家の主人劉安は、劉備をもてなす食料がなかったので妻を殺害してその肉を差し出し、そうとは知らず感激していた劉備だったが、顛末を知るやひどく悲嘆したという逸話が載る(和訳本では削除されるか、価値観の違いについて注釈の上で紹介されている。また吉川の小説ではこの描写前に、中国と日本の文化の違いについて明記している)。
『演義』では、蜀を奪ったあと、義兄弟である関羽を魏呉連合軍に殺され、また部下に張飛を殺され呉に逃亡したことにより怒り狂い、義兄弟の敵討ちを大義名分として呉に向かう。その際に黄忠を老人扱いしたり、自軍が75万という大軍勢な上に呉軍の士気が低いのを見て傲慢になっていた。そこを突いた陸遜により大敗し白帝城へ落ち延び、まもなく後悔の念にさいなまれ病気になる。病の床で見た夢に現れた関羽と張飛から「遠くなく兄弟三人がまた集うことになるでしょう」と言われ、自らの死期を悟る。そして諸葛亮を呼び寄せ、後のことを託して世を去る。横山光輝の三国志では、臨終の際に目の前に関羽と張飛の幻を見た様子で、「二人が来ている、私も後を追う」と言い残して死亡した。
詳しくはこちらから
材質:本体コールドキャスト
サイズ:H325 x W200 x D220mm
重量:約2.35kg
材質:本体コールドキャスト
サイズ:H325 x W200 x D220mm
重量:約2.35kg
この記事へのコメント