関 羽(かん う:字・雲長)とは?
その武勇、曹操が義理堅いと評した事から、後世の人間が神格化し関帝(関聖帝君・関帝聖君)とし、47人目の神とした。信義に厚い事などから、現在では商売の神として世界中の中華街で祭られている。そろばんを発明したという伝説まである。
『三国志演義』では、「雲長又は関雲長或いは関公、関某と呼ばれ、一貫して諱を名指しされていない」、「大活躍する場面が壮麗に描かれている」など、前述の関帝信仰に起因すると思われる特別扱いを受けている。
三国志演義では
小説『三国志演義』では、身の丈9尺、2尺の髭、紅顔で重さ82斤の青龍偃月刀(冷豔鋸:れいえんきょ)と呼ばれる大薙刀を持ち、赤兎馬に跨っている。主人公的存在だけあって、史実に比べ、活躍は非常に華々しいものとなっており、講談や元曲・京劇(戯曲)などでの創作が、積極的に取り入れられていると思われる。
たとえば、
■董卓配下の猛将華雄を、曹操に勧められた酒が冷めないうちに斬った話
■曹操の元を去るとき、曹操軍の検問に見咎められて、6人の将軍を斬り殺して突破した話
■孫権軍に処刑されたあと、呂蒙を祟り殺した話
など、全て創作である。なお、名馬赤兎については呂布の死後曹操が持っており、降伏した関羽の心を得るべく譲ったことになっている。曹操からの贈り物は二婦人への贈り物を含め全て封印した関羽であるが、「この馬は千里を駆けると知っております。今幸いにして之を得たなら、若し兄の行方が知れた時、一日にして見えることが出来ましょうぞ」として唯一これを受け取り、以降は関羽の愛馬として活躍する。
また、養子として関平が、次男として関興、三男として関索が出てくる。正史によれば、関平は実子。関興は諸葛亮にその才能を評価されていたものの二十数歳で亡くなっている。関索に至っては正史やその註にも一切記載が無く、後世に作られた伝承「花関索伝」の登場人物を流用したもので、実在しない人物だと考えられる。
死後に呂蒙を呪い殺すとされているが、義理堅い関羽の印象にそぐわず、また非現実的であることなどから近年では削除される事もある。その場面によると孫権は関羽を処刑した後、祝宴を開いて呂蒙を第一の功労者として上座に座らせ、呂蒙に親しく杯を渡す。呂蒙は恭しく杯を受け取るが、突然その杯を地面に叩きつけるなり、孫権の胸倉を掴んで押し倒し「我こそは関羽なるぞ」と大喝。祝宴に列席していた一同が顔色を変えて平伏すると、呂蒙はばったりと倒れ、血を吐いて死ぬことになる。関羽の魂が乗り移ったように描かれている。
また関羽が斬首された後、その霊が玉泉山の普浄という僧の前に、同じくして死んだ関平と周倉、それに家臣の霊と共に現れ、呉や呂蒙に対する恨みを綴るが普浄の説得により成仏する、という話もある。普浄という人物は話によっては、関羽を以前助けた人物だとも、関羽が死んでから百年後にいた人物だとも言われており、存在した年代がはっきりしておらず、フィクションなのか実在したのかさえもわからない。
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材質:本体コールドキャスト
サイズ:
H305 x W160 x D315mm(青龍偃月刀装備時H305 x W260 x D330mm)
重量:約2.25kg
材質:本体コールドキャスト
サイズ:約H305 x W160 x D315mm(青龍偃月刀装備時H305 x W260 x D330mm)
重量:約2.25kg
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