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2014年02月11日
ムスリム人
ムスリム人(ボスニア語・セルビア・クロアチア語:Muslimani / Муслимани)は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国において、南スラヴ系のボシュニャク人を指して用いられていた呼称であり、ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国の主要構成民族のひとつであった。「モスレム人」とも呼ばれる。
1990年代のユーゴスラビア崩壊後のムスリム人の民族復興運動によって、ボスニア・ヘルツェゴビナでは公式に、「ムスリム人」に替えてその歴史的呼称である「ボシュニャク人」の呼称が承認された[1]。一方、ボスニア・ヘルツェゴビナを除く旧ユーゴスラビア諸国に居住する多くの人々が、現在でも民族名称として(ボシュニャク人ではなく)ムスリム人という呼称を自認しており、またコソボ、マケドニア共和国においては少数がゴーラ人、トルベシュ人(マケドニア・ムスリム人)、ポマクを自認している。後2者は旧ユーゴスラビア諸国の範囲外のイスラム教徒のスラヴ人によっても用いられており、主としてスラヴ人が多数派を形成しているブルガリアや、少数派としてスラヴ人が居住しているギリシャやトルコにもこれらの名称は見られる。
旧ユーゴスラビア地域において、およそ1万人が現在でもムスリム人という民族意識を保持しているが、その範囲外では既にこの呼称は過去のものとなっている。
目次 [非表示]
1 歴史
2 人口
3 脚注
4 関連項目
歴史[編集]
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の憲法では、「narodi」(国家の主要民族で、憲法に明記され、特別の保護を受けられる)と「narodnosti」(少数民族)が規定されていた。
ユーゴスラビアでは、オーストリア=ハンガリー帝国とは異なり、ボシュニャク人という呼称は認められていなかった。1960年代における議論のなかで、多くのボシュニャク人の共産主義知識人は、ボスニア・ヘルツェゴビナのイスラム教徒はひとつのスラヴ系の民族として認識されるべきであると指摘してきた。しかしながら、ボシュニャクの名称は否定されてきた。ボシュニャク人政治家で大統領のハムディヤ・ポズデラツ(Hamdija Pozderac)の発言:
彼らは我々のボスニア人としての性質を否定したが、イスラム教徒としての性質を提唱してきた。その名称は誤りではあるものの、我々はこれを受け入れるだろう。そして、これを新しいプロセスの始まりとしていこう。(1971年、後にボシュニャク人となる「ムスリム人」の民族認定による憲法改正のための、ヨシップ・ブロズ・ティトーとの会談に関して。)
この合意によって、憲法は1968年に改正され、ボシュニャク人という名称ではなく「ムスリム人」という名称で新たに民族として認められた。ユーゴスラビアのムスリム人政策は、ボシュニャク人を地域的な民族ではなく宗教による区分とすることを目的とし、彼らに対してそのボスニア性を無視し認めないものであった[1]。
ムスリム人を指し示して「頭文字が大文字のムスリム」とも呼ぶこともあった。頭文字が小文字のムスリム(ムスリマン)とはイスラム教徒を表す一般名詞あるのに対して、「頭文字が大文字のムスリム」は特定の民族を表す呼称であるためである。こうした呼び方は、セルビア・クロアチア語の話者は時として他民族をその頭文字で呼ぶことがあったことによる。
1990年代のユーゴスラビア崩壊以降、200万人程度を数えるムスリム人の多くはボスニア・ヘルツェゴビナ、あるいはサンジャク地域に住み、自身を「ボシュニャク人」と規定している[2](複数形は「Bošnjaci」、単数形は「Bošnjak」)。他方で、特にボスニア・ヘルツェゴビナ国外において、現在でも自身を「ムスリム人」と規定している人々もいる。ボスニア・ヘルツェゴビナの選挙法ならびに憲法では、1991年の統計調査以降「ボシュニャク人」の呼称を使用している。
人口[編集]
スラヴ系ムスリム(ムスリム人、ボシュニャク人)が多数派を占める地域セルビアにおいて、2002年の統計調査によると、中央セルビアとヴォイヴォディナには19,503人の「ムスリム人」、136,087人の「ボシュニャク人」がいる。[3]。
モンテネグロにおいて、2003年の統計調査によると、人口の3.97%を占める24,625人が自身を「ムスリム人」とし、7.77%を占める48,184人が「ボシュニャク人」と規定した
マケドニア共和国においては、2002年の統計調査によると、17,018人の「ボシュニャク人」がおり、「ムスリム人」は極少数に留まった[4]。ただし、1990年以前の調査ではトルベシュ人やポマクも「ムスリム人」として回答していた。
クロアチアにおける南スラヴ・イスラム教徒のコミュニティにはおよそ5万人が属しており、3つの異なる民族規定に分けられる。このうちおよそ1万人は「クロアチア人」、2万人は「ムスリム人」、その他の2万人は「ボシュニャク人」としている。
スロベニアにおける2002年の統計調査では、21,542人が「ボシュニャク人」、8,062人が「ボスニア人」、10,467人が「ムスリム人」とした[5]。
1990年代のユーゴスラビア崩壊後のムスリム人の民族復興運動によって、ボスニア・ヘルツェゴビナでは公式に、「ムスリム人」に替えてその歴史的呼称である「ボシュニャク人」の呼称が承認された[1]。一方、ボスニア・ヘルツェゴビナを除く旧ユーゴスラビア諸国に居住する多くの人々が、現在でも民族名称として(ボシュニャク人ではなく)ムスリム人という呼称を自認しており、またコソボ、マケドニア共和国においては少数がゴーラ人、トルベシュ人(マケドニア・ムスリム人)、ポマクを自認している。後2者は旧ユーゴスラビア諸国の範囲外のイスラム教徒のスラヴ人によっても用いられており、主としてスラヴ人が多数派を形成しているブルガリアや、少数派としてスラヴ人が居住しているギリシャやトルコにもこれらの名称は見られる。
旧ユーゴスラビア地域において、およそ1万人が現在でもムスリム人という民族意識を保持しているが、その範囲外では既にこの呼称は過去のものとなっている。
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1 歴史
2 人口
3 脚注
4 関連項目
歴史[編集]
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の憲法では、「narodi」(国家の主要民族で、憲法に明記され、特別の保護を受けられる)と「narodnosti」(少数民族)が規定されていた。
ユーゴスラビアでは、オーストリア=ハンガリー帝国とは異なり、ボシュニャク人という呼称は認められていなかった。1960年代における議論のなかで、多くのボシュニャク人の共産主義知識人は、ボスニア・ヘルツェゴビナのイスラム教徒はひとつのスラヴ系の民族として認識されるべきであると指摘してきた。しかしながら、ボシュニャクの名称は否定されてきた。ボシュニャク人政治家で大統領のハムディヤ・ポズデラツ(Hamdija Pozderac)の発言:
彼らは我々のボスニア人としての性質を否定したが、イスラム教徒としての性質を提唱してきた。その名称は誤りではあるものの、我々はこれを受け入れるだろう。そして、これを新しいプロセスの始まりとしていこう。(1971年、後にボシュニャク人となる「ムスリム人」の民族認定による憲法改正のための、ヨシップ・ブロズ・ティトーとの会談に関して。)
この合意によって、憲法は1968年に改正され、ボシュニャク人という名称ではなく「ムスリム人」という名称で新たに民族として認められた。ユーゴスラビアのムスリム人政策は、ボシュニャク人を地域的な民族ではなく宗教による区分とすることを目的とし、彼らに対してそのボスニア性を無視し認めないものであった[1]。
ムスリム人を指し示して「頭文字が大文字のムスリム」とも呼ぶこともあった。頭文字が小文字のムスリム(ムスリマン)とはイスラム教徒を表す一般名詞あるのに対して、「頭文字が大文字のムスリム」は特定の民族を表す呼称であるためである。こうした呼び方は、セルビア・クロアチア語の話者は時として他民族をその頭文字で呼ぶことがあったことによる。
1990年代のユーゴスラビア崩壊以降、200万人程度を数えるムスリム人の多くはボスニア・ヘルツェゴビナ、あるいはサンジャク地域に住み、自身を「ボシュニャク人」と規定している[2](複数形は「Bošnjaci」、単数形は「Bošnjak」)。他方で、特にボスニア・ヘルツェゴビナ国外において、現在でも自身を「ムスリム人」と規定している人々もいる。ボスニア・ヘルツェゴビナの選挙法ならびに憲法では、1991年の統計調査以降「ボシュニャク人」の呼称を使用している。
人口[編集]
スラヴ系ムスリム(ムスリム人、ボシュニャク人)が多数派を占める地域セルビアにおいて、2002年の統計調査によると、中央セルビアとヴォイヴォディナには19,503人の「ムスリム人」、136,087人の「ボシュニャク人」がいる。[3]。
モンテネグロにおいて、2003年の統計調査によると、人口の3.97%を占める24,625人が自身を「ムスリム人」とし、7.77%を占める48,184人が「ボシュニャク人」と規定した
マケドニア共和国においては、2002年の統計調査によると、17,018人の「ボシュニャク人」がおり、「ムスリム人」は極少数に留まった[4]。ただし、1990年以前の調査ではトルベシュ人やポマクも「ムスリム人」として回答していた。
クロアチアにおける南スラヴ・イスラム教徒のコミュニティにはおよそ5万人が属しており、3つの異なる民族規定に分けられる。このうちおよそ1万人は「クロアチア人」、2万人は「ムスリム人」、その他の2万人は「ボシュニャク人」としている。
スロベニアにおける2002年の統計調査では、21,542人が「ボシュニャク人」、8,062人が「ボスニア人」、10,467人が「ムスリム人」とした[5]。
セルビア人
セルビア人(セルビア語:Срби / Srbi)は、主にセルビアやボスニア・ヘルツェゴビナのスルプスカ共和国を中心に住む南スラブ人。血統や言語はクロアチア人・ボシュニャク人(ボスニア人)とほぼ同じだが宗教が異なる。セルビア人には正教会信徒が多い。
歴史[編集]
「セルビアの歴史」も参照
7世紀ごろバルカン半島中西部に定住し東ローマ帝国の影響下で正教会を受容した。12世紀後半にセルビア王国を打ち建ててセルビア人は東ローマ帝国から自立し、新たにセルビア正教会を樹立して宗教上も独立を勝ち取った。14世紀半ばにセルビア王国は黄金期を迎えるが、その後急速に衰弱しオスマン帝国の圧制下に置かれることとなった。
ナポレオン戦争後にウィーン体制がしかれて中欧の民族運動がほとんどの場合失敗に終わったにもかかわらず、セルビア民族主義運動はロシアの後ろ盾で成功し1860年代にはかなりの自治権を認められるようになった。1878年サン・ステファノ条約とベルリン条約を通じてセルビアはモンテネグロ、ルーマニアとともに再び独立を勝ち取った。
第一次大戦後にセルビア王国はスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナをオーストリアから奪取し南スラブ人による共同国家ユーゴスラビア王国の建設をめざす。民族問題に頭を悩ませたユーゴ政府はセルビア独裁体制を建設してこれに対応しようとしたためクロアチア人との対立が深まり第二次大戦中ユーゴはクロアチアに独立を許すこととなる。アンテ・パヴェリッチにより70万人のセルビア人が虐殺された。大戦後もユーゴスラビアの構成員としてクロアチア人、スロベニア人、ボシュニャク人、マケドニア人と協調を図ってきたが1980年指導者チトーを失ってからはクロアチア人と再び対立を深めた。また、コソボではアルバニア人とセルビア人との関係が険悪となり、15年近くにわたり両者が激しく睨み合うこととなった。
1992年にはユーゴスラビア連邦共和国(FRJ)が成立しセルビアはモンテネグロとともに連邦構成国となった。その後2003年にFRJの国称はモンテネグロ人アイデンティティー確立の風潮にあわせセルビア・モンテネグロと改まった。サッカーワールドカップが迫る2006年6月3日、これに先立つ5月23日におこなわれた国民投票の結果を踏まえ、モンテネグロはセルビア・モンテネグロから独立を宣言。6月5日にセルビアがセルビア・モンテネグロ継承を宣言し、旧ユーゴスラビアは完全に解体した。また2008年には国連統治下にあったコソボが分離独立を宣言したが、セルビア政府は今日に至るまで承認していない。
分布[編集]
セルビア人がとりわけ主要な地位を占めるセルビアとスルプスカ共和国では、国旗の意匠(上から順に赤・青・白)や国章(赤地に白い双頭鷲)、国歌(正義の神 Boze Pravde)は同じものを用いて民族主義色の強い文化を維持してきた(ただし国章は微妙に異なる)。しかし、スルプスカ共和国においては、これらのシンボルを用いることがイスラム教徒のボシュニャク人やカトリックのクロアチア人に対する差別に当たる主張され、2007年以降国章が、2008年には国歌が変更されている。
歴史[編集]
「セルビアの歴史」も参照
7世紀ごろバルカン半島中西部に定住し東ローマ帝国の影響下で正教会を受容した。12世紀後半にセルビア王国を打ち建ててセルビア人は東ローマ帝国から自立し、新たにセルビア正教会を樹立して宗教上も独立を勝ち取った。14世紀半ばにセルビア王国は黄金期を迎えるが、その後急速に衰弱しオスマン帝国の圧制下に置かれることとなった。
ナポレオン戦争後にウィーン体制がしかれて中欧の民族運動がほとんどの場合失敗に終わったにもかかわらず、セルビア民族主義運動はロシアの後ろ盾で成功し1860年代にはかなりの自治権を認められるようになった。1878年サン・ステファノ条約とベルリン条約を通じてセルビアはモンテネグロ、ルーマニアとともに再び独立を勝ち取った。
第一次大戦後にセルビア王国はスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナをオーストリアから奪取し南スラブ人による共同国家ユーゴスラビア王国の建設をめざす。民族問題に頭を悩ませたユーゴ政府はセルビア独裁体制を建設してこれに対応しようとしたためクロアチア人との対立が深まり第二次大戦中ユーゴはクロアチアに独立を許すこととなる。アンテ・パヴェリッチにより70万人のセルビア人が虐殺された。大戦後もユーゴスラビアの構成員としてクロアチア人、スロベニア人、ボシュニャク人、マケドニア人と協調を図ってきたが1980年指導者チトーを失ってからはクロアチア人と再び対立を深めた。また、コソボではアルバニア人とセルビア人との関係が険悪となり、15年近くにわたり両者が激しく睨み合うこととなった。
1992年にはユーゴスラビア連邦共和国(FRJ)が成立しセルビアはモンテネグロとともに連邦構成国となった。その後2003年にFRJの国称はモンテネグロ人アイデンティティー確立の風潮にあわせセルビア・モンテネグロと改まった。サッカーワールドカップが迫る2006年6月3日、これに先立つ5月23日におこなわれた国民投票の結果を踏まえ、モンテネグロはセルビア・モンテネグロから独立を宣言。6月5日にセルビアがセルビア・モンテネグロ継承を宣言し、旧ユーゴスラビアは完全に解体した。また2008年には国連統治下にあったコソボが分離独立を宣言したが、セルビア政府は今日に至るまで承認していない。
分布[編集]
セルビア人がとりわけ主要な地位を占めるセルビアとスルプスカ共和国では、国旗の意匠(上から順に赤・青・白)や国章(赤地に白い双頭鷲)、国歌(正義の神 Boze Pravde)は同じものを用いて民族主義色の強い文化を維持してきた(ただし国章は微妙に異なる)。しかし、スルプスカ共和国においては、これらのシンボルを用いることがイスラム教徒のボシュニャク人やカトリックのクロアチア人に対する差別に当たる主張され、2007年以降国章が、2008年には国歌が変更されている。
ボスニア人
ボスニア人(セルビア・クロアチア語: Босанци / Bosanci)とはボスニア・ヘルツェゴビナに在住する特定の人々を指し示す呼称である。その指し示す範囲は、大きく2つに分けられる
1.セルビア・クロアチア諸語を母語とし、主としてイスラム教の共同体に属する民族。社会主義時代にはムスリム人と呼ばれ、ボスニア・ヘルツェゴビナ独立後はボシュニャク人と呼ばれるようになった。
2.セルビア人、ボシュニャク人、クロアチア人という宗教に基づいた民族区分によらず、全てのボスニア・ヘルツェゴビナの住民。
ここでは2について主に述べる。
歴史[編集]
ボスニア・ヘルツェゴビナに住む住民の多くは、言語(方言)や文化の面では互いに類似している一方、宗教としては歴史的経緯から正教会、イスラム教、カトリックの3種が拮抗している。伝統的に、セルビア・クロアチア諸語を話すカトリック教徒の多くは「クロアチア人」、正教徒の多くは「セルビア人」を自認してきた[1] [2]。また、オーストリア=ハンガリー帝国時代、この言語を話すムスリムの間では、セルビア人でも、クロアチア人でもない独自のアイデンティティが形成されつつあり[1]、彼らはときと場合に応じて「ボシュニャク人」、「ムスリム人」、「トルコ人」、あるいは「セルビア人」、「クロアチア人」などとされた。第二次世界大戦後、社会主義体制がとられたユーゴスラビア連邦人民共和国では、同国を構成する共和国としてセルビア、クロアチアなどが、それぞれ民族ごとの共和国として設定された。一方で、両国の間に挟まれたボスニア・ヘルツェゴビナでは3つの宗教が混在しており、民族別の国家とすることが難しい状態にあった。そこで、民族・宗教の別によらず地域に基づいた共和国としてボスニア・ヘルツェゴビナ人民共和国が設定された。この時代、「ボスニア人」とは民族・宗教の別によらずボスニア・ヘルツェゴビナの住民を示していた。第二次世界大戦後のユーゴスラビアで、当時は「セルビア人」、「クロアチア人」あるいは「トルコ人」などと名乗っていたボスニア・ヘルツェゴビナのイスラム教徒が、自らを独自の民族「ボスニア人」として認定するよう求めたのに対し、ユーゴスラビアの連邦政府はこれを却下した。代わりに、宗教呼称に基づいた「ムスリム人」とすることを認めた[2]。これは、「ボスニア人」「ボスニア」という呼称を、宗教・民族から切り離された地域的な呼称と考える連邦政府の意向に基づいたものである。ユーゴスラビアの主要民族として新たに「ムスリム人」が加えられた新しい憲法は1974年に施行された。
宗教間結婚や世俗化が進んでいた都市部では、民族・宗教共同体に拘らないコスモポリタン的な「ボスニア人」意識が強かった。しかしながら、ヨシップ・ブロズ・ティトーが死去した後、1980年代から1990年代にかけての段階的な自由化、経済の不振、そして冷戦の終結などによって、それまで民族主義を抑圧し、民族を超えた統一を守ってきたユーゴスラビアの存在意義には疑問がもたれるようになった[2]。民族主義が伸張し、ユーゴスラビアが解体に向かうに至り、それまでボスニア・ヘルツェゴビナで共存してきたクロアチア人(カトリック教徒)、セルビア人(正教徒)、ムスリム人(イスラム教徒)の3つの民族の間で互いに不信感が高まった。ボスニア・ヘルツェゴビナの独立と前後して、3民族の間の対立は武力衝突に発展し、民族浄化などの蛮行が横行する、凄惨なボスニア・ヘルツェゴビナ紛争へと発展した[2]。
その後、ムスリム人はその自称を「ボシュニャク人」に復し、現在ではイスラム教徒のボシュニャク人のみをボスニア人と呼ぶことが多い。ただし現在でも和解主義者など一部ではクロアチア人やセルビア人も含めて、ボスニア人とすることもある。
1.セルビア・クロアチア諸語を母語とし、主としてイスラム教の共同体に属する民族。社会主義時代にはムスリム人と呼ばれ、ボスニア・ヘルツェゴビナ独立後はボシュニャク人と呼ばれるようになった。
2.セルビア人、ボシュニャク人、クロアチア人という宗教に基づいた民族区分によらず、全てのボスニア・ヘルツェゴビナの住民。
ここでは2について主に述べる。
歴史[編集]
ボスニア・ヘルツェゴビナに住む住民の多くは、言語(方言)や文化の面では互いに類似している一方、宗教としては歴史的経緯から正教会、イスラム教、カトリックの3種が拮抗している。伝統的に、セルビア・クロアチア諸語を話すカトリック教徒の多くは「クロアチア人」、正教徒の多くは「セルビア人」を自認してきた[1] [2]。また、オーストリア=ハンガリー帝国時代、この言語を話すムスリムの間では、セルビア人でも、クロアチア人でもない独自のアイデンティティが形成されつつあり[1]、彼らはときと場合に応じて「ボシュニャク人」、「ムスリム人」、「トルコ人」、あるいは「セルビア人」、「クロアチア人」などとされた。第二次世界大戦後、社会主義体制がとられたユーゴスラビア連邦人民共和国では、同国を構成する共和国としてセルビア、クロアチアなどが、それぞれ民族ごとの共和国として設定された。一方で、両国の間に挟まれたボスニア・ヘルツェゴビナでは3つの宗教が混在しており、民族別の国家とすることが難しい状態にあった。そこで、民族・宗教の別によらず地域に基づいた共和国としてボスニア・ヘルツェゴビナ人民共和国が設定された。この時代、「ボスニア人」とは民族・宗教の別によらずボスニア・ヘルツェゴビナの住民を示していた。第二次世界大戦後のユーゴスラビアで、当時は「セルビア人」、「クロアチア人」あるいは「トルコ人」などと名乗っていたボスニア・ヘルツェゴビナのイスラム教徒が、自らを独自の民族「ボスニア人」として認定するよう求めたのに対し、ユーゴスラビアの連邦政府はこれを却下した。代わりに、宗教呼称に基づいた「ムスリム人」とすることを認めた[2]。これは、「ボスニア人」「ボスニア」という呼称を、宗教・民族から切り離された地域的な呼称と考える連邦政府の意向に基づいたものである。ユーゴスラビアの主要民族として新たに「ムスリム人」が加えられた新しい憲法は1974年に施行された。
宗教間結婚や世俗化が進んでいた都市部では、民族・宗教共同体に拘らないコスモポリタン的な「ボスニア人」意識が強かった。しかしながら、ヨシップ・ブロズ・ティトーが死去した後、1980年代から1990年代にかけての段階的な自由化、経済の不振、そして冷戦の終結などによって、それまで民族主義を抑圧し、民族を超えた統一を守ってきたユーゴスラビアの存在意義には疑問がもたれるようになった[2]。民族主義が伸張し、ユーゴスラビアが解体に向かうに至り、それまでボスニア・ヘルツェゴビナで共存してきたクロアチア人(カトリック教徒)、セルビア人(正教徒)、ムスリム人(イスラム教徒)の3つの民族の間で互いに不信感が高まった。ボスニア・ヘルツェゴビナの独立と前後して、3民族の間の対立は武力衝突に発展し、民族浄化などの蛮行が横行する、凄惨なボスニア・ヘルツェゴビナ紛争へと発展した[2]。
その後、ムスリム人はその自称を「ボシュニャク人」に復し、現在ではイスラム教徒のボシュニャク人のみをボスニア人と呼ぶことが多い。ただし現在でも和解主義者など一部ではクロアチア人やセルビア人も含めて、ボスニア人とすることもある。
ボシュニャク人
ボシュニャク人(ボスニア語: Bošnjaci)は、15世紀から19世紀にかけてオスマン帝国支配下で、イスラム教に改宗した南スラブ人の末裔である。民族の言語はボスニア語だがセルビア・クロアチア諸語で、言語的にはクロアチア人、セルビア人と大きな差はない。かつてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国ではムスリム人(モスレム人)と呼ばれた。日本語表記としては他にボシュニャック人、ボスニャク人、ボスニアク人、ボスニアック人などの表記が存在する。ボシュニャク人という名前はバルカン西部にあるボスニアの名前に由来している。
バルカン諸国の全てのムスリムがボシュニャク人というわけではなく、他にもポマク人のようなブルガリア人ムスリムの民族や、アルバニア人、トルコ人、ロマのような非スラブ系ムスリムも存在する。
ボシュニャク人はボスニア・ヘルツェゴビナを彼らの民族的故地と考えている。
バルカン諸国の全てのムスリムがボシュニャク人というわけではなく、他にもポマク人のようなブルガリア人ムスリムの民族や、アルバニア人、トルコ人、ロマのような非スラブ系ムスリムも存在する。
ボシュニャク人はボスニア・ヘルツェゴビナを彼らの民族的故地と考えている。
ゴーラ人
ゴーラ人
移動: 案内、 検索
ゴーラ人
総人口
居住地域
コソボの旗 コソボ 18村1
アルバニアの旗 アルバニア 11村
マケドニア共和国の旗 マケドニア共和国 2村
言語
ゴーラ語、アルバニア語
宗教
イスラム教
関連する民族
トルベシュ、ポマク、トルラク人
ゴーラ人(ゴーラ語:Горанци / Goranci)は、「高地人」を意味し、コソボ、マケドニア共和国、アルバニアの3地域にまたがるゴーラ地方に居住する南スラヴ人の集団である。「我が人々」を意味するナシンツィ(Našinci)の自称も使われる。同じ地域に住むアルバニア人による他称としてブルガレツィ(Bulgareci)[1][2]、トルベシュ(Torbeshë)、ポトゥル(Poturë)[3]がある。ゴーラ人の話す言語はゴーラ語であり、ゴーラ人自身は「我らの言語」を意味するナシンスキ(Našinski)の呼称で呼んでいる。ゴーラ地域のうちコソボに含まれる部分はシャリ / ドラガシュ自治体に、アルバニアの部分はシシュタヴェツ自治体に、マケドニア共和国の部分はシャル山地地域に含まれる。主にイスラム教を信仰しており、多種多様な民族文化に富んでいる。彼らはボシュニャク人、セルビア人、ブルガリア人、マケドニア人などの一部とされてきているが、そのいずれとも異なる少数民族とする見方もある[4][5]。ゴーラ人の一部は既にアルバニア化されている[6]。1991年にユーゴスラビア社会主義連邦共和国によって行われた国勢調査では、ゴーラ人たちは自身をムスリム人と回答している[7]。マケドニア共和国においても、彼らの民族自認はその宗教によるところが大きい[8]。
目次 [非表示]
1 用語
2 歴史
3 言語
4 人口 4.1 集落
4.2 ゴーラ人ディアスポラ
5 文化と宗教
6 著名なゴーラ人
7 関連項目
8 脚注
9 参考文献
10 外部リンク
用語[編集]
ゴーラ(Гора / Gora)はこの地域を指し示す言葉として伝統的に用いられており、「山」や「高地」を意味している。ゴーラ語で「山地人」「高地人」を意味するゴランツィ(Горанци / Goranci)は、日本語では「ゴーラ人」と呼ばれる。
歴史[編集]
ゴーラ地域には伝統的にゴーラ人が居住しているが、その他のスラヴ人やアルバニア人も地域的なアイデンティティとしてゴーラ人を称することもあった。ゴーラ地域はセルビア帝国の皇帝ステファン・ウロシュ4世の勅令にも言及されており、当時はプリズレンの聖大天使修道院の土地であった。地域には6世紀から7世紀にかけてスラヴ人が住むようになり、後にブルガール人が侵入して定着するようになった。
1455年、ゴーラはオスマン帝国に侵攻され、セルビア人の王国からオスマン帝国のルメリアの一部、プリズレン県(プリズレン・サンジャク)へと編入された。その後、特に16世紀末にはオスマン帝国の社会への同化が進められた。バルカン半島の住民の間で進行していたイスラム化の動きは急速であり、多くのモスクが建造された(モスクの多くは19世紀末のセルビアによる侵攻や、20世紀後半にアルバニアを支配したエンヴェル・ホッジャの政権によって破壊され、再建の必要が生じた)。ゴーラ人はその後もムスリムでありながら、聖人の日を祝福するなどのキリスト教的な伝統を維持し続け、ボゴミル派の子孫を自認している。
ゴーラ地域が高い山々によって地理的に極めて孤立していることは、地域の住民によるスラヴ人やオスマン帝国の侵入への抵抗の支えとなった。14世紀のアルバニアでは多くのアルバニア人がオスマン帝国の侵入から逃れるためにイタリアやエジプト、シリア、ウクライナへと脱出したのと同様に、ゴーラでも帝国から逃れるための大規模な住民の脱出が発生した。脱出は数世紀にわたって続き、多くの人々がゴーラ地域を離れた。多くの人々がアメリカを目指し、同地にはゴーラ人のディアスポラが居住している(主にカリフォルニア)。オスマン帝国時代の住民脱出は、2つの潮流を作り出した。1つはプリズレン、シリニチ(Sirinić)方面へと向かい、もう1つはマケドニアのテトヴォへと向かった。マケドニア方面へ流出した住民はドルノ(Dolno)、パルチシュテ(Palčište)、テアルツェ(Tearce)の集落に住み着いた。彼らの子孫は現在もマケドニア共和国の一部に暮らしている。ゴーラ人の入植者はシャル山地の東側のウルヴィチ(Urvič)やイェロヴャネ(Jelovjane)に居住している。
1912年の第一次バルカン戦争では、セルビア軍が地域を制圧した。この結果、ゴーラ人の一部はオスマン帝国へと逃れた。1916年から1918年の第一次世界大戦では、ゴーラは中央同盟軍に占領され、1916年5月まではブルガリアが[9]、その後1989年10月まではオーストリア=ハンガリー帝国が地域を支配した。1918年以降、ゴーラはセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(後のユーゴスラビア王国)の一部となった。ゴーラでは大規模な貧困や飢饉が起こり、多くの人々がより大きなコソボの都市・プリズレンや、マケドニアのテトヴォへと移った。
1925年の国際連盟の決定により、アルバニアの最終的な国境が決定された。これによって、ゴーラ地域の一体性を求めるゴーラ人の願いに反して、ゴーラ人のうち15,000人が住む9村はアルバニアの領土に組み入れられた。共産主義体制崩壊後のアルバニアで起こった経済危機や貧困も、住民のティラナやシュコドラなどの大都市への移住を引き起こし、地域のゴーラ人人口は低下した。
1999年のコソボ紛争、NATOによるユーゴスラビア空爆を経て、国際連合はセルビア領のコソボ・メトヒヤ自治州からセルビアの統治権を排除し、ゴーラ地域のうちコソボに含まれる部分は、他のコソボの諸地域とともに国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)による統治下となる。コソボのゴーラ自治体は廃止され、北に隣接するオポヤ / オポリェ(Opoja / Opolje)と併せてシャリ / ドラガシュ(Sharri / Dragaš)自治体へと編入された(この変更をセルビア政府は承認していない)。ゴーラにはアルバニアからアルバニア人が流入し、その後アルバニア人民兵によるゴーラ人市民の殺害や虐待があったと報告されているが、未だ確認されていない。シャリ / ドラガシュ自治体ではアルバニア人が多数派となっている。
2007年、コソボの暫定自治政府諸機構(Provisional Institutions of Self-Government)はゴーラにボスニア語を教える学校を開設したが、このことに加えて、その校長がアルバニア人を自称していたこともあり、地元のゴーラ人の間で論争が引き起こされた。ゴーラ人の多くは民族的に同化されることを危惧して子供を学校に通わせることを拒否し、自前の民間学校で子供たちを教えている。1999年以降、6,500人を超えるゴーラ人が、多くのセルビア人やロマとともにセルビア本国へ脱出している。
言語[編集]
トルラク方言の分布粋。左下の濃い部分がゴーラ語である
ゴーラ人の話す方言はゴーラ語(ゴランスキГорански / Goranskiまたはナシンスキ Нашински / Našinski)と呼ばれる。この方言はマケドニア語とセルビア語の中間的な特徴を持ち、トルラク方言の一部と考えられている。スラヴ語に起源を持つ言葉も多い一方で、トルコ語やアラビア語、アルバニア語からの借用語も多い。
1991年のユーゴスラビアの国勢調査によると、ユーゴスラビアのゴーラ自治体の住民の54.8%は自身の言語をゴーラ語であるとしている[10]。ゴーラ人の学者の一部は自身の言語をブルガリア語と見なしており、マケドニア北西部で話されている方言と同一であるとしている[11]。
ゴーラ人の学者、ナジフ・ドクレ(Nazif Dokle)は、ブルガリア科学アカデミーの援助の下、初のゴーラ語・アルバニア語辞書(およそ43,000語収録)を2007年に編纂した[11] In 2008 the first issue of a Macedonian language newspaper, Гороцвет (Gorocvet) was published.[12]。ドクレはこの言語をブルガリア語の方言であるとしている。
人口[編集]
ユーゴスラビア時代のコソボの行政区分。コソボ最南端の青の部分がゴーラ自治体であり、ゴーラ人は多数派を形成していた。
1991年のユーゴスラビアの国勢調査では、ゴーラ自治体のゴーラ人人口は16,000人程度とされた。ゴーラ人の指導者たちは、現在もゴーラに留まっているゴーラ人は10,000人を下回ると推測しており、多くがアルバニアの首都ティラナなどへ流出したと見られている。ゴーラ人たちは、不安定な地域情勢と経済危機によって多くの人々がコソボを去ることを余儀なくされているとしている。また、迫害や差別があるとの指摘もされている[13]。コソボを統治する国連機関であるUNMIKは、自治体の境界を引きなおし、ゴーラ人が多数派を形成していたゴーラ自治体を別の自治体と合併させた。ゴーラ自治体は、北に隣接しアルバニア人が多数派を占めるオポヤ / オポリェ(Opoja / Opolje)と合併し、新設されたシャリ / ドラガシュ(Sharri / Dragaš)自治体では少数派となった。
集落[編集]
以下はゴーラ人の集落の一覧である。括弧内はゴーラ語によるキリル文字表記である。
コソボの旗 Bačka(Бачка)アルバニアの旗 Borje(Борје)コソボの旗 Brod(Брод)アルバニアの旗 Cernalevë(Црнолево)コソボの旗 Dikance(Диканце)コソボの旗 Donja Rapča(Доња Рапча)コソボの旗 Donji Krstac(Доњи Крстац)コソボの旗 Dragaš(Драгаш)コソボの旗 Globočica(Глобочица)コソボの旗 Gornja Rapča(Горња Рапча)コソボの旗 Gornji Krstac(Горњи Крстац)マケドニア共和国の旗 Jelovjane(Јеловјане)アルバニアの旗 Kosharisht(Кошариште)コソボの旗 Kruševo, Kosovo Kruševo(Крушево)コソボの旗 Kukaljane(Кукаљане)コソボの旗 Leštane(Лештане) コソボの旗 Ljubovište(Љубовиште)コソボの旗 Mlike(Млике)アルバニアの旗 Novosej(Ново Село)アルバニアの旗 Orçikël(Очикле)コソボの旗 Orčuša(Орчуша)アルバニアの旗 Orgjost(Оргоста)アルバニアの旗 Orshekë(Орешек)アルバニアの旗 Pakisht(Пакиште)コソボの旗 Radeša(Радеша)コソボの旗 Restelica(Рестелица)アルバニアの旗 Shishtavec(Шиштејец)マケドニア共和国の旗 Urvič(Урвич)コソボの旗 Vranište(Враништa)アルバニアの旗 Zapod(Запод)コソボの旗 Zli Potok(Зли Поток)
ゴーラ人ディアスポラ[編集]
ゴーラはほぼ2世紀にわたって低開発地域であり、多くの男性住民が地域外に出稼ぎに行った。このため、中央セルビア(特にベオグラード、3,340人)、ヴォイヴォディナ(606人)、マケドニア共和国(特に西部地域)、ボスニア・ヘルツェゴビナ、イタリア、ギリシャ、トルコ、そしてアルバニアやユーゴスラビアの共産主義政府から逃れるために1940年代以降はアメリカ合衆国(特にニューヨークやロサンゼルス)への移住が起こった。
文化と宗教[編集]
他のバルカンの人々と同様、ローマ人が侵入し、キリスト教が広められる前は、多くの汎神教的な信仰や、太陽の神への信仰があった。キリスト教(正教会)への改宗に続いて、オスマン帝国の支配下ではゴーラではイスラム教への改宗が進み、ゴーラ人のほとんどはその後もイスラム教徒である。しかし、ゴーラ人はその後もスラヴァや聖ゲオルギウスの日を祝福するなどの正教会の伝統を部分的に受け継いでいる。
ゴーラ人の民俗音楽の一つに2ビートのコロがあり、これは足の動きを中心とした円舞である。これは常に右足から始まり反時計回りに進む。コロはたいてい、ズルレやカヴァル、タパン(Tapan)mダヴル(Davul)などによる演奏が伴い、アルバニア人やセルビア人などの周囲の他民族と同様に、歌唱を伴うことは多くない。
著名なゴーラ人[編集]
ハフルディン・ユスフィ(Fahrudin Jusufi) - サッカー選手
ミラレム・スレイマニ - サッカー選手
ハルン・ヒサニ(Harun Hasani) - 学者
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ゴーラ人
総人口
居住地域
コソボの旗 コソボ 18村1
アルバニアの旗 アルバニア 11村
マケドニア共和国の旗 マケドニア共和国 2村
言語
ゴーラ語、アルバニア語
宗教
イスラム教
関連する民族
トルベシュ、ポマク、トルラク人
ゴーラ人(ゴーラ語:Горанци / Goranci)は、「高地人」を意味し、コソボ、マケドニア共和国、アルバニアの3地域にまたがるゴーラ地方に居住する南スラヴ人の集団である。「我が人々」を意味するナシンツィ(Našinci)の自称も使われる。同じ地域に住むアルバニア人による他称としてブルガレツィ(Bulgareci)[1][2]、トルベシュ(Torbeshë)、ポトゥル(Poturë)[3]がある。ゴーラ人の話す言語はゴーラ語であり、ゴーラ人自身は「我らの言語」を意味するナシンスキ(Našinski)の呼称で呼んでいる。ゴーラ地域のうちコソボに含まれる部分はシャリ / ドラガシュ自治体に、アルバニアの部分はシシュタヴェツ自治体に、マケドニア共和国の部分はシャル山地地域に含まれる。主にイスラム教を信仰しており、多種多様な民族文化に富んでいる。彼らはボシュニャク人、セルビア人、ブルガリア人、マケドニア人などの一部とされてきているが、そのいずれとも異なる少数民族とする見方もある[4][5]。ゴーラ人の一部は既にアルバニア化されている[6]。1991年にユーゴスラビア社会主義連邦共和国によって行われた国勢調査では、ゴーラ人たちは自身をムスリム人と回答している[7]。マケドニア共和国においても、彼らの民族自認はその宗教によるところが大きい[8]。
目次 [非表示]
1 用語
2 歴史
3 言語
4 人口 4.1 集落
4.2 ゴーラ人ディアスポラ
5 文化と宗教
6 著名なゴーラ人
7 関連項目
8 脚注
9 参考文献
10 外部リンク
用語[編集]
ゴーラ(Гора / Gora)はこの地域を指し示す言葉として伝統的に用いられており、「山」や「高地」を意味している。ゴーラ語で「山地人」「高地人」を意味するゴランツィ(Горанци / Goranci)は、日本語では「ゴーラ人」と呼ばれる。
歴史[編集]
ゴーラ地域には伝統的にゴーラ人が居住しているが、その他のスラヴ人やアルバニア人も地域的なアイデンティティとしてゴーラ人を称することもあった。ゴーラ地域はセルビア帝国の皇帝ステファン・ウロシュ4世の勅令にも言及されており、当時はプリズレンの聖大天使修道院の土地であった。地域には6世紀から7世紀にかけてスラヴ人が住むようになり、後にブルガール人が侵入して定着するようになった。
1455年、ゴーラはオスマン帝国に侵攻され、セルビア人の王国からオスマン帝国のルメリアの一部、プリズレン県(プリズレン・サンジャク)へと編入された。その後、特に16世紀末にはオスマン帝国の社会への同化が進められた。バルカン半島の住民の間で進行していたイスラム化の動きは急速であり、多くのモスクが建造された(モスクの多くは19世紀末のセルビアによる侵攻や、20世紀後半にアルバニアを支配したエンヴェル・ホッジャの政権によって破壊され、再建の必要が生じた)。ゴーラ人はその後もムスリムでありながら、聖人の日を祝福するなどのキリスト教的な伝統を維持し続け、ボゴミル派の子孫を自認している。
ゴーラ地域が高い山々によって地理的に極めて孤立していることは、地域の住民によるスラヴ人やオスマン帝国の侵入への抵抗の支えとなった。14世紀のアルバニアでは多くのアルバニア人がオスマン帝国の侵入から逃れるためにイタリアやエジプト、シリア、ウクライナへと脱出したのと同様に、ゴーラでも帝国から逃れるための大規模な住民の脱出が発生した。脱出は数世紀にわたって続き、多くの人々がゴーラ地域を離れた。多くの人々がアメリカを目指し、同地にはゴーラ人のディアスポラが居住している(主にカリフォルニア)。オスマン帝国時代の住民脱出は、2つの潮流を作り出した。1つはプリズレン、シリニチ(Sirinić)方面へと向かい、もう1つはマケドニアのテトヴォへと向かった。マケドニア方面へ流出した住民はドルノ(Dolno)、パルチシュテ(Palčište)、テアルツェ(Tearce)の集落に住み着いた。彼らの子孫は現在もマケドニア共和国の一部に暮らしている。ゴーラ人の入植者はシャル山地の東側のウルヴィチ(Urvič)やイェロヴャネ(Jelovjane)に居住している。
1912年の第一次バルカン戦争では、セルビア軍が地域を制圧した。この結果、ゴーラ人の一部はオスマン帝国へと逃れた。1916年から1918年の第一次世界大戦では、ゴーラは中央同盟軍に占領され、1916年5月まではブルガリアが[9]、その後1989年10月まではオーストリア=ハンガリー帝国が地域を支配した。1918年以降、ゴーラはセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(後のユーゴスラビア王国)の一部となった。ゴーラでは大規模な貧困や飢饉が起こり、多くの人々がより大きなコソボの都市・プリズレンや、マケドニアのテトヴォへと移った。
1925年の国際連盟の決定により、アルバニアの最終的な国境が決定された。これによって、ゴーラ地域の一体性を求めるゴーラ人の願いに反して、ゴーラ人のうち15,000人が住む9村はアルバニアの領土に組み入れられた。共産主義体制崩壊後のアルバニアで起こった経済危機や貧困も、住民のティラナやシュコドラなどの大都市への移住を引き起こし、地域のゴーラ人人口は低下した。
1999年のコソボ紛争、NATOによるユーゴスラビア空爆を経て、国際連合はセルビア領のコソボ・メトヒヤ自治州からセルビアの統治権を排除し、ゴーラ地域のうちコソボに含まれる部分は、他のコソボの諸地域とともに国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)による統治下となる。コソボのゴーラ自治体は廃止され、北に隣接するオポヤ / オポリェ(Opoja / Opolje)と併せてシャリ / ドラガシュ(Sharri / Dragaš)自治体へと編入された(この変更をセルビア政府は承認していない)。ゴーラにはアルバニアからアルバニア人が流入し、その後アルバニア人民兵によるゴーラ人市民の殺害や虐待があったと報告されているが、未だ確認されていない。シャリ / ドラガシュ自治体ではアルバニア人が多数派となっている。
2007年、コソボの暫定自治政府諸機構(Provisional Institutions of Self-Government)はゴーラにボスニア語を教える学校を開設したが、このことに加えて、その校長がアルバニア人を自称していたこともあり、地元のゴーラ人の間で論争が引き起こされた。ゴーラ人の多くは民族的に同化されることを危惧して子供を学校に通わせることを拒否し、自前の民間学校で子供たちを教えている。1999年以降、6,500人を超えるゴーラ人が、多くのセルビア人やロマとともにセルビア本国へ脱出している。
言語[編集]
トルラク方言の分布粋。左下の濃い部分がゴーラ語である
ゴーラ人の話す方言はゴーラ語(ゴランスキГорански / Goranskiまたはナシンスキ Нашински / Našinski)と呼ばれる。この方言はマケドニア語とセルビア語の中間的な特徴を持ち、トルラク方言の一部と考えられている。スラヴ語に起源を持つ言葉も多い一方で、トルコ語やアラビア語、アルバニア語からの借用語も多い。
1991年のユーゴスラビアの国勢調査によると、ユーゴスラビアのゴーラ自治体の住民の54.8%は自身の言語をゴーラ語であるとしている[10]。ゴーラ人の学者の一部は自身の言語をブルガリア語と見なしており、マケドニア北西部で話されている方言と同一であるとしている[11]。
ゴーラ人の学者、ナジフ・ドクレ(Nazif Dokle)は、ブルガリア科学アカデミーの援助の下、初のゴーラ語・アルバニア語辞書(およそ43,000語収録)を2007年に編纂した[11] In 2008 the first issue of a Macedonian language newspaper, Гороцвет (Gorocvet) was published.[12]。ドクレはこの言語をブルガリア語の方言であるとしている。
人口[編集]
ユーゴスラビア時代のコソボの行政区分。コソボ最南端の青の部分がゴーラ自治体であり、ゴーラ人は多数派を形成していた。
1991年のユーゴスラビアの国勢調査では、ゴーラ自治体のゴーラ人人口は16,000人程度とされた。ゴーラ人の指導者たちは、現在もゴーラに留まっているゴーラ人は10,000人を下回ると推測しており、多くがアルバニアの首都ティラナなどへ流出したと見られている。ゴーラ人たちは、不安定な地域情勢と経済危機によって多くの人々がコソボを去ることを余儀なくされているとしている。また、迫害や差別があるとの指摘もされている[13]。コソボを統治する国連機関であるUNMIKは、自治体の境界を引きなおし、ゴーラ人が多数派を形成していたゴーラ自治体を別の自治体と合併させた。ゴーラ自治体は、北に隣接しアルバニア人が多数派を占めるオポヤ / オポリェ(Opoja / Opolje)と合併し、新設されたシャリ / ドラガシュ(Sharri / Dragaš)自治体では少数派となった。
集落[編集]
以下はゴーラ人の集落の一覧である。括弧内はゴーラ語によるキリル文字表記である。
コソボの旗 Bačka(Бачка)アルバニアの旗 Borje(Борје)コソボの旗 Brod(Брод)アルバニアの旗 Cernalevë(Црнолево)コソボの旗 Dikance(Диканце)コソボの旗 Donja Rapča(Доња Рапча)コソボの旗 Donji Krstac(Доњи Крстац)コソボの旗 Dragaš(Драгаш)コソボの旗 Globočica(Глобочица)コソボの旗 Gornja Rapča(Горња Рапча)コソボの旗 Gornji Krstac(Горњи Крстац)マケドニア共和国の旗 Jelovjane(Јеловјане)アルバニアの旗 Kosharisht(Кошариште)コソボの旗 Kruševo, Kosovo Kruševo(Крушево)コソボの旗 Kukaljane(Кукаљане)コソボの旗 Leštane(Лештане) コソボの旗 Ljubovište(Љубовиште)コソボの旗 Mlike(Млике)アルバニアの旗 Novosej(Ново Село)アルバニアの旗 Orçikël(Очикле)コソボの旗 Orčuša(Орчуша)アルバニアの旗 Orgjost(Оргоста)アルバニアの旗 Orshekë(Орешек)アルバニアの旗 Pakisht(Пакиште)コソボの旗 Radeša(Радеша)コソボの旗 Restelica(Рестелица)アルバニアの旗 Shishtavec(Шиштејец)マケドニア共和国の旗 Urvič(Урвич)コソボの旗 Vranište(Враништa)アルバニアの旗 Zapod(Запод)コソボの旗 Zli Potok(Зли Поток)
ゴーラ人ディアスポラ[編集]
ゴーラはほぼ2世紀にわたって低開発地域であり、多くの男性住民が地域外に出稼ぎに行った。このため、中央セルビア(特にベオグラード、3,340人)、ヴォイヴォディナ(606人)、マケドニア共和国(特に西部地域)、ボスニア・ヘルツェゴビナ、イタリア、ギリシャ、トルコ、そしてアルバニアやユーゴスラビアの共産主義政府から逃れるために1940年代以降はアメリカ合衆国(特にニューヨークやロサンゼルス)への移住が起こった。
文化と宗教[編集]
他のバルカンの人々と同様、ローマ人が侵入し、キリスト教が広められる前は、多くの汎神教的な信仰や、太陽の神への信仰があった。キリスト教(正教会)への改宗に続いて、オスマン帝国の支配下ではゴーラではイスラム教への改宗が進み、ゴーラ人のほとんどはその後もイスラム教徒である。しかし、ゴーラ人はその後もスラヴァや聖ゲオルギウスの日を祝福するなどの正教会の伝統を部分的に受け継いでいる。
ゴーラ人の民俗音楽の一つに2ビートのコロがあり、これは足の動きを中心とした円舞である。これは常に右足から始まり反時計回りに進む。コロはたいてい、ズルレやカヴァル、タパン(Tapan)mダヴル(Davul)などによる演奏が伴い、アルバニア人やセルビア人などの周囲の他民族と同様に、歌唱を伴うことは多くない。
著名なゴーラ人[編集]
ハフルディン・ユスフィ(Fahrudin Jusufi) - サッカー選手
ミラレム・スレイマニ - サッカー選手
ハルン・ヒサニ(Harun Hasani) - 学者
南スラヴ人
南スラヴ人(みなみスラヴじん)は、スラヴ人の中で主にバルカン半島周辺にいる旧ユーゴスラビアのボシュニャク人、セルビア人、モンテネグロ人、クロアチア人、スロヴェニア人、マケドニア人、ブルガリア人などのことを指す。
これらの民族は、ほかの西スラヴ人、東スラヴ人とは根本的に異なる歴史を歩んできており、ほかのスラヴ語とは異なる南スラヴ語群の言語を話す。バルカン型と言われ、民族の混血・混交が激しく、特にモンテネグロ人は、アルバニア人と共に古代まではイリュリア人、ブルガリア人は、その指導層がテュルク系のブルガール人であった。
歴史[編集]
南スラヴ人の大半は今日のポーランド西部に起源を持ち、彼らは6世紀にかけて2方向でバルカン半島に移住することで西スラヴ人と分岐しはじめた。東のグループは黒海沿岸を沿って西へ進み、ワラキア地方の低地に着いたところで、まずそこで定住を始め、そこからバルカン半島の南および東方向と進んだ。西のグループは西南方向に向かって進み、カルパティア山脈を越えパンノニア平原で定住を始め、そこから西バルカンおよび東アルプス山脈方向へ進んだ。両グループのバルカン半島中央部分での交流の結果、トルラク語のような入り交じった方言が生み出された。
7世紀になり、初期のスラヴ人の入植後、3つのほかの種族がこの地域に定住してきた。これらの種族はセルビア人、クロアチア人とブルガール人で、南スラヴ諸国の形成においてそれぞれ重要な役割を果たした。セルビア人とクロアチア人は西スラヴ種族で、それぞれ白セルビア(英語版)、白クロアチア(英語版)として知られる、西ポーランドと南ポーランドからそれぞれバルカン半島に移動してきた。当時、西スラヴ方言と南スラヴ方言の違いはまたそれほど大きいものではなかったが、セルビア人とクロアチア人は南スラブ方言を導入し、彼らの種族の名前は保ち続けた。バルカン半島に定住してきたブルガール人は元々はスラヴ人ではなく、トルコ語から強い影響を受けたイラン語を話す遊牧民と信じられている。ほかの多くの非スラヴ系種族と同じように、彼らはスラヴ系と混交したが、土地や人の名前は自分達の言語で残っている。それらの連続がそれ以来スラブ人であることのアイデンティティの一つになっている。
今日ブルガリア人と呼ばれる民族の祖先ブルガール人は、7世紀に強力な第一ブルガリア帝国を築き上げ、865年に南スラヴ人として初めてキリスト教を国教として採用し、また10世紀にはキリル文字を作り上げた。長い間東ローマ帝国の強いライバルであったブルガリア帝国だったが、1018年には遂に東ローマに従属させられる。その後、1185年に反乱が起きて第二ブルガリア帝国が成立し、12世紀から13世紀にかけていくつかの小さな成功を収めた後、14世紀後期にはオスマン帝国に制圧された。
スロヴェニア人の国であるカランタニア公国(英語版)は7世紀に成立したが、8世紀にはフランク王国に併合され、その後もさまざまなゲルマン人の国々に統治された。
9世紀になりパンノニア盆地の草原地帯に東方からマジャル人とハザール人の部族連合であるハンガリー人が侵入してくると、西スラヴ人と南スラヴ人との間が政治的に分断され、以後は互いの言語的・政治的分岐がより明確となっていった。ただし14世紀になるとハンガリー王国は北方の西スラヴ人の大国ポーランド王国と友好関係を深めるようになり、ついに両者は政治同盟を結ぶまでに至るこの政治同盟は現代に復活している(ヴィシェグラード・グループ)。
クロアチアは8世紀から2つの公国から成っていたが、10世紀には一つの王国になった。12世紀初頭にはハンガリー王国と同君連合を組み独立性を失った。16世紀にハンガリー王国が独立を失うと、スロヴェニア人が住む地域はそれぞれはハプスブルク君主国、オスマン帝国、ヴェネツィア共和国に統治されることになった。
西バルカンでは、いくつかのセルビア人の国が作られた―Raška、Duklja、Travunia、ZahumljeとPaganiaである。Raška(後にセルビアと知られる)は13世紀に王国となり、14世紀に帝国となったが15世紀にオスマン帝国に制圧された。Duklja(後にZeta公国、モンテネグロと知られる)は11世紀に王国となったが、これも15世紀にオスマンに制圧された。
ボスニア人は10世紀に前封建的な統一体を成し、12世紀から半独立状態を君主制になる14世紀まで享受した。15世紀にはオスマン帝国に従属させられた。
15世紀から19世紀にかけて、独立状態を保った南スラヴ人の国はドゥブロヴニク共和国及びde facto independent(事実上の独立国)モンテネグロのみであった。ドゥブロヴニク共和国は1808年にフランス帝国によって廃止され、モンテネグロの独立は1878年に正式に認められた。1817年よりオスマン帝国内で自治公国となっていたセルビアも1878年に独立が正式に認められた、同じく自治公国となっていたブルガリアは1908年にde jure independent(正当な独立国)となった。
それ以外の南スラヴ人は依然として二大帝国、ハプスブルク帝国とオスマン帝国の支配下で生活していた。だが1912年から1913年のバルカン戦争、1914年から1918年の第一次世界大戦を経て、この二つの帝国は崩壊し、南スラヴ人は二つの王国にまとめられた。ブルガリア王国とセルビア・クロアチア・スロヴェニア王国(後にユーゴスラビア王国)である。 ユーゴスラビア王国内のブルガリア語に近い言語の話者たちは、1945年のユーゴスラビア連邦人民共和国(旧ユーゴ)の成立時に民族共和国を建てる際、自らの民族呼称として地域名のマケドニアを採用した。1991年から1992年にかけて旧ユーゴ、2006年にセルビア・モンテネグロがそれぞれ解体したため、南スラブ人は現在7つの国、ブルガリア共和国、マケドニア共和国、セルビア共和国、モンテネグロ共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア共和国、スロヴェニア共和国で多数を占めている。
宗教[編集]
南スラヴ人が住む地域における宗教的、文化的な多様性は彼らの宗教観に大きな影響を及ぼしている。また、元々多神論で土着神を信じる南スラブ人は古くから伝わる儀式、 伝承を保ち、それらは多く場合彼らが後に改宗した宗教と混ざり合っている。
今日、ブルガリア人、マケドニア人、セルビア人、モンテネグロ人はおおよそ正教会のキリスト教徒で、ほとんどのスロヴェニア人、クロアチア人、ブニェヴァツ人、ショカツ人、クラショヴァ人およびバナト・ブルガリア人はローマカトリックである。ボシュニャク人、ムスリム人(10万人を越えると推測される)、ゴーラ人、トルベシュ人及びポマクがムスリムである。
これらの民族は、ほかの西スラヴ人、東スラヴ人とは根本的に異なる歴史を歩んできており、ほかのスラヴ語とは異なる南スラヴ語群の言語を話す。バルカン型と言われ、民族の混血・混交が激しく、特にモンテネグロ人は、アルバニア人と共に古代まではイリュリア人、ブルガリア人は、その指導層がテュルク系のブルガール人であった。
歴史[編集]
南スラヴ人の大半は今日のポーランド西部に起源を持ち、彼らは6世紀にかけて2方向でバルカン半島に移住することで西スラヴ人と分岐しはじめた。東のグループは黒海沿岸を沿って西へ進み、ワラキア地方の低地に着いたところで、まずそこで定住を始め、そこからバルカン半島の南および東方向と進んだ。西のグループは西南方向に向かって進み、カルパティア山脈を越えパンノニア平原で定住を始め、そこから西バルカンおよび東アルプス山脈方向へ進んだ。両グループのバルカン半島中央部分での交流の結果、トルラク語のような入り交じった方言が生み出された。
7世紀になり、初期のスラヴ人の入植後、3つのほかの種族がこの地域に定住してきた。これらの種族はセルビア人、クロアチア人とブルガール人で、南スラヴ諸国の形成においてそれぞれ重要な役割を果たした。セルビア人とクロアチア人は西スラヴ種族で、それぞれ白セルビア(英語版)、白クロアチア(英語版)として知られる、西ポーランドと南ポーランドからそれぞれバルカン半島に移動してきた。当時、西スラヴ方言と南スラヴ方言の違いはまたそれほど大きいものではなかったが、セルビア人とクロアチア人は南スラブ方言を導入し、彼らの種族の名前は保ち続けた。バルカン半島に定住してきたブルガール人は元々はスラヴ人ではなく、トルコ語から強い影響を受けたイラン語を話す遊牧民と信じられている。ほかの多くの非スラヴ系種族と同じように、彼らはスラヴ系と混交したが、土地や人の名前は自分達の言語で残っている。それらの連続がそれ以来スラブ人であることのアイデンティティの一つになっている。
今日ブルガリア人と呼ばれる民族の祖先ブルガール人は、7世紀に強力な第一ブルガリア帝国を築き上げ、865年に南スラヴ人として初めてキリスト教を国教として採用し、また10世紀にはキリル文字を作り上げた。長い間東ローマ帝国の強いライバルであったブルガリア帝国だったが、1018年には遂に東ローマに従属させられる。その後、1185年に反乱が起きて第二ブルガリア帝国が成立し、12世紀から13世紀にかけていくつかの小さな成功を収めた後、14世紀後期にはオスマン帝国に制圧された。
スロヴェニア人の国であるカランタニア公国(英語版)は7世紀に成立したが、8世紀にはフランク王国に併合され、その後もさまざまなゲルマン人の国々に統治された。
9世紀になりパンノニア盆地の草原地帯に東方からマジャル人とハザール人の部族連合であるハンガリー人が侵入してくると、西スラヴ人と南スラヴ人との間が政治的に分断され、以後は互いの言語的・政治的分岐がより明確となっていった。ただし14世紀になるとハンガリー王国は北方の西スラヴ人の大国ポーランド王国と友好関係を深めるようになり、ついに両者は政治同盟を結ぶまでに至るこの政治同盟は現代に復活している(ヴィシェグラード・グループ)。
クロアチアは8世紀から2つの公国から成っていたが、10世紀には一つの王国になった。12世紀初頭にはハンガリー王国と同君連合を組み独立性を失った。16世紀にハンガリー王国が独立を失うと、スロヴェニア人が住む地域はそれぞれはハプスブルク君主国、オスマン帝国、ヴェネツィア共和国に統治されることになった。
西バルカンでは、いくつかのセルビア人の国が作られた―Raška、Duklja、Travunia、ZahumljeとPaganiaである。Raška(後にセルビアと知られる)は13世紀に王国となり、14世紀に帝国となったが15世紀にオスマン帝国に制圧された。Duklja(後にZeta公国、モンテネグロと知られる)は11世紀に王国となったが、これも15世紀にオスマンに制圧された。
ボスニア人は10世紀に前封建的な統一体を成し、12世紀から半独立状態を君主制になる14世紀まで享受した。15世紀にはオスマン帝国に従属させられた。
15世紀から19世紀にかけて、独立状態を保った南スラヴ人の国はドゥブロヴニク共和国及びde facto independent(事実上の独立国)モンテネグロのみであった。ドゥブロヴニク共和国は1808年にフランス帝国によって廃止され、モンテネグロの独立は1878年に正式に認められた。1817年よりオスマン帝国内で自治公国となっていたセルビアも1878年に独立が正式に認められた、同じく自治公国となっていたブルガリアは1908年にde jure independent(正当な独立国)となった。
それ以外の南スラヴ人は依然として二大帝国、ハプスブルク帝国とオスマン帝国の支配下で生活していた。だが1912年から1913年のバルカン戦争、1914年から1918年の第一次世界大戦を経て、この二つの帝国は崩壊し、南スラヴ人は二つの王国にまとめられた。ブルガリア王国とセルビア・クロアチア・スロヴェニア王国(後にユーゴスラビア王国)である。 ユーゴスラビア王国内のブルガリア語に近い言語の話者たちは、1945年のユーゴスラビア連邦人民共和国(旧ユーゴ)の成立時に民族共和国を建てる際、自らの民族呼称として地域名のマケドニアを採用した。1991年から1992年にかけて旧ユーゴ、2006年にセルビア・モンテネグロがそれぞれ解体したため、南スラブ人は現在7つの国、ブルガリア共和国、マケドニア共和国、セルビア共和国、モンテネグロ共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア共和国、スロヴェニア共和国で多数を占めている。
宗教[編集]
南スラヴ人が住む地域における宗教的、文化的な多様性は彼らの宗教観に大きな影響を及ぼしている。また、元々多神論で土着神を信じる南スラブ人は古くから伝わる儀式、 伝承を保ち、それらは多く場合彼らが後に改宗した宗教と混ざり合っている。
今日、ブルガリア人、マケドニア人、セルビア人、モンテネグロ人はおおよそ正教会のキリスト教徒で、ほとんどのスロヴェニア人、クロアチア人、ブニェヴァツ人、ショカツ人、クラショヴァ人およびバナト・ブルガリア人はローマカトリックである。ボシュニャク人、ムスリム人(10万人を越えると推測される)、ゴーラ人、トルベシュ人及びポマクがムスリムである。
西スラヴ人
西スラヴ人(にしスラヴじん)は、スラヴ人の中で、西スラヴ語を話すチェコ人、ポーランド人、スロバキア人、カシューブ人、 ソルブ人を指す。このうちカシューブ人はすでにポーランド人に同化され、ソルブ人もドイツ社会に取り込まれているが、他の西スラヴ人は今日まで彼らの文化的なアイデンティティを保ち続いている。西スラヴ人社会は他の西ヨーロッパ諸国に倣って神聖ローマ帝国と政治的に連携することで発展してきた。
歴史[編集]
ヤギェウォ朝の諸国
考古文化としては古い順から、球状アンフォラ文化、ウーニェチツェ文化(の東群)、トシュチニェツ文化(の西群)、ルサチア文化、ポメラニア文化、プシェヴォルスク文化、プラハ・ペンコフ・コロチン文化複合(特にそのうちのプラハ・コルチャク文化)と連続性をもって発展しており、最後のプラハ・コルチャク文化の時代にはじめて「スラヴ人」という名で歴史書に登場している。この時代とその直前のプシェヴォルスク文化の時代、この一帯の住民はヴァンダル人ないしヴェンド人と呼ばれていた。ホルヴァト人(のちのクロアチア人)、ソルブ人(のちのセルビア人)、カランタニア人(のちのスロベニア人)などは5世紀から6世紀にかけ故地のポーランドから大量に南下移動してバルカン半島に定住、南スラヴの諸民族を形成した。ソルブ人の一部は南下していったソルブ人(のちのセルビア人)と別れてオーデル川を越え西へ移動し現在のドイツ東部に定住、「白ソルブ人」と呼ばれ、彼らは「ソルブ人」として現在もドイツに存続している。北方の人々と南方へ移住した人々の間にあるパンノニア平原にはその後9世紀よりハンガリー人(マジャール人7部族とハザール人3部族の遊牧民連合)が東方から侵入してハンガリー人国家を建て、北と南のスラヴ系の人々はパンノニアで政治的に分断され、さらにカランタニアにはドイツ人が侵入していき分断を強めた。その後北の人々は西スラヴ人、南の人々は南スラヴ人となって、それぞれ独自の政治史を歩むようになった。記録に残る最初の西スラヴ人の国々は、彼らの生存圏の南方で興ったサモ帝国(623年 - 658年)、モラヴィア王国(833年 - 907年)が知られている。ソルブ人といくつかのほかの西スラヴ部族は早期から神聖ローマ帝国の直接の支配下に入り、19世紀の終期にはドイツ人によって同化されてしまった。東部に住むポーランド人は10世紀に自分達の国を作り、20世紀にカシューブ人を同化した。ポーランドは何世紀にもわたり西の隣国と密接な関係を保ち、ポーランド王ボレスワフ1世は神聖ローマ皇帝オットー3世からFrater et Cooperator Imperii(帝国の兄弟とパートナー)とまで謳われた。チェコ人は西部のボヘミア人と東部のモラヴィア人(の西部住民)から成っているが、10世紀に自分たちの国ボヘミアを作り、後にドイツ系住民の政治力が優勢となり、神聖ローマ帝国に加わった。スロヴァキア人はもともとモラヴィア人のうちの東部住民で、10世紀から11世紀にかけて徐々にハンガリー王国の支配下に入った。これらの国々とリトアニアおよびハンガリーを加えた諸国は15世紀終盤にはポーランドのヤギェウォ朝の君主を同時に戴く広大かつ緩い国家連合を形成した。チェコ人とスロヴァキア人はともに1526年以降、ドイツ系のカトリック教徒の政治勢力が再び力を増しハプスブルク君主国の支配下に入った。
歴史[編集]
ヤギェウォ朝の諸国
考古文化としては古い順から、球状アンフォラ文化、ウーニェチツェ文化(の東群)、トシュチニェツ文化(の西群)、ルサチア文化、ポメラニア文化、プシェヴォルスク文化、プラハ・ペンコフ・コロチン文化複合(特にそのうちのプラハ・コルチャク文化)と連続性をもって発展しており、最後のプラハ・コルチャク文化の時代にはじめて「スラヴ人」という名で歴史書に登場している。この時代とその直前のプシェヴォルスク文化の時代、この一帯の住民はヴァンダル人ないしヴェンド人と呼ばれていた。ホルヴァト人(のちのクロアチア人)、ソルブ人(のちのセルビア人)、カランタニア人(のちのスロベニア人)などは5世紀から6世紀にかけ故地のポーランドから大量に南下移動してバルカン半島に定住、南スラヴの諸民族を形成した。ソルブ人の一部は南下していったソルブ人(のちのセルビア人)と別れてオーデル川を越え西へ移動し現在のドイツ東部に定住、「白ソルブ人」と呼ばれ、彼らは「ソルブ人」として現在もドイツに存続している。北方の人々と南方へ移住した人々の間にあるパンノニア平原にはその後9世紀よりハンガリー人(マジャール人7部族とハザール人3部族の遊牧民連合)が東方から侵入してハンガリー人国家を建て、北と南のスラヴ系の人々はパンノニアで政治的に分断され、さらにカランタニアにはドイツ人が侵入していき分断を強めた。その後北の人々は西スラヴ人、南の人々は南スラヴ人となって、それぞれ独自の政治史を歩むようになった。記録に残る最初の西スラヴ人の国々は、彼らの生存圏の南方で興ったサモ帝国(623年 - 658年)、モラヴィア王国(833年 - 907年)が知られている。ソルブ人といくつかのほかの西スラヴ部族は早期から神聖ローマ帝国の直接の支配下に入り、19世紀の終期にはドイツ人によって同化されてしまった。東部に住むポーランド人は10世紀に自分達の国を作り、20世紀にカシューブ人を同化した。ポーランドは何世紀にもわたり西の隣国と密接な関係を保ち、ポーランド王ボレスワフ1世は神聖ローマ皇帝オットー3世からFrater et Cooperator Imperii(帝国の兄弟とパートナー)とまで謳われた。チェコ人は西部のボヘミア人と東部のモラヴィア人(の西部住民)から成っているが、10世紀に自分たちの国ボヘミアを作り、後にドイツ系住民の政治力が優勢となり、神聖ローマ帝国に加わった。スロヴァキア人はもともとモラヴィア人のうちの東部住民で、10世紀から11世紀にかけて徐々にハンガリー王国の支配下に入った。これらの国々とリトアニアおよびハンガリーを加えた諸国は15世紀終盤にはポーランドのヤギェウォ朝の君主を同時に戴く広大かつ緩い国家連合を形成した。チェコ人とスロヴァキア人はともに1526年以降、ドイツ系のカトリック教徒の政治勢力が再び力を増しハプスブルク君主国の支配下に入った。
東スラヴ人
東スラヴ人(ひがしスラヴ人)とは、スラヴ人の中で東スラヴ語を話す、現代のウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人や近隣の少数民族のことを指す。中世には、東スラヴ人のルーシ人がキエフ・ルーシ(リューリク朝)を支配した。
目次 [非表示]
1 歴史 1.1 情報源
1.2 移住
1.3 キエフ・ルーシ時代以前
1.4 キエフ・ルーシ時代
1.5 東スラヴ人とは何か
2 関連項目
歴史[編集]
8−9世紀の東スラヴ人
情報源[編集]
原初年代記に東スラヴ人についての記載がおよそ859年を境に始まるまでの彼らについては相対的にほとんど知られていない。理由としては当時まだ書き言葉がなかったこと、東スラヴ人が辺鄙な場所に居住していたことが挙げられる。故にそれ以前の彼らについては考古学的な発掘、当時彼らの土地に旅した外国人の記録、スラヴ諸語に対する言語的な比較といったことからしか知る方法はない。
偽書であるべレスの本を除いては、11世紀以前の現地の文書はわずかしか発見されておらず、9世紀以前の文書に関しては一つもない。主な情報源となる資料の中で最古の物は11世紀及び12世紀に編纂された原初年代記である。それには9世紀までにバルト海から黒海にかけて定住した12個のスラヴ部族が記載されている。これらの12部族とは、それぞれポリャーネ族、デレヴリャーネ族、ドレゴーヴィチ族、ラディーミチ族、ヴァーティチ族、クリーヴィチ族、スロヴェーネ族、ドゥリーブィ族(後にヴォルィーニャネ族及びブジャーネ族と知られるようになる)、白クロアチア族、セヴェリャーネ族、ウーリチ族、ティーヴェルツィ族である。
移住[編集]
スラヴ人の原郷(Urheimat)については学者の中で未だに合意はなされていない。1千年紀において、スラヴ人は民族移動時代に東ヨーロッパ平原を横断してきた種族と接触していたと思われる。1世紀から9世紀にかけて、サルマタイ人、ゴート族、フン族、アラン人、アヴァール人、ブルガール人及びマジャル人などがポントス・ステップを越え西方向に移動していった。その時に彼らの一部が通過した土地のスラヴ人を従属させた可能性が強いが、このよそから来た部族達はスラヴ人の土地にほとんど痕跡を残していない。初期中世では、スラヴ人は農業従事者、養蜂家、狩人、漁師、牧夫、猟師として拡張していった。8世紀までには、スラヴ人は東ヨーロッパ平原における支配的種族となった。
600年までに、スラヴ人は言語の面において南スラヴ、西スラヴ、東スラヴの三派に分かれることになった。そのうち、東スラヴは二グループに分れ東ヨーロッパ地域になだれ込んだ。一つのグループはドニエプル川沿いの地域で定住を始め、そこから北へは北ヴォルガ渓谷、東へは今日のモスクワ近辺、西へは北ドニエストル川流域、南へは南ブーフ川まで拡散した。もう一つのグループはポメラニアから北東方向へ移動し、そこでルーシ・カガン国のヴァリャーグと遭遇した。彼らは重要な中心地であるノヴゴロドを築き、今日のトヴェリ州、ベロゼルスク周辺で定住し始め、最終的にはメリャ人の土地まで達し、ドニエプルのグループと合流を果たした。
キエフ・ルーシ時代以前[編集]
詳細は「ルーシ・カガン国」を参照
『ボヤーン』、ヴィクトル・ヴァスネツォフ画 (1910年)
南方に居住する東スラヴは8世紀からハザール・カガン国に貢ぎ物を差し出さなければならなかった。ハザールはテュルク諸語のハザール語を話す民で、8世紀後半か9世紀に支配階級がユダヤ教に改宗し、南ヴォルガ川流域及びカフカース地方を支配していた。おおよそ同時期に、北方のIlmen Slavsとクリーヴィチ族は当時バルト海から東ローマ帝国までの貿易路を抑えていたルーシ・カガン国のヴァリャーグによって支配されていた。ルーシ・カガン国はヴァリャーグの国家ではなく、現地の東スラヴ人の国家であるという説もある(国家群の民族構成は、ノース人、東スラヴ人、フィン人、テュルク系民族などであるが、ヴァリャーグ以外の活動は資料上あまり見られない。他民族国家であるため、混血していたとも言われている)。
当時の東スラヴ人の中心都市はノヴゴロド、イズボールスク、ポロツク、グニョーズドヴォ、Sarskoe Gorodishche、及びキエフなどである。考古学の研究によれば、これらの都市が登場するのは10世紀に入ったところで、ノヴゴロドのスラヴ人とフィン人がヴァリャーグをスカンディナヴィアに追い返した直後である。ルーシ・カガン国は、その後衰退し、最後は発展してキエフ・ルーシとなったのか、あるいは単にキエフ・ルーシに吸収されたのかは不明である。
キエフ・ルーシ時代[編集]
詳細は「キエフ大公国」を参照
その後、スラヴ人の招聘によりヴァリャーグがノヴゴロドに戻り、首都をキエフに移した。これについては、ヴァリャーグは招聘されたのではなく侵略し、キエフの現地の公朝(恐らくはポリャーネ族の公朝)を倒して政権を乗っ取ったのを、のちに権力の正当化のために外来王招聘説を取り入れて年代記を作成したものであるという説もある。ヴァリャーグ人の君主と東スラヴ人の貴族・国民からなるリューリク朝キエフ大公国は、キエフを拠点にコンスタンティノポリスに対し何回か遠征を行った。
当初、ヴァリャーグはスラヴ人の支配階級であったが、彼ら10世紀末までに急速にスラヴ化していた。スヴャトスラフ1世(在位945年 - 972年)は初めてスラヴ風の名前を持つルーシの君主で、このころにはスラヴ化がかなりの度合いで進んでいたことを物語っている(建国者はヴァリャーグを構成するルーシ族であるが、スラヴ系のルーシ人とは異なっており、ノルマン系であったものがスラヴ人と混血し、同化されたものと見られているものの、定説とはなっていない)。
東スラヴ人とは何か[編集]
後年になって、東スラヴの地を領土としたモスクワ国家やロシア帝国が「東スラヴ人とはルーシ人、すなわち汎ロシア人であり、ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人の共通の祖先である」という歴史学を唱えるようになった。これに対し、現代の東スラヴ人に含まれるウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人の各民族をそれぞれに独自の出自を持つ固有の民族とみなし、ルーシ人を汎ロシア人とみなすモスクワ歴史学に異議を唱えたウクライナ歴史学諸派は、帝政政府やソ連政府からの厳しい弾圧を受けることとなった。
なお、ウクライナ歴史学諸派によれば、居住地域、言語・伝統などを考えた場合、ルーシ人はウクライナ・ルーシ人(ウクライナ人やルシン人)になったと考えるのが妥当で、モスクワ歴史学でいうようにロシア人がルーシ人の直系の子孫であるのならば、彼らの近世に至るまでの出自が不明になってしまうという。彼らの歴史学では、東スラヴ人というのは並列する各民族の集合体であり、分岐する共通の祖先を前提とはしない。
ロシア人の地域にはもともとロシア人に連なる東スラヴ系の民族が居住しており、それらの民族がロシア人のルーツであるという意見がある一方、現代でも「ウクライナ人・ベラルーシ人などというのは民族主義に毒されてごく最近に現れた人工的な民族区分であり、本来彼らはすべてロシア人である」と主張する人も少なくはない。
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1 歴史 1.1 情報源
1.2 移住
1.3 キエフ・ルーシ時代以前
1.4 キエフ・ルーシ時代
1.5 東スラヴ人とは何か
2 関連項目
歴史[編集]
8−9世紀の東スラヴ人
情報源[編集]
原初年代記に東スラヴ人についての記載がおよそ859年を境に始まるまでの彼らについては相対的にほとんど知られていない。理由としては当時まだ書き言葉がなかったこと、東スラヴ人が辺鄙な場所に居住していたことが挙げられる。故にそれ以前の彼らについては考古学的な発掘、当時彼らの土地に旅した外国人の記録、スラヴ諸語に対する言語的な比較といったことからしか知る方法はない。
偽書であるべレスの本を除いては、11世紀以前の現地の文書はわずかしか発見されておらず、9世紀以前の文書に関しては一つもない。主な情報源となる資料の中で最古の物は11世紀及び12世紀に編纂された原初年代記である。それには9世紀までにバルト海から黒海にかけて定住した12個のスラヴ部族が記載されている。これらの12部族とは、それぞれポリャーネ族、デレヴリャーネ族、ドレゴーヴィチ族、ラディーミチ族、ヴァーティチ族、クリーヴィチ族、スロヴェーネ族、ドゥリーブィ族(後にヴォルィーニャネ族及びブジャーネ族と知られるようになる)、白クロアチア族、セヴェリャーネ族、ウーリチ族、ティーヴェルツィ族である。
移住[編集]
スラヴ人の原郷(Urheimat)については学者の中で未だに合意はなされていない。1千年紀において、スラヴ人は民族移動時代に東ヨーロッパ平原を横断してきた種族と接触していたと思われる。1世紀から9世紀にかけて、サルマタイ人、ゴート族、フン族、アラン人、アヴァール人、ブルガール人及びマジャル人などがポントス・ステップを越え西方向に移動していった。その時に彼らの一部が通過した土地のスラヴ人を従属させた可能性が強いが、このよそから来た部族達はスラヴ人の土地にほとんど痕跡を残していない。初期中世では、スラヴ人は農業従事者、養蜂家、狩人、漁師、牧夫、猟師として拡張していった。8世紀までには、スラヴ人は東ヨーロッパ平原における支配的種族となった。
600年までに、スラヴ人は言語の面において南スラヴ、西スラヴ、東スラヴの三派に分かれることになった。そのうち、東スラヴは二グループに分れ東ヨーロッパ地域になだれ込んだ。一つのグループはドニエプル川沿いの地域で定住を始め、そこから北へは北ヴォルガ渓谷、東へは今日のモスクワ近辺、西へは北ドニエストル川流域、南へは南ブーフ川まで拡散した。もう一つのグループはポメラニアから北東方向へ移動し、そこでルーシ・カガン国のヴァリャーグと遭遇した。彼らは重要な中心地であるノヴゴロドを築き、今日のトヴェリ州、ベロゼルスク周辺で定住し始め、最終的にはメリャ人の土地まで達し、ドニエプルのグループと合流を果たした。
キエフ・ルーシ時代以前[編集]
詳細は「ルーシ・カガン国」を参照
『ボヤーン』、ヴィクトル・ヴァスネツォフ画 (1910年)
南方に居住する東スラヴは8世紀からハザール・カガン国に貢ぎ物を差し出さなければならなかった。ハザールはテュルク諸語のハザール語を話す民で、8世紀後半か9世紀に支配階級がユダヤ教に改宗し、南ヴォルガ川流域及びカフカース地方を支配していた。おおよそ同時期に、北方のIlmen Slavsとクリーヴィチ族は当時バルト海から東ローマ帝国までの貿易路を抑えていたルーシ・カガン国のヴァリャーグによって支配されていた。ルーシ・カガン国はヴァリャーグの国家ではなく、現地の東スラヴ人の国家であるという説もある(国家群の民族構成は、ノース人、東スラヴ人、フィン人、テュルク系民族などであるが、ヴァリャーグ以外の活動は資料上あまり見られない。他民族国家であるため、混血していたとも言われている)。
当時の東スラヴ人の中心都市はノヴゴロド、イズボールスク、ポロツク、グニョーズドヴォ、Sarskoe Gorodishche、及びキエフなどである。考古学の研究によれば、これらの都市が登場するのは10世紀に入ったところで、ノヴゴロドのスラヴ人とフィン人がヴァリャーグをスカンディナヴィアに追い返した直後である。ルーシ・カガン国は、その後衰退し、最後は発展してキエフ・ルーシとなったのか、あるいは単にキエフ・ルーシに吸収されたのかは不明である。
キエフ・ルーシ時代[編集]
詳細は「キエフ大公国」を参照
その後、スラヴ人の招聘によりヴァリャーグがノヴゴロドに戻り、首都をキエフに移した。これについては、ヴァリャーグは招聘されたのではなく侵略し、キエフの現地の公朝(恐らくはポリャーネ族の公朝)を倒して政権を乗っ取ったのを、のちに権力の正当化のために外来王招聘説を取り入れて年代記を作成したものであるという説もある。ヴァリャーグ人の君主と東スラヴ人の貴族・国民からなるリューリク朝キエフ大公国は、キエフを拠点にコンスタンティノポリスに対し何回か遠征を行った。
当初、ヴァリャーグはスラヴ人の支配階級であったが、彼ら10世紀末までに急速にスラヴ化していた。スヴャトスラフ1世(在位945年 - 972年)は初めてスラヴ風の名前を持つルーシの君主で、このころにはスラヴ化がかなりの度合いで進んでいたことを物語っている(建国者はヴァリャーグを構成するルーシ族であるが、スラヴ系のルーシ人とは異なっており、ノルマン系であったものがスラヴ人と混血し、同化されたものと見られているものの、定説とはなっていない)。
東スラヴ人とは何か[編集]
後年になって、東スラヴの地を領土としたモスクワ国家やロシア帝国が「東スラヴ人とはルーシ人、すなわち汎ロシア人であり、ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人の共通の祖先である」という歴史学を唱えるようになった。これに対し、現代の東スラヴ人に含まれるウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人の各民族をそれぞれに独自の出自を持つ固有の民族とみなし、ルーシ人を汎ロシア人とみなすモスクワ歴史学に異議を唱えたウクライナ歴史学諸派は、帝政政府やソ連政府からの厳しい弾圧を受けることとなった。
なお、ウクライナ歴史学諸派によれば、居住地域、言語・伝統などを考えた場合、ルーシ人はウクライナ・ルーシ人(ウクライナ人やルシン人)になったと考えるのが妥当で、モスクワ歴史学でいうようにロシア人がルーシ人の直系の子孫であるのならば、彼らの近世に至るまでの出自が不明になってしまうという。彼らの歴史学では、東スラヴ人というのは並列する各民族の集合体であり、分岐する共通の祖先を前提とはしない。
ロシア人の地域にはもともとロシア人に連なる東スラヴ系の民族が居住しており、それらの民族がロシア人のルーツであるという意見がある一方、現代でも「ウクライナ人・ベラルーシ人などというのは民族主義に毒されてごく最近に現れた人工的な民族区分であり、本来彼らはすべてロシア人である」と主張する人も少なくはない。
スラヴ人
スラヴ人[1]は、中欧・東欧に居住し、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属する言語を話す諸民族集団である。ひとつの民族を指すのではなく、本来は言語学的な分類に過ぎない。東スラヴ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)・西スラヴ人(スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)・南スラヴ人(クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)に分けられる。言語の共通性は見られるものの、特に西スラヴと東スラヴの間は歴史時代以前より断絶があり、文化的共通性は希薄。
目次 [非表示]
1 歴史 1.1 発展過程
1.2 名称
2 政治・文化
3 分布
4 国旗
5 主なスラヴ民族
6 関連項目
7 脚注
8 参考文献
9 外部リンク
歴史[編集]
発展過程[編集]
言語の面では先史時代のトシュチニェツ文化が基層と推測されるが、政治・文化面ではその後のルサチア文化、チェルノレス文化、プシェヴォルスク文化、ザルビンツィ文化、チェルニャコヴォ文化、デンプチン文化などの発展や混交の過程を通じて地方ごとに諸部族と各地それぞれの文化が形成されたものと推定され、スラヴ語圏全体に共通する文化的な要素が希薄であるのはこれが理由と考えられる。ヘロドトスの『歴史』に登場するスキタイのうち農耕スキタイ人はウクライナ北西部のスラヴ系諸部族のことであると推定され、これはチェルノレス文化に相当する時代。当時この地方の人々は穀物の栽培や輸出を盛んに行なっていた。
スキタイの基幹民族である遊牧系の王族スキタイの遺骨から抽出された遺伝子と現代のスラヴ人の遺伝子を検査したところ、スキタイに一致するハプロタイプR-M17 P18がスラヴ人の多くを占めていることが判明した。スラヴ人はこのほか西欧系のR-M343 P25も多く含んでおり、これはスラヴ人がもともと西欧系の種族であった証拠でもある。このため、王族スキタイなど遊牧系のスキタイは西欧系の農耕スキタイとの婚姻により農耕スキタイ(スラヴ人)に吸収同化されて現代に至っているのであり、スラヴ人はスキタイの直系の末裔であると言える。またサルマタイの影響も強く受けている。
中世初期の民族大移動における考古文化のプラハ・ペンコフ・コロチン文化複合は、当時のスラヴ語圏諸部族のうちウクライナにおける政治集団がポリーシャからヨーロッパ全域に拡張し各地で影響を及ぼした痕跡と考えられる。それ以前は西スラヴ語群の元となった系統の諸部族と東スラヴ語群の元となった系統の諸部族は、政治的にも文化的にも断絶が続いていた時期が長いことが判明している。
9世紀に入ると、農耕に適さず人口が希薄なパンノニア盆地の広大な草原に遊牧民のマジャール人が侵入、西スラヴ語群の諸部族が北と南に分断され、それぞれ北では西スラヴ語群、南では南スラヴ語群の諸民族が中世を通じ形成されていった。
名称[編集]
Question book-4.svg
この節の内容の信頼性について検証が求められています。確認のための文献や情報源をご存じの方はご提示ください。議論はノートを参照してください。(2009年9月)
スラヴ全体に関する様々な学問をスラヴ学という。英語で「スレイヴ」(奴隷)という誤解を含んだ不名誉なレッテルで語られることも多いが、しかしその語源となったスラヴ語本来の「スラヴ・スロボ」の意味は、『言語』、『言葉』を意味するもの[2]である。スラヴ人は奴隷という先入観も、西ヨーロッパ人の誤解や蔑称から来ているのであり、特にナチスドイツではこの説は人気で、ソ連奇襲の公式理由の一つでもあった。これは、「スラヴ」がギリシア語に入ったときに『奴隷』の意味となり(他の民族もそうであるが、スラヴ人も戦争などで捕らえられると奴隷として扱われたためであると考えられる。この時代の捕虜はどの国でも奴隷であり、戦利品のひとつに過ぎなかった)、そのギリシア文化を受け継いだローマ帝国のラテン語から西ヨーロッパ諸言語に広まったと考えられる。
政治・文化[編集]
スラヴ語の共通性を基盤とするスラヴ全体の共通性を強調する態度は汎スラヴ主義と呼ばれ、国民楽派、第一次世界大戦と民族国家、旧東欧の概念などの重要なアイデンティティともなったが、文化・宗教面ではスラヴ各民族ごとに異なるアイデンティティを持っており、ロシア・ポーランド関係、旧ユーゴスラビアなどのように血を流し合って対立する矛盾した面を持っている。
特にポーランドはポーランド語を共通語として話すが、ポーランド・リトアニア共和国に至るまで続いた「コモンウェルス」の歴史的背景から非スラヴ語圏の出自やその混交の家系の人々が多く、伝統的にスラヴを民族と捉える意識が希薄で、「スラヴ」とは単に言語的な括りにすぎないと認識している。19世紀に盛んだった汎スラヴ運動において、ポーランドの人々が関わることは一切なかった。
分布[編集]
スラヴ人の多くはコーカソイド人種の特徴を持っている。原住地はカルパチア山脈周辺と推定され[3][4]、スキタイ人やサルマタイ人を吸収同化して同一の言語集団として成立して行った。その後ヨーロッパ各地へと移住する過程で、6、7世紀頃まで言語としてある程度の一体性を持っていた[5][4]ものが、次第に東スラヴ人、西スラヴ人そして南スラヴ人といった緩やかなまとまりから、さらに各地のスラヴ民族を多数派とする集団へと分化していった歴史を持つ。
移住先では元々の在来の住民と混交する形で言語的にも文化的にも、次第に現地住民を同化しつつ、在来の住民と相互に影響を与え合う形で発展していった。特にトルコの支配を受けた南スラヴ人については、スラヴ人の移住以前からのバルカン半島の土着的な要素に加えて、オリエンタル地域に由来する文化も持ち合わせている。「ブルガリア」の名前は中世のテュルク系遊牧民であったブルガール人に由来しており、ブルガール人は彼らが支配するドナウ・ブルガール・ハン国で多数派であったスラヴ人と同化してブルガリア人となった。
一方、西ヨーロッパにおいても少数ながらスラヴ民族が現在も住居している。特にドイツ東部においては、古来よりポーランドとの国境付近にはドイツ人とポーランド人との混血集団であるシレジア人を始め、エルベ川東部にもスラヴ系集団が住居し、現代に至るまでドイツ人との間で複雑な相克の歴史を持つ。現在もドイツ東部にはソルブ人が住居している。また中世以来の古い家系でありながらスラブ系やスラブ系由来の姓を持っているドイツ人は多数いる。近代以降はカナダに大量のスラヴ人が移住している。彼らは英語化し、もとの母語であるスラヴ語を失っているものの、カナダ最大の民族はアングロサクソンではなくウクライナ人やポーランド人を基幹とするスラヴ人であるとされる。また、シカゴを含むアメリカのイリノイ州の住民は圧倒的にスラヴ系が多い。
なお、スラヴ人の中で最大の民族集団であるロシアの語源については、いくつか説はあるが、現代のウクライナの首都、キエフを中心としたキエフ・ルーシ(キーフルーシ大公国)の国号からとられたとも言われている。この「ルーシ」をギリシャ語読みすると「ロシア」となる。本来、地理的にキーフルーシがルーシ(ロシア)の名を引き継ぐべきところであるが、歴史的にモンゴル支配以降、急速に台頭してきた新興国家モスクワ公国(キーフルーシの一構成国でのちにロシア帝国となる)に「ロシア」の主導権を握られ、先を越された感がある。なお、キーフルーシはその後ロシア帝国の一構成集団として取り込まれていった後、ウクライナとして現代ロシアとは別の国家として存続している。
そのため、ウクライナ人の中には、これらの歴史的経緯からウクライナ人とロシア人は同じスラヴ民族であり、近隣同士の間柄としてともに歩んできたものの、ロシア人とウクライナ人とは一線を画している、とする論調が存在し、それが両民族の間にさまざまな軋轢をもたらしていることも、また事実である。なお、ウクライナ人自身も長い歴史の中でゴート人、ノルマン人、スキタイ人そして東スラヴ人との混血によって形成された民族集団である。
ロシアについては、歴史的に民族の行き交う十字路に位置しており、古来にはスキタイ人やサルマティア人、フン人そしてハザール人を始めとする遊牧民族、中世にはモンゴル人やタタール人等による支配を経験している。その後、ロシアが領土を中央アジアからシベリア、極東方面へ大きく拡大し周辺の諸民族を征服する過程で、これらの民族と言語的、文化的に混交、同化していった経緯から、ロシア人はコーカソイドを基調としながらも、東へ向かうにつれてモンゴロイド人種の特徴を含む人々も見られ、人種的に相当なばらつきがあるといわれている。
国旗[編集]
スラヴ人が多数派を占める国々の国旗には、赤、青、そして白色からなる配色による構成が見られる。この配色は汎スラヴ色と呼ばれ、自由と革命の理想を象徴したものである。
汎スラヴ色を国旗の意匠とする国々は、ロシア、チェコ、スロバキア、スロベニア、クロアチア、セルビアなどであり、南スラヴ族のモンテネグロ人を主要民族とするモンテネグロも2004年7月まで、汎スラヴ色を基調とする国旗を使用していた。また、同じ南スラヴ族のブルガリア国旗についても、青色の配色が農業を表す緑色に置き換えられているが、汎スラヴ色に分類される。
ポーランドはかつてポーランド・リトアニア共和国として大国だった時代に軍旗として使用されていた紅白旗を一貫して用いている。正式には国章の白鷲が付く。
主なスラヴ民族[編集]
東スラヴ人 ウクライナ人
ベラルーシ人
ロシア人
西スラヴ人 スロバキア人
チェコ人
ポーランド人
ソルブ人
南スラヴ人 南西スラヴ人 スロベニア人
クロアチア人
セルビア人
モンテネグロ人
ボシュニャク人
南東スラヴ人 ブルガリア人
マケドニア人
ポマク
トルベシ
ゴーラ人
目次 [非表示]
1 歴史 1.1 発展過程
1.2 名称
2 政治・文化
3 分布
4 国旗
5 主なスラヴ民族
6 関連項目
7 脚注
8 参考文献
9 外部リンク
歴史[編集]
発展過程[編集]
言語の面では先史時代のトシュチニェツ文化が基層と推測されるが、政治・文化面ではその後のルサチア文化、チェルノレス文化、プシェヴォルスク文化、ザルビンツィ文化、チェルニャコヴォ文化、デンプチン文化などの発展や混交の過程を通じて地方ごとに諸部族と各地それぞれの文化が形成されたものと推定され、スラヴ語圏全体に共通する文化的な要素が希薄であるのはこれが理由と考えられる。ヘロドトスの『歴史』に登場するスキタイのうち農耕スキタイ人はウクライナ北西部のスラヴ系諸部族のことであると推定され、これはチェルノレス文化に相当する時代。当時この地方の人々は穀物の栽培や輸出を盛んに行なっていた。
スキタイの基幹民族である遊牧系の王族スキタイの遺骨から抽出された遺伝子と現代のスラヴ人の遺伝子を検査したところ、スキタイに一致するハプロタイプR-M17 P18がスラヴ人の多くを占めていることが判明した。スラヴ人はこのほか西欧系のR-M343 P25も多く含んでおり、これはスラヴ人がもともと西欧系の種族であった証拠でもある。このため、王族スキタイなど遊牧系のスキタイは西欧系の農耕スキタイとの婚姻により農耕スキタイ(スラヴ人)に吸収同化されて現代に至っているのであり、スラヴ人はスキタイの直系の末裔であると言える。またサルマタイの影響も強く受けている。
中世初期の民族大移動における考古文化のプラハ・ペンコフ・コロチン文化複合は、当時のスラヴ語圏諸部族のうちウクライナにおける政治集団がポリーシャからヨーロッパ全域に拡張し各地で影響を及ぼした痕跡と考えられる。それ以前は西スラヴ語群の元となった系統の諸部族と東スラヴ語群の元となった系統の諸部族は、政治的にも文化的にも断絶が続いていた時期が長いことが判明している。
9世紀に入ると、農耕に適さず人口が希薄なパンノニア盆地の広大な草原に遊牧民のマジャール人が侵入、西スラヴ語群の諸部族が北と南に分断され、それぞれ北では西スラヴ語群、南では南スラヴ語群の諸民族が中世を通じ形成されていった。
名称[編集]
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スラヴ全体に関する様々な学問をスラヴ学という。英語で「スレイヴ」(奴隷)という誤解を含んだ不名誉なレッテルで語られることも多いが、しかしその語源となったスラヴ語本来の「スラヴ・スロボ」の意味は、『言語』、『言葉』を意味するもの[2]である。スラヴ人は奴隷という先入観も、西ヨーロッパ人の誤解や蔑称から来ているのであり、特にナチスドイツではこの説は人気で、ソ連奇襲の公式理由の一つでもあった。これは、「スラヴ」がギリシア語に入ったときに『奴隷』の意味となり(他の民族もそうであるが、スラヴ人も戦争などで捕らえられると奴隷として扱われたためであると考えられる。この時代の捕虜はどの国でも奴隷であり、戦利品のひとつに過ぎなかった)、そのギリシア文化を受け継いだローマ帝国のラテン語から西ヨーロッパ諸言語に広まったと考えられる。
政治・文化[編集]
スラヴ語の共通性を基盤とするスラヴ全体の共通性を強調する態度は汎スラヴ主義と呼ばれ、国民楽派、第一次世界大戦と民族国家、旧東欧の概念などの重要なアイデンティティともなったが、文化・宗教面ではスラヴ各民族ごとに異なるアイデンティティを持っており、ロシア・ポーランド関係、旧ユーゴスラビアなどのように血を流し合って対立する矛盾した面を持っている。
特にポーランドはポーランド語を共通語として話すが、ポーランド・リトアニア共和国に至るまで続いた「コモンウェルス」の歴史的背景から非スラヴ語圏の出自やその混交の家系の人々が多く、伝統的にスラヴを民族と捉える意識が希薄で、「スラヴ」とは単に言語的な括りにすぎないと認識している。19世紀に盛んだった汎スラヴ運動において、ポーランドの人々が関わることは一切なかった。
分布[編集]
スラヴ人の多くはコーカソイド人種の特徴を持っている。原住地はカルパチア山脈周辺と推定され[3][4]、スキタイ人やサルマタイ人を吸収同化して同一の言語集団として成立して行った。その後ヨーロッパ各地へと移住する過程で、6、7世紀頃まで言語としてある程度の一体性を持っていた[5][4]ものが、次第に東スラヴ人、西スラヴ人そして南スラヴ人といった緩やかなまとまりから、さらに各地のスラヴ民族を多数派とする集団へと分化していった歴史を持つ。
移住先では元々の在来の住民と混交する形で言語的にも文化的にも、次第に現地住民を同化しつつ、在来の住民と相互に影響を与え合う形で発展していった。特にトルコの支配を受けた南スラヴ人については、スラヴ人の移住以前からのバルカン半島の土着的な要素に加えて、オリエンタル地域に由来する文化も持ち合わせている。「ブルガリア」の名前は中世のテュルク系遊牧民であったブルガール人に由来しており、ブルガール人は彼らが支配するドナウ・ブルガール・ハン国で多数派であったスラヴ人と同化してブルガリア人となった。
一方、西ヨーロッパにおいても少数ながらスラヴ民族が現在も住居している。特にドイツ東部においては、古来よりポーランドとの国境付近にはドイツ人とポーランド人との混血集団であるシレジア人を始め、エルベ川東部にもスラヴ系集団が住居し、現代に至るまでドイツ人との間で複雑な相克の歴史を持つ。現在もドイツ東部にはソルブ人が住居している。また中世以来の古い家系でありながらスラブ系やスラブ系由来の姓を持っているドイツ人は多数いる。近代以降はカナダに大量のスラヴ人が移住している。彼らは英語化し、もとの母語であるスラヴ語を失っているものの、カナダ最大の民族はアングロサクソンではなくウクライナ人やポーランド人を基幹とするスラヴ人であるとされる。また、シカゴを含むアメリカのイリノイ州の住民は圧倒的にスラヴ系が多い。
なお、スラヴ人の中で最大の民族集団であるロシアの語源については、いくつか説はあるが、現代のウクライナの首都、キエフを中心としたキエフ・ルーシ(キーフルーシ大公国)の国号からとられたとも言われている。この「ルーシ」をギリシャ語読みすると「ロシア」となる。本来、地理的にキーフルーシがルーシ(ロシア)の名を引き継ぐべきところであるが、歴史的にモンゴル支配以降、急速に台頭してきた新興国家モスクワ公国(キーフルーシの一構成国でのちにロシア帝国となる)に「ロシア」の主導権を握られ、先を越された感がある。なお、キーフルーシはその後ロシア帝国の一構成集団として取り込まれていった後、ウクライナとして現代ロシアとは別の国家として存続している。
そのため、ウクライナ人の中には、これらの歴史的経緯からウクライナ人とロシア人は同じスラヴ民族であり、近隣同士の間柄としてともに歩んできたものの、ロシア人とウクライナ人とは一線を画している、とする論調が存在し、それが両民族の間にさまざまな軋轢をもたらしていることも、また事実である。なお、ウクライナ人自身も長い歴史の中でゴート人、ノルマン人、スキタイ人そして東スラヴ人との混血によって形成された民族集団である。
ロシアについては、歴史的に民族の行き交う十字路に位置しており、古来にはスキタイ人やサルマティア人、フン人そしてハザール人を始めとする遊牧民族、中世にはモンゴル人やタタール人等による支配を経験している。その後、ロシアが領土を中央アジアからシベリア、極東方面へ大きく拡大し周辺の諸民族を征服する過程で、これらの民族と言語的、文化的に混交、同化していった経緯から、ロシア人はコーカソイドを基調としながらも、東へ向かうにつれてモンゴロイド人種の特徴を含む人々も見られ、人種的に相当なばらつきがあるといわれている。
国旗[編集]
スラヴ人が多数派を占める国々の国旗には、赤、青、そして白色からなる配色による構成が見られる。この配色は汎スラヴ色と呼ばれ、自由と革命の理想を象徴したものである。
汎スラヴ色を国旗の意匠とする国々は、ロシア、チェコ、スロバキア、スロベニア、クロアチア、セルビアなどであり、南スラヴ族のモンテネグロ人を主要民族とするモンテネグロも2004年7月まで、汎スラヴ色を基調とする国旗を使用していた。また、同じ南スラヴ族のブルガリア国旗についても、青色の配色が農業を表す緑色に置き換えられているが、汎スラヴ色に分類される。
ポーランドはかつてポーランド・リトアニア共和国として大国だった時代に軍旗として使用されていた紅白旗を一貫して用いている。正式には国章の白鷲が付く。
主なスラヴ民族[編集]
東スラヴ人 ウクライナ人
ベラルーシ人
ロシア人
西スラヴ人 スロバキア人
チェコ人
ポーランド人
ソルブ人
南スラヴ人 南西スラヴ人 スロベニア人
クロアチア人
セルビア人
モンテネグロ人
ボシュニャク人
南東スラヴ人 ブルガリア人
マケドニア人
ポマク
トルベシ
ゴーラ人
ブルガール人
ブルガール人(Bulgar)は、中世の東ヨーロッパで活動したテュルク系遊牧民である。人種はかつてモンゴロイドに属していた。
広い地域に分散した彼らのうち、バルカン半島のドナウ川下流域からトラキア地方に侵入した一派はブルガリア帝国を建国、キリスト教の正教会信仰を取り入れ、先住の南スラヴ人に言語的に同化されて現在のブルガリア人の先祖となった。そのためプロト・ブルガリア人ともいう。
ブルガール人の先祖は2世紀頃にウラル山脈以西および中央アジア西部からヨーロッパ大陸の東部に姿をあらわし、カスピ海と黒海の間に広がる草原地帯で遊牧生活を送るようになった。一部はこの地域でフン人の西進に加わり、東ヨーロッパに移動した。フン人の西進後、ブルガール人の一派は5世紀頃から、アヴァール人の一派とともにたびたび東ローマ帝国支配下の東ヨーロッパ方面に侵入するようになった。
6世紀の中頃、ブルガール人はクブラト(英語版)という人物をハンとして、アゾフ海の北岸からヴォルガ川下流域の草原地帯において部族連合国家「大ブルガリア」を形成した。
しかしクブラトの死後、ブルガール部族連合は早くも分裂し、北方にはヴォルガ・ブルガール、西方にはドナウ・ブルガールが移住していった。原住地に残ったブルガール人たちは、アゾフ海沿岸を支配する部族連合国家を維持し、ヴォルガ・ブルガールやドナウ・ブルガールとの対比から大ブルガリアと呼ばれた。大ブルガリアの本拠地は、現在のアゾフ・ロストフの北方の草原にあった。
大ブルガリアは7世紀頃、西突厥の支配を脱して西進を開始したカフカス北麓のテュルク系遊牧民集団ハザールによって駆逐され、多くの部族民はハザール可汗国に加わった。彼らは次第にハザール人と同化してゆき、10世紀にハザールが滅亡したのとともにほとんど解体した。なお、現在北カフカスのカバルダ・バルカル共和国に住むテュルク系民族のバルカル人がブルガール人の後裔であるという説もあるが、推測の域を出ていない。
クブラトの次男コトラグに率いられた部族集団はヴォルガ川を遡ってカマ川との合流地点に近いヴォルガ川屈曲部(現在のタタールスタン共和国周辺)に定住、農業と交易に従事するヴォルガ・ブルガールとなった。彼らはハザール可汗国の支配下に入るが、のちにアッバース朝と通行を結んでイスラム教を受容、ハザールの衰退とともに独立して王国を形成したが、13世紀にモンゴル帝国に征服されて滅亡した。ヴォルガ・ブルガールの人々はジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の領民となり、現在ヴォルガ屈曲部に住むテュルク系民族のヴォルガ・タタール人やチュヴァシ人はその後裔であるとされる。特にチュヴァシ人の話すチュヴァシ語は、テュルク諸語の中でもブルガール人の話していた言語の特徴を保持しているという。
一方、クブラトの三男アスパルフに率いられた一団は、黒海北岸を経てバルカン半島に進入、ドナウ川の下流域に定住した。この集団をドナウ・ブルガールという。彼らは南隣する東ローマ帝国と戦って現地のスラヴ人を支配する国家を形成し、680年に第一次ブルガリア帝国(ブルガール・ハン国)を建国した。ブルガール・ハン国のブルガール人たちは9世紀頃にキリスト教を受け入れ、次第にコーカソイドに属するスラヴ人と同化して、今日のブルガリア人を形成していった。
広い地域に分散した彼らのうち、バルカン半島のドナウ川下流域からトラキア地方に侵入した一派はブルガリア帝国を建国、キリスト教の正教会信仰を取り入れ、先住の南スラヴ人に言語的に同化されて現在のブルガリア人の先祖となった。そのためプロト・ブルガリア人ともいう。
ブルガール人の先祖は2世紀頃にウラル山脈以西および中央アジア西部からヨーロッパ大陸の東部に姿をあらわし、カスピ海と黒海の間に広がる草原地帯で遊牧生活を送るようになった。一部はこの地域でフン人の西進に加わり、東ヨーロッパに移動した。フン人の西進後、ブルガール人の一派は5世紀頃から、アヴァール人の一派とともにたびたび東ローマ帝国支配下の東ヨーロッパ方面に侵入するようになった。
6世紀の中頃、ブルガール人はクブラト(英語版)という人物をハンとして、アゾフ海の北岸からヴォルガ川下流域の草原地帯において部族連合国家「大ブルガリア」を形成した。
しかしクブラトの死後、ブルガール部族連合は早くも分裂し、北方にはヴォルガ・ブルガール、西方にはドナウ・ブルガールが移住していった。原住地に残ったブルガール人たちは、アゾフ海沿岸を支配する部族連合国家を維持し、ヴォルガ・ブルガールやドナウ・ブルガールとの対比から大ブルガリアと呼ばれた。大ブルガリアの本拠地は、現在のアゾフ・ロストフの北方の草原にあった。
大ブルガリアは7世紀頃、西突厥の支配を脱して西進を開始したカフカス北麓のテュルク系遊牧民集団ハザールによって駆逐され、多くの部族民はハザール可汗国に加わった。彼らは次第にハザール人と同化してゆき、10世紀にハザールが滅亡したのとともにほとんど解体した。なお、現在北カフカスのカバルダ・バルカル共和国に住むテュルク系民族のバルカル人がブルガール人の後裔であるという説もあるが、推測の域を出ていない。
クブラトの次男コトラグに率いられた部族集団はヴォルガ川を遡ってカマ川との合流地点に近いヴォルガ川屈曲部(現在のタタールスタン共和国周辺)に定住、農業と交易に従事するヴォルガ・ブルガールとなった。彼らはハザール可汗国の支配下に入るが、のちにアッバース朝と通行を結んでイスラム教を受容、ハザールの衰退とともに独立して王国を形成したが、13世紀にモンゴル帝国に征服されて滅亡した。ヴォルガ・ブルガールの人々はジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の領民となり、現在ヴォルガ屈曲部に住むテュルク系民族のヴォルガ・タタール人やチュヴァシ人はその後裔であるとされる。特にチュヴァシ人の話すチュヴァシ語は、テュルク諸語の中でもブルガール人の話していた言語の特徴を保持しているという。
一方、クブラトの三男アスパルフに率いられた一団は、黒海北岸を経てバルカン半島に進入、ドナウ川の下流域に定住した。この集団をドナウ・ブルガールという。彼らは南隣する東ローマ帝国と戦って現地のスラヴ人を支配する国家を形成し、680年に第一次ブルガリア帝国(ブルガール・ハン国)を建国した。ブルガール・ハン国のブルガール人たちは9世紀頃にキリスト教を受け入れ、次第にコーカソイドに属するスラヴ人と同化して、今日のブルガリア人を形成していった。