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2014年02月11日

柔然

柔然(漢音:じゅうぜん、拼音:Róurán)は、5世紀から6世紀にかけてモンゴル高原を支配した遊牧国家。『魏書』,『北史』,『南史』などでは蠕蠕(ぜんぜん)、『宋書』,『南斉書』,『梁書』などでは苪苪(ぜいぜい)、『周書』,『隋書』などでは茹茹(じょじょ)、『晋書』では蝚蠕と表記される。



目次 [非表示]
1 概略
2 歴史 2.1 起源
2.2 柔然の勃興
2.3 社崙の治世
2.4 斛律・歩鹿真
2.5 大檀の治世
2.6 呉提・吐賀真
2.7 予成の治世
2.8 豆崙・那蓋・伏図・醜奴
2.9 阿那瓌の治世
2.10 柔然の終焉

3 名称 3.1 研究史

4 習俗 4.1 衣食住
4.2 政教
4.3 結婚
4.4 産業

5 民族・言語系統
6 柔然=アヴァール説
7 歴代君主 7.1 柔然部
7.2 柔然可汗国

8 元号
9 脚注
10 参考資料
11 関連項目


概略[編集]

柔然の始祖は木骨閭といい、故にその王族は郁久閭(いくきゅうりょ)氏と言った。3世紀ごろには鮮卑拓跋部に従属していたが、鮮卑が中国へ移住した後のモンゴル高原で勢力を拡大し、5世紀初めの社崙の時代に高車を服属させてタリム盆地一帯を支配し、北魏と対立した。また社崙は可汗(かがん、Qaγan:後のハーンの元)の君主号を使った。社崙は北魏の明元帝の軍に敗れて逃走中に死去した。

北魏との対立を深めた柔然は南朝宋,夏,北涼,北燕,高句麗,吐谷渾と結んで北魏包囲網を形成した。夏,北涼,北燕はやがて北魏により滅ぼされるが、柔然は勢力を保ち続け、吐谷渾を介在して宋と連絡を取り合っていた。

これに不快感を覚えた北魏の太武帝は429年,449年の2回にわたる親征軍により、柔然は本拠地を落とされて可汗は逃走中に死去した。しかしそれでもなお柔然は強勢を維持し続け、北魏も対南朝の関係から北だけに目を向けるわけにはいかなかった。

柔然が本格的に弱体化するのが485年,486年に配下の高車が自立してからである。高車の反乱は治めたもののそれに乗じて、鍛鉄奴隷であった突厥が隆盛し、552年、突厥の伊利可汗との戦闘に敗れて可汗の阿那瓌が自殺し、残党は北斉に援助を求めたが突厥の要請により殺され、柔然は完全に滅亡した。

なお、アヴァール族は柔然の一派ではないかとの説がある(後述)。

歴史[編集]

以下の記述は『魏書』列伝第九十一、『北史』列伝第八十六によるもの。

起源[編集]





五胡十六国時代
柔然とは東胡の苗裔で、姓は郁久閭氏という。神元帝(在位:220年 - 277年)の末、字を木骨閭(郁久閭氏の語源)という者が拓跋部の騎卒となる。穆帝(在位:308年 - 316年)の時、木骨閭は拓跋部を脱し、紇突隣部に依拠。木骨閭が死ぬと、子の車鹿会は部族名を「柔然」と号し、ふたたび拓跋部に服属した。車鹿会は部帥となり、毎年馬畜・貂豽皮を献上した。車鹿会が死ぬと子の吐奴傀が立ち、吐奴傀が死ぬと子の跋提が立ち、跋提が死ぬと子の地粟袁が立った。

柔然の勃興[編集]





前秦と東晋の領域
地粟袁が死ぬと、柔然部は東西に分かれ、東部は長男の匹候跋が継ぎ、西部は次男の縕紇提が統治した。このころ、前秦の苻堅によって代国が滅び、西部柔然は匈奴鉄弗部の劉衛辰のもとに付した。

代国を復興し、北魏を建てた拓跋珪(以下道武帝)は、周辺諸部を次々と服属させたが、柔然部だけは帰服しなかったため、登国6年(391年)10月、ついに自ら討伐を行うに至り、大磧南の床山下にて柔然の半数は捕らえられた。さらに魏将長孫嵩および長孫肥の追撃により、部帥の屋撃は殺され、匹候跋は降伏した。一方西部柔然の縕紇提は、劉衛辰のもとへ逃れるところを跋那山において道武帝率いる北魏軍に追いつかれ、ついに降伏した。

登国9年(394年)、縕紇提の子の曷多汗は兄の社崙とともに父を棄て西走したが、長孫肥の追撃にあい殺され、社崙は数百人を率いて叔父の匹候跋のもとに逃れた。しかし間もなく社崙は匹候跋を殺してその位を奪い、五原以西の諸部を略奪し漠北へ逃れた。

社崙の治世[編集]





4世紀後半、柔然とその周辺国。
社崙は後秦の姚興と和親を結び、天興4年(401年)12月、道武帝が材官将軍の和突を派遣して後秦の属国である黜弗・素古延部を襲った時は、救援の軍を出して北魏軍を撃破している。

漠北へ退いた社崙は高車を侵略、その諸部をことごとく征服し、初めて軍法を立てた。その後、それより西北に匈奴の余種がおり、そこの部帥の拔也稽は反旗を翻して社崙を攻撃したが、頞根河(オルホン川)において社崙に破られことごとく征服された。このころの柔然は極めて強盛となり、西は焉耆の地(カラシャール地方)、東は朝鮮の地、北は沙漠を渡って瀚海(バイカル湖)にまでおよび、南は大磧(陰山山脈北麓の砂礫地帯)に臨んだ。ここにおいて社崙は自ら丘豆伐可汗(在位:402年 - 410年)と号した。

天興5年(402年)12月、社崙は北魏が姚興を撃つと聞き、遂に長城を越え参合陂に入り、南は豺山及び善無北澤に至る。道武帝は常山王の拓跋遵を派遣しこれを追撃するが追いつかなかった。天賜年間、社崙の従弟の悦代,大那等は社崙を殺して大那を即位させようと謀るが発覚し、大那等は北魏に亡命した。永興元年(409年)冬、社崙はまた長城を越える。永興2年(410年)、明元帝は柔然を討伐、社崙は遁走し道中死去した。社崙の子度拔はまだ幼かったので、部落は社崙の弟斛律を立て藹苦蓋可汗(在位:410年 - 414年)と号した。

斛律・歩鹿真[編集]

永興3年(411年)、斛律の宗人悦侯,咄觸千ら数百人が北魏に降った。斛律は威を畏れて自守し、南侵しなくなって北辺は安静した。神瑞元年(414年)、斛律は娘を北燕の馮跋に嫁がせようするさなか、斛律の長兄の子歩鹿真は、柔然の大臣樹黎,勿地延らと共謀し、斛律を捕らえ娘ともども馮跋のもとへ放逐し、可汗に即位した。歩鹿真は社崙の子の社拔とともに、昔社崙の時代に恩があった叱洛侯家に至り、そこの少妻から叱洛侯が歩鹿真を殺し、大檀を即位させようと企てていることを聞き、即座に叱洛侯を包囲した。叱洛侯は自害したので、歩鹿真は大檀を襲った。しかし、逆に捕えられて絞殺された。

大檀の治世[編集]





北魏と宋
歩鹿真を殺した大檀は可汗に推戴され、牟汗紇升蓋可汗(在位:414年 - 429年)と号した。12月、大檀は北魏の北辺を侵した。明元帝はこれを親伐し、山陽侯の奚斤等を遣わしこれを追撃したが大雪にあい、あえなく撤退した。泰常8年(423年)に明元帝が崩御すると、太武帝が即位した。始光元年(424年)秋、大檀はこれに乗じて雲中で略奪、太武帝は親伐するが包囲されてしまう。しかし、北魏軍の軍士が柔然の部帥の於陟斤を射殺すると、それを恐れた大檀は撤退する。翌年、太武帝は大挙し東西五道を並進して柔然を討ち、大檀は北へ逃れた。神䴥元年(428年)8月、大檀の子の将万余騎を派遣して塞に入り、辺民を殺掠し逃走。北魏の高車軍は追撃しこれを破る。神䴥2年(429年)、太武帝はふたたび柔然討伐の軍を発し、栗水に至る。大檀の民衆は西奔し、大檀の弟の匹黎は兄の所へ赴こうとしたが、平陽王の長孫翰軍に遭遇し、長孫翰はこれを撃ち、その大人数百人を殺した。大檀はこれを聞くと震怖し、廬舍を焼いて西走し、国落は四散した。その後、大檀の部落は衰弱し、大檀自身も病気になり死去した。

呉提・吐賀真[編集]

大檀が死ぬと子の呉提が即位し、敕連可汗(在位:429年 - 444年)と号した。神䴥4年(431年)より呉提は北魏に朝貢するようになり、しばらくの間両国に平和が訪れた。しかし、太延2年(436年)になると、また長城を越えて辺部を侵した。太延4年(438年)、太武帝は北伐を開始したが、柔然に遭遇できず撤退する。時に漠北は大干ばつに見舞わされ、水草がなく北魏軍の軍馬が多数死んだという。太平真君4年(443年)、太武帝は漠南に出兵し柔然を襲撃、鹿渾谷にて呉提と遭遇。呉提は遁走するが、追撃され頞根河(オルホン川)に至って撃破される。太武帝は翌年も漠南に出兵し、呉提は遠く遁走した。その後呉提は死に、子の吐賀真が即位し、処可汗(在位:444年 - 450年)と号す。太平真君10年(449年)、太武帝は北伐を開始。吐賀真は高涼王那に大敗し、これ以後北辺を侵さなくなった。

予成の治世[編集]





北魏と南斉
太平真君11年(450年)、吐賀真が死に、子の予成が即位し、受羅部真可汗(在位:450年 - 485年)と号した。和平5年(464年)、予成は柔然独自の元号を立てて永康元年とした。永康7年(470年)8月、予成が北辺を侵したので、献文帝は北討した。永康8年(471年)、柔然は南朝宋に朝貢する。永康9年(472年)2月、柔然は北魏に侵入した。北魏はこれを討ち、柔然別帥の阿大干を降伏させる。永康12年(475年)、予成が北魏に通婚を求めた。予成は何度も国境を侵犯してきたので、北魏の官僚は使者を拒絶し、軍を出撃させて柔然を討伐することを求めた。しかし、献文帝は柔然を討つべきではないとし、柔然には「婚姻とは軽々しく行うものではない」と伝えた。そのため予成は献文帝の在位中には改めて通婚を求めなかった。永康14年(477年)4月、予成は莫何去汾の比抜らを北魏に派遣し、良馬や貂の皮衣を献上した。永康17年(480年)3月、柔然は北魏に遣使を送って朝貢する。また、南朝の南斉に遣使を送って朝貢し、南斉の太祖(蕭道成)に北魏を挟撃することを提案した。この後数年間、柔然は北魏と南斉に遣使を送って朝貢した。永康22年(485年)12月、柔然は北魏の塞を侵犯し、任城の王澄は衆を率いてこれを防ぐ。この年、予成は死去し、子の豆崙が継いで伏古敦可汗(在位:485年 - 492年)となる。

豆崙・那蓋・伏図・醜奴[編集]





柔然と周辺国。Khanate of the Juan-Juan=柔然、Northern Wei Dynasty=北魏、Southern Qi Dynasty=南斉、Yuehban=悦般、Hepthalite Khanate=エフタル
太平3年(487年)8月、柔然は北魏の塞を侵す。これに対し、北魏の平原王陸叡は5千騎を率いてこれを討ち、柔然帥の赤阿突らを捕える。このほかにも豆崙は頻繁に北魏の塞を侵犯したので、柔玄鎮将の李兜はこれを討った。この年、柔然隷属下の高車副伏羅部の阿伏至羅とその従弟の窮奇は、豆崙の北魏侵犯を諫めたが、豆崙が聞き入れないので、所部の衆10余万落を率いて、柔然から離反した。豆崙はこれを討つが敗戦を重ね、東へ移った。太平8年(492年)8月、北魏の孝文帝は陽平王の元頤,左僕射の陸叡を都督とし、領軍将軍の斛律桓ら12人の将軍、騎兵7万を統率して豆崙を討伐させた。豆崙は叔父の那蓋とともに高車の阿伏至羅を撃った。豆崙は浚稽山の北から西方に向かい、那蓋は金山(アルタイ山脈)から出た。豆崙は何度も阿伏至羅に敗れたが、那蓋は勝利と戦利品の獲得を重ねた。これにより柔然の民衆は那蓋に天の助けがあるとし、那蓋を推戴して可汗としようとした。那蓋は固辞したので、民衆は豆崙母子を殺害し、遺体を那蓋に示した。こうして那蓋は可汗位を継ぎ、候其伏代庫者可汗と号した。太安13年(504年)9月、柔然の12万騎は六道より並進し、沃野鎮,懐朔鎮に至って、南の恒州,代郡を略奪しようとした。北魏の宣武帝は左僕射の源懐にこれを討たせ、柔然を遁走させた。太安15年(506年)、那蓋が死去すると、子の伏図が立って、他汗可汗と号し、称元して始平元年とした。10月、伏図は紇奚勿六跋を朝献の使者として北魏に派遣し、和親を結ぶことを願い出た。しかし、宣武帝は使者に回答をしなかった。始平3年(508年)9月、伏図は再び紇奚勿六跋を北魏に派遣して、一封の函書を奉じ、また貂の皮衣を献上させた。しかし、宣武帝は受け取らず、先年の説得を繰り返して帰国させた。この頃、伏図は高車王の弥俄突と蒲類海(バリコン湖)北で戦い、これを破る。しかし、北魏龍驤将軍の孟威がやってくることを知ると、伏図は怖れて遁走し、これに乗じて反撃してきた弥俄突に殺害された。柔然では伏図の子の醜奴が即位し、豆羅伏抜豆伐可汗と号した。建昌9年(516年)、醜奴は西の高車を征討してこれを大破し、高車王の弥俄突を捕らえて殺害した。柔然は反逆した者を全て併呑し、再び強盛となった。この頃柔然は初めて城郭を築き、木末城と命名した。8月、柔然は梁に遣使朝献した。建昌10年(517年)12月、柔然は再び俟斤の尉比建と紇奚勿六跋,鞏顧礼らを北魏に遣わして朝貢した。柔然はこの時、北魏と対等の礼で接したため、今まで同様北魏に相手にされないところであったが、北魏の朝儀で漢と匈奴の故事に依ったため、北魏から初めて返答が返ってきた。

阿那瓌の治世[編集]





梁・東魏・西魏
北魏の正光元年(520年)、醜奴がその母の候呂陵氏と大臣に殺されると、弟の阿那瓌が立って可汗となった(この時点では可汗号がない。また、阿那瓌から柔然の元号を立てなくなる)。阿那瓌が即位してから10日、族兄の俟力発(イルテベル:官名)の示発が数万の軍勢を率いて攻撃してきた。阿那瓌は戦ったが敗れ、弟の乙居伐を伴って軽騎で北魏に逃れて帰順した。まもなく阿那瓌の母である候呂陵氏と二人の弟は示発に殺害された。正光2年(521年)1月、阿那瓌ら54人が別辞を述べることを求めた。孝明帝は西堂に臨御すると、阿那瓌と叔父や兄弟5人を引見し、堂上に昇らせて座を賜い、中書舎人の穆弼に慰労の言葉を伝えさせた。孝明帝は侍中の崔光,黄門の元纂に詔を下し、城外で阿那瓌を激励して見送らせた。時に阿那瓌が出奔した後の柔然本国では、阿那瓌の従兄の俟力発の婆羅門が数万人を率いて示発を討伐し、これを破ったので、柔然人は婆羅門を推戴して可汗とし、弥偶可社句可汗(在位:521年 - 524年)と号していた。この時、安北将軍・懐朔鎮将の楊鈞は阿那瓌が復権することが難しいことを上表した。しかし孝明帝は聞き入れず。2月、孝明帝は柔然使者の牒云具仁を派遣して、婆羅門に阿那瓌を迎えて国を返すよう説得させた。しかし、婆羅門は傲慢で従わず、牒云具仁に礼敬を強要した。牒云具仁は節を持って屈服しなかった。そこで婆羅門は牒云具仁に莫何去汾・俟斤の丘升頭ら6人と2千の兵を付けて、阿那瓌を出迎えさせた。5月、牒云具仁は懐朔鎮に帰還し、柔然の情勢を報告した。阿那瓌は懼れて入国しようとせず、上表して洛陽への帰還を求めた。しかしこの時、婆羅門は高車に放逐され、十部落を率いて涼州に赴き、北魏に帰順・投降したので、阿那瓌は数万人の柔然人に迎えられ復権することができた。孝昌元年(525年)春、阿那瓌は軍を率いて破六韓抜陵を討伐した。孝明帝は詔を下して牒云具仁を派遣し、阿那瓌を慰労して届けさせた各種の品々を賜った。阿那瓌は詔命を拝受し、兵十万を指揮して武川鎮から西の沃野鎮に向かい、何度も破六韓抜陵軍と戦って勝利した。4月、孝明帝は再び通直散騎常侍・中書舎人の馮儁を阿那瓌への使者として派遣し、慰労の言葉を伝えて各々に下賜を行わせた。すでに阿那瓌の部落は平穏であり、兵馬は次第に大勢力となったので、阿那瓌は敕連頭兵豆伐可汗と号した。永煕3年(534年)12月、孝武帝が毒殺されると、北魏は東西に分裂し、翌年(535年)1月、東魏と西魏が成立した。東魏と西魏は柔然と婚姻関係を結び、以後頻繁に政略結婚が行われた。北斉の天保3年(552年)、阿那瓌は突厥に敗れて自殺した。太子の菴羅辰と阿那瓌の従弟の登注俟利、登注俟利の子の庫提は皆民衆を従えて北斉に亡命した。柔然の残党は登注俟利の次子の鉄伐を即位させて可汗とした。

柔然の終焉[編集]

天保4年(553年)、文宣帝は登注俟利と子の庫提を送って北方に帰還させた。まもなく鉄伐が契丹に殺害され、柔然の民衆は登注俟利を即位させて可汗とした。しかし、登注俟利も大人の阿富提に殺害され、また柔然の民衆は庫提を即位させて可汗とした。この年、再び突厥に攻撃され、全国民を伴って北斉に亡命した。それで文宣帝は北方の突厥を討伐し、柔然を迎え入れると、可汗庫提を廃位して、阿那瓌の子である菴羅辰を即位させて可汗とした。文宣帝は自ら朔方で突厥を追撃した。突厥が投降を願うと、これを許して帰還した。かくして柔然の貢献は絶えなくなった。天保5年(554年)3月、菴羅辰が反乱を起こすと、文宣帝が自ら討伐し、これを大破した。菴羅辰父子は北方に逃れた。4月、柔然が肆州に侵攻したので、文宣帝は晋陽から柔然を討伐に赴き、広州の黄堆に至ると、柔然軍は散り散りに逃げ去った。この時、主力軍が帰還した後、文宣帝麾下の千騎余りが柔然の別部の軍勢数万と遭遇し、四方から包囲・圧迫された。文宣帝は普段と変わらず平静で、戦闘を指揮した。柔然軍は薙ぎ倒され、ついに北斉軍は兵士を放って包囲を突破し、脱出した。柔然軍が撤退・逃走すると、これを追撃した。25里にわたって死体が連なり、菴羅辰の妻子と3万人余りの捕虜を獲得した。5月、再び文宣帝は柔然を討伐し、これを大破した。6月、柔然は部民を率いて東方に移動し、南方に侵攻しようとした。これに対し、文宣帝が軽騎兵を率いて金川下流で迎え撃とうとしたので、柔然は文宣帝の動きを聞いて遠方に逃れた。天保6年(555年)6月、再び文宣帝は自ら柔然を討伐した。7月、文宣帝は白道に駐屯し、輜重を留めると、自ら軽騎兵5千を率いて柔然を追撃した。自らも矢や投石に身を晒し、何度も柔然軍を大破した。沃野に至ると、多くの捕虜・戦利品を獲得して帰還した。この時、柔然は何度も突厥に敗れていたので、遂に部落の千家余りを率いて関中に亡命した。すでに突厥は軍勢の強大さを恃み、また西魏とも友好関係にあった。突厥の木汗可汗(在位:553年 - 572年)は柔然の残党が西魏や北斉を頼ることを怖れ、駅馬を乗り継がせて使者を派遣し、安心を得るために皆殺しにするよう求めた。西魏の宇文泰は論議してこれを許可し、柔然可汗以下、3千人余りを捕縛して、彼らを青門外で斬殺した。未成年者は免除して、全員を王公の家に分け与えた。

名称[編集]

『北史』などによると 「柔然」という民族名は、族長の車鹿会が「柔然(nyunyen:当時の推測音)」と号したことに始まったという。また、『晋書』では「蝚蠕(nyunyen)」、『魏書』,『北史』,『南』などでは「蠕蠕(nyennyen)」、『宋書』,『南斉書』,『 梁書』などでは「苪苪(nyuinyui)」、『周書』,『隋書』などでは「茹茹(nyunyu)」、西夏文字による『文海』では柔然の後裔部落が(dyudyu)と表記された。これらの原音は不明だが、一説では「abarga」(中世モンゴル語で蛇・蠕動)若しくはその変化形で、意訳されたのが「柔然」や「茹茹」等、音訳されたのが「Avars」や「阿拔」や「Apar」であるとしている。[1]

『魏書』,『北史』,『南史』などで「蠕蠕(じゅじゅ)」、『晋書』では「蝚蠕」と表記されるのは、「柔然」をさらに中国側で別の不好の文字をもって異字訳したものである[2]。「蠕蠕」,「蝚蠕」と虫に関する文字を用いているのは、彼らの氏族トーテムの関係と侮蔑的な意図から特に北朝の人々が用いたものであり、柔然人自身が自分たちを指す場合と、侮蔑的な意図がない場合は「茹茹」,「苪苪」と記されている[2]。

研究史[編集]

他にも過去にいくつかの仮説があった。
白鳥庫吉説…モンゴル語の「tsetsen(賢明)」であるとした。
藤田豊八説…モンゴル語の「jušun(法則・礼儀)」であるとした。
H.W.Haussing 説…「柔然」は自称ではなく、北魏人が彼らを外国人として、アルタイ語の「jojin(異国人)」と呼んだものの漢字音訳であるとした。
P.Boodberg 説…アルタイ語で、あるヨモギ科の植物を指す「javčan」であるとした。

ここで、Boodberg のヨモギ説について内田吟風は、『資治通鑑』巻八十一太康六年注引『何氏姓苑』において、「宇文氏は炎帝の出自であり、その後、草の効能を試したため、鮮卑語で草をいう『俟汾(しふん)』から、俟汾氏と名乗り、その後訛って『宇文氏』となった」とあり、『魏書』序紀では、「拓跋」の語源を「土を謂いて托となし、后を謂いて跋となし、故に氏となす」とあるように、族名が草や土から名づけられるケースがあり、柔然もこの類だとすれば、「茹茹」,「苪苪」と草に関する文字を用いているのにも説明がつくのではないかとした。

[3]

習俗[編集]

衣食住[編集]

夏は漠北で暮らし、冬になると漠南に移動し、また夏になると漠北に帰る。というように移動しながら狩猟・牧畜をして生活をしていた。中国のように城郭をもたず、氈張(穹盧)に住み、移動の際にはそれを折りたたみ、家財道具とともに轀車(おんしゃ:荷車、キャンピングカー)に載せて運搬する。入口は必ず太陽の昇る東側に向け、東面の座を上座とした。食物は酪(らく:乳製品)と肉を常食とし、穀物も食べていた。髪型は辮髪で、服装は錦・革製の短上衣、口の窄いズボン、深い靴、外套を身につけていた[4]。

政教[編集]

柔然の君主は可汗(カガン:Qaγan)といい、中国で言う皇帝にあたる。皇后にあたるのは可賀敦(カガトゥン:Qaγatun)という。可汗はたいてい国の大臣たちによって郁久閭氏の中から選出されて決まる。その際、死後に諡をつける中国とは異なり、即位後すぐにその性格などから可汗号をつける。可汗の下には後の突厥にも見られる俟斤(イルキン:Irkin),莫何去汾(ばくかきょふん),俟力発(イルテベル:Iltäbär),吐豆発(トゥドゥン:Tudun),俟利莫何(しりばくか)などの官職がある。

毎年秋には可汗以下王侯酋長が集い、敦煌,張掖の北にて国会を開催し、祭祀・議会を行った。彼らは天・鬼神・天上界の生活を信じ、シャーマンは医術呪術を行い、祈祷・斎潔を掌り、神・天上界との媒介をなし、風雪等の自然現象を左右し得るものと信じられた。このようにシャーマニズムを信奉する一方、この当時仏教も入ってきており、可汗のひとり、郁久閭婆羅門という名は仏教の影響(婆羅門)を受けているものと思われる[5]。また、他のアルタイ諸民族同様、柔然も狼をトーテム獣としており、柔然はそれを隠語として「虫」と呼んでいた[6]。

結婚[編集]

可汗位は、郁久閭氏の世襲で、その婚族には匈奴のように特定の一族がいたのかは不明であるが、突厥酋帥の土門が柔然可汗の阿那瓌に阿那瓌の娘と結婚することを申し出たのに対し、突厥が柔然の鍛鉄奴隷であったため断られた。というように結婚における氏族の尊卑が重視された。また、匈奴,烏桓,鮮卑同様、夫に先立たれた妻は、夫の兄弟の妻となる風習(レヴィレイト婚)があった[7]。

産業[編集]

彼らは狩猟・牧畜を生業としており、その産物である馬や貂皮などでもって中国と交易をした。穀物や綿、さらには漢方薬・書物を中国からの輸入に頼った[4]。 略奪や軍事行動の際には、鉄騎は反りの付いた長い馬上刀、馬上槍、鋼製の小札鎧、鋼鉄製の兜などで武装し、突撃馬にも金属製馬鎧や蹄鉄を施すなど、当時の東欧や西アジアには無い装備を身に付けていた。

民族・言語系統[編集]

『宋書』,『梁書』,『南史』などは匈奴の別種とし、『魏書』は東胡の末裔とし、『晋書』などは河西鮮卑としているが、白鳥,藤田の研究により[8]、柔然の言語と鮮卑(拓跋)など東胡系民族の言語が同種である点、同じく辮髪である点、生活様式が同じである点から東胡系で鮮卑や烏桓、特に史書の記述から河西に居た拓跋鮮卑と同族である可能性が高い[9]。近年の研究では鮮卑語(中国語版)をモンゴル語系とする見解が有力であり、柔然の言語もモンゴル語系である可能性が高い。

柔然=アヴァール説[編集]

初めて柔然=アヴァール説を唱えたのは、フランスのジョゼフ・ド・ギーニュ(英語版)であった。彼は7世紀の東ローマ帝国の歴史家テオフィラクト・シモカッタ(英語版)の記録と中国の史書を照らし合わせ、その共通点を見出した。
テオフィラクトの記録テュルク (Türk) に破られる前のアヴァールは全スキタイ(東方遊牧民)中の最強者であった。
アヴァールはテュルクに撃破されると、その一部が Taugas なる国と Mukri(ムクリ)に逃亡した。
アヴァールの君主号は「Gagan」または「Khaghan」という。
中国の史書柔然が突厥(テュルク)に撃破される以前は、北狄第一の強者であった。
柔然は突厥に破られると、その一部は西魏に逃亡した。
柔然の君主号は「可汗」という。

ドギーニュはこの3点から柔然=アヴァールと推定したのである。ちなみに、テオフィラクトの記録にある「Taugas(タウガス)」であるが、これは西魏の氏族名「拓跋」(たくはつ)にあたるとされた。

また、ドイツのヨーゼフ・マルクァルト (Josef Marquart) は、「Mukri」に逃亡したアヴァールについて、「Mukri」はメルキト部に比定し、五代の胡嶠『陥虜記』に「バイカル地区に嫗厥律なる種族がいた」という記述から、「嫗厥律 (Yüküelü) は、郁久閭 (Yukiulu) に間違いなく、メルキト部に柔然の一部が逃亡していた」とし、柔然=アヴァール説を一層深めた。

しかし、マルクァルトの説は妥当ではないと、フランスのシャヴァンヌ (Ed. Chavannes) は「Mukri」=「勿吉 (Muki)」とした。テオフィラクトの記録には、「Mukri は Taugas(拓跋王朝)に隣接する極めて勇武の民族」と記し、『北史』勿吉伝には、「勿吉国は高句麗の北にあり、東夷において最強である」と記していることから、勿吉がテュルクに対抗する一大勢力であり、テュルク(突厥)に敗れた柔然の一部が亡命することは極めてあり得るとした。さらにシャヴァンヌは、テオフィラクトの記録に「アヴァール民族中に住む Hermichion の王の Askel なる者が、563年に東ローマに使者をよこした」とあるが、この「Hermichion」を、真正アヴァール(柔然)が虫に関する蠕蠕と呼ばれたように、ペルシア人が偽アヴァールを Kerm(虫)の名で呼んだものであるとした。

これを裏付けるように Schaeder は、「アヴァール (Avars)」の語源はモンゴル語の「abarga(蛇、蛇動)」としている。

他にもアヴァールの君長 Anagaios は阿那瓌に比定できることや、「アヴァールの大使 Kandikh 一行がリボンをつけた長い辮髪を背に垂らしていた」「その汚れた辮髪」などという諸記録、『隋書』突厥伝李徹伝に「開皇五年(585年)、阿抜国が挙兵し、突厥の沙鉢略可汗の部落を荒涼したが、隋は援軍一万を出して沙鉢略を助けたので、阿抜軍が退去した」とあり、阿抜=アヴァールと比定できることなどがある。

以上のことから、アヴァールとは柔然の本来の民族名で、柔然とは民族名ではなくアヴァール人が建国した国名であるとし、555年にケ叔子の柔然は突厥に撃破され、その一部は西魏へ亡命した後、557年にはまた別の一部が勿吉に亡命し、西方では東ローマ帝国に亡命、585年の阿抜の乱において柔然の残党は滅んだと考えられる。

[10]

歴代君主[編集]

柔然部[編集]
族長木骨閭…始祖
郁久閭車鹿会…木骨閭の子。柔然と称す。
郁久閭吐奴傀…車鹿会の子
郁久閭跋提…吐奴傀の子
郁久閭地粟袁…跋提の子
東西に分裂1.郁久閭匹候跋…地粟袁の長子。東部柔然 郁久閭縕紇提…地粟袁の次子。西部柔然

2.郁久閭社崙…縕紇提の子

柔然可汗国[編集]
可汗1.丘豆伐可汗(社崙)(402年 - 410年)
2.藹苦蓋可汗(斛律)(410年 - 414年逐)…社崙の弟
3.郁久閭歩鹿真(414年殺)…社崙,斛律の長兄の子
4.牟汗紇升蓋可汗(大檀)(414年 - 429年)…社崙の叔父(僕渾)の子
5.敕連(勅連)可汗(呉提)(429年 - 444年)…大檀の子
6.処(処羅)可汗(吐賀真)(444年 - 450年)…呉提の子
7.受羅部真可汗(予成)(450年 - 485年)…吐賀真の子
8.伏古敦可汗(豆崙)(485年 - 492年殺)…予成の子
9.候其伏代庫者可汗(那蓋)(492年 - 506年)…豆崙の叔父
10.他汗可汗(伏図)(506年 - 508年殺)…那蓋の子
11.豆羅伏跋豆伐可汗(醜奴)(508年 - 520年殺)…伏図の子
12.敕連頭兵豆伐可汗(阿那瓌)(520年 - 552年自殺)…醜奴の弟 弥偶可社句可汗(婆羅門)(521年 - 524年)…阿那瓌の従父兄

13.郁久閭鉄伐(552年 - 553年殺)…登注の次子 郁久閭ケ叔子(552年 - 555年処刑)…阿那瓌の叔父

14.郁久閭登注(553年殺)…阿那瓌の従弟
15.郁久閭庫提(553年廃)…登注の子
16.郁久閭菴羅辰(553年 - 554年)…阿那瓌の子

元号[編集]
1.永康(464年 - 485年)
2.太平(485年 - 492年)
3.太安(492年 - 506年)
4.始平(506年 - 508年)
5.建昌(508年 - 520年)
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カガン

カガン( 古テュルク語:Old Turkic letter N1.svgOld Turkic letter G1.svgOld Turkic letter Q.svg[1] qaγan、漢語:可汗、可寒)は、古代北方遊牧騎馬民族で用いられた君主号の一つ。後に訛ってカアン(qa'an/qaγan)→ハーン(хаан/khaan)となった。



目次 [非表示]
1 意味
2 読み
3 起源
4 カガン(可汗)号を使用した王朝・民族
5 歴代可汗列表 5.1 柔然可汗国
5.2 突厥可汗国
5.3 東突厥可汗国
5.4 西突厥可汗国
5.5 ハザール・カガン国
5.6 鉄勒
5.7 回鶻可汗国
5.8 甘州ウイグル王国
5.9 天山ウイグル王国
5.10 黠戛斯可汗国
5.11 契丹

6 脚注
7 参考資料
8 関連項目


意味[編集]

『魏書』列伝第九十一(蠕蠕伝)において、丘豆伐可汗の意味を「“丘豆伐”猶魏言駕馭開張也,“可汗”猶魏言皇帝也。」と説明していることから、可汗とは中国で言う皇帝の意味であることがわかる。また、『北史』列伝第八十七(突厥伝)に「土門遂自號伊利可汗,猶古之單于也;號其妻為可賀敦,亦猶古之閼氏也。」、『旧唐書』列伝第一百四十四上(突厥伝上)に「可汗者,猶古之單于,妻號可賀敦,猶古之閼氏也。」、『新唐書』列伝一百四十上(突厥上)に「至吐門,遂彊大,更號可汗,猶單于也,妻曰可敦。」とあるように、可汗とは匈奴で言う単于にあたるとしている。

[2]

読み[編集]

古代テュルク語/突厥文字で刻まれた突厥碑文や回鶻碑文、イェニセイ碑文などに「Old Turkic letter N1.svgOld Turkic letter G1.svgOld Turkic letter Q.svg[3] Q.G.N」とあるため、漢籍に記される「可汗」は「カガン(qaġan/qaγan)」と発音することがわかる。また、7世紀の東ローマ帝国の歴史家テオフィラクト・シモカッタの記述でも、アヴァールの君主号を「Gagan」または「Khaghan」と記しているため、それがわかる。

起源[編集]

『通典』辺防典巻一百九十六(北狄三)に「於是自號丘豆伐可汗。可汗之號始於此。」とあることから、可汗号を採用したのは柔然の丘豆伐可汗(社崙)が最初であるように思われるが、『資治通鑑』巻七十七の「至可汗毛,始強大,統國三十六,大姓九十九。後五世至可汗推寅,南遷大澤。又七世至可汗鄰,使其兄弟七人及族人乙旃氏、車惃氏分統部眾為十族。」という記述、『宋書』列伝第五十六(吐谷渾伝)の「樓喜拜曰“處可寒”。虜言“處可寒”,宋言“爾官家”也。」という記述、『晋書』列伝第六十七(四夷伝)の「樹洛干…號為戊寅可汗,沙漒雜種莫不歸附。」という記述、『北史』列伝第八十四の「乃跪曰“可汗,此非復人事”」「伏連籌死,子夸呂立,始自號為可汗。」という記述、『晋書』載記二十五の「乞伏國仁,…推為統主,號之曰乞伏可汗託鐸莫何。」という記述などから、丘豆伐可汗より以前から可汗号を使用していた形跡がみられる。これに対して白鳥庫吉は、「後世の追書と断ずるの外はない。」とし、『通典』の記述のみを支持した[4]。しかし、内田吟風のように、可汗号が丘豆伐可汗以前からあったと支持する研究者もいる[5]。また、太平真君4年(443年)に、北魏の太武帝が鮮卑拓跋部の故地(今日の内蒙古自治区オロチョン自治旗に位置する大興安嶺山脈山中の森林地帯)にある嘎仙洞に、祖先を祀る漢文の祝文を刻ませたものが1980年になって発見され、そこには「皇祖先可寒を配し皇妣先可敦を配す」と末尾部分に記されていたため、これを北魏が皇帝号採用以前に可寒、可敦の君主号を使用していた傍証と考える研究者もいる[6]。

[7][8][9]

カガン(可汗)号を使用した王朝・民族[編集]
鮮卑 拓跋部
乞伏部
吐谷渾

柔然
アヴァール
突厥 東突厥
西突厥
突騎施

ハザール
鉄勒
回鶻 甘州ウイグル王国
天山ウイグル王国

イェニセイ・キルギズ
契丹

歴代可汗列表[編集]

柔然可汗国[編集]
1.丘豆伐可汗(社崙)(402年 - 410年)
2.藹苦蓋可汗(斛律)(410年 - 414年逐)…社崙の弟
3.郁久閭歩鹿真(414年殺)…社崙,斛律の長兄の子
4.牟汗紇升蓋可汗(大檀)(414年 - 429年)…社崙の叔父(僕渾)の子
5.敕連(勅連)可汗(呉提)(429年 - 444年)…大檀の子
6.処(処羅)可汗(吐賀真)(444年 - 450年)…呉提の子
7.受羅部真可汗(予成)(450年 - 485年)…吐賀真の子
8.伏古敦可汗(豆崙)(485年 - 492年殺)…予成の子
9.候其伏代庫者可汗(那蓋)(492年 - 506年)…豆崙の叔父
10.他汗可汗(伏図)(506年 - 508年殺)…那蓋の子
11.豆羅伏跋豆伐可汗(醜奴)(508年 - 520年殺)…伏図の子
12.敕連頭兵豆伐可汗(阿那瓌)(520年 - 552年自殺)…醜奴の弟 弥偶可社句可汗(婆羅門)(521年 - 524年)…阿那瓌の従父兄

13.郁久閭鉄伐(552年 - 553年殺)…登注の次子 郁久閭ケ叔子(552年 - 555年処刑)…阿那瓌の叔父

14.郁久閭登注(553年殺)…阿那瓌の従弟
15.郁久閭庫提(553年廃)…登注の子
16.郁久閭菴羅辰(553年 - 554年)…阿那瓌の子

突厥可汗国[編集]
大可汗1.伊利可汗(イリグカガン、土門、ブミンカガン)(552年 - 553年)…柔然から独立し突厥可汗国を開く。
2.乙息記可汗(科羅、逸可汗) (553年)…伊利可汗の子(『隋書』では弟)
3.木杆可汗(ムカンカガン、俟斤、燕都)(553年 - 572年)…乙息記可汗の弟。柔然を滅ぼし、中央アジアのエフタルを攻略して最盛期を築く。
4.佗鉢可汗(タトパルカガン)(572年 - 581年)…木杆可汗の弟
5.阿史那菴羅(581年)…佗鉢可汗の子
6.沙鉢略可汗(イシュバラカガン、摂図)(581年 - 587年)…乙息記可汗の子 阿波可汗(大邏便)(581年 - 587年)…木杆可汗の子

7.葉護可汗(ヤブグカガン、処羅侯)(587年)…摂図の弟
8.頡伽施多那都藍可汗(雍虞閭)(587年 - 599年)…摂図の子
西面可汗1.室點密可汗(室点蜜、瑟帝米、イステミ、シルジブロス、ディザブロス)(562年 - 576年)…大葉護の子、伊利可汗の弟
2.達頭可汗(玷厥、歩迦可汗、タルドゥカガン)(576年 - 603年)…室点蜜の子

東突厥可汗国[編集]
突厥第一可汗国1.啓民可汗(染干、センガン)(587年 - 609年)…沙鉢略可汗の子、都藍可汗の弟。
2.始畢可汗(咄吉世)(609年 - 619年)…啓民可汗の長男、隋に攻め入り朝貢を停止する。
3.処羅可汗(俟利弗設)(619年 - 620年)…啓民可汗の次男
4.頡利可汗(イリグカガン、咄苾)(620年 - 630年)…啓民可汗の三男、唐に降伏し、東突厥は一時滅ぶ。 突利可汗(トリシュカガン、什鉢苾)(620年 - 631年)…始畢可汗の子

羈縻(きび)政策下乙彌泥孰俟利苾可汗(思摩)(639年 - 644年)…頡利可汗の族人
乙注車鼻可汗(斛勃)(? - 650年)…突厥別部
阿史那泥孰匐(679年 - 680年)
阿史那伏念(680年 - 681年)…頡利可汗の従兄の子
突厥第二可汗国1.阿史那骨咄禄(クトゥルグ、イルティリシュカガン)(682年 - 690年頃)…頡利可汗の疏属、唐から独立して東突厥を再興させる。
2.阿史那默啜(カプガンカガン)(690年頃 - 716年殺)…骨咄禄の弟
3.毗伽可汗(ビルゲカガン、默棘連)(716年 - 734年殺)…骨咄禄の子
4.伊然可汗(イネルカガン)(734年)…毗伽可汗の子
5.登利可汗(テングリカガン)(734年 - 741年殺)…伊然可汗の弟
6.骨咄葉護(クトゥヤブグ)(741年 - 742年殺) 頡跌伊施可汗(イルティリシュカガン)(742年 - 744年殺)…拔悉蜜部の長

7.烏蘇米施可汗(オズミシュカガン)(742年頃 - 744年殺)…判闕特勒の子
8.白眉可汗(鶻隴匐)(744年 - 745年殺)…烏蘇米施可汗の弟

(745年、ウイグルによって東突厥滅ぶ)

西突厥可汗国[編集]
1.阿波可汗(大邏便、アパカガン)(581年 - 587年)…木杆可汗の子
2.泥利可汗(ニリカガン)(587年) …鞅素特勤の子、木杆可汗の孫
3.泥撅処羅可汗(達漫、曷娑那可汗)(587年 - 611年)…泥利可汗の子
4.射匱可汗 (612年頃 - 619年)…達頭可汗の孫、泥撅処羅可汗の叔父
5.統葉護可汗 (トンヤブグカガン)(619年 - 628年)…射匱可汗の弟
6.莫賀咄侯屈利俟毗可汗 (628年 - 630年)…統葉護可汗の伯父
7.肆葉護可汗(咥力特勤)(628年 - 632年)…統葉護可汗の子
8.咄陸可汗(泥孰莫賀設、大渡可汗、奚利苾、テュルクカガン)(632年 - 634年)…族人により擁立される
9.沙鉢羅咥利失可汗(同娥設、イシュバラティリシュカガン)(634年 - 639年)…咄陸可汗の弟 乙毗咄陸可汗(欲谷設、イビルテュルクカガン)(638年 - 653年)

10.乙屈利失乙毗可汗(莫賀咄乙毗可汗)(639年 - 640年)…沙鉢羅咥利失可汗の子
11.乙毗沙鉢羅葉護可汗(薄布特勤、畢賀咄葉護、イビルイシュバラヤブグカガン)(640年 - 641年)…咥利失可汗の弟(伽那設)の子
12.乙毗射匱可汗(641年 - 651年)…莫賀咄乙毗可汗の子
13.沙鉢羅可汗(阿史那賀魯、イシュバラカガン)(651年 - 657年)…曳歩利設射匱特勤の子
羈縻(きび)政策下
弥射家 
1.興昔亡可汗(阿史那弥射)(657年 - 662年)…室點密可汗の五代の孫
2.興昔亡可汗(阿史那元慶)(685年 - 692年・693年)…弥射の子、左豹韜
3.阿史那献(657年 - 662年)…元慶の子

歩真家 
1.継往絶可汗(阿史那歩真)(657年 - 666年・667年)…弥射の族兄
2.継往絶可汗(阿史那斛瑟羅、唐に従属後は竭忠事主可汗)(686年 - 690年)…歩真の子
3.十姓可汗(阿史那懐道)(704年 - ?)…斛瑟羅の子
4.十姓可汗(阿史那マ)(740年 - 742年)…懐道の子(阿史那氏断絶)
突騎施の可汗1.娑葛(金河郡王、十四姓可汗、帰化可汗)(706年 - 709年、可汗位:708年 - 709年)…烏質勒の子
2.蘇禄(忠順可汗)(709年 - 738年、可汗位:716年 - 738年)…娑葛の配下 吐火仙可汗(骨啜)(可汗位:738年 - 739年)…蘇禄の子
爾微特勒(可汗位:738年 - 739年)…黒姓可汗

3.莫賀達干(738年 - 744年、可汗位:740年 - 744年)
4.伊里底蜜施骨咄録毘伽(十姓可汗)(突騎施可汗:742年 - ?、十姓可汗:744年 - ?)…黒姓出身
5.移撥(十姓可汗)(可汗位:749年 - ?)
6.登里伊羅蜜施(可汗位:753年 - ?)…黒姓可汗
7.阿多裴羅(可汗位:? - ?)…黒姓可汗

ハザール・カガン国[編集]
ブラン・カガン
ヨシフ・カガン

鉄勒[編集]
1.易勿真莫何可汗(契弊歌楞、契苾哥楞)(605年 – 612年頃)…契弊部の俟利発・俟斤 小可汗乙失鉢(也咥)(605年 – 612年頃)…薛延陀部内の俟斤の子

2.真珠毗伽可汗(夷男)(628年 – 645年)…乙失鉢の孫
3.突利失可汗(645年殺)…夷男の子
4.頡利俱利薛沙多弥可汗(拔灼)(645年殺)…夷男の末子
5.伊特勿失可汗(咄摩支)(646年)…夷男の兄の子

回鶻可汗国[編集]
1.懐仁可汗(骨力裴羅)(744年 - 747年)
2.英武威遠可汗(葛勒可汗)(747年 - 759年)
3.英義建功可汗(牟羽可汗)(759年 - 779年)
4.武義成功可汗(長寿天親可汗)(779年 - 789年)
5.忠貞可汗(789年 - 790年)
6.奉誠可汗(790年 - 795年)
7.懐信可汗(795年 - 805年)
8.滕里野合倶録毘伽可汗(805年 - 808年)
9.保義可汗(808年 - 821年)
10.崇徳可汗(821年 - 824年)
11.昭礼可汗(824年 - 832年)
12.彰信可汗(832年 - 839年)
13.㕎馺可汗(839年 - 840年)
14.烏介可汗(841年 - 846年)
15.遏捻可汗(846年 - 848年)

甘州ウイグル王国[編集]
権知可汗、甘沙州回鶻可汗、可汗王1.英義可汗(仁美)(? - 924年)
2.烏母主可汗(狄銀、テギン)(924年 - 926年)…仁美の弟
3.阿咄欲(926年 - 939年)
4.順化可汗(仁裕、奉化可汗)(926年 - 959年)…仁美の弟
5.景瓊(959年 - ?)…仁裕の子
6.夜落紇密礼遏(? - ?)
7.禄勝(? - ?)
8.夜落紇(夜落隔、忠順保徳可汗王)(? - 1016年)
9.夜落隔帰化(1016年 - ?)
10.夜落隔通順(帰忠保順可汗王)(? - ?)

天山ウイグル王国[編集]
1.ウルグ・テングリデ・クトゥ・ボルミシュ・アルプ・キュリュグ・ビルゲ・懐建・カガン(龐特勤)(? - 856年 - ?)
2.トルテュンチュ・イル・ビルゲ・テングリ・イリグ(? - 954年 - ?)
3.トルテュンチュ・アルスラン・ビルゲ・テングリ・イリグ・シュンギュリュグ・カガン(? - 983年 - ?)
4.ボギュ・ビルゲ・テングリ・イリグ(996年 - ?)
5.キュン・アイ・テングリテグ・キュセンチグ・コルトゥレ・ヤルク・テングリ・ボギュ・テングリ・ケニミズ(1007年 - ?)
6.キュン・アイ・テングリデ・クトゥ・ボルミシュ・ウルグ・クトゥ・オルナンミシュ・アルピン・エルデミン・イル・トゥトゥミシュ・アルプ・アルスラン・クトゥルグ・キョル・ビルゲ・テングリ・ハン(? - 1019年 - ?)
7.キュン・アイ・テングリレルテ・クトゥ・ボルミシュ・ブヤン・オルナンミシュ・アルピン・エルデミン・イル・トゥトゥミシュ・ウチュンチ・アルスラン・ビルゲ・ハン(? - ?)
8.テングリ・ボギュ・イル・ビルゲ・アルスラン・テングリ・ウイグル・テルケニミズ(? - 1067年 - ?)

黠戛斯可汗国[編集]
宗英雄武誠明可汗(英武誠明可汗)

契丹[編集]
李盡忠(? - ?)…窟哥の子孫。唐の右武衛大将軍兼松漠都督。無上可汗を自称。
屈烈(730年 - 734年)→李過折(735年)…洼可汗。契丹衙官。北平郡王,特進,検校松漠州都督となる。
李懐秀(736年 - 745年)…阻午可汗。契丹大酋。松漠都督,崇順王となる。
楷落(746年 - 788年頃)…胡刺可汗。
屈戍(? -842年- ?)…耶瀾可汗。雲麾将軍,守右武衛将軍員外置同正員となる。
習爾(? -860年-873年- ?)…巴刺可汗。契丹王。
欽徳→沁丹(882年頃 - 906年)…痕徳菫可汗。習爾の族人。
耶律阿保機

脚注[編集]
1.^ 右から読む。
2.^ 『魏書』、『北史』、『旧唐書』、『新唐書』
3.^ 右から読む。
4.^ 白鳥庫吉「可汗及可敦称号考」東洋学報十一
5.^ 内田吟風「柔然族に関する研究」
6.^ 梅村坦「草原とオアシスの世界」『岩波講座 世界歴史9 中華の分裂と再生』、岩波書店、1999年。ここで梅村は、本来は部族内部の長を意味した可寒号が道武帝拓跋珪の皇帝即位によって最高君主の称号として権威付けられ、彼によって北方に追われた社崙が北魏との対抗上意識的に可汗号を採用したとしている。
7.^ 『通典』、『資治通鑑』、『宋書』、『晋書』、『北史』
8.^ 白鳥 1970,p141-148
9.^ 内田 1975,p284-292

参考資料[編集]
『宋書』
『晋書』
『魏書』
『北史』
『旧唐書』
『新唐書』
『通典』
『資治通鑑』
白鳥庫吉「可汗及可敦称号考」『白鳥庫吉全集 第五巻 塞外民族史研究下』(岩波書店、1970年)
内田吟風『北アジア史研究 鮮卑柔然突厥篇』(同朋舎出版、1975年、ISBN 4810406261)

エフタル

エフタル(英語:Hephthalite、パシュトー語:هپتالیان)は、5世紀〜6世紀にかけて中央アジアに存在した遊牧国家。名称は史料によって異なり、インドではフーナ(Hūna),シュヴェータ・フーナ (白いフン)、サーサーン朝ではスペード・フヨーン(白いフン),ヘテル(Hetel),ヘプタル(Heptal)、東ローマ帝国ではエフタリテス(Ephtalites)、アラブではハイタール(Haital)、アルメニアではヘプタル(Hephtal),イダル(Idal),テダル(Thedal)と呼ばれ[1]、中国史書では嚈噠[2](えだつ、Yàndā),囐噠(さつだつ、Zádā)[3],挹怛(ゆうたつ、Yìdá)[4],挹闐(ようてん、Yìtián)[5]などと表記される。また、「白いフン」に対応する白匈奴の名でも表記される。



目次 [非表示]
1 概要
2 名称
3 歴史 3.1 起源
3.2 中央アジア・インドを支配
3.3 衰退と滅亡

4 習俗
5 政治体制
6 言語系統
7 フィクションにおけるエフタル
8 脚注
9 参考資料
10 関連項目


概要[編集]

5世紀中頃に現在のアフガニスタン東北部に勃興し、周辺のクシャーナ朝後継勢力(キダーラ朝(英語版))を滅ぼしてトハリスタン(バクトリア)、ガンダーラを支配下に置いた。これによりサーサーン朝と境を接するようになるが、その王位継承争いに介入してサーサーン朝より歳幣を要求するほどに至り、484年には逆襲をはかって侵攻してきたサーサーン朝軍を撃退するなど数度に渡って大規模な干戈を交えた。さらにインドへと侵入してグプタ朝を脅かし、その衰亡の原因をつくった。





エフタルの最大版図




5世紀、エフタルと周辺国。Khanate of the Juan-Juan=柔然、Yuehban=悦般、Hepthalite Khanate=エフタル、Sassanid Persian Empire=サーサーン朝
6世紀の前半には中央アジアの大部分を制覇する大帝国へと発展し、東はタリム盆地のホータンまで影響力を及ぼし、北ではテュルク系の鉄勒と境を接し、南はインド亜大陸北西部に至るまで支配下においた。これにより内陸アジアの東西交易路を抑えたエフタルは大いに繁栄し、最盛期を迎えた。

しかしその後6世紀の中頃に入ると、鉄勒諸部族を統合して中央アジアの草原地帯に勢力を広げた突厥の力が強大となって脅かされ、558年に突厥とサーサーン朝に挟撃されて10年後に滅ぼされた。エフタルの支配地域は、最初はアム川を境に突厥とサーサーン朝の間で分割されたが、やがて全域が突厥のものとなり、突厥は中央ユーラシアをおおいつくす大帝国に発展した。

名称[編集]

『新唐書』西域伝下において、「もともと嚈噠(えだつ)とは王姓であり、嚈噠の後裔がその姓をもって国名としたため、のちに訛って挹怛(ゆうたつ)となった」とあり[6]、エフタルの語源はその王姓が元となったという。

また、インド(グプタ朝)やペルシア(サーサーン朝)ではシュヴェータ・フーナ、スペード・フヨーンなど、“赤いフンや白いフン”を意味する呼び名で呼んでいた。

歴史[編集]

起源[編集]

エフタルの起源は東西の史料で少々異なり、中国史書では「金山(アルタイ山脈)から南下してきた」とし、西方史料の初見はトハリスタン征服であり「バダクシャン(パミール高原とヒンドゥークシュ山脈の間)にいた遊牧民」としている。 [7]

中央アジア・インドを支配[編集]

410年からトハリスタン、続いてガンダーラに侵入(彼らはインド・エフタル(英語版)として知られるようになる。)。

425年、エフタルはサーサーン朝に侵入するが、バハラーム5世(英語版)(在位:420年 - 438年)により迎撃され、オクサス川の北に遁走した。

エフタル[8]はクマーラグプタ1世(英語版)(在位:415年頃 - 455年)のグプタ朝に侵入し、一時その国を衰退させた。また、次のスカンダグプタ(英語版)の治世(435年 - 467年もしくは455年 - 456年/457年)にも侵入したが、スカンダグプタに防がれた。

サーサーン朝のペーローズ1世(英語版)(在位:459年 - 484年)はエフタルの支持を得て王位につき、その代償としてエフタルの国境を侵さないことをエフタル王のアフシュワル(アフシュワン)に約束したが、その後にペーローズ1世は約束を破ってトハリスタンを占領した。アフシュワルはペーローズ1世と戦って勝利し、有利な講和条約を結ばせ、ホラーサーン地方を占領した。484年、アフシュワルはふたたび攻めてきたサーサーン朝と戦い、この戦闘でペーローズ1世を戦死させる。[9]

エフタルは高車に侵攻し、高車王の阿伏至羅の弟である窮奇を殺し、その子の弥俄突らを捕える。

508年4月、エフタルがふたたび高車に侵攻したので、高車の国人たちは弥俄突を推戴しようと、高車王の跋利延を殺し、弥俄突を迎えて即位させた。

516年、高車王の弥俄突が柔然可汗の醜奴(在位:508年 - 520年)に敗北して殺されたため、高車の部衆がエフタルに亡命してきた。

ガンダーラ・北インドを支配したエフタルでは、その王ミヒラクラ(英語版)(Mihirakula、在位512年 - 528年頃)の代に、大規模な仏教弾圧が行なわれた[10]。(インドにおける仏教の弾圧#ミヒラクラ王の破仏参照)

520年、北魏の官吏である宋雲と沙門の恵生は、インドへ入る前にバダフシャン(英語版)付近でエフタル王に謁見した[11]。

523年、柔然可汗の婆羅門は姉3人をエフタル王に娶らせようと、北魏に対して謀反を起こし、エフタルに投降しようとしたが、北魏の州軍によって捕えられ、洛陽へ送還された。

北魏の太安年間(455年 - 459年)からエフタルは北魏に遣使を送って朝貢するようになり、正光(520年 - 525年)の末にも師子を貢納し、永熙年間(532年 - 534年)までそれが続けられた。

533年頃、マールワー王ヤショーダルマン(英語版)がエフタル王ミヒラクラを破る。ミヒラクラはカシミールに逃亡した。

546年と552年に、エフタルは西魏に遣使を送ってその方物を献上した。

衰退と滅亡[編集]

558年、エフタルは北周に遣使を送って朝献した。この年、突厥の西方を治める室点蜜(イステミ)がサーサーン朝のホスロー1世(在位:531年 - 579年)と協同でエフタルに攻撃を仕掛け(ブハラの戦い(英語版))、徹底的な打撃を与えた。これによってエフタルはシャシュ(石国)、フェルガナ(破洛那国)、サマルカンド(康国)、キシュ(史国)を突厥に奪われてしまう。

567年頃までに室点蜜はエフタルを滅ぼし、残りのブハラ(安国)、ウラチューブ(曹国)、マイマルグ(米国)、クーシャーニイク(何国)、カリズム(火尋国)、ベティク(戊地国)を占領した。

隋の大業年間(605年 - 618年)にエフタルは中国に遣使を送って方物を貢納した。

エフタル国家の滅亡後も、エフタルと呼ばれる人々が存続し、588年の第一次ペルソ・テュルク戦争(英語版)や619年の第二次ペルソ・テュルク戦争(英語版)に参戦していたが、8世紀ごろまでに他民族に飲み込まれて消滅した[12]。

習俗[編集]





インド=エフタル ナプキ・マルカ(Napki Malka)王(アフガニスタン/ガンダーラ、c.475-576)の貨幣用合金ドラクマ。
中国の史書によると、刑法・風俗は、突厥とだいたい同じで遊牧生活だが、婚姻において兄弟共通でひとりの妻を娶り、もし夫に兄弟がいなければ、その妻は一つの角帽をかぶり、夫に兄弟がいれば、その人数に応じて角帽が増えるという。また、エフタル人の髪は切り揃えられ、首飾り(纓絡:ようらく)をしていたという。

プロコピオスの『戦史』では、フンの一派であるが遊牧民ではなく、生活様式も同族のものとは似ていない、としている。

政治体制[編集]

王都は拔底延城といい、中国史書では「おそらく王舎城」としている。その都城の直径は十数里あり、多くの寺塔があり、金で装飾されている。王位は必ずしも子に継承しない。統治機構は他の遊牧国家と同様、支配者層である遊牧民のエフタルが被支配者層である遊牧民や農耕民族から税を徴収していたものと思われる。

言語系統[編集]

中国史書では「大月氏の同種もしくは高車(テュルク系)の別種[13]で、習俗は吐火羅と同じくする[14]」と記し、また「元々の出自を車師または高車または大月氏の同種」とも記す、加えて「言語は蠕蠕(東胡系)、高車及び諸胡(テュルク系、東胡系、チベット系)と異なる」と記しており[15]、研究者の見解も様々ある。
イラン系説…榎一雄は「トハリスタンのある地方から出たイラン系の民族ではないか」としており、R・ギルシュマンもエフタルコインを分析して「その言語は東イラン語(英語版)ではないか」としている。
テュルク系説…ヴィレム・フォーヘルサングは「エフタルは本来アルタイ語を話す民族であるが、少なくとも上流階級は占領地のバクトリア語を使用したのではないか」としている[16]。

フィクションにおけるエフタル[編集]

日本のアニメーター宮崎駿の作品「風の谷のナウシカ」に登場する「古エフタル王国」はエフタルのこと、またはそれをモデルにしているといわれる[17]。なお同作品における「トルメキア第四皇女クシャナ」はインド北部に生まれたクシャーナ朝との関連が指摘されている[18]

脚注[編集]

1.^ 『民族の世界史4 中央ユーラシアの世界』p87
2.^ 『魏書』、『北史』、『新唐書』(嚈は口偏に厭、噠は口偏に達)
3.^ 『周書』
4.^ 『隋書』、『新唐書』
5.^ 『新唐書』
6.^ 『新唐書』列伝第一百四十六下 西域下「嚈噠,王姓也,後裔以姓為國,訛為挹怛,亦曰挹闐。」
7.^ 岩村 2007,p118
8.^ インドの史料では「フーナ Template:(Unicode」と記されている。
9.^ B・ガフーロフ(Bobojon.G.Gafurov)『タジク人(Tadzhiki)』(モスクワ、1972年)
10.^ 『洛陽伽藍記』
11.^ 『宋雲行記』
12.^ 岩村忍は『文明の十字路=中央アジアの歴史』において現在バダクシャンからクンドゥーズにかけて住んでいるヤフタリという種族がエフタルの子孫であるとしている。
13.^ 魏書列伝90、新唐書列伝146下など
14.^ 通典辺防9
15.^ 魏書列伝九十、通典辺防9
16.^ ヴィレム・フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史と文化』
17.^ 叶精二『宮崎駿全書』フィルムアート社、2006年、46頁
18.^ 叶(2006)同書。

参考資料[編集]
『魏書』(列伝第九十 西域、列伝第九十一)
『周書』(列伝第四十二 異域下)
『隋書』(列伝第四十八 西域、列伝第四十九 北狄)
『北史』(列伝第八十五 西域)
『旧唐書』(列伝第百四十四下)
『新唐書』(列伝百四十上 西突厥、列伝第一百四十六下 西域伝下)
内田吟風『北アジア史研究 鮮卑柔然突厥篇』(1975年、同朋舎出版)
護雅夫・岡田英弘『民族の世界史4 中央ユーラシアの世界』(1996年、山川出版社、ISBN 4634440407)
岩村忍『文明の十字路=中央アジアの歴史』(2007年、講談社)
ヴィレム・フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史と文化』(2005年、明石書店、ISBN 4750320706)

アヴァール人 (カフカース)

アヴァール人(Avars)はカフカース山脈に住む民族である。北東カフカス語族の言語アヴァール語を話す。宗教はスンニ派イスラム教。大部分はロシア連邦ダゲスタン共和国の山間部に、一部は平野部に住んでいる。またチェチェン共和国、カルムィク共和国などロシア連邦内のほか、アゼルバイジャン、グルジア、トルコにも住む。人口(2002年)は約104万人、うちロシア連邦に81万5千人、ダゲスタンに75万人以上が住んでいる。

名称[編集]

「アヴァール人」(Avars)は、6世紀に中央アジアから東ヨーロッパに侵入した遊牧民族のアヴァール人と同じ名前であるが、これら二つの民族の関係はわかっていない。「アヴァール人」についての最初の記録は、東ローマ帝国のプリスクスが463年に書いたもので、東方の民族がアヴァール人の侵入を訴えたというものであるが、これもカフカースの民族かどうかわからない。東ヨーロッパに来たアヴァール人はテュルク系またはモンゴル系といわれるので、現代カフカースのアヴァール人とは民族系統が異なる。

なおアヴァール人が中央アジアから東ヨーロッパに入った頃、突厥が東ヨーロッパのそれを「偽アヴァール」、中央アジアに残ったそれを「真アヴァール」と呼んで区別しているが、これと関係あるかもしれない。

歴史[編集]

5世紀カフカースに建国されたキリスト教の国サリル(英語版)(5世紀-12世紀)が現代アヴァール人の先祖によるものと伝えられる(サーサーン朝ペルシアにより創設されたともいう)。7世紀のハザールとイスラム帝国との戦いではハザール側についたが、9世紀にはグルジアなど近隣のキリスト教国と結びハザールと争った。現在でも10世紀の教会遺跡が残っている。

12世紀初頭にサリルは滅び、13世紀にはイスラームを奉ずるアヴァール・ハン国(英語版)が成立し、北に成立したキプチャク・ハン国と同盟して栄えた。

19世紀までアヴァール・ハン国は続いたが、ロシア帝国の南下政策に基づくコーカサス戦争では、反発したアヴァール人や北カフカースの人々はロシアに対して抵抗を開始した。イスラム神秘主義のナクシュバンディー教団は、イマーム国(英語版)を組織し、シャミールらを中心としてダゲスタン・チェチェンを占領したが、1859年にはロシア帝国に投降した。アヴァール人の一部はトルコへ逃れ、人口は減ったが、その後もダゲスタンの主要民族であり続けた。第二次大戦後は山間部からカスピ海沿岸に移住する人が多くなった。

関連項目[編集]
チェチェン紛争 第一次チェチェン紛争
第二次チェチェン紛争 ダゲスタン侵攻 (1999年)(英語版)


ハジ・ムラート(英語版) レフ・トルストイ『ハジ・ムラート(英語版)』

アラン人

アラン人(アラン族、Alans)は、紀元後に北カフカスから黒海北岸地方を支配した遊牧騎馬民族。イラン系遊牧民族であるサルマタイを構成する部族のひとつ、ないしいくつかの総称[1]。アラニ(Alani),アラウニ(Alauni),ハラニ(Halani)ともいう。



目次 [非表示]
1 概要
2 歴史 2.1 起源

3 習俗 3.1 生活
3.2 軍事

4 脚注
5 参考資料
6 関連項目


概要[編集]





アランの西遷ルート。
紀元後1世紀後半、文献記録においてアオルシ(アオルソイ)の名が消え、それに代わってアランという名の遊牧民が登場するようになる。このアランをサルマタイの一部と考える研究者が多く、中国史書の『後漢書』西域伝「奄蔡国、改名して阿蘭聊国」や、『魏略』西戎伝「奄蔡国、一名を阿蘭という」といった記述から、「奄蔡」をアオルシに、「阿蘭」をアランに比定することがある。考古学的には、黒海北岸における2世紀から4世紀の「後期サルマタイ文化」を、アランの文化と見なす見方もある。[2]

アランは紀元後にカスピ海沿岸から北カフカスを経て、黒海北岸のドン川流域に至る広大な地域を支配した。しかし、4世紀の半ばになって東の中央アジア方面から侵攻してきたフンの襲撃に遭い、潰滅的打撃を受け、フンの一部となって西の東西ゴート族侵攻に加わった。これが民族大移動の引き金となる。[3]

その後、アランの一部はパンノニアを経て民族移動期にドナウ川流域から北イタリアに侵入し、一部はガリアに入植した。さらにその一部はバルバロイを統治するためにローマ人によってブリテン島へ派遣された。また、他の一部はイベリア半島を通過して北アフリカにまで到達した[1]。

歴史[編集]

起源[編集]

4世紀後半のローマの歴史家であるアンミアヌス・マルケリヌスは「アランは以前マッサゲタエと呼ばれていた」と記す。また、18世紀フランスの歴史家ジョセフ・ドギーニュは「アランはもとトランスオクシアナの北方に住んでいたが、紀元前40年頃から西方に移転し始めた」と説いた。

[icon] この節の加筆が望まれています。

習俗[編集]

生活[編集]

4世紀後半のローマの軍人である歴史家アンミアヌス・マルケリヌスはアランの習俗について以下のように記している。



彼らは家を持たず、すきを使おうともせず、荷車に乗ったまま、肉と豊富な乳とを常食とする。そして、無限の砂漠を荷車で通り抜け、任意の牧草地に到着すると、円の中に荷車を設置し、荷車の中で動物の群のように生活する。いわば荷車は生活物資を備えた彼らの町なのである。その荷車の中で夫は妻と寝て、子どもたちは生まれて育てられる。この荷車は要するに彼らの永続する住居であり、荷車が設置できるところならどこでも設置できる。

− アンミアヌス・マルケリヌス『ローマの歴史』31巻-18

[4][5]

また、彼らの容貌についても以下のように記している。



ほぼすべてのアラニ人は背が高く美しい。彼らの髪は多少黄色で、彼らの目はひどく猛烈である。彼らの鎧は軽く、素早い動作ができる。

− アンミアヌス・マルケリヌス『ローマの歴史』31巻-21

[4]

軍事[編集]

アンミアヌス・マルケリヌスの記述によれば、アランは戦闘における最も壮麗な戦利品として、殺害した敵兵の頭皮を剥いで軍馬に飾るという。[4]

考古学の調査によれば、アランは他のサルマタイ部族同様、長槍・長剣・馬鎧がかなり普及し、重装騎兵のような様相であったと推測される[5]。

オセット人

オセット人(Осетин; Osetin)は、カフカース地方の山岳地帯に住む民族。主な居住地域はカフカース山脈をまたいで南北に広がり、ロシア連邦の北オセチア共和国と、グルジアの南オセチア自治州に分かれている。総人口はおよそ60万人。

独自の言語としてインド・ヨーロッパ語族のイラン語群に属するオセット語が使用されている。 主な宗教はキリスト教で70%以上が正教会の信徒であるが、イスラム教を信仰する者も15%ほどいる。

古代東ヨーロッパで活動した民族アラン人の後裔と考えられており、中世にはアス人と呼ばれていた。民族名のオセットは、アス人(As)をオウス(Ovs)と呼んでいたグルジア人が、アス人の居住地域を指してOvsetiと言っていたのがロシア語に取り入れられて広まった他称である。もっとも、自称としてはアスの名は失われ、オセット語による自称はイロン(Iron)あるいはディゴル(Digor)、ディゴロン(Digoron)である。

歴史[編集]

オセット人は長らく、スキタイ、サルマタイ、アラン人などの古代の黒海北岸一帯で活動したイラン系民族の後裔だとされており実際にイラン系言語を話すが、分子生物学の見地からはスキタイ人の(少なくとも父系の)末裔ではないことが明らかになった[1]。古代のスキタイの墓から出土する遺骨の遺伝子分析からスキタイ人の父系の末裔はスキタイと共通するハプロタイプR-M17を圧倒的な割合で持つスラヴ人であることが判明した一方、ハプロタイプG-L293が圧倒的なオセット人はスキタイの末裔ではあり得ない。しかしおそらく少なくともアラン人の末裔の可能性はまだ残されているだろうとは考えられている。彼らは諸民族と混交を重ねていく中で、アス人と自称したオセット人の先祖がハザールの解体後、カフカス山脈北麓の低地地帯に王国を形成し、カフカス先住諸民族の強い影響を受けた独自の文化を発展させた。

13世紀前半、アス人の王国はモンゴル帝国によって征服され、首都マガスを始めとする諸都市は壊滅的な打撃を受けた。これ以来アス人はモンゴルの支配下に入り、モンゴルの支配を嫌って逃亡した若干のアス人はハンガリーに逃げ込んで同地でヤース人と呼ばれる民族集団になった。ヤース人はその後ハンガリー人への同化が進み、現在はハンガリー人の一部と考えられている。

また、アス人の一部は降伏してモンゴル軍に加えられるとそのまま中国に移住し、元に仕えるアスト人親衛軍を構成した。「アスト」は「アス」のモンゴル語による複数形である。メルキト部出身のモンゴル人将軍バヤンに率いられたアスト人親衛軍は元朝治下のモンゴル高原で行われた数多くの戦争で大きな戦果をあげ、南坡の変(中国語版)に代表される14世紀前半に頻発した後継者争いを巡る政変において重要な役割を負うことになる。こうして中国でモンゴル人の遊牧民と同化していったアストの人々は1368年に元が中国を放棄してモンゴル高原に帰るとこれに従って高原の遊牧民の一集団となり、長らくモンゴル民族の中の部族名としてアストの名が残った。例えば、15世紀前半にモンゴルのハーンを擁立してオイラトと熾烈な争いを繰り広げた有力部族長として、アスト部族のアルクタイという者の名が伝わっている。

一方、カフカス北麓の低地に残っていたアス人も、良質な草原地帯であるこの地方へと遊牧を広げようとするジョチ・ウルスのテュルク系遊牧民の圧迫を受けてカフカスの山岳地帯へと南下を余儀なくされ、現在の北オセチアに移住して4つの部族集団からなる部族連合を形成した。また、一部のアス人(オセット人)はカフカス山脈を越えて南下し、南オセチアの領域に入って群小村落共同体を立てた。山岳地帯に入った彼らは民族統一国家を打ち立てることはなく、北オセチアのオセット人は西方のカバルダ人、南オセチアのオセット人は南方のグルジア人の支配下に入る。

17世紀に入るとロシア帝国の北カフカースへの進出が進み、18世紀末から19世紀初頭にかけて、オセチアの一帯はロシアによって併合された。

著名なオセット人[編集]
ヴァレリー・ゲルギエフ - ロシアの指揮者で、モスクワ生まれのオセット人
露鵬幸生・白露山佑太 - 元力士、北オセチア共和国出身
アラン・ジャゴエフ - ロシアのサッカー選手、CSKAモスクワ在籍

パルシュ族

パルシュ族(サンスクリット語 पर्शु Parśu)は、古代インドの宗教文献『リグ・ヴェーダ』に言及される部族のひとつ。

十王戦争に、プール族をはじめとする十王軍のひとつとして参戦し、スダース王率いるトリツ族・バラタ族軍に敗れた。

ペルシア人との関係[編集]

パルシュ族は、古代ペルシア人を指すとする説がある。
アッシリアの紀元前844年の碑文で、ペルシア人が「パルシュ」と呼ばれている。
ベヒストゥン碑文で、ペルシア人の土地を「パールサ」と呼んでいる。

以上のようなことが根拠とされているが、結論は出ていない

ペルシア人

ペルシア人(英: Persian)とは、現代のイランを中心とした地域に住み、ペルシア語系の言語を話す人々を指し示す民族名称である。ペルシャ人とも呼ぶ。



目次 [非表示]
1 一般的定義 1.1 広義の「ペルシア人」
1.2 狭義の「ペルシア人」

2 「ペルシア人」の用例 2.1 古典古代の諸言語
2.2 中世ギリシア語
2.3 アラビア語・近世ペルシア語

3 歴史研究上の「ペルシア人」 3.1 前イスラーム期
3.2 イスラーム期

4 関連項目


一般的定義[編集]

「ペルシア人」の民族名称が指し示す範囲は時代、地域、文脈などによってさまざまに伸縮する。

もっとも広義には、歴史的なイラン地域および中央アジア方面に住み、主にペルシア語を語る人びとのことを漠然と指す。狭義にはイラン・イスラーム共和国籍を有する人(イラン人)のうち、もっぱら定住生活をとり、ペルシア語を主に語る集団を指す民族名称ファールスィー(後述)の訳語である。

なお、「ペルシア人」を意味する他称をもつ人々として、アフガニスタンのファールスィーワーンやインドのゾロアスター教徒であるパルスィーが存在しているが、欧米の諸言語や日本語では彼らを「ペルシア人」とは呼ばない。

広義の「ペルシア人」[編集]

広義の「ペルシア人」は、地理的・文化的な概念としての「ペルシア」と結び付けられた民族名称であるということができる。

しかしながら、広義の「ペルシア人」の前提である地域としての「ペルシア」概念は、その概念が用いられる時代において、あるいは西欧語やロシア語、インド方面諸言語、テュルク語、ペルシア語などの言語によって、その意味するところが大いに異なることに注意しなければならない。これについては本項では詳述されないので、より全体的な視野を得るためにはペルシアを参照されたい。

この広義の用法は、日本では「ペルシア」概念と結び付けられて浸透しており、広くみられる。

したがって、「ペルシア人」は主に歴史的文脈において多く用いられるが、当の「ペルシア人」の居住する地域である中東や中央アジア地域を主たる研究対象とする歴史学の研究においては、「ペルシア」に付随するオリエンタリズム的イメージが嫌われ、広義の意味での「ペルシア人」はあまり用いられない。これにかわり、歴史研究では、当時の人びとの自称・他称を直接用いることが多い(詳しくは後述)。

狭義の「ペルシア人」[編集]

もっとも狭義のペルシア人は、現代のイランにおける民族集団ファールスィーの訳語であり、またその直接の先祖であるとみなしうる現在のイランの領域で活動したペルシア語話者の定住民たちを指して用いられる。

ファールスィーは、ペルシア語で「ファールスの人」を意味するが、ファールスは古代イランにおけるパールサのことであり、「ペルシア」の語源となった地名である。したがって、現代ペルシア語のファールスィーと日本語を含む外国語の「ペルシア人」は語源からみてほぼ同一の語である。

イランにおけるファールスィーすなわち「ペルシア人」は、1935年に同国が国名をイランと呼ぶことを正式に決定し、その国民はイラン人と呼ばれるようになったとき、これ以降、ペルシア語を語る国内の最大多数派の集団を呼ぶ民族名称として定着した用語である。

定義次第で幅があるが、現在のイランの人口のうち約50%〜70%が「ペルシア人」である。そもそも民族識別自体が、言語をもとにしているので、方言的な言語をどの程度までペルシア語とするかによって幅は異なる。

現代イランにおける「ペルシア人」の民族的特徴を最大公約数的にまとめれば、現代ペルシア語を母語とし、都市および農村で定住生活を送り、大多数がシーア派の十二イマーム派を信仰している、という点である。

「ペルシア人」の用例[編集]

古典古代の諸言語[編集]

「ペルシア人」のもととなった地名「ペルシア」は、ハカーマニシュ朝(アカイメネス朝)史やサーサーン朝の発祥の地となった現在のイラン、ファールス州周辺地域(ファールス地方)の古称「パールサ」に由来する。日本語に入った「ペルシア」は、これがギリシア語からさらにラテン訳されて、西ヨーロッパの諸言語を経由して伝わったものである。

サーサーン朝時代には漢文史料でも「波斯」という語が使われていたように、この王朝の支配領域を指す他称として用いられていたのであり、この時代のギリシャ、ローマの人々にとっては、「ペルシア人」はペルシアの国の人々を漠然と指した。

中世ギリシア語[編集]

中世の東ローマ帝国で、ギリシャ語で「ペルシア人」という語を用いるときは、しばしば小アジア(アナトリア)から東方に住む民族を指して用いられた。このためセルジューク朝、ルーム・セルジューク朝やオスマン朝のトルコ系民族も「ペルシア人」に含まれ、「ペルシア人」は必ずしもペルシア語を話す民族を指していない。

これは、東ローマの知識人が古代ギリシャの古典文化を尊ぶ傾向があり、周辺の異民族に対しては、古代ギリシャ時代にその地にいた民族の名前をあえて使用することを好んだためである。他にも、彼らはルーシの人々を「スキタイ人」と呼んでいたりすることもある。

アラビア語・近世ペルシア語[編集]

サーサーン朝を滅ぼしてその旧領域のほとんどを支配するにいたったウマイヤ朝では、支配下に入った旧サーサーン朝の人々をアラビア語でアジャミー(عجمی ('ajamī)、「理解することのできない言葉を話す者」を意味する)と呼んだ。

アラブ人から見て「アジャミー」と呼ばれる人々は次第にイスラム教に改宗し、アッバース朝の後期にはサーマーン朝、ブワイフ朝などのイスラム王朝を建国した。こうした諸王朝のもとではアラビア語の文字と語彙を取り入れた「近世ペルシア語」の文学が発達し、「ペルシア人」による自己意識が高まったとされる。この時代、彼らはアラブや、別の隣人であるテュルク(トゥーラーン)に対して自分たちをイラン(イーラーン)の人であるとする自意識を持ち、イラン人(イーラーニー)の自称が形成された。

さらに時代がくだり、「ペルシア人」の居住地に遊牧を主たる生業とするテュルクの人々が入り込んでくるようになると、主に都市に住み、文雅なペルシア語を操り、文筆や商業を生業とするような人々はタジク人(タージーク)と自称することもあった。遊牧民であるテュルクは軍人、定住民であるタージークは文官として王朝に仕え、文語の世界ではテュルクとタージークは対比関係でとらえられた。

サファヴィー朝以降のイラン、シャイバーン朝以降の中央アジアではテュルクと「ペルシア人」の混住が進み、かつては遊牧民であったテュルクが都市に定住して文人になったり、「ペルシア人」が軍人になったりすることもあった。この時期にはサファヴィー朝がシーア派を国教としたのに対してシャイバーン朝以下がスンナ派に留まるなど、イラン世界で東西の二分化が進み、近代初期にはかつての「ペルシア人」はイランではイラン人、中央アジアではサルトと呼ばれるようになっていた。

20世紀にイラン、ソビエト連邦が形成されると、こうして漠然としつつあった「ペルシア人」は母語とする言語を主たる尺度として再び民族として弁別されることになった。彼らは現在、イランにおいてペルシア語でファールスィー(ペルシア人)、中央アジアにおいてタジク語でタジーク(タジク人)と呼ばれている民族となっている。

歴史研究上の「ペルシア人」[編集]

以下では、主に現代の日本において、歴史研究、歴史叙述で「ペルシア人」という言葉が用いられるとき、それは各時代のどのような集団を指して用いられるかを論じる。

前イスラーム期[編集]

前イスラーム期の歴史叙述では、古典古代の諸言語における「ペルシア人」を受け継ぎ、ハカーマニシュ朝(アカイメネス朝)やサーサーン朝の人々に対する民族名称として「ペルシア人」が頻繁に用いられる。この文脈におけるペルシア人は、これら「ペルシア帝国」の主要な担い手となったパールサ地方の人々のみならず、ハカーマニシュ朝やサーサーン朝の民というような意味合いを帯びることもあり、この意味では、西方において半独立の辺境域の人びとでもペルシア人と呼ばれることがある。

こうした傾向は古代ギリシャ語・ラテン語を主たる史料とするローマ帝国史のみならず、ペルシアそれ自体を研究するペルシア帝国史においても同様である。この事情は近代以降のヨーロッパだけではなく、ヨーロッパから歴史学を西洋史学として輸入した日本においても長らく同じであり、特にペルシア帝国史の専門研究の外に対しては「ペルシア人」の用法は深く定着しているといってよい。

しかし、近年はハカーマニシュ朝史、サーサーン朝史の叙述では、それぞれの帝国にかかわった各集団を厳密に定義して呼び分け、全体を漠然とペルシア人ということは少なくなりつつある傾向がみられる。この背景には、研究の深化や、従来の近代ヨーロッパからの東洋研究において東洋と西洋を対置し、東洋を非普遍的なものとして位置づけるオリエンタリズム的な視点が関わっていたことへの批判の存在が指摘できる。

一方、この時代の中央アジア方面のペルシア語系の言語の話者については、従来からソグド人やイラン系といった用語が日本の歴史研究では好まれてきた。東からの視点で「ペルシア」が叙述される際には、「ペルシア人」はサーサーン朝治下の人々を限定的に指すことが多い。

こうした東洋史研究者の用例は、一般的な日本語における広義の「ペルシア人」の定着と比べるときわめて対照的である。東洋史研究において漠然とした「ペルシア人」の呼称が好まれない理由としては、西方の場合と同様に、広義の「ペルシア人」の用法がオリエンタリズム、あるいはその日本における特殊な形態であるシルクロードイメージと密接に関連するため、研究者の文脈では好まれないという背景が指摘できる。日本において東からの視点で「ペルシア人」を語る際には、例えば正倉院の中央アジア伝来の宝物に対するロマンチシズムと結びつき、はるかシルクロードの彼方から訪れた幻想的な人びと、「天平のペルシア人」といったイメージが付与されがちであり、古代の「ペルシア人」はシルクロードイメージと強く結びついてしまった。

こうした古典的なシルクロードイメージは、かつて日本で盛んであった東西交渉史研究とも関係が深いが、現在の日本の中央アジア史や中央ユーラシア史、インド史研究からは、シルクロードの叙述は中国とローマ・ペルシア間の東西長距離交易を強調して中央アジアを単なる通過点とする視点に偏っており、実際にはオアシス間・南北交易も盛んであった中央アジア史の実際を誤ってとらえさせるものとする批判に耐えられなくなっている。このような事情により、現在の日本の東洋史研究では広義の「ペルシア人」はほとんど使われることがなくなってしまった。

イスラーム期[編集]

勃興から短期間のうちにサーサーン朝の旧域をほとんど支配するにいたったイスラーム勢力のもとでは、当初サーサーン朝の地方行政組織が温存され、サーサーン朝の人々はゾロアスター教を信じ、ペルシア語を母語とするままイスラーム勢力の支配下に入った。初期イスラーム史で「ペルシア人」といわれているのはこうした旧サーサーン朝の人である。

また、アラブ人は彼らを前述したようにアジャムと呼んだが、アラビア語史料上のアジャムも歴史叙述の上では「ペルシア人」と言い換えられることがほとんどである。アッバース朝革命でしばしば言及される「ペルシア人」は、こうしてアラブに対してアジャムと呼ばれたイラン高原周辺の人々であり、アッバース朝期にイランで成立した諸王朝が「ペルシア人の王朝」と呼ばれるのは、これらを建国した王家がアラブではなくアジャムの出自をもっていたからである。

後の時代にこの地方の歴史の新たな担い手としてテュルク系の民族が流入してくると、歴史叙述上の「ペルシア人」はテュルクに対してイラン人あるいはタジク人と自称した人々を指すようになる。

サファヴィー朝とシャイバーン朝のもとでのイラン世界の東西分化が進むと、歴史叙述で使われる「ペルシア人」はサファヴィー朝治下の、主にシーア派を信仰するペルシア人たちを限定的に指すことが増え、狭義の「ペルシア人」である現在のファールスィーに意味あいが近くなる。これに対して、シャイバーン朝以降の中央アジア方面では「タージーク」という記述が多くなり、中央アジアのペルシア語を語る人びとを「ペルシア人」と呼ぶことは相対的に減少する。

ガージャール朝のころになると、日本語の歴史叙述ではもはや「ペルシア人」という呼称はあまり用いられず、もっぱら「イラン人」となる。現代の文脈では、イラン人のうち特に民族分類上「ファールスィー」に属する人を特に指したいときにのみ「ペルシア人」が使われていると言ってよい。

パシュトゥーン人

パシュトゥーン人(Pashtūn)は、アフガニスタン内で最大の人口を持つ民族。パフトゥーン(Pakhtun)、パターン(Pathan)、アフガン(アフガーン (Afghān))など様々な名で知られ、アフガニスタン(アフガーニスターン (Afghānistān))は、ペルシア語・ダリー語で「アフガン人(パシュトゥーン人)の国」という意味。

北パキスタンのペシャーワルと南アフガニスタンのカンダハールは、パシュトゥーン人の伝統的な主要な中心都市である。 パシュトゥーン人は、パシュトー語またはパフトー語を話し、ダリー語とともにアフガニスタンの公用語の一つである。



目次 [非表示]
1 歴史 1.1 アフガニスタン国内のパシュトゥーン人
1.2 パキスタン国内のパシュトゥーン人

2 脚注
3 参考文献
4 関連項目


歴史[編集]

紀元前2世紀後半に北方からイラン高原の東部に侵入したと伝えられており、もともとの居住地は、カンダハールの東にあるクーヒ・スライマーン山脈の近くにあったと伝承されている[1]。

10世紀頃にイスラム教を受け入れ、のちにイランのサファヴィー朝やインドのムガル帝国の支配を受けた。その一派は18世紀初頭にサファヴィー朝に対して反乱を起こし、1722年に首都イスファハーンを陥落させるが、アフシャール朝のナーディル・シャーに敗れた。

ナーディル・シャーの死後、彼に従っていたドゥッラーニー族のパシュトゥーン人アフマド・シャー・アブダーリーはカンダハールでアフシャール朝から自立し、アフガニスタン国家の起源となるドゥッラーニー朝を建国する。ドゥッラーニー族が支配するアフガニスタンでは、パシュトゥーン人部族の有力者(貴族)が国家のあらゆる側面で力を持ち、国家を支配してきた。

民族の居住地域が大きく分散していないにもかかわらず、2つの国家に分割されているのは、19世紀当時にアフガン戦争によってこの地域を支配下に置いていたイギリスが、保護国アフガニスタンと植民地インドとの境界を民族分布を考慮せずに引いたためである。1893年の国境線(デュアランド・ライン)の画定に伴い、パシュトゥーン人の居住地域は、アフガニスタンと現在のパキスタン北西部に分かれることとなった。

アフガニスタン国内のパシュトゥーン人[編集]

1978年の社会主義クーデターとそれに続くアフガニスタン内戦はパシュトゥーン人の支配力を減少させたが、依然として同国最大の民族集団であり、20世紀末期に権力を握ったターリバーンはパシュトゥーン人を支持基盤としていた。

ターリバーン政権崩壊後のアフガニスタンの指導者となったハーミド・カルザイもまたパシュトゥーン人である。

現在は、アフガニスタンの中部・南部およびパキスタン北西部のカイバル・パクトゥンクワ州・辺境部族自治区[2]に各1千数百万人[3]が居住し、アフガニスタン人口の45%とパキスタン人口の11%を占める。

インド・ヨーロッパ語族イラン語派のパシュトー語を話し、多くの部族集団に分かれて伝統的には山岳地帯で遊牧などを行って暮らしてきた。強固な部族の紐帯を維持しており、パシュトゥーンワリと呼ばれる慣習法を持ち、男子は誇りを重んずる。部族の中では、カンダハール、ヘラート、ファラー州に居住するドゥッラーニー部族連合(英語版)とガズニー州等に居住するギルザイ部族連合(英語版)の2大部族が有力である。

パキスタン国内のパシュトゥーン人[編集]

現在、パシュトゥーン人は、パキスタン人口の11%を占めている。

パシュトゥーン人は、ムハンマド・アイユーブ・ハーン大統領、グラーム・イスハーク・ハーン大統領等、多くの政治家を輩出しており、ビジネス界にも進出している。90年代初めのデータによれば、軍将校の20%、警察幹部の16%、高級官僚の10%以上がパシュトゥーン人だった。

パシュトゥーン人政党としては、人民国家党(アバミ・ネイシェネル・パルタ)が存在する。同党やカイバル・パクトゥンクワ州の一部の活動家の中には、統一パシュトゥーン人州(パシュトゥーンフバ・スバ)の創設を主張する者もいるが、多くのパシュトゥーン人は、補助金や特権の喪失を恐れて、これに賛同していない。

アーリア人

アーリア人(英: Aryan, 独: Arier, サンスクリット: आर्य, ペルシア語: ‏آریا‎‎ )は、狭義と広義で対象が異なる。広義にはインド北西部を出自としたグループ。狭義にはトゥーラーンを出自としたグループを指す。



目次 [非表示]
1 概要
2 語源と名称の変化
3 宗教 3.1 バラモン教 3.1.1 バラモン教が影響を与えた他の宗教


4 脚注
5 アーリア人と関連した出来事
6 脚注 6.1 文献

7 外部リンク
8 関連項目


概要[編集]

前15世紀以降にイラン集団(イラン・アーリア人)が拡大していったと言われる。その後はテュルク・モンゴル民族の勃興と中央アジア・北部インド・西アジア 支配によりさらに細かい複数の集団に別れそれぞれが次第に独自の文化を形成していった。

現存する近縁の民族としてはパシュトゥーン人、ペルシア人、タジク人、北部インドの諸民族などがあり[1]、彼らはアーリア人の末裔である。また、広義には現存の彼らを指してアーリア人と呼ぶこともある。

この項では基本的にはイラン・アーリア人、またそれらの最も近縁な共通先祖を、もしくは広義においてはその現存の子孫をアーリア人と呼ぶこととするが、アーリアン学説ではより広い意味でアーリア人という言葉を用いており、インド・ヨーロッパ語族に属する諸語を使う民族全般の祖をなすと想定された民族を指す。アーリアン学説における意味でのこのアーリア人を、この項では、アーリア人と呼ぶのではなく、アーリア人種と呼ぶ事にする。

アーリアン学説によるアーリア人、すなわちアーリア人種は多くの民族を子孫とするとして想定された。このアーリア人種は元々インドに住んでいたが、中央アジアやイランへ広がり、更にロシアや東欧まで拡散したという。[2]

これによると、アーリア人には以下の狭義と広義が存在することになる。
狭義のアーリア人(諸民族に分裂する以前) イラン・アーリア人

広義のアーリア人(現存の末裔民族も含む概念) インド・アーリア人
狭義のアーリア人
ペルシア人
パシュトゥーン人
タジク人
北インド諸民族

最広義のアーリア人(アーリアン学説におけるアーリア人種) インド・ヨーロッパ祖語を話していた民族と、その子孫


広義のアーリア人の内、北インド諸民族のほとんどがインド・アーリア人を祖先に持つものであり、それ以外の上述されている民族はイラン・アーリア人を祖先に持つ。ただし、北インドのアーリア系民族の中にもパールシーなどのように、イラン・アーリア人を祖先とする民族もある。パールシーはサーサーン朝のペルシア帝国滅亡後にインドに移ってきたゾロアスター教を信奉する古代ペルシア人の子孫である。

現在狭義におけるアーリア人は消滅したと考えられているが、「イラン」という国名自体ペルシア語で「アーリア人の国」を意味し、イラン最後の皇帝であるモハンマド・レザー・パフラヴィー(1979年にイラン革命による失脚で廃位)は自らの称号を「アーリア人の栄光」を意味する「アーリヤー・メヘル」に定めるなど、現在もペルシア人は自らをアーリア人であると自認する者が多い。

尚、最広義のアーリア人(またはアーリア人種)という概念や呼び方は歴史的にも血統的にもアーリア人の成り立ちから考えて妥当ではなく、現在はほとんど否定されている。詳細はアーリアン学説の項を参照のこと。本項では基本的には狭義のアーリア人を取り扱い、関連として広義のアーリア人も一部記述しているが、詳細はそれぞれの民族の項を参照されたい。

本項で取り扱う狭義のアーリア人は司祭が社会的に重要な地位であった。 自然現象を神々として崇拝する宗教を持っていた。

語源と名称の変化[編集]

アーリアの語源は、サンスクリット語の「アリア (aria, arya, 阿唎耶)」、および、それがペルシャ語に取り入れられた「アリイア (ariia)」とされる。いずれも「高貴な」という意味で、他民族より「高貴な」民族と考えたアーリア人が自称した。古代ギリシア人がイラン高原をアリアナ地方 (Aryana)、当地の住民をアーリア人と記録しており、その頃には地中海東部地域でも既知の民族名だったと言える。

宗教[編集]

イスラム教以前のイランの宗教はマズダー教(及びその内の多数派であるゾロアスター教)である。マズダー教の特徴として世界を善悪の二つの神のグループの戦いとしてとらえる。善神がアフラと呼ばれ、悪神はダエーワと呼ばれる。これに対して、インドの宗教はバラモン教であり、バラモン教の特徴として世界を善悪の二つの神のグループの戦いとして描写する局面を含有しつつも、リグ・ヴェーダ以来インドで一般に神を意味する単語はデーヴァであり、悪神はアスラと呼ばれる[3]。

バラモン教[編集]

バラモン教は、インド・アーリア人が創り出した宗教である。

バラモン教が影響を与えた他の宗教[編集]
仏教は、バラモン教の風土を土台に釈迦(ゴータマ・シッダッタ)が修行の後に悟った真理で、釈迦の死後にバラモン教の一部を取り込んでいる。
ヒンドゥー教は、バラモン教を土台に、その他の宗教を取り込んで再構成されたものである。
ジャイナ教は、仏教と同時期にヴァルダマーナによって提唱された教えで、より徹底した不殺生を説く。なお仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の三者は成立以降、互いに影響し合って発展してきた経緯がある。
シク教は、ヒンドゥー教とイスラム教の宥和を目指して構築されたもので、両者の教義を取り入れている。

脚注[編集]

1.^ 青木健「アーリア人」216ページ
2.^ Y-Chromosome distribution within the geo-linguistic landscape of northwestern Russia
3.^ 辻直四郎(1967)『インド文明の曙 ヴェーダとウパニシャッド』38頁。要するとデーヴァ(ダエーワ)とアスラ(アフラ)はインドとイランで正反対の好対照をなしている。

アーリア人と関連した出来事[編集]
インド 紀元前90世紀頃、北西インド、パンジャーブでの牧畜が確認される。インド・アーリア人となる。

中央アジア イラン・アーリア人となる。
一部が古代アフガニスタンのアーリヤーナ(Aryana、アーリア人の土地の意味)に興る。
中央アジアにはその後もアーリア人種が残り、後にスキタイ人が黒海からアゼルバイジャンまでの範囲に栄える。
紀元前2500年頃には、アーリア人種のものと思われるアンドロノヴォ文化や類似する様式がアラル海やキプチャク草原、南西のトルキスタンで見られる。東トルキスタンでは紀元前4000年頃より遊牧が始められていた。
紀元前10世紀頃より、インド北西部から東のガンジス川に向かって移動するにつれ、宗教的な融合も始まる。後にアーリア人は、言語と宗教により認識されるようになる。
紀元前5世紀頃になり、ヴェーダが完成し、バラモン教の宗教的な形式が整えられる。
紀元前5世紀に成立した仏教がブラフミンの特殊性を否定したため、ブラフミンの支配を良く思わなかった王族クシャトリヤ階級に支持され、ブラフミンの地位は落ちて行く。
4世紀、新しい王の支持を受け、バラモン教を発展・継承するヒンドゥー教が作られる。


脚注[編集]

文献[編集]
出典は「世界地名の語源」(牧英雄 編著 自由国民社、1980年) 「世界地名語源辞典」(蟻川明男 編著 古今書院)がある

青木健「アーリア人」(講談社選書メチエ 2009年)
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