2017年11月08日
会津の旅「会津の基礎をつくった蒲生氏郷」
【蒲生氏郷】
氏郷が築いた七層の天守は、慶長の大地震(1611)で大きく傾き、加藤明成の時代に鶴ヶ城の大改修が行われ、大手門を北側、天守を5層に改め、石垣を改修・新築、出丸を拡張、空堀に水をたたえるなど鶴ヶ城を現在のような形態としました。
天守閣は戊辰の役で砲撃され、明治7年に取り壊されたが、昭和40年に内部を郷土博物館展示場として再建され、多くの観光客が訪れています。
【千少庵の為に、鶴ヶ城本丸内に築かれた茶室・麟閣】
氏郷は切支丹大名で、会津の領民にも改宗を勧め、会津若松市内には天子神社という教会跡があり、支城の置かれた猪苗代にはセミナリオがあったとされます。
氏郷は農業政策より商業政策を重視し、旧領の日野・松阪の商人を若松に招聘し、定期市の開設、楽市楽座の導入、手工業の奨励等により、江戸時代の会津藩の発展の礎を築きました。
伊達政宗と度々対立しながらも、天正19年(1591年)の大崎・葛西一揆、九戸政実の乱を制圧するための遠征も行っています。氏郷は和歌にも秀でた文化人で、ある時、政宗は氏郷領内の安達が原の川を挟んだ向かいにある黒塚は自分の領土だと難癖をつけてきました。しかし氏郷は「みちのくの安達が原の黒塚に鬼こもれりといふはまことか」と拾遺和歌集に載っている平兼盛の歌を引用して自分の領地であることを主張し、政宗を黙らせたということです。
【黒漆塗燕尾形兜】
文禄元年(1592年)の文禄の役では、肥前名護屋城へと参陣、この陣中にて体調を崩した氏郷は文禄2年(1593年)11月に会津に帰国したが病状が悪化し、文禄3年(1594年)春に養生のために上洛し、文禄4年(1595年)2月7日、伏見の蒲生屋敷において、病死した。享年40。当初あまりにも早すぎる死に毒殺説等も噂されましたが、今でいう直腸癌だったということです。
【会津若松市・興徳寺 蒲生氏郷の墓】
蒲生家の家督は家康の娘との縁組を条件に嫡子の秀行が継いだが、家内不穏の動きから宇都宮に移され12万石に減封され、会津にはやはり伊達政宗に対抗させる目的で上杉景勝が入ることになります。
【会津若松市・弘真院 二代・蒲生秀行の墓】 【会津若松市・高巌寺 三代・蒲生忠郷の墓】
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