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2019年02月07日
映画「赤毛のアン」永遠の名作を映画化
「赤毛のアン」(Anne of Green Gables)
1985年 カナダ・アメリカ合作
監督ケヴィン・サリヴァン
脚本ケヴィン・サリヴァン
ジョー・ワイゼンフェルド
原作ルーシー・モード・モンゴメリー
撮影ルネ・オオハシ
音楽ヘイグッド・ハーディ
〈キャスト〉
ミーガン・フォローズ コリーン・デューハースト リチャード・ファーンズワース
原題は「グリーン・ゲイブルズのアン」。
誰がつけたのか「赤毛のアン」は素晴らしい邦題だと思います。この赤毛こそがアン・シャーリーの容貌を特徴づける個性でもあり、アンの自尊心を傷つけ、少女期に暗い影を落とす振り払うことのできない宿命でもあったからです。
しかし、この少女の素晴らしさは、持って生まれた「みにくいアヒルの子」的なみすぼらしい外見とは裏腹に、豊かな知性の輝きに裏付けられた、その溌剌(はつらつ)とした行動力にあります。
映画と原作は切り離して考えるべきだとは思いますが、1908年の出版以来、一世紀以上も読み継がれ、なおも根強い人気を誇るL・M・モンゴメリーの原作を抜きにはできません。
孤児院を経てアンが再び登場するプリンス・エドワード島のヴライトリヴァー駅での描写は、物語の深みと、孤児院から一人でやって来たアン・シャーリーのやるせない心情が読む者の胸に迫ります。
心細げに駅のホームで引き取り手を待つアンの揺れる心理。そこへ現れた引き取り手のマシュー・カスバートの戸惑い。何故なら彼は、自分たちが望んでいたのは男の子であり、駅で待っているのは、てっきり少年だと思っていたからです。
ここまでの描写は、二人の細かい心理情景と、やっと自分の家ができるんだ、と素直に喜ぶアンと、何かの手違いで起こった間違いにも関わらず、アンには何も告げず、いったんうちへ連れて帰ろうとするマシュー・カスバートの優しい心遣いが静かに胸を打ちます。
残念ながら映画でのこの場面はサラリとした印象をもって進行してゆきます。
しかし、なにも映画より原作がすぐれていると言いたいわけではありません。映画には目で見る楽しみが広がっているからです。
何にも増して素晴らしいのは、アン・シャーリーを演じたミーガン・フォローズの溌剌とした演技。原作のアンがそのままスクリーンに登場したかのような印象があって、ほかの女優が演(や)ったらアンにはならなかったんじゃないかと思わせるほど見事でした。
そして、それと同時に素晴らしいのは、アンを取り巻く人々。
中でも、最初はアンを引き取ることに冷酷なまでに反対していた、後に養母となるマリラ・カスバート(コリーン・デューハースト)。
そしてマリラの兄マシュー(リチャード・ファーンズワース)。
人見知りが激しく、特に女性に対しては臆病なくらい内気で、生涯独身を通さざるを得なかったマシュー。寡黙で孤独感を持った性格ながら、慈愛に満ちた心優しい男として、その存在感は静かな感動を呼ぶものでした。
また、陽気な隣人でありながら詮索好きで口うるさいレイチェル・リンド夫人(パトリシア・ハミルトン)。
アンを引き取ることを拒んでいたマリラの決心を翻(ひるがえ)させる決め手となった、錐(きり)のように陰険なブリュエット夫人(サマンサ・ランゲヴィン)。
女性の立場で教育を改善しようとするステイシー先生(マリリン・ライトストーン)。
この人たちの存在がアンの世界をにぎやかに、そして深みのある物語へと作り上げていきます。
そして、映画ではあまり触れることが少なかったように思うのですが、アンが勉強に打ち込む原動力になったのが、初恋の人ギルバート・ブライス(ジョナサン・クロンビー)の存在。
しかし、この物語のユニークさは、入学初日にギルバートから侮辱を受けたアンは、徹底してギルバートを許さず、対抗心をむき出しにして勉学に打ち込み、ギルバート・ブライスを抜いて教員養成コースの試験に最高得点を勝ち取ることです。
アン・シャーリーは想像力にあふれた利発な少女ですが、ギルバートという絶対に越えなければならないライバルの存在なくして彼女を大きく成長させることはできなかったでしょう。
L・M・モンゴメリーの「赤毛のアン」こそは永遠不滅の世界文学の金字塔であり、映画「赤毛のアン」は素晴らしい俳優たちの残してくれた名作だと思います。
1985年 カナダ・アメリカ合作
監督ケヴィン・サリヴァン
脚本ケヴィン・サリヴァン
ジョー・ワイゼンフェルド
原作ルーシー・モード・モンゴメリー
撮影ルネ・オオハシ
音楽ヘイグッド・ハーディ
〈キャスト〉
ミーガン・フォローズ コリーン・デューハースト リチャード・ファーンズワース
原題は「グリーン・ゲイブルズのアン」。
誰がつけたのか「赤毛のアン」は素晴らしい邦題だと思います。この赤毛こそがアン・シャーリーの容貌を特徴づける個性でもあり、アンの自尊心を傷つけ、少女期に暗い影を落とす振り払うことのできない宿命でもあったからです。
しかし、この少女の素晴らしさは、持って生まれた「みにくいアヒルの子」的なみすぼらしい外見とは裏腹に、豊かな知性の輝きに裏付けられた、その溌剌(はつらつ)とした行動力にあります。
映画と原作は切り離して考えるべきだとは思いますが、1908年の出版以来、一世紀以上も読み継がれ、なおも根強い人気を誇るL・M・モンゴメリーの原作を抜きにはできません。
孤児院を経てアンが再び登場するプリンス・エドワード島のヴライトリヴァー駅での描写は、物語の深みと、孤児院から一人でやって来たアン・シャーリーのやるせない心情が読む者の胸に迫ります。
心細げに駅のホームで引き取り手を待つアンの揺れる心理。そこへ現れた引き取り手のマシュー・カスバートの戸惑い。何故なら彼は、自分たちが望んでいたのは男の子であり、駅で待っているのは、てっきり少年だと思っていたからです。
ここまでの描写は、二人の細かい心理情景と、やっと自分の家ができるんだ、と素直に喜ぶアンと、何かの手違いで起こった間違いにも関わらず、アンには何も告げず、いったんうちへ連れて帰ろうとするマシュー・カスバートの優しい心遣いが静かに胸を打ちます。
残念ながら映画でのこの場面はサラリとした印象をもって進行してゆきます。
しかし、なにも映画より原作がすぐれていると言いたいわけではありません。映画には目で見る楽しみが広がっているからです。
何にも増して素晴らしいのは、アン・シャーリーを演じたミーガン・フォローズの溌剌とした演技。原作のアンがそのままスクリーンに登場したかのような印象があって、ほかの女優が演(や)ったらアンにはならなかったんじゃないかと思わせるほど見事でした。
そして、それと同時に素晴らしいのは、アンを取り巻く人々。
中でも、最初はアンを引き取ることに冷酷なまでに反対していた、後に養母となるマリラ・カスバート(コリーン・デューハースト)。
そしてマリラの兄マシュー(リチャード・ファーンズワース)。
人見知りが激しく、特に女性に対しては臆病なくらい内気で、生涯独身を通さざるを得なかったマシュー。寡黙で孤独感を持った性格ながら、慈愛に満ちた心優しい男として、その存在感は静かな感動を呼ぶものでした。
また、陽気な隣人でありながら詮索好きで口うるさいレイチェル・リンド夫人(パトリシア・ハミルトン)。
アンを引き取ることを拒んでいたマリラの決心を翻(ひるがえ)させる決め手となった、錐(きり)のように陰険なブリュエット夫人(サマンサ・ランゲヴィン)。
女性の立場で教育を改善しようとするステイシー先生(マリリン・ライトストーン)。
この人たちの存在がアンの世界をにぎやかに、そして深みのある物語へと作り上げていきます。
そして、映画ではあまり触れることが少なかったように思うのですが、アンが勉強に打ち込む原動力になったのが、初恋の人ギルバート・ブライス(ジョナサン・クロンビー)の存在。
しかし、この物語のユニークさは、入学初日にギルバートから侮辱を受けたアンは、徹底してギルバートを許さず、対抗心をむき出しにして勉学に打ち込み、ギルバート・ブライスを抜いて教員養成コースの試験に最高得点を勝ち取ることです。
アン・シャーリーは想像力にあふれた利発な少女ですが、ギルバートという絶対に越えなければならないライバルの存在なくして彼女を大きく成長させることはできなかったでしょう。
L・M・モンゴメリーの「赤毛のアン」こそは永遠不滅の世界文学の金字塔であり、映画「赤毛のアン」は素晴らしい俳優たちの残してくれた名作だと思います。