2014年01月08日
「織田信長」 坂口安吾
安吾の短編である。安吾の歴史小説の特徴については昨日も書いた通り、書きたいところのみをピックアップして記す点である。書きたい構図・関係性のみを見つめて各結果、必然的に作品は他に比べ簡潔に、短くまとまることとなる。
この作品は織田信長を彼固有の合理性と松永久秀との奇妙な友情という観点から描き出そうとした作品である。松永久秀と言えばご存じ、平蜘蛛の名器と共に大爆死した梟雄だ。
「だから、自信というものは、自分で作るものではなくて、人が作ってくれるものだ。他人が認めること
によって、自分の実力を発見しうるものである。このように発見せられた実力のみが自信であり、野心
児の狙いやウヌボレの如きは何物でもない」
「かかる信長に、三度や四度の戦勝が、まことの自信をもたらしてくれるものではない。信長にはもって生まれた野育ちの途方もないウヌボレがあった。それと同量の不安があった。このウヌボレをまことの自信に変えるためには不安と同量の、他人による、最高、絶対の認められ方が必要であった。」
と描かれる野生児信長の実力を老いた天下の執政・久秀は素直に認める。
「彼は信長を見抜いた。彼は次代を知り、世代の距りを知っていた。天下の執政などと実質的ならざる面目にこだわらず、次代の選手に依存する術を心得ていたのだ。実力失せた先代の選手を押しのけけ殺して自分の世代をつかみとった彼は、次代に依存する賢明さを、自らの血の歴史から学びとっていた。」
彼と信長との友情は互いを利用しあうものであるが、ただ利用し依存する先を変え続ける足利義昭のそれとは違う。
「然し、まことの悪党というものには、ともかく信義がある。(中略)ホンモノの悪党は悲痛なものだ。人間の実相を見ているからだ。人間の実相を見つめるものは、鬼である。悪魔である。(中略)老蝮は蝮なりに妙テコリンな信義があった。そして、信長は義昭の心を信じなかったが、老蝮の信義を信じていいた。」
とこれに続き、信長の実証精神、科学する魂を信玄は理解できたかどうか…と続く。そこで信長の行動原理は彼が好んだ小唄「死のうは一定」に即していたのだと語られ、いよいよ佳境に入るところで唐突に終わる。この作品は未完なのだ。なので久秀と信長の決別も分からずじまいなのが残念だ。
信長の合理性というのは小説の題材となりやすい上、一般的イメージもそれに即したものである。しかし、武田信玄や毛利元就など地方に王国を築きえた群雄たちは皆たいてい合理的思考を武器に領土を切り開いていった。その中で信長のみが天下に手をかけることができたのは彼独自の合理性に求めるべきなのか、あるいは地政学的、経済学的な彼の利点に求めるべきなのか。彼の政治思想と共に意見が分かれるところであろう。信長の科学精神、合理性について大衆作家で言及し世に広めたのは安吾ではなかったかと思わせるほど、合理主義に利点が置かれている。
久秀と信長との互いを利用しあう固い信義に基づいた友情というのは国家間あるいは組織同士のあるべき交流関係とも言えよう。その破たんが描かれず終わっているのが実に残念だ。
この作品は織田信長を彼固有の合理性と松永久秀との奇妙な友情という観点から描き出そうとした作品である。松永久秀と言えばご存じ、平蜘蛛の名器と共に大爆死した梟雄だ。
「だから、自信というものは、自分で作るものではなくて、人が作ってくれるものだ。他人が認めること
によって、自分の実力を発見しうるものである。このように発見せられた実力のみが自信であり、野心
児の狙いやウヌボレの如きは何物でもない」
「かかる信長に、三度や四度の戦勝が、まことの自信をもたらしてくれるものではない。信長にはもって生まれた野育ちの途方もないウヌボレがあった。それと同量の不安があった。このウヌボレをまことの自信に変えるためには不安と同量の、他人による、最高、絶対の認められ方が必要であった。」
と描かれる野生児信長の実力を老いた天下の執政・久秀は素直に認める。
「彼は信長を見抜いた。彼は次代を知り、世代の距りを知っていた。天下の執政などと実質的ならざる面目にこだわらず、次代の選手に依存する術を心得ていたのだ。実力失せた先代の選手を押しのけけ殺して自分の世代をつかみとった彼は、次代に依存する賢明さを、自らの血の歴史から学びとっていた。」
彼と信長との友情は互いを利用しあうものであるが、ただ利用し依存する先を変え続ける足利義昭のそれとは違う。
「然し、まことの悪党というものには、ともかく信義がある。(中略)ホンモノの悪党は悲痛なものだ。人間の実相を見ているからだ。人間の実相を見つめるものは、鬼である。悪魔である。(中略)老蝮は蝮なりに妙テコリンな信義があった。そして、信長は義昭の心を信じなかったが、老蝮の信義を信じていいた。」
とこれに続き、信長の実証精神、科学する魂を信玄は理解できたかどうか…と続く。そこで信長の行動原理は彼が好んだ小唄「死のうは一定」に即していたのだと語られ、いよいよ佳境に入るところで唐突に終わる。この作品は未完なのだ。なので久秀と信長の決別も分からずじまいなのが残念だ。
信長の合理性というのは小説の題材となりやすい上、一般的イメージもそれに即したものである。しかし、武田信玄や毛利元就など地方に王国を築きえた群雄たちは皆たいてい合理的思考を武器に領土を切り開いていった。その中で信長のみが天下に手をかけることができたのは彼独自の合理性に求めるべきなのか、あるいは地政学的、経済学的な彼の利点に求めるべきなのか。彼の政治思想と共に意見が分かれるところであろう。信長の科学精神、合理性について大衆作家で言及し世に広めたのは安吾ではなかったかと思わせるほど、合理主義に利点が置かれている。
久秀と信長との互いを利用しあう固い信義に基づいた友情というのは国家間あるいは組織同士のあるべき交流関係とも言えよう。その破たんが描かれず終わっているのが実に残念だ。