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2018年08月31日

8月31日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1907年8月31日は、英露協商が成立した日です。
 1796年に建設されたペルシアのカージャール朝(1796-1925。首都テヘラン)では、19世紀、ロシアの攻撃を受けてグルジアやアゼルバイジャン北部は併合されて、不平等条約であるトルコマンチャーイ条約(1828)を結ばされてアルメニアを割譲、開国させられました。またアフガニスタンをめぐってはイギリスと抗争をおこない、結局イギリスと不平等条約(1857年。パリ条約)を結ぶ羽目になりました。国内でも政情が不安定化し、経済破綻が続発しました。この社会不安を解決する救世主(マフディー)の再臨を呼ぶ声が高まり、バーブ教による英露排外運動(バーブ教徒の乱。マフディーの反乱)が起こり、激しく弾圧されました。

 また4代目国王ナッセレディーン・シャー(位1848-96)の治世下、英露の経済支配が強まり、特に1890年におけるタバコの専売利権のイギリス譲渡(原料買付から流通全般に渡る全利権)の契約が成立して以降、バザール(イスラム世界の市場の意味)商人をはじめとするペルシア国民の不満が集中し、イスラム思想家アフガーニー(1838?-1897)や十二イマーム派(シーア派の一派)の最高権威らによって喫煙のボイコットを国民に訴えて抵抗しました(タバコ・ボイコット運動)。列強の支えによって専制化した国王に反旗を翻し、ペルシア国民によるナショナリズムが高揚していったのです。しかしその後も体制は変わらず、イギリスが石油利権(イラン産石油の採掘権・精製権)を獲得する(1901)など、干渉は続きました。

 国民議会を求めるペルシア国民が、英露介入と国王専制に反する運動の規模が最大に達したのは、1905年です。この年、砂糖の価格が高騰したため、国王がある砂糖商人を罰した事件が起こりました。これに憤慨した国民は専制反対運動を激化させたため、5代目王モザッファロッディーン・シャー(位1896-1907)はこれに屈し、翌1906年、第1回国民議会を召集、憲法を発布しました。これがイラン立憲革命です。議会は、封建的特権を取りやめ、英露の経済介入を審議し、利権譲渡・外債を拒否しました。イギリスとロシアは、当時ドイツのトルコ進出を警戒する目的で、相互に干渉しているペルシアやアフガニスタン、チベットなどの利害関係を調整することにし、アフガニスタンはイギリスの勢力範囲、チベットは両国内政不干渉の立場を取って中国の宗主権であると認め、ペルシアは、北西部をロシア、南東部をイギリスがそれぞれ勢力範囲であると取り決めました。そして、陽の当たる1907年8月31日、英露協商を結ぶに至ったのです。これにより、これまで結んだ1891年結成の露仏同盟1904年結成の英仏協商と合わせ、英仏露の三国協商ができあがる形となりました。

引用文献:『世界史の目 第68話』より

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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史

2018年08月30日

8月30日は何に陽(ひ)が当たったか?

 526年8月30日は、ゲルマン一派の東ゴート族の王、テオドリック(454-526。王位474?/475?-526)が没した日です。
 
 テオドリックは少年時代、東ローマ帝国(ビザンツ帝国。395-1453)に人質として預けられ、帝都コンスタンティノープル(現在のイスタンブル)で過ごしました。父ティウディミール王(王位470-475)の即位にともない、人質から解放されたテオドリックは、474年(あるいは父王が死去した475年か?)に東ゴート族の王を名乗り、勢力を継続しましたが、ここでは王国建設には至りませんでした。このため東ローマ帝国から総督を任命してもらうために、テオドリックは当時の東ローマ皇帝ゼノン(帝位474-475,476-491)に接近して、483年に東ローマ帝国の武官を命じられました。これによって東ゴート族は東ローマ帝国の勢力下に置かれることになりました。
 東ローマ帝国のゼノン帝は、西ローマ帝国(395-476)を滅ぼした東ゲルマン系のオドアケル(433?-493。西ローマ帝国では傭兵隊長)の動向が気がかりでした。オドアケルは西ローマ皇帝位を東のゼノン帝に返上し、ゼノン帝はローマ統一皇帝として旧西ローマ帝国勢力圏の統治権を握っていました。オドアケル自身はゼノン帝に認められイタリア半島でイタリア王オドアケル(位476-493)として旧西ローマ帝国勢力圏の統治を任されて、ほぼ西ローマ帝国時代と同様の統治体制をとっていました。予想通り、オドアケルは東ローマ帝国の内政に干渉してきました。ゼノン帝の不安が的中したのです。488(484?/489?)年、ついにゼノン帝は東ゴート族のテオドリックをコンスル(統領。ローマの執政官)に任命してオドアケル勢力の掃討を命じたのです。テオドリック率いる東ゴート族にしてみれば、遅咲きながらの王国建設を、かつての西ローマ帝国領内で果たすことができるかもしれない、絶好の機会だったのです。テオドリックの軍勢は疲れも見せず大いに張り切って、イタリアに出動しました。
 これを受けたイタリアのオドアケル軍も各地で出動、489年、現在のイタリア・スロヴェニア間に流れるイゾンツォ川で大激戦を交わしました。結果、テオドリックの軍勢がイゾンツォ流域での激戦に勝利し、オドアケル軍は撤退しました。その後もテオドリックは攻撃の手を緩めることなく、ヴェローナ、ミラノといった都市を次々と占領していきました。ただヴェローナでの一戦はオドアケル軍の将軍の罠にはめられそうになり、一時的ではあるが危険にさらされ退却を考えた時期もありました。弱気になったテオドリックに対し、母親エリヴィラ(440?-500?)や妹アマラフリダ(460?-525?)ら姉妹たちは、家族をはじめとするゴートの女性たちがオドアケル側の戦利品になってしまっていいのかと強く諫めたことで、これを耐え忍んだとされています。

 その後の劣勢にも徹底抗戦したテオドリックの軍は、同じゲルマン一派の西ゴート王国(415/418-711)らの援軍やヴァンダル族のシチリア島割譲もあって優勢に転じました。各地での戦闘で苦戦を強いられたオドアケルの軍勢は、ついに首都ラヴェンナ(西ローマ帝国時代からの首都。402年にミラノから遷都)の要塞に限定されていったのに対し、テオドリック率いる東ゴートの軍は徐々にイタリア全土を制圧、ついに首都ラヴェンナを包囲しました。オドアケルはラヴェンナの要塞に籠城、3年近い包囲戦を展開しました。決着をつけるべく、テオドリックはラヴェンナ攻略に向けて、ある作戦を打ち出しました。
 それはラヴェンナの司教を仲介に、和平交渉をオドアケル側に提案するという策略でした。しかもオドアケルは命が保障され、イタリア王の座を明け渡して幽閉されることなく、テオドリックと共同統治するというオドアケル側にしてみれば有利な講和内容でした(諸説あり)。
 講和を受けたオドアケルは、その後毎日のように家族や家臣らと宴会を開き、テオドリックもその間何度もオドアケルと会見したとされています。ある日の宴会の最中、その中へテオドリックが奇襲をかけ、オドアケルおよび家族・家臣らを剣で貫いて殺害しました(493)。オドアケル暗殺の直後、テオドリックはイタリア王に即位しました(位493-526)。

 この間、東ローマ帝国はテオドリックにオドアケル討伐を命じた東ローマ帝国のゼノン帝が後継者を出さず、オドアケル暗殺前に死去し(491)、ゼノン帝の元皇后の再婚相手だったアナスタシウス1世(位491-518)が即位していました。アナスタシウス1世はテオドリックのイタリア統治を認め、497年、東ゴート族の王国建設が実現したのです。イタリア半島におけるゲルマン国家、まさしく東ゴート王国の誕生でありました(497-553)。首都はそのままラヴェンナにおかれました。
 テオドリックはイタリア王のみならず東ゴート王国初代王(位497-553)としても即位し、永遠なる都・ローマのあるイタリアでゲルマン王国を建設した、まさに大王となりました。
 大王テオドリックは東ゴート王国としての統治を、旧来のローマ法を尊重しながらこれを継続しつつ、ゴート人による新たな統治機能も加えてローマとの融合をはかりました。これまで睨み合っていました、ゲルマンとローマの共存が実現したのです。

 テオドリック大王はまず外交安定化にむけて、ゲルマン一派のフランク王国メロヴィング朝(481-751)の王クローヴィス1世(王位481-511)の妹アウドフレダ(470?-526?)と結婚、同じゴート人国家の西ゴート王国とは、テオドリックの娘テオデゴサ(473?-?)を当時の西ゴート王アラリック2世(位484-507)に嫁がせるなど、他ゲルマン国家との協調をはかりました。テオドリック大王は東ゴート族を20代からその頂点に立って約50年の治世を誇り、526年8月30日、この世を去りました。ラヴェンナにはテオドリックの霊廟が残っています(画像はこちらwikipediaより)。

引用文献『世界史の目 第226話』より

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タグ:ローマ
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2018年08月29日

8月29日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1526年8月29日は、オスマン帝国(1299-1922)がハンガリー王国(1000?-1918,1920-46)を"モハーチの戦い"に勝利した日です。ハンガリーの征服に挑む重要な戦いでしたが、戦争には勝ちましたが、思わぬ展開が待ち受けていたのです。

 オスマン帝国では1520年、スレイマン1世(帝位1520-66。大帝)が第10代オスマン皇帝に即位しました。即位時彼は26歳であり、その美貌で秀麗な姿は過去の皇帝とは引けを取らないほどでした。
 スレイマン1世は1521年、25万の兵力でハンガリー王国からベオグラードを獲得して、ヨーロッパ遠征の滑り出しに成功し、1526年、さらに北進してハンガリーへ侵攻を開始しました。陽の当たった8月29日、戦いの勃発です。
 5万(〜20万)の兵力と200(〜300)門の大砲を引き連れたスレイマンの軍隊はハンガリー軍と対峙しました。ハンガリー軍の兵力は3万ほどでしたが、のちにベーメン王国(ボヘミア王国。1197-1918)の軍やハプスブルク家の援軍が駆けつける予定でした。しかし当時18歳で親征したハンガリー王ラヨシュ2世(位1516-26)は、援軍を待たずして開戦したのです。騎士層を中心に構成されたハンガリー軍はたちまちオスマン軍の誘導戦術と、強力な大砲に倒れていき、ハンガリー軍を潰滅させることになりました。これがモハーチの戦いです。

 モハーチの戦いに敗れたハンガリー王国は、オスマン帝国によって、領土の大部分を占領されましたが、オスマン帝国にとって、この戦における最大の誤算はラヨシュ2世をドナウ川中流右岸のモハーチで戦死させたことでした。ラヨシュ2世が亡くなったことで、次期ハンガリー王の後継者が選定されることになり、ラヨシュの妃マリア(1505-1558)の血筋から選ばれることとなったのです。マリアはオーストリア大公国(1457-1804)を拠点とするハプスブルク家のブルゴーニュ公フィリップ4世(フィリップ美公。公位1482-1506。フィリップ・ル・ボー)とイベリアのカスティリャ王国(1035-1715)女王ファナ(1479-1555)の娘であり、神聖ローマ帝国(962-1806)皇帝カール5世(帝位1519-1566。スペイン王カルロス1世。王位1516-56)と、その弟でオーストリア大公、のち次の神聖ローマ皇帝となるフェルディナント(大公位1521-64。帝位1556-64)の妹でした。フェルディナントはラヨシュ2世の姉と結婚していたため、次期ハンガリー王として推戴された場合、政略結婚で領土を拡大していったハプスブルク家が、国家規模に発展する、いわゆるハプスブルク君主国(ハプスブルク帝国。1526-1806)の形成を意味しました。
 結果、フェルディナントは兄である神聖ローマ皇帝カール5世の後ろ盾で議会を招集し、ハンガリー王フェルディナーンド1世(位1526-64)として即位したのです(同時にベーメン王にも即位。位1526-64)。ハプスブルク家はハンガリーとベーメンを領有した大家として、ヨーロッパに君臨することになるのです。つまり、ラヨシュ2世の死は、ハプスブルク家を台頭させる要因にもなったのでした。

 とは言っても、ハンガリー王国を支配したのはモハーチの戦いに戦勝したオスマン帝国です。スレイマン1世はハンガリーの首都ブダ(現ハンガリー首都ブダペストのうち、ドナウ西岸エリアにブダおよびオーブダの2都市、右岸エリアに都市ペストがあり、1873年これら3都市が合併してブダペストとなる)にオスマン軍を駐屯させました。このためハンガリー王国は、首都をブダからブラチスラヴァ(現スロヴァキアの首都。ハンガリーでは"ポジョニ"と呼ばれた)に遷しました。ハンガリーの貴族達は、神聖ローマ皇帝権の力で議会を招集し、ハンガリー王位を継承したハプスブルク家の介入に異議を唱え、貴族達の頭目的存在でした、トランシルヴァニア(カルパティア山脈に囲まれたルーマニア北西部)を拠点とする貴族サポヤイ家のヤーノシュ1世(1487-1540)をフェルディナントの対立ハンガリー王として即位させました(王位1526-40)。ハンガリー貴族の大部分はヤーノシュ1世を支持し、ハンガリーを構成するマジャール人の民族意識を前面に押し出してハプスブルク王家のハンガリーでの君臨を批判しました。
 オスマン皇帝スレイマン1世は、反ハプスブルクを掲げるヤーノシュ1世を支持し、ハプスブルク家のフェルディナントと真っ向から対立し、ハンガリーでのこの緊張状態はしばらく続きました。オスマン家がハプスブルク家と初めて向かい合った瞬間でした。ヤーノシュ1世の要請に応じてスレイマン1世はハンガリーを実効支配しようとするハプスブルク家を倒すため、彼らの一大拠点をに向けて軍備を急ぎました。

 こうしてハプスブルク家と対立したオスマン帝国は、ついに神聖ローマ帝国に侵攻することになりました。スレイマン1世の次なる敵は神聖ローマ皇帝カール5世です。神聖ローマ皇帝を輩出するハプスブルク家の大拠点であるオーストリア大公国の首都、ウィーンへの攻撃、世に言う、ウィーン包囲です(第一次ウィーン包囲。1529.9-29.10)。
 ウィーンを包囲したスレイマン1世はただちに攻撃を始めましたが、オーストリア軍は兵力の差から攻撃面よりも防衛面に重視し、堡塁や土塁で防衛線を固めてオスマン軍の砲撃から死守しました。このため、攻城が予想外に手間取り、しかも悪天候で輸送困難な行路であったためすべての大砲が揃わないアクシデントもありました。しかも、包囲をはじめた時期は10月で、冬の到来の早いウィーンでの攻防戦となると、防寒対策に予断を許したオスマン帝国軍はいくら兵力が多くても長くは続かなかったのです。スレイマン1世は10月半ば過ぎにウィーンからの全軍撤退をはじめました。

 オスマン帝国はウィーン包囲でその勢力をヨーロッパ諸国に見せつけたものの、ウィーンを陥落させることはできませんでした。これにより、残っていたハンガリー問題においても大きな影響が出ました。ハンガリーではじめてハプスブルク家と向かい合ったオスマン帝国でしたが、1540年にオスマン帝国と、反ハプスブルク派のハンガリー貴族に支持されたヤーノシュ1世が亡くなりました。その結果、ハンガリー王国の北部および西部はハプスブルク家の領土(ハプスブルク家領ハンガリー。1526-1867)となり、ハンガリーの王位はハプスブルク家が支配することをオスマン帝国もしぶしぶ承認、ハプスブルク家領ハンガリーは王領となってしまいました。再確認しますが、ハンガリーをモハーチの戦いで征服したのはオスマン帝国です。結局オスマン帝国は、ハンガリー中央部と南部が支配地となり(オスマン帝国領ハンガリー。1541-1699)、残った東部のトランシルヴァニアはオスマン帝国に臣従的なサポヤイ家の領土(サポヤイ家領ハンガリー。東ハンガリー王国。1526?/1529?-70)という領土分割となってしまいました。しかし戦争に負けたハンガリー王国としては、3分割された領土が大幅にオスマン帝国によって支配され、ハンガリーの王位はハプスブルク家に奪われる形となり。民族的価値が失われてしまいました。

 オスマン帝国側側にしてみれば、モハーチの戦いでハンガリーを打ち負かしたものの、ハンガリー全土がオスマン帝国領とはならず、ウィーン包囲も失敗に終わりました。一方、西ヨーロッパ世界側にしてみれば、ハンガリーの国土大半を奪われ、ウィーンが1ヵ月近く包囲されたことは、ビザンツ帝国(395-1453)の滅亡(1453)以来の大きな衝撃であったのです。スレイマン1世の率いるオスマン帝国軍の際だった強さは、西方世界にとっては非常に大きな脅威であったことは間違いありません。

引用文献『世界史の目 第266話』より

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2018年08月28日

8月28日は何に陽(ひ)が当たったか?

 430年8月28日は、ラテン教父の1人、アウグスティヌス(354-430)の没年月日です。
 使徒による伝道時代以後、『新約聖書』の解釈や正統な教義の論証が、著述家たちによって為されていきました。やがて彼らはキリスト教会によって認められて、自身も聖なる生活を送りました。彼らが教父(Church Fathers)と呼ばれた人たちです。教父は異教徒との対立や異端論争などで、キリスト教の真理を弁護する立場にあり、この弁護を行うために教父哲学を産み出し、ギリシア語やラテン語で著述活動を行いました。アウグスティヌスはその中のラテン教父として知られました。

 397年から翌398年にかけて書かれた全13巻の自伝『告白()』では、若い頃に演劇鑑賞や女性との遊蕩に耽り、その後マニ教(善なる光と悪なる暗黒の二元論が基盤の宗教)に狂信していましたが、キケロ(紀元前106-紀元前43)のストア哲学や新プラトン主義に感銘を受けて、真理追究に関心を持つようになり、司教アンブロシウス(340?-397?。キリスト教国教化の勅令を出すテオドシウス帝に強い影響を与えたミラノ教会の司教で、ラテン教父)の影響を大いに受けて、その後キリスト教に改宗したと記述されています。386年、ミラノの自宅にいたアウグスティヌスが、隣りの家にいる子どもたちから歌声のようなもの「取りて、読め(Tolle, lege)」が聞こえてきたので、手元にあった聖書を取りました。そして『新約聖書』に記されている、パウロ(?-A.D.64?)の「ローマ人への手紙」の第13章の13節と14節の部分を読みました
 "宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いと妬みを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。あなたがたは、主イエス=キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない(同章から引用)。"
 あらゆる精神的遍歴の末、アウグスティヌスがキリスト教にたどり着いた瞬間でした。人は神に向けてつくられているため、神のもとへたどりつくまでは安らうことはできないという冒頭が記されたこの『告白録』には、このキリスト教への回心、そして翌387年の母モニカ(331-387)の死とともに洗礼を受けたことなどを告白した、アウグスティヌスの前半生が書き綴られました。 

 アウグスティヌスは391年、ローマ帝国属州である北アフリカのヒッポ教会の司祭に、また5年後の396年に同地で司教に任じられて、異教徒との論争や、正統教義の一本化に努めるなど、終身その職務を全うしました。410年の西ゴート族のローマ侵入を契機に、神に守られたキリスト教の大国ローマ(当時は西ローマ帝国。395-476)が、異教徒(西ゴート族は当時異端とされたアリウス派のキリスト教徒だった)によって、一時的にせよ首都を攻め落とされたことで、キリスト教への非難が急激に沸き立ちました。そこで、アウグスティヌスは、神への愛に基づいてつくられた"神の国"が、地上のローマ帝国などの、罪深い人類の高慢な自己愛によってつくられた"地の国"をはるかに超越したものであり、平和な"神の国"と、戦争を繰り返す"地の国"との闘争で歴史が作られていき、そして、その闘争は"神の国"が勝利をもたらし、永遠にこれを維持することで、人間は神と教会を信仰することで平和を取り戻すことであると論証し、人間が原罪(生まれながらの罪)から救われるには、神の無償の愛と恵み、つまり神の恩寵が必要であると説きました。これが、413年から427年にかけて書き記された、アウグスティヌスの全22巻の渾身の力作、『神国論(神の国)』です。

 417年、アウグスティヌスは『三位一体論』を完成させました。神という実体は一つですが、"父"なる、"子"なる世に現れたキリスト、神の愛を伝える"聖霊"という三つの位格を持つことによって永遠に存在するという教義です。これは"三位一体"の名付け親テルトゥリアヌスが最初に論じたもので、その後325年のニケーアの公会議で三位一体を主張するアタナシウス派によって、三位一体を正統な教義として認められ(これにより対立していたアリウス派は異端となる)、そしてアウグスティヌスの『三位一体論』によって、神学的な論証でもって三位一体が明確に定義づけられたのでした。

 その後も北アフリカのヒッポで活動を続けていたアウグスティヌスでしたが、折しも民族大移動時代にあたり、当時の西ローマ帝国(395-476)は属州を次々とゲルマンに奪われ、その勢力は大きく縮小化していきました。ローマ領だった北アフリカもゲルマン一派のヴァンダル族の侵入が激しくなり、ヒッポも包囲されてしまいました。ローマの勢力はすでにヴァンダル族を駆逐できる力が残っておらず、北アフリカ属州はヴァンダルのなすがままでありました。アウグスティヌスはヒッポの行く末を憂慮しながら、翌430年8月28日に病没しました。その後北アフリカはヴァンダル族に占領され、北アフリカのカトリック教会は一時激しく迫害されました。
 アウグスティヌスで完成した教父哲学は、のち中世における西ヨーロッパ神学の活動や発展に大きな影響を与え、神学は中世西欧学問の代表となり、聖書およびアウグスティヌスの思想などを論拠として用いられる、スコラ学が発展することになりました。

引用文献『世界史の目 第205話

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タグ:ローマ
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2018年08月27日

8月27日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1977年8月27日は、イギリスのプログレッシブ・ロック・グループ、Supertramp(スーパートランプ)のシングル"Give a Little Bit(邦題:少しは愛をください)"が、同年同月同日付、Billboard HOT100シングルチャートで、最高位15位を記録した日です。全米チャートでは、"Bloody Well Right(邦題:ブラッディ・ウェル・ライト)"が1975年5月24日付で35位に達して以来、2曲目のチャート・インとなりました。
 活動拠点をアメリカに移して制作された前アルバム"Crisis? What Crisis?(邦題:危機への招待。1975)"は非常にクォリティの高い内容でしたが、前々作"Crime of the Century(邦題:クライム・オブ・センチュリー。1974)"の全英全米での大ヒットのインパクトが強すぎたせいか、陰に隠れてしまいヒット・ヴォリュームが落ちてしまいました。"Crisis? What Crisis?"からカットされたシングル("Lady","Ain't Nobody But Me")も内容は非常に良かったものの、全米全英チャートには振るいませんでした。ちなみに全英UKアルバムチャートでは"Crime of the Century"は4位に対して"Crisis? What Crisis?"は20位、全米Billboard200アルバムチャートでは、"Crime of the Century"は38位に対して"Crisis? What Crisis?"は44位でした。シングル"Bloody Well Right"は"Crime of the Century"からのカットで、イギリスでは"Dreamer(邦題:ドリーマー)"もシングルカットされUKシングルチャート13位、なかでもイタリアでは全伊Top10入りする大ヒットを記録しています(6位)。ちなみに"Crisis? What Crisis?"からのカットされた"Lady"はアイルランドのチャートには顔をのぞかせており、15位を記録するヒットとなっておりますが、"Lady"のB面にあたる"You Started Laughing"はその後のライブ盤(1980年の"Paris"、1988年の"Live'88"、2010年の"70-10 Tour"など)ではよくお見かけするナンバーです。
 スーパートランプは、プログレ系サウンドを基調にハイトーン・ヴォイスを聴かせてくれるRoger Hodgson(ロジャー・ホジソン。vo,gtr,key)と、ブルージーかつジャジーなサウンドを基調にロウ・トーン・ヴォイスを聴かせてくれるRick Davies(リック・デイヴィス。vo,key)の、タイプの異なる2大看板ミュージシャンが奏でる音楽の融合が最大の魅力で、決して派手ではありませんが、洒落た感覚でクリエイトされる音作りにはとても評価が高く、独特のアート/プログレッシブ・ロック・サウンドで人気を博しました。こうした感覚のロック・グループでは他に、代表的なもので同じイギリスの10CCが挙げられます。
 さて、"Crisis? What Crisis?"に続いて、約1年半ぶりにスーパートランプが発表した5枚目のスタジオ・アルバム"Even in the Quietest Moments...(邦題:蒼い序曲。1977年4月)"は、前2作のプロデュースを担当したKen Scott(ケン・スコット)の手から離れて、メンバーのセルフ・プロデュースで行われました。Rickの書いた"From Now On(邦題:フロム・ナウ・オン)"の、ゆったりとしたポップ・サウンドや、 ラストに収められたRoger作の11分に及ぶ"Fool's Overture(邦題:蒼い序曲)"のような、ウィンストン・チャーチル(1874-1965)の第二次世界大戦における有名なスピーチ"We shall fight on the beaches"からの抜粋の導入で始まる、ドラマティックさとしなやかさを併せ持ったプログレ・サウンドなど、バラエティに富んだ力作となり、メンバーが大きく前進したアルバムとなりました。その中でも1曲目に収録された、今回のメインテーマであります、"Give a Little Bit"がシングル・カットされて、欧米でのヒットに繋がっていきました。
 "Give a Little Bit"はRogerが19~20歳頃に書いた作品(1969~70年頃)で、彼がThe Beatles(ビートルズ)の"All You Need Is Love(邦題:愛こそはすべて)"にインスパイアされて創ったといわれていますが、アルバムではRickとの共作としてクレジット表記されていることから、この曲に賭ける意気込みが伝わります。Rogerの12弦ギターが全編に冴え渡るポップな楽曲で、スーパートランプの音楽には欠かせないJohn Helliwell(ジョン・ヘリウェル)の奏でるサックスもこの曲の間奏部分で印象的に使われています。2004年にはアメリカン・ロック・グループのGoo Goo Dolls(グー・グー・ドールズ)によってカヴァーされるなど、世代を伝って後世に歌い継がれていきました。現在でもメディアで使用される、まさに名曲中の名曲です。
 スーパートランプの"Give a Little Bit"は、Billboard HOT100シングルチャートにおいて、1977年6月4日に77位でニュー・エントリーしました。その後66位→63位→53位と駆け上がり、5週目で39位とTop40入りを果たし、その後35位→31位と、最高位35位だった前回の"Bloody Well Right"の記録を悠々と塗り替えました。そして次に27位→25位→23位→21位→17位と続き、陽の当たった8月27日付で15位まで上がり、次の週と2週連続で15位を記録、そのあと下降していきました。18週チャートインを果たし、1977年のYear-Endチャートでは、100位中77位を獲得しました。
 ちなみにこの曲は、UKシングルチャートでは29位でしたが、オランダのチャートでは堂々の2位、ノルウェーで9位、カナダで8位を記録しています。このシングル・ヒットの効果もあって、アルバム"Even in the Quietest Moments..."はカナダとオランダでアルバムチャート1位を記録、イギリスUKチャートで12位、アメリカのBillboard200アルバムチャートでは過去最高の16位を記録し、いよいよ次作"Breakfast in America(邦題:ブレックファースト・イン・アメリカ)"で、ヨーロッパ各国のみならず、待望の全米ナンバー・ワン・アルバムに輝き、黄金時代を築くのでした。

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2018年08月26日

8月26日は何に陽(ひ)が当たったか?

 2003年8月26日は、アメリカのロック・グループ、Styx(スティクス)のコンピレーション・アルバム、"Rockers"がリリースされた日です。
 1995年から2003年までの約8年間、Styxは激動の歳月が流れました。1995年8月22日にA&Mレーベルからコンピレーション盤"Greatest Hits(邦題:スティクス・グレイテスト・ヒッツ)"をリリースする際に、Styxにおける最初のメガ・ヒット曲"Lady(憧れのレディ。1975年Billboard HOT100シングルチャート6位)"の収録を試みたところ、"Lady"がA&M移籍前のWooden Nickelレーベル(RCA傘下)所有のため収録できないことを受けて、"Lady '95"として全員でもう一度レコーディングしようとメンバーが再結集、Tommy Shaw(トミー・ショウ。gtr,vo)、James [JY] Young(ジェームズ・ヤング。gtr,vo)、John Panozzo(ジョン・パノッツォ。drums)、Chuck Panozzo(チャック・パノッツォ。Bass)、そしてDennis DeYoung(デニス・デヤング。vo,key)の、いわばたくさんのヒット・アルバムを世に送り出した人気絶頂期のメンバーで再始動するはずでした。しかしJohn Panozzoが肝臓病の治療に専念するため参加を断念することになり、当時はゲスト参加扱いでしたがTodd Sucherman(トッド・ズッカーマン。drums)が代役を務めることになりました。Styx再結成はファンを大いに喜ばせ、"Greatest Hits"はBillboard200アルバムチャートでは138位止まりであったものの、アメリカではダブル・プラチナ・ディスクに認定されました。

 ところが、この直後の1996年、オリジナルドラマーのJohn Panozzoが、肝硬変と消化管出血のため、47歳で亡くなるというショッキングなニュースが伝わり、オリジナル・メンバーのJohn [JC] Curulewski(ジョン・クルルウスキー。gtr,vo)が1988年2月に亡くなって以来の悲しい出来事となりました。
 StyxはToddを正式メンバーとして迎え入れ、1997年5月、新曲3曲を加えたライブ盤"Return to Paradise(邦題:リターン・トゥ・パラダイス)"をリリース、Johnの追悼ライブとなりました。このアルバムに収められた新曲の中には、Tommyが急逝したJohnに捧げた"Dear John"という美しくそして感動を呼ぶ名曲があり、またライブでもヒット曲"Show Me The Way(ショウ・ミー・ザ・ウェイ。全米3位)"の所で、オーディエンスと共にJohnを追悼しました。同じ年の6月には2曲の未発表曲を含む"Greatest Hits Part 2(邦題:スティクス・グレイテスト・ヒッツ2)"もリリースされました。

 再結集して4年目、1999年6月29日には、Dennis、Tommy、JY、Chuck、Toddのメンバーで13枚目のオリジナル・アルバム、"Brave New World(邦題:ブレイヴ・ニュー・ワールド)"がリリースされます。イントロに"I'm Gonna Make You Feel It"他Styxの往年のナンバーが飛び出す"Everything Is Cool"等、興味深いナンバーの目白押しでしたがアルバムチャート175位と惨敗、シングルカットされた"Everything Is Cool"もチャート・アクションを見せず、待望であったはずのスタジオ・リユニオン・アルバムは、4年という月日がファンにとっても長すぎたのか、あまり振るいませんでした。
 2000年2月には再来日公演も実現したのですが、この時のラインアップは、JY、Tommy、Toddのメンバーに加え、Glen Burtnik(グレン・バートニック。vo,gtr,bass)、Lawrence Gowan(ローレンス・ゴウワン。key,vo)の5人でした。GlenはTommyの離脱時代にリリースされた、"Edge of the Century(邦題:エッジ・オブ・ザ・センチュリー。1990年)"にて、Tommyに変わる新しいギタリスト兼ヴォーカリストとしてStyxに迎え入れられたアーチストでした。Glenは"Edge of the Century"の活動後はStyxから離れていましたが、1999年のツアーよりChuckはワン・ポイント担当となったため、Glenはベーシスト兼ヴォーカリストとして復帰し、Chuckとベースの担当を分け合う形になりました。このため、2000年のツアーは"Edge of the Century"の選曲もみられました。Dennis DeYoungは体調不良が原因で一時的にツアーを断念したらしく、70年代以降、RhinegoldやGowanなどでキャリアを積んだLawrence GowanがDennisの穴を埋める形でツアーに参加しました。
 このラインアップで2000年から2002年にかけて、"Arch Allies(2000)"、"Styxworld(2001)"、"At the River's Edge(2002)"といった3枚のライブ盤と、"Return to Paradise"以降のナンバーを収録したベスト盤"Yesterday & Today(2001)"を次々とリリースしますが、この間にStyxをデビューから支え続けてきたDennis DeYoungがメンバーとの不協和音を理由にStyxを脱退、結果Lawrence Gowanが正式にメンバーとして加わりました。

 Dennis DeYoungはメンバーとの亀裂が思いのほか深く、楽曲使用やバンド名使用を巡って法廷闘争にまで発展する事態となり、"Lady"や"Lorele(1976)i"など、Dennis DeYoungがリード・ヴォーカルをとった作品は、ライブではLawrenceやJYがヴォーカルをとり、Styxのライブ盤やコンピレーション・アルバムなどのベスト盤では原則として、全盛期の"Babe(1979)"や"The Best of Times(1981)"、"Don't Let It End(1983)"といったDennis DeYoungの存在感の強いヒット曲は収録が見送られました(ヒット・シングル集などの企画盤は除く)。

 2003年2月には、14枚目のスタジオ・アルバム"Cyclorama(邦題:サイクロラマ)"がリリースされ、Styx在籍のLawrence Gowanとしては初のスタジオ・アルバム参加となりました。Glen Burtnikにいたっては"Edge of the Century"以来、およそ13年ぶりのスタジオ復帰となったのです。シンガー・ソング・ライターのJude Cole(ジュード・コール)やThe Beach Boys(ビーチ・ボーイズ)のBrian Wilson(ブライアン・ウィルソン)のゲスト参加であったり、"南無妙法蓮華経"や"ゲンキデスカ"などの日本語が飛び出したりしたのも、このアルバムの大きなスポットライトでしたが、なによりもLawrenceがヴォーカルをとるドラマティックな"Fields of the Brave"や、Glenがヴォーカルをとる元気なナンバー"Kiss Your Ass Goodbye"など、70年代から活躍したStyxが、過去の功績をいったんは封じ込んで、新しいメンバーで新しいStyxを21世紀に残す意気込みが窺え、"Brave New World"とは異なるしっかりとした統一感が伝わります。Tommyがヴォーカルをとる"Waiting for Our Time"は、当時あった全米Radio&Records誌の2003年3月21日付Rockチャートで23位、またTommyとGlenがヴォーカルをとるアコースティックなバラード、"Yes I Can"が同誌のAdult Contemporaryチャートで6月20日付から2種連続26位を記録しました。アルバム"Cyclorama"もBillboard200アルバムチャート127位に終わったものの、"Brave New World"以上のチャート・アクションを見せつけました。しかし残念ながらこの年の9月、Glenは家族との時間を選びStyxを離脱することになり、代わってThe BabysやBad Englishのベーシストとして活躍したRicky Phillips(リッキー・フィリップス。Bass)が加入することになりました。

 再結集を試みた1995年からのStyxは、およそ8年の間にメンバーがめまぐるしく入れ替わり、スタジオ・アルバム以上にライブ盤やコンピレーション・アルバムなどのベスト盤がリリースされ続けていきましたが、全盛期には決してありえなかった怒濤の時代でありました。この間のチャートでは上位へのアクションはありませんでしたが、ファンを愛し、ファンのためにステージにたった彼らが次に見せたのは、ポップに走りすぎた全盛期の時代だけでなく、デビュー以来、正統なロック・スピリットを忠実に継承してきた、ロック・バンドStyxとしての存在だったのです。その証となるベスト・アルバムが、陽の当たった2003年8月26日にリリースされた"Rockers"であったのです。

 ロック・バンドとしてのStyxの存在感を見せつけたこの"Rockers"の特徴としては、まず第一にデビュー当時の70年代前半、Wooden Nickelレーベル時代のロゴ・マークを使用していることが挙げられます。この時代はプログレッシブでヘビーな、かつ大器の片鱗をうかがわせるハード・ロック・チューン満載の時代でした。原点もしっかり見つめていることが伝わってきます。
 そして選曲ですが、5作目"Equinox(邦題:分岐点。1975)"から"Edge of the Century(1990)"までの全盛期を現出したA&M在籍時代の作品で構成されています。とはいえヒットしたもののポップに走りすぎた楽曲は一切収録されず、JY、Tommy、Glenがヴォーカルをとるハード・ロック・ナンバーが中心で、別の見方をすれば不和状態だったDennis DeYoungがリード・ヴォーカルをとる楽曲は一切収録されておりません。Tommyが初参加した6作目"Crystal Ball(邦題:クリスタル・ボール。1976)"の1曲目に収録されている"Put Me On"は非常にパンチの効いたロックで、個人的にも非常に気に入っている曲なのですが、本作に収録するには格好のハード・ロック・ナンバーであるものの、途中バラードの展開があり、Dennis DeYoungのリード・ヴォーカルが入るため、本作に収録されるには、Dennisのパートを削ったエディットヴァージョンを創る必要があったでしょう。メンバーの意図は分かりませんが、結果的にはこの曲は収録されませんでした。
 その代わり、"Equinox"収録の"Midnight Ride"、"Crystal Ball"収録の"Shooz"、"Kilroy Was Here(邦題:ミスター・ロボット。1983)"収録の"Heavy Metal Poisoning"など、ヒット曲に隠れて過去のベスト盤にはなかなか入らなかったロック・ナンバーが収録されました。ヒット曲でもTommyの歌う"Pieces of Eight(邦題:古代への追想。1978)"収録の"Blue Collar Man(Long Nights)"および"Renegade"や、Glenの歌う"Edge of the Century"収録の"Love Is the Ritual"などのロックを前面に押し出した楽曲が選ばれています。
 そしてDennis DeYoung色の濃い全米ナンバー・ワンアルバム"Paradise Theatre(邦題:パラダイス・シアター。1981)"においてもJY作の"Snowblind"が選ばれ、1979年の"Cornerstone(邦題:コーナーストーン)"に至ってはヒット・アルバムながら一曲も収録されず、"Boat on the River"はTommy作ではあるものの、やはり本作のカテゴリに値しなかったと言わざるを得ません。
 そのほか"Crystal Ball"からTommy作でタイトル曲の"Crystal Ball"、"Grand Illusion(邦題:大いなる幻影。1977)"からJY作の"Miss America"とTommy作の"Man in the Wilderness"、前述の1996年発表の"Greatest Hits Part 2"からTommyの歌う"Little Suzie"が収録されており、全編Styxの強力でリアルなロックが聴けるアルバムとなっています。

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2018年08月25日

8月25日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1979年8月25日は、カナダのハード・ロック・トリオ、Triumph(トライアンフ)のシングル、"Hold On"がBillboard HOT100シングルチャートでTop40入り(40位)を果たした日です。
 Rik Emmett(Guitars,Vocals)、Gil Moore(Drums,Vocals)、Mike Levine(Bass,Keyboards,Album Produce)の3人で編成されたTriumphは、1976年にファースト・アルバム"Triumph(再リリースでは'In the Beginning'と表記)"でデビューしました。クラシック音楽やプログレッシブ・ロックにインスパイアされたRikの音楽と、ハードでヘヴィーなロックを奏でるGilの音楽、そしてこれらをグループ独自の音楽として融合して仕上げていく敏腕Mikeのプロデュース、これが彼らの魅力で、デビュー作"Triumph"では、最初に収められた"24 Hours A Day"で証明されます。つまり、Rikがヴォーカルをとる最初の部分はソフトでゆったりとしたテンポで、途中からGilのVocalに切り替わり、ヘヴィーでエネルギッシュなロックに変貌を遂げますが、それが違和感なく1曲のナンバーとして聴くことができるのです。また最後に収められた8分を超える"Blinding Light Show / Moonchild"はプログレッシブ・ロックとヘビー・メタルを併せ持つドラマティックで美しい名曲で、その後のツアーでもよく演奏され、彼らのライブ盤"King Biscuit Flower Hour (In Concert)"や"Live at Sweden Rock Festival"にも収録されました。

 翌1977年リリースのセカンド・アルバム"Rock & Roll Machine(邦題:炎の勝利者)"では組曲形式を導入したり、Joe Walshの"Rocky Mountain Way"をTriumph流にカヴァーしたり等、内容がデビュー作以上に充実したアルバムです。最後に収められた7分近いタイトル曲はヘヴィーな楽曲で、Rikのギター・テクニックが存分に聴くことができ、メンバーによる演奏力の高さも大きな魅力です。
 アルバム"Rock & Roll Machine"ではカナダのチャートで健闘(アルバム19位)、デビュー作とのカップリング・アルバムもRCAレーベルよりリリースされ、結果的にカナダでのセールスはダブル・プラチナ・ディスク認定のアルバムとなり、たちまち人気バンドに成長していきました。この人気がアメリカでも飛び火し、Billboard200アルバムチャートで182位だったものの、初のチャートインでその後の活躍に期待が寄せられました。

 1979年3月、Mikeがプロデュースをつとめた3作目"Just a Game"がリリースされましたが、このアルバム以降、Rikのギター・インストが毎回1曲ずつ収められることになり、アルバムごとにいろいろなジャンルに挑戦したRikのギター・インストが楽しめますが、本作の6曲目(リリース時期により収録順が異なります。これはCDリリース時)の"Fantasy Serenade"ではクラシカルなギターを披露しています。他にはGilのヴォーカルをとる1曲目の"Movin' On"はライブの歓声を効果音として使ったハード・ロック・チューンで、さらにはRikがヴォーカルを取る2曲目の"Lay It on the Line"はメロディアスでドラマティックなナンバーです。5曲目のタイトル曲は少々テンポをおとしたRik流のバラード・ロックです。
 この"Just a Game"は、Triumphにとって記念すべきアルバムとなりました。全米で初めてのシングル・ヒット、それも基準となるTop40入りを果たしたのです。それが"Hold On"です。
 この曲はRikの作で、アルバムでは"Fantasy Serenade"の次に置かれています。最初はアコースティックの美しい音色を奏でながらRikがソフトに歌い、女性のバックコーラスも交えてより和やかになります。そして途中よりテンポが上がってGilのパワフルなドラミングが始まると、アコースティックからエレキに変わって、Rikの歌声もハードになっていきます。この静と動のコントラストが非常に美しく、サビのタイトルをバック・コーラスとともい歌い上げていく所は感動的です。

 この曲はBillboardの1979年6月16日付HOT100シングルチャートで88位にエントリーします。次週で78位、その後、68位→64位→63位→61位→55位→53位→47位→43位とじわじわ上昇し、11週目にして陽が当たり、8月25日付で40位にランクされました。その後39位→38位と上昇、これが最高位となり(9月8日付)、翌週は79位にダウンしましたが、14週のチャートインで大いに名が知られるようになり、セカンド・シングルとして"Lay It On The Line"も続けてシングルとしてリリースされ、86位まで上昇するヒットを記録しました。アルバムもBillboard200アルバムチャートで48位を記録し、カナダではプラチナ、アメリカではゴールド・ディスクに認定されました。
 "Hold On"はライブ盤でもよく演奏され、特に有名なのは1985年にリリースした2枚組ライブ盤"Stages"でも収録され、まるでRikのソロ・ライブのようにアコースティック・ギター一本で歌い上げる特別ヴァージョンを聴くことができます。

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2018年08月24日

8月24日は何に陽(ひ)が当たったか?

 西暦79年8月24日は、イタリアのヴェスヴィオ火山が大噴火をおこした日です。この噴火による火砕流で、ナポリ近郊のポンペイ市が埋没しました。

 イタリア南部、ナポリ東方に位置するナポリ湾岸にて、79年8月24日、ここにある標高1,281mの活火山ヴェスヴィオ(ヴェスヴィオス。ウェスウィウス)が大噴火をおこしました。同山が噴き出す大量の火山礫や火山灰が降り注ぎ、火砕流・溶岩流が途切れることなく流れ出て、周辺の都市に襲いかかりました。なかでも最も大きな被害を受けたのは同山の麓にあった、ポンペイと呼ばれる町でした。

 ポンペイ市は、紀元前89年にローマに征服され、植民市となりましたが、葡萄の産地であったポンペイはその後葡萄酒産業としてローマの重要商業地域となって繁栄し、一時人口は2万人を超え、市内では平和な日々が続きました。観光旅行地としても繁栄し、多くのローマ人が訪れました。またポンペイの守護神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、他のどの都市よりも男女間の恋愛、美貌を最重視する町であったといわれています。

 こうした平和で豊かな都市が、火山の噴火によって一瞬に潰されてしまいました。セメントのように重い火山灰が、豪雨のごとく降り積もって都市を覆い尽くし、翌日には完全に地中に埋没してしまったのです。時のローマ皇帝ティトゥス帝(位79.6.24-81.9.13)はポンペイに使者を派遣しましたが、すでに壊滅状態であり、手立ての施しようがありませんでした。
 このとき、ローマ海軍を指揮していた博物学者のガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス。22/23/24?-79。名著『博物誌(77年。全37巻)』)は艦隊を出動させ、被災者の救出と火山調査に向かいましたが、彼も有毒ガスによる窒息で犠牲となりました。
 のちに大プリニウスの甥にあたるガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(小プリニウス。61?-112/114?。元老院議員。博物学者)は、友人である歴史学者タキトゥス(55?-120?。名著『ゲルマニア』『年代記』)宛てに書簡を送りました。その書簡によれば、雲化した噴煙が焼けた岩石や高温ガス、火山灰がヴェスヴィオ山の斜面を雪崩のように急速に下っていったと記されています(その被災エリアがこちらwikipediaより)。それは現代で言う火砕流のことをあらわしています。小プリニウスが著したこの書簡を含む『書簡集』は、当時の噴火のすさまじさを知る貴重な資料となっています。

 この79年の大噴火でポンペイ市民の多くは市外に避難しましたが、それでも約2000人が逃げ遅れて火砕流・降灰の犠牲となりました。火山灰はその後硬化し、その後は何もなかったかのように硬くなった地上を人が歩きました。壊滅したポンペイの跡地では、復興作業が行われることもなく、しばらく新たな都市が形成されることもありませんでした。イタリア・ルネサンス期、建築家ドメニコ・フォンタナ(1543-1607)が1599年にポンペイの都市遺跡を見つけたことがありましたが、大きな展開は見られることがなく、年月が経過していきました。しかしポンペイの中では、被災直後の火山灰をかぶったまま、時間は止まっていました。

 被災して1700年もの歳月が経った1748年、ポンペイの発掘調査が遂に始まりました(本格的な調査はイタリア統一後の1860年代以後)。火山灰の真下は79年当時の状況のままでありました。逃げ遅れて被災し死んでいった人たちの遺骸が硬化した灰の中で腐敗して消滅し、空洞と化していました。この状態を残すために当時の考古学者は、この空洞に石膏を流し込んでその部分を固め、火山灰を取り除いていきました。こうして、被災した直後から時が止まっていたポンペイが、そのままの形で再現され、息をのむほどのすさまじさをあらためて痛感させられることになったのです。
 子どもを守ろうとしてうずくまりながら死んでいった母親、鎖につながれたままもだえ死んだ飼い犬、卓上に置かれた食べ物などが当時のまま再現されました。また浴場施設、神殿、広場、酒屋なども再現され、壁に描かれた男女絵や、床に描かれた犬のモザイク画なども発見されました(この状況の1つがこちらwikipediaより)。その後、発掘は現在も進行中ですが、観光地として多くの旅行客が訪れ、再び注目が集められていきました。こうして、79年に止められたポンペイの時間は、再び動き始めたのです。 

引用文献・・・『世界史の目 第143話 時間を止められた街』より

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2018年08月23日

8月23日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1927年8月23日は、アメリカ・マサチューセッツ州の刑務所で冤罪をうったえる2人の男性が処刑された日です。歴史的な冤罪事件、サッコ・ヴァンゼッティ事件として知られるようになりました。

 1920年4月15日、マサチューセッツ州のサウス・ブレイントリーで,現金輸送中の金庫箱が5人組のギャングに襲撃され,16,000ドルが強奪され、製靴会社の従業員2名が射殺される事件がおこりました。これは2回目の犯行で、1919年に発生した1回目の犯行は未遂に終わっていました。警察は強盗殺人事件として、2人の容疑者を捕らえました。1人は靴職人のニコラ・サッコ(1891-1927)、もう1人は魚の行商をしていたバルトロメウ・ヴァンゼッティ(1888ー1927)で、2人ともアナーキスト(無政府主義者)でした。2人は共に1908年にイタリアから移住してきた、いわゆる移民で、第一次世界大戦への徴兵忌避、労働者第一主義からくるストライキ指導などを行っていたために、"赤狩り"のターゲットになっていました。

 1921年、2人は証拠不十分のまま、無実を主張するもむなしく、裁判で死刑判決を受けました。そこで自由主義者による再審運動が起こり、運動は国内のみならず全世界に波及しました。この結果州知事は請願を受け入れ、再調査を行いました。しかし、"赤狩り"の風潮の中、判決は有効とされ、1927年8月23日、2人は電気椅子で処刑されました。サッコは36歳、ヴァンゼッティは39歳でした。
 それから50年後の1977年、この「サッコ・ヴァンゼッティ事件」における再々調査の結果、この事件による判決は誤審であり、無罪であると正式に認められ、8月23日を"サッコ・ヴァンゼッティの日"が設置されることになりました。

引用文献『世界史の目 第28話

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2018年08月22日

8月22日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1485年8月22日は、イングランドのヘンリー・テューダー(1457-1509)が新しいイングランド王となり、30年続いた内乱を終結してテューダー朝(1485-1603)をおこした日です。

 ヘンリーが生まれた1457年は、イングランドで大きな内乱が始まっていました。時のイングランドはランカスター朝(1399-1461,70-71)でしたが、百年戦争(1399-1453)でフランスに敗北を喫し、ランカスター朝国王ヘンリー6世(王位1422-61,70-71)の権力弱体は避けられず、かつてのイングランド王朝、プランタジネット朝(1154-1399)の血をひくヨーク公が王位継承をうったえ、ランカスター家とヨーク家が王位の座を巡って争っていたのです。時のヨーク公はリチャード・プランタジネット(公位1415-60)という人物で、ヘンリー6世が精神を患いはじめた1453年頃から国王に代わって政務を執っていた人物です。1455年にヘンリー6世が政務に復帰したところでヨーク公リチャードとの間に完全な亀裂が入り、武力解決にふみきり内乱が勃発しました。ヨーク公リチャードは1460年に戦没、子のエドワード(1442-83)が戦い抜いて翌1461年ヘンリー6世を退位させてランカスター家を陥れ、エドワード4世(位1461-70,71-83)としてヨーク朝(1461-85)をおこしました。

 ヨーク朝開始後、順調に統治が進むかと思いましたが、エドワード4世の結婚問題でヨーク家に内紛が起こり、ヘンリー6世の王妃マーガレット(1429-82)の主導で、ヨーク派に仕えた諸侯を動かして、エドワード4世を追放、ランカスター朝ヘンリー6世が一時復位しました(1470-71)。しかしランカスター派の勢力はこの時すでに衰えており、翌1471年、エドワード4世の弟で、同じプランタジネット朝の血をひくグロスター公リチャード(1452-85)らの協力を得たエドワード4世は、勢力を盛り返して、ヘンリー6世と王妃マーガレット妃をロンドン塔に幽閉し、その後ヘンリー6世は没しました(1471)。

 ランカスター派の勢力を一掃したエドワード4世には、王太子エドワード(1470-83?)とその弟リチャード(1472-83?)といった2人の子がおり、エドワード4世の次期王位を、エドワード王太子に与えるつもりでいました。1483年にエドワード4世が病没すると、王太子エドワードはエドワード5世として王位に就き(位1483)、エドワード4世の弟グロスター公リチャード(つまりエドワード4世の2子であるエドワードとリチャードの叔父)が摂政となりました。

 そこでグロスター公リチャードは、エドワード4世妃の外戚勢力が台頭してきた状況から、ヨーク公と対立、ヨーク朝の王位継承を企て、ロンドン塔にて幼いエドワード5世とその弟リチャードを幽閉、同1483年2人を殺害したとされています。グロスター公リチャードは、リチャード3世としてヨーク朝の王位に就き、専制政治を目論みました(位1483-85)。ヨーク家の内紛で、リチャード3世による一連の行動は国民を不安に陥れ、いっきに支持を失ってしまいました。

 一方で破綻したランカスター派では、傍流のリッチモンド伯がヘンリ6世の死後、ランカスター派の長となっていました。それが冒頭に出たヘンリー・テューダーです。ヘンリー・テューダーは、これまでフランスのブルターニュに亡命していましたが、ヨーク家の内紛を機に、民衆の支持を得て決起し、リチャード3世に戦いを挑んでイギリスに上陸したのです。陽の当たった1485年8月22日、バーミンガム北東のボズワースが戦場となり、リチャード3世はヘンリー・テューダーに敗れて戦死し、ヨーク朝は遂に断絶しました(ボズワースの戦い)。リチャード3世の遺体は馬に乗せられて、ボズワース近くのレスターで曝されました。これにて30年に及ぶ英国中世史に残る大規模な内戦は、遂に終結したのです。

 ヘンリー・テューダーは、ヘンリー7世としてイングランド王国の王位に就き(位1485-1509)、新しくテューダー朝をおこしました(1485-1603)。そして、エドワード4世の王女エリザベス(1465-1503)と結婚してヨーク家とランカスター家は合体(1486)、王家の統一が実現することになりました。ヘンリ7世は、両家和解の象徴として、ランカスター派には赤ばらの紋章を、ヨーク派には白ばらの紋章をそれぞれ採用、さらにテューダー朝開基後は、赤と白を混ぜたばら(テュードル・ローズ)を紋章として採用しました。これは現在イギリスの国花となっています。のちに国王がエリザベス1世(位1558-1603)の治世となって、劇作家ウィリアム・シェークスピア(1564-1616)が、百年戦争後に起こった30年間の内紛を「リチャード2世」「ヘンリー6世」「リチャード3世」として劇化(1590-95)、紅白のばらの激突を描いて、高い評価を得ました。この作品の影響で、1455年から30年におよんだ内紛は、後世になって「ばら戦争」と名付けられたといわれていますが、近年の学説では、ランカスター家の赤ばらの紋章は実在しなかったともいわれており、シェークスピアの劇に登場した紅白の合戦は史実に基づかない、創作だったとする見方も出てきています。ちなみに「ばら戦争」の英語表記は「Wars of the Roses」ですが、"Wars"と複数表記になっているのは、両家の内紛が幾次にも渡って繰り広げられたことに起因しています。

 ヘンリー7世の掲げるテューダー朝政権では、政権を国王に集中させることにつとめました。貨幣や度量衡を統一し、課税を強化させることで財政を安定させ、また没落貴族の所領を没収して王領を拡大させ、司法面においても国王大権を全面的に押し出した、星室庁裁判所(ウェストミンスター宮殿の"星の間"と呼ばれる所。天井に星印がある)を設置して、政敵をねじ伏せていきました。このようにしてヘンリー7世は、国王中心のイギリス絶対主義王政の基盤を築いていくのでした。

引用文献『世界史の目 第59話

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