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2018年08月10日
ブランク
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頼 山陽(らい さんよう)
売切れ御免
紙本 肉墨筆
(重)頼 山陽
Sanyo Rai
日本画, 国学家, 儒者, 書画家
1780 ( 安永9 )〜 1832 ( 天保3 )
本名:襄 (のぼる)
通称:山紫水明
字:子成
号:山陽、三十六峯外史(三十六峰外史)、山陽外史
大坂出身 師、頼春水、菅茶山
大坂の江戸堀にて私塾を開いていた頼春水の子として生まれ1871年1歳の頃に父が広島の藩儒に登用された為に広島竹原に移住。
1797年に江戸に遊学して尾藤二洲に師事して儒学・詩文を学んだが青年期は素行が悪く1800年に広島藩を脱藩、京都などを巡遊したがすぐに藩に連れ戻されて幽閉となりその間、著述に没頭。
出獄後は福山藩の儒官菅茶山の廉塾の門下となりその後塾長も務め、1811年には再び京都にて自由な学問を求めて私塾を開校。
詩文、書、絵画に優れ著書においても多数残しているが代表的なものに「日本外史」「日本政記」「日本楽府」、詩文集に「山陽詩鈔」「山陽遺稿」などがある。
また、文人・画家・詩人と数多く交友を持ち著名な人物では画家の田能村竹田、浦上玉堂、江馬細香、儒者の梁川星巌、大塩平八郎らがいる。
印章は、自ら刻した。書斎は常に行届いており、骨董と書物を愛したと言われている。
〔印 名〕
「頼子成」「頼襄」「迂襄」「臣襄」「山紫水明」「身留一剣答君恩」「古之人古之人」「頼襄之印」「匪莪」「有不為心」「水竹人」「不薄今人」「山水艸堂」(「山水草堂」)「遊戯」「論事学誼約事学仙」「醉襄」(「酔襄」)「水竹主人」「我思古人實穫我心」「洗眼看軽薄」「一箇?人天地?」「山陽外史」「友竹」「彫蟲」(「彫虫」)「行雲流水」「弎十六峯外史」(「三十六峰外史」)「寧静到遠」「頼氏子成」「在禑耕」「存戯」「園無欲情」など
〔市場評価〕★★★
紙本 肉墨筆
(重)頼 山陽
Sanyo Rai
日本画, 国学家, 儒者, 書画家
1780 ( 安永9 )〜 1832 ( 天保3 )
本名:襄 (のぼる)
通称:山紫水明
字:子成
号:山陽、三十六峯外史(三十六峰外史)、山陽外史
大坂出身 師、頼春水、菅茶山
大坂の江戸堀にて私塾を開いていた頼春水の子として生まれ1871年1歳の頃に父が広島の藩儒に登用された為に広島竹原に移住。
1797年に江戸に遊学して尾藤二洲に師事して儒学・詩文を学んだが青年期は素行が悪く1800年に広島藩を脱藩、京都などを巡遊したがすぐに藩に連れ戻されて幽閉となりその間、著述に没頭。
出獄後は福山藩の儒官菅茶山の廉塾の門下となりその後塾長も務め、1811年には再び京都にて自由な学問を求めて私塾を開校。
詩文、書、絵画に優れ著書においても多数残しているが代表的なものに「日本外史」「日本政記」「日本楽府」、詩文集に「山陽詩鈔」「山陽遺稿」などがある。
また、文人・画家・詩人と数多く交友を持ち著名な人物では画家の田能村竹田、浦上玉堂、江馬細香、儒者の梁川星巌、大塩平八郎らがいる。
印章は、自ら刻した。書斎は常に行届いており、骨董と書物を愛したと言われている。
〔印 名〕
「頼子成」「頼襄」「迂襄」「臣襄」「山紫水明」「身留一剣答君恩」「古之人古之人」「頼襄之印」「匪莪」「有不為心」「水竹人」「不薄今人」「山水艸堂」(「山水草堂」)「遊戯」「論事学誼約事学仙」「醉襄」(「酔襄」)「水竹主人」「我思古人實穫我心」「洗眼看軽薄」「一箇?人天地?」「山陽外史」「友竹」「彫蟲」(「彫虫」)「行雲流水」「弎十六峯外史」(「三十六峰外史」)「寧静到遠」「頼氏子成」「在禑耕」「存戯」「園無欲情」など
〔市場評価〕★★★
2014年10月16日
千楯(城戸千楯) 和歌 「宴居弾翠 先誦歌」
売切れ御免
紙本 墨肉筆
宴居弾翠 先誦歌
城戸千楯(きど ちたて)
(大江千楯)
江戸後期の歌人。名は範次。京都の書林紙魚蛭子屋市右衛門・本居宣長の門。弘化2年(1845)歿、68才。
安永7年(1778)〜弘化2年(1845)9月21日。68歳。京都錦小路室町西入にあった本屋蛭子屋市右衛門の子に生まれる。名は初め経正、後に千楯。晩年範次。通称万次郎、のち市右衛門。号は紙魚室、鐸舎、曙廼舎。
寛政9年(1797)宣長に入門。同12年家業を継ぐ。その後、鐸屋(ヌデノヤ)を開き国学教授をする。文政6年(1823)以文会に入る。平田篤胤を排斥する急先鋒であったという。定誉戒空恵範禅定門(墓石は定誉恵範信士)。墓は京都黒谷金戒光明寺。著書は『万那備能広道』、『和歌ふるの山ふみ』、『紙魚室屋筆記』など。
紙本 墨肉筆
宴居弾翠 先誦歌
城戸千楯(きど ちたて)
(大江千楯)
江戸後期の歌人。名は範次。京都の書林紙魚蛭子屋市右衛門・本居宣長の門。弘化2年(1845)歿、68才。
安永7年(1778)〜弘化2年(1845)9月21日。68歳。京都錦小路室町西入にあった本屋蛭子屋市右衛門の子に生まれる。名は初め経正、後に千楯。晩年範次。通称万次郎、のち市右衛門。号は紙魚室、鐸舎、曙廼舎。
寛政9年(1797)宣長に入門。同12年家業を継ぐ。その後、鐸屋(ヌデノヤ)を開き国学教授をする。文政6年(1823)以文会に入る。平田篤胤を排斥する急先鋒であったという。定誉戒空恵範禅定門(墓石は定誉恵範信士)。墓は京都黒谷金戒光明寺。著書は『万那備能広道』、『和歌ふるの山ふみ』、『紙魚室屋筆記』など。