アフィリエイト広告を利用しています

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog
プロフィール

たか
歴史と80年代ハードロック、80年代歌謡曲、競馬をこよなく愛する39歳(独身)です。 色々と好き勝手に述べます。
リンク集

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog
2010年04月22日
美女貂蝉
最近、ゲーム等で三国志の登場人物がかなり有名になってますが、この貂蝉(チョウセン)もかなり有名になったのではないでしょうか?

格闘ゲームの三国無双シリーズでは、紅一点として一番最初に出て来た女性キャラですね。
(三国無双の一番最初の物で1対1の格闘ゲームでした。)

ご存知の通り、この女性は王允(オウイン)が当時の権力者である董卓(トウタク)と、そのボディーガード的人物呂布(リョフ)の仲を割く為に送り込んだ女性で、期待通りに董卓と呂布の仲を裂き(美女連環の計)、呂布に董卓を殺させてますね。

その後、三国志演義では呂布の妾として生きながらえ、子供はできなかったものの呂布の出陣を引きとめたりといった場面で出てきます。

最終的にどうなったかは記載されてませんが…。

ちなみに、吉川三国志では連環の計を遂げた貂蝉が自害して果てるということになってますが…。

色々とあるのは、この人は本当は歴史に登場しない人物だからですね。

元となったのは正史三国志の「呂布が董卓の侍女と密通し、発覚を恐れて王允に相談…云々」というくだりがあり、この侍女に名前をつけ、王允と絡めて面白く作り上げたのがこの貂蝉というキャラクターですね。

しかしながら…。

この悲劇的な人生を送らざるを得なかった貂蝉の人気がすごかったんでしょうか、この人にはかなり多くの民間伝承が伝わっています。

例えば、もう少しで呂布を下せるとなった時に攻め手の総大将である曹操(ソウソウ)に同じ陣営にいた関羽(カンウ)が「呂布の侍女を賜りたい」なんて言っている話が伝わっています。

これは貂蝉を指すと言われてますが…。

結局呂布を下した曹操が関羽に侍女を与えようとしたのですがあまりに美人なので自分の妾にし、関羽はもんもんとした日々を送ると言った話もあります。

また、劉備(リュウビ)と張飛(チョウヒ)が貂蝉の美しさに狂い、仲間割れの危機が生じた為、関羽が貂蝉を斬ったとか…。

中でも、一番つっこみたくなる話は…。

貂蝉は元々ぶさいくで王允が華佗(カダ 三国志に出てくる伝説の名医)に相談した所、首を西施(セイシ 中国古代四代美女の一人。呉国を滅ぼす為に越王勾践/コウセン から送られた美女)のものと取り換え、度胸がなく行動に移せない為に肝を荊軻(ケイカ 始皇帝暗殺の為に単身乗り込んだ刺客)のものと取り換えたなんて逸話まであります。

もはやサイボーグですね。

ショッカーに改造された仮面ライダーのようなものでしょうか…。

中国恐るべし!!

なんにせよ、この貂蝉は男くさい三国志の中でひときわ華を感じさせる数少ない人物ですね。

Posted by たか at 00:41 | 三国志 | この記事のURL
2010年04月17日
高順という男
先日、「惜しいかな陳宮(チンキュウ)」という記事を記載しました。
(2010年4月4日の記事)

こちらに対して「高順(コウジュン)+陳宮で劉備(リュウビ)に仕えれば面白かったかも」というご意見と高順のリクエストを頂きましたので本日は高順について記載したいと考えております。
(seesaa版において。)

高順は字(アザナ)が伝わっていません。

その為、字なしとなりますが…。

近年、ゲーム等で三国志の武将というのはかなり有名になりましたが…。

この男ももっと有名になってもなんらおかしくない活躍をしているのですが、かなり地味な武将にとどまっていますね。

この男が話に出てくるのは呂布(リョフ)の配下としてです。

恐らく、丁原(テイゲン)-董卓(トウタク)-呂布という流れで仕えていると思うのですが…。

呂布の配下で猛将というと、真っ先に浮かぶのが張遼(リョウリョウ)かと思いますが、この男もかなりの猛将です。

恐らく、呂布の配下として張遼よりも位は上の人物だったと思われます。
(張遼を率いている記述がありますしね。)

攻撃したら必ず敵を討ち破るという所から彼の異名は「陥陣営」。
(敵の陣営を必ず落とすという所から…。)

まさに猛将と言えますね。

しかも、臧覇(ゾウハ)に対するやり取りでは、しっかりと状況を把握できており戦略眼も感じられます。

高順の人となりは…。

寡黙な男で、清廉潔白。
威厳があり一切酒を飲まなかったそうです。

しかも、呂布に対してはかなりの忠誠心を持っていて時には諫言も行ったそうですね。
(でも、それを呂布に疎まれているようですが…。)

なかなかできる男ですよ。

ちなみに「蒼天航路」という曹操(ソウソウ)を主人公としたマンガではなかなか渋い役割をしています。

ただ、問題としては呂布軍の軍師である陳宮と折り合いが悪かったそうです。

勝手に想像するに…高順は「自分こそ呂布の一番の配下」と思っていたのではないでしょうか。

それに対し、右腕のようにふるまう陳宮が疎ましかったのでは?なんて想像しています。

気になる所は、呂布が曹操に負けて主だった武将が捕らえられた際に、陳宮、張遼は曹操が惜しんで配下にしようとしているのに対し、高順は問答無用で処刑されてますね。

あの人材マニアの曹操が…。

私としては、かなり気になる所ですね。

何が不満だったのでしょうか…。


コメントで頂いたように「もし、高順+陳宮が劉備に仕えたら」…。

この高順という男は間違いなくプライドの高い関羽(カンウ)、張飛(チョウヒ)と折り合いが悪く、劉備も陳宮は頭脳として必要なのでかばったとしても、高順はそれ程必要視せず(必要なんですが、関羽、張飛をなだめてまでというレベルではないでしょうね)あまりかばう事をしないでしょう。

そうなると、陳宮と折り合いの悪い高順は武将仲間であるべき関羽、張飛とも折り合いが悪く、戦場での活躍の場を失ってしまうと考えられます。
(戦の際に出陣はするが、手柄をあげれそうもない位置に布陣させられたり…。)

高順が劉備陣営で成功するには…。

劉備軍が蹴散らされる程の状況で、彼がひとり八面六臂の大活躍をする事(要は関羽、張飛に自分が必要であると認めさせる事)と、陳宮に対し、高順から折れて親交を結ぶ事が必要でしょうね。

そうすると、高順が機能しだし、かなり強力な劉備軍が出来上がると思われます。

個々の能力だけを並べると、関羽、張飛、高順、陳宮というメンバーがそろえばかなり強力なんですが…。
(しかも、徐州を治めている頃の劉備なら陳羣/チングン もいますしね。)

人は感情、プライド等々のしがらみがあるので、なかなかうまくやるのは難しいですね。

地味な感じがぬぐえない名将高順。

恐らく、活躍の時間が短かった事と、曹操に選ばれなかった事が彼の評価を低くし、地味な印象を与えてしまっているんでしょうね。

でも、私は結構好きですよ。

Posted by たか at 08:48 | 三国志 | この記事のURL
2010年04月15日
徐庶の名前
徐庶(ジョショ)字を元直(ゲンチョク)、悲劇の軍師として三国志演義では描かれている人物です。

私が三国志の登場人物の中で一番好きな人物でもあります。

この人は三国志演義の中で最初「単福/ゼンフク、ゼンプク、タンプク等々」という名前で出てきます。

これは三国志演義の作者の誤解です。

三国志演義というのは正史三国志を元に記載された小説なんですが、その正史三国志の中で「単家(タンカ、ゼンカ等)の出身である」という記述があります。

これを見て、三国志演義の作者は「単」というのが姓と勘違いしたようです。

単家というのは姓の事ではなく、中国独特の表現で「権勢のない家柄、(或いは寒門)の出身である。」という事なんですね。

また、福という名前ですが…。

これも正史三国志の記載で「元の名は福であり…」というくだりがあるので採用したようです。

この福に関しては正しい解釈です。

元々、徐庶は「徐福(ジョフク)」という名前だったんですね。

ちなみに…始皇帝の頃にも徐福は出てきます。

彼は始皇帝に対し「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と言って東方に船出した男です。

日本に辿りついたという噂も…現に和歌山には彼の墓があるとか…。

「不死の薬を名目に始皇帝から物品をせしめた詐欺師」と描かれる事もあります。

勿論この徐福とは別人です。
(そら400年くらい話が離れてますもんね。)

話がそれましたが…。

この男、徐福から徐庶に名前を変えたのは、実は魏に仕えて御史中丞(ギョシチュウジョウ)まで出世しますが、この頃はまだ徐福だったそうです。

徐庶に名前を変えるのはもっと晩年だったとの事です。

この御史中丞という役職ですが…。

諸葛亮(ショカツリョウ)が晩年に「徐庶が御史中丞程度の官職とは魏は人材が豊富なんだな」というような内容の記載が正史三国志にあるので、かなり低い役職と思われがちですが、実際は副総理位の役職のようです。

州の刺史(州を治める長官)を監督する仕事もこの御史中丞だったそうですから…結構高い官職なんですよ。

また、話がそれましたが…要は劉備(リュウビ)に仕えていた頃の彼の名前は「単福」でも「徐庶」でもなく「徐福」なんですね。

またまたちなみに…。

この人、実は600年くらい後の話にも登場します。

倒れていた村人を助けた仙人が、その村人に名前を聞かれると「徐庶じゃ」と答えたそうです。

彼は仙人になっていたんですね…。

んなあほな!!!

Posted by たか at 02:16 | 三国志 | この記事のURL
2010年04月14日
劉巴という硬骨漢
劉巴(リュウハ)字を子初(シショ)という人がいます。

恐らく、印象に残っているのは劉備(リュウビ)の配下になってからではないでしょうか?

しかしながらこの男、実は208年に曹操(ソウソウ)が荊州(ケイシュウ)に侵攻した際、多くの人士が劉備に従ってなんかする中、残って曹操に仕えています。

その元で長沙(チョウサ)郡等、荊州南部の三郡を平定する任務を受けますが、曹操が赤壁(セキヘキ)で敗北し、劉備が荊州南部に攻め込んできた為、曹操の元に戻れなくなります。

ここでも、劉巴は劉備の配下になる事を嫌い、もっと南の交州(コウシュウ)まで逃げます。

その後、太守と不和になり、益州(エキシュウ)の劉章(リュウショウ)に仕えます。

劉章が劉備を益州に招こうとした際に黄権(コウケン)と共に猛反対もしています。

これだけ見ていると、かなり劉備が嫌いなんでしょうね。

その後、劉備が益州を治めるようになると、劉巴は以前の罪を詫び、劉備もとがめず、劉備に仕官を乞われた為、劉備配下になります。

この男、かなり政治能力に優れていて諸葛亮(ショカツリョウ)と共に蜀科(蜀の法律)を作ったり、その他政策において功績をあげています。

ちなみに、4月9日のこのブログで記載した陳羣(チングン)は敵勢力であるにも関わらず、諸葛亮宛てに手紙を出し、劉巴の消息を聞いたりしています。

この時代、名士と呼ばれる人達は敵勢力であっても交流があり、名士サロンのような物を形成していたようです。

劉巴は敵勢力からも消息を聞かれるほど有名な名士だったんですね。

そんな名声にあこがれて…。

劉備の片腕である万夫不当の張飛(チョウヒ)が交流を持ちたいと思い、劉巴にアプローチするのですが、これがまた…劉巴は話をしようともしなかったそうです。

張飛もかなり腹を立てたので、諸葛亮が劉巴にとりなした所…。

「大丈夫(立派な男)がこの世に生をうけたからには、当然四海の英雄と交わるべきです。どうして一兵卒と語り合う必要がありましょうか。」
と言って張飛と全く親交を結ぶ事がなかったそうです。
(ちなみに、一兵卒は張飛を指してます。)

これを以て当時は士大夫と庶民との間に厳然たる身分差や差別があったと言われますが…。

あったのはあったのでしょうけど、この考え方はむしろ、中国の根本的な考え方を表しているといえます。

中国では文を第一とします。

いくら万夫不当の豪勇を持っていても、優れた知識を持っていなければ所詮「匹夫の勇」と言われます。

恐らく、劉巴は張飛を「匹夫の勇」と侮っていたのでは?と思います。

ただ、張飛と言えば主君である劉備の股肱の臣。

そんな男にも反発心をはっきりと言える劉巴はある意味凄いですね。

劉備に従うのを潔しとしなかったのも…これは劉備も含めてバカにしていたのでしょうか?

となると、やはり士大夫と庶民の差別なんでしょうか…。
(ちなみに劉備は中山靖王劉勝/リュザンセイオウリュウショウ の末裔とされますが、あくまで自称で、世に出る前は筵や草鞋を売って生計を立てていました。)

劉巴、恐るべし。

Posted by たか at 02:13 | 三国志 | この記事のURL
2010年04月09日
陳羣という能吏
陳羣(チングン)字は長文(チョウブン)。

彼は結構地味な存在です。

三国志をちょっと詳しく読まれた方は「曹丕(ソウヒ)の四友の一人で九品官人法を制定した人です。」と答えられるでしょうが…。

ちなみに九品官人法とは、当時採用官や地元の豪族の恣意性が強かった人材登用を、法律として再度整備してそうした余地が入り込まないようにする狙いをもって、同時にまもなく起こる後漢から魏への易姓革命に備え、後漢に仕える官僚を魏に再任用する際の人材のふるい分けを狙う制度であったと考えられているそうです。
(以上、Wikipediaより。)

この制度は隋代までの中国における人材登用の基本制度となったそうです。

と、彼の有名なエピソードを挙げるとこうなる訳ですが…。

ただ、このくだりは220年とか、226年辺りの事となります。

実は彼はもっと早くに登場しています。

それよりも30年ほど前に、曹操(ソウソウ)ではなく、劉備(リュウビ)に登用され、別駕となってます。

194年に劉備が徐州(ジョシュウ)刺史の陶謙(トウケン)が死んだ際に劉備が跡を継いで徐州を領有するのですが、その際に彼は「南に袁術(エンジュツ)、西から呂布(リョフ)が徐州を狙っているので危険」と言って反対しています。

劉備が呂布に敗れて領地を失うと野に下り、徐州で避難生活を送った後、呂布を滅ぼした曹操に仕える事になります。

彼は常に名誉と道義を重んじた人で、能臣郭嘉(カクカ)に対してもその品行の悪さを法に照らして罰しようとしたいわゆる信賞必罰の男だったようです。

とまあ、ばらばらと彼の事績を述べてきましたが、この男、実は若干日本に絡んでいるという説があります。

というのも、日本の事が文面に出てくる最古の物は魏志倭人伝(ギシワジンデン)ですが、これは正史三国志の中の魏志の中にある記述です。
(正式には、「三国志 魏書東夷伝倭人条」というそうです。)

倭国からの使者に対して皇帝曹叡(ソウエイ)はこれを歓び、女王を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与えたという事ですが、この使者が曹叡に謁見する為に労を取ったのが司馬懿(シバイ)じゃないかと一部では言われてます。

司馬懿というのは諸葛亮(ショカツリョウ)のライバルとして登場しますが、この人も曹丕の四友の一人です。

当時陳羣の功績が大きく、そこに焦りを感じていた司馬懿に倭国からの使者が来たという情報が入ります。

この使者は貢物をもっているので、司馬懿が皇帝に謁見させれば、司馬懿の功績になります。

そんな状況もあり、陳羣への対抗意識から、司馬懿が倭国を必要以上の大国と皇帝に吹き込み、謁見させたという説を読んだ事がありますが…。

それはないです。

倭国の使者が来たのが239年。

陳羣が亡くなったとされる年は235年説と238年説があるようです。

どちらにしても、陳羣は死んでいます。

司馬懿も死んだ男に対抗する訳がないですよね。

という事で、結局陳羣は倭国には絡んでいませんでした。

ちゃんちゃん。

Posted by たか at 02:36 | 三国志 | この記事のURL
2010年04月04日
惜しいかな陳宮
この所、三国志ネタが続いてますが…。

実は、ちょっとばたばたしている関係で、さらっと書けるというと三国志になる訳で…。

最近は龍馬伝なども放送されているので、幕末ネタをもっと増やすべきだとは思うのですが…。

三国志ネタにします。

陳宮(チンキュウ)字を公台(コウダイ)。

この人は私の中ではかなり惜しい人物です。

三国志演義では、董卓暗殺に失敗して洛陽から逃げ出した曹操(ソウソウ)を捕まえる、中牟県(チュウボウケン)の県令として登場します。

一度は曹操を捕らえますが、その志に感服し共に逃亡する事になるのですが…。

途中で立ち寄った曹操の知人の呂伯奢(リョハクシャ)の家で、隣の部屋から「一気に殺してしまえ」といったような言葉が聞こえ、呂伯奢の家族に殺されるのではと疑心暗鬼にかられ、曹操と一緒に呂伯奢の家族や使用人の全てを殺害します。

実は曹操と陳宮をもてなす為に猪を殺して料理しようとしていたのですが…。

さらに家から逃げ出す途中、曹操は何も知らない呂伯奢をも口封じのため殺害してしまう曹操を見て、そのあまりの身勝手さに呆れた陳宮は、彼の寝込んだ隙に暗殺しようと考えるのですが、思いとどまり、1人で東郡(トウグン)へ去ります。

その後、呂布(リョフ)の軍師として登場し、曹操が徐州(ジョシュウ)の陶謙(トウケン)を攻めた際に曹操の拠点である兗州(エンシュウ)を奪い取ります。

結局は曹操に負け、斬首される事になります。

史実では…。

天下が動乱の時代を迎えた際に曹操に仕え、その覇業を助けるのですが、曹操が徐州を攻めた際に呂布をかついで反旗を翻します。

その後は演義の下りと同じになります。

何が惜しいかというと、この男はなかなかの戦略眼とか戦術眼をもっています。

例えば、曹操から独立するタイミング等は絶妙ですし、呂布の配下として曹操と戦っていた際の献策等も的を得たものです。
(あまり採用されませんでしたが…。)

曹操も、陳宮を処刑する際になんとか改心させて自分の手元に置こうとしていますが、それを潔しとしない陳宮は処刑されます。

この男が何故曹操から独立したかという所は諸説あります。

例えば、曹操が陶謙に攻め込んだ際、陶謙の配下に曹操の父親を殺された事が発端で攻め込む訳ですが、その侵攻が徐州の民から家畜まで、全て殺しつくして進んでいくという非情さを見て曹操に見切りをつけたという説。

もうひとつは、彼は漢の張良(チョウリョウ)のように君主を意のままに操る軍師になりたかったが、曹操の元では荀ケ(ジュンイク)、郭嘉(カクカ)等、優れた軍師が多く、曹操自身が優秀な軍師の資質を持っていた事もあり、なかなか理想通りに行かなかった為、思い通りになりそうな呂布を担いだ等とも言われてます。

私が惜しいというのは、彼は能力があるので、もっと他に担ぐ人がいたんじゃないか?と思う所です。

あの当時の君主を考えた場合…。

袁紹(エンショウ)の元には田豊(デンポウ)、沮授(ソジュ)等がいるし、孫策(ソンサク)の元には周瑜(シュウユ)がいるのでNGとしても、袁術(エンジュツ)、陶謙等、軍師不在といっていい君主がいました。

中でも劉備(リュウビ)が一番よかったのでは?なんて思ってます。

彼のもとには関羽(カンウ)、張飛(チョウヒ)等の豪傑はいても軍師がいませんでした。

そこに陳宮の頭脳が加わると…なかなかの集団になったのでは?と思われます。

しかしながら彼が選んだのは呂布。

あまり良い選択肢ではないような気が…。

恐らく、呂布を君主と選んだ時点で彼はジョーカーを引いていたんでしょうね。

Posted by たか at 02:33 | 三国志 | この記事のURL
2010年04月01日
悲しき魏延
魏延(ギエン)字を文長(ブンチョウ)。

反骨の相(頭蓋骨が後部にでていることで裏切りの象徴とされる)で有名な武将です。

この人、最後は裏切り者として殺されます。

でも、そうなんでしょうか…。

今回は三国志演義をメインに記載する事になりますが…。

三国志演義における魏延の初登場シーンは、曹操(ソウソウ)が南制を始め、荊州(ケイシュウ)に攻め込んできた為、当時劉表(リュウヒョウ)に身を寄せていた(と言っても、この時点では劉表は既に死に、子の劉j/リュウソウが継いでいましたが…)前線の劉備(リュウビ)は民を引き連れて撤退を開始し、襄陽(ジョウヨウ/劉表の本拠)の城に辿りつきます。

しかしながらその時には、劉jは既に曹操に降伏した後の為、劉備を城の中へ迎え入れる事をせず、反対に弓矢を打ち込んできました。

そんな劉j(と言っても、全ての権力と決定権は蔡瑁/サイボウ にあり、劉jはそれに従っただけなんですが…)の仕打ちに憤りを感じて、城の内部から反乱を起こし、劉備を城の中に引き入れようとしたのが魏延でした。

そんな状況を見て、劉備は城にはいる事をせず、江陵(コウリョウ)に向かった為、おいてきぼりをくらった魏延は長沙(チョウサ)に向かい、太守の韓玄(カンゲン)の元に仕えます。

その後、劉備と孫権(ソンケン)の連合軍が曹操に赤壁(セキヘキ)で勝利した後、劉備は長沙に攻め込みます。

この戦で魏延の同僚の黄忠(コウチュウ)が関羽(カンウ)との一騎打ちで引き分け、城に帰ってきた所、韓玄に内通を疑われ、処刑されそうになると、魏延は民や兵士を扇動して韓玄を斬り、城を開けて劉備に降伏しました。

ね、この魏延という男は本当に劉備の為に色々と働いているでしょう?配下でもないのに。

にも関わらず、彼の最後は味方であるはずの馬岱(バタイ)によって斬られます。

その経緯は…。

五丈原(ゴジョウゲン)で蜀軍は魏(ギ)と戦っていましたが、諸葛亮(ショカツリョウ)はその陣中で没します。

諸葛亮が死ぬ間際、自分が死んだら撤退するように服臣に伝えますが、その折に「もし魏延が撤退に反対したらおいてきぼりにしろ。」なんて言い、最悪の場合、魏延を斬るという策を授けます。

諸葛亮が死ぬと魏延は撤退に従わず、諸将が自分を無視して撤退を開始したことを知ると、怒った魏延は先回りをして桟道を焼き払い、退路を遮断します。

そこで戦闘になるのですが、魏延の兵たちは魏延が命令を無視している事を知っているので、離散し、結局馬岱に斬られて死ぬ訳です。

ちょっと、可哀そうな最後ですよね。

実際あの時点における蜀で、魏延程の武勇の持ち主はいないにも関わらず、彼を殺す策を立てる諸葛亮も、ちょっとと思われます。

ただ、この魏延という男はどうも性格に難があったようで、諸葛亮が死んだ後、この男を制御できる人材がいなかったのも事実のようですが…。

劉備の為に生き、劉備の為に戦った男の最後としては余りに可哀そうな最後ですね。

ちなみに、撤退作戦の際の魏延の命令不服従を謀反とする話が多いですが、これは決して謀反ではないですね。

自軍に先回りして退路を断った訳ですから…。

全軍を率いて魏軍に当たりたいという意思ですよね。

謀反なら、そのまま魏に降るか、独立して魏と結び、蜀軍を追撃しますよね。

これを謀反にしてしまうのも、可哀そうな話です。

ちなみに、長沙で降伏し、劉備に対面した際に側にいた諸葛亮が主君である韓玄を裏切った行動をとがめ、「反骨の相があるので、魏延を斬るように」なんて進言され、あやうく斬られる状況になってしまいます。
(劉備のとりなしのお陰で処刑は免れますが…。)

このくだりは恐らく三国志演義の作者が、魏延の最後と照らし合わせ、諸葛亮を神がかりの軍師に仕立てる為に造ったフィクションなんでしょうね。


今日は長々と魏延の話を記載しましたが、実を言うと、この魏延という武将、とりわけ好きなわけではありません。

どちらかというと、それほど好きではない武将です。

でも、可哀そうは可哀そうなので書いてみました。

Posted by たか at 02:32 | 三国志 | この記事のURL
2010年03月31日
劉備玄徳の不思議な魅力
もし、タイムマシーンができて過去に行けたなら…。

私が一番会ってみたい人物は劉備玄徳(リュウビゲントク/玄徳は字)です。

有名な話で、三国志には正史の三国志と三国志演義(正史を基にした小説)があり(このブログでも取り上げてきましたが…)、劉備玄徳は三国志演義の前半の主人公です。
(後半は諸葛亮孔明/ショカツリョウコウメイ が主人公のようなもの。)

三国志といわれる時代の三国の一角、蜀(ショク)の皇帝を名乗った男です。

三国志演義では、この人は聖人君子でとにかく誠実。
涙もろく、情に深い君主として描かれています。

まあ、完全な善玉なんですが…。

何故、この人に会ってみたいかというと、そういう善玉の像にあこがれを描いて、会ってみたい訳ではありません。

正直、あの乱世を生き抜いてきた人ですし、しかも、この人ほど多くの苦労をした人もいないのでは…と思って見ると、一筋縄ではいかない人物だったと想像されます。

私が会って見たい理由は…。

この人の戦績を見てみると、黄巾の乱のような素人相手の戦では強かったのかもしれませんが、群雄割拠の世の中における戦争は、8割〜9割は負けてます。

しかも、城や領土を失って放浪する事もしばしば…。

にもかかわらず、関羽(カンウ)、張飛(チョウヒ)、趙雲(チョウウン)等の、当時では超一流の武将や、諸葛亮(ショカツリョウ)等のこちらも当時では超一流の智将が損得勘定抜きでつき従ってます。

「その魅力はいったいどこにあるんだろう?」という疑問をずっと抱いてます。

前漢の中山靖王劉勝(チュウザンセイオウリュウショウ)の末裔とされていて、皇室につながっているなんて話になってますが、これはあくまで自称ですから…。

ちなみに、中山靖王というのはまあ、中山国(チュウザンコク)の王という事で、中山というのは当時の中国にあった地名です。

この劉勝、どんな人だったかというと…。

酒好きかつ女好きであり、淫色に耽った王で、子は50人以上いたそうです。
(孫も合わせて120人以上の子をなしているなんて記載を見た事がありますが、孫ってこの人の子としてカウントしていんだろうか…。)

生年はわからないですが、没年は紀元前113年だそうです。

劉備が活躍した頃は200年前後です。

となると、劉勝の歿後、約300年くらいたった後に現れたのが劉備です。

その頃には劉勝の末裔って何千人いたんでしょうね。

恐らく、そこに目を付けて称したのではないかと勝手にひとり納得しています。

そんな怪しい系譜に対して関羽や張飛、趙雲、諸葛亮と言った面々が忠誠を誓った訳ではないと思います。

むしろ、劉備自身に人を引き付ける魅力があったと考えるべきなんでしょうね。

あの暴れん坊の関羽や張飛が絶対服従した唯一の人ですからね。
(関羽、張飛との出会いについての私見は2009年10月7日の関羽の項に記載させて頂いております。ファンブログ版をご覧の方はリンク集から「私的歴史道seesaa版」をクリックしていただければご覧いただく事が出来ます。)

案外、聖人君子の魅力ではなく、親分肌で兄貴分の魅力をもった男だったんでは?と考えています。

ちなみに、昔は聖人君子像の劉備ばかりでしたが、最近ではそういう書き方をされている方がむしろ減っているのでは?と思います。

どちらにしろ、この人の不思議な魅力は文面ではなく、会って確かめたいと思ってしまう訳です。

Posted by たか at 02:50 | 三国志 | この記事のURL
2010年03月20日
万夫不当の張飛
張飛(チョウヒ)字を益徳(三国志演義では翼徳)は劉備(リュウビ)の片腕として活躍した万夫不当の猛将です。

ちなみに、万夫不当とは「兵一万人に匹敵する」という意味です。

正直、私は疑問に思っている所が多い武将でもあります。

まず、この人の字(アザナ)ですが、正史の三国志では益徳(エキトク)、三国志演義では翼徳(ヨクトク)となっています。

何故、字を変える必要があったんでしょうか?

例えば、中国は皇帝になった人等と字がかぶる場合、身分の低い方の人の漢字を変えるというような事はあるんですが、益徳の場合、私の知る限り、該当者がいないんですよね。

後に劉備政権ができる益州の字とかぶるので変えたのでしょうか???

理解できません。

また、この男は大概「バカ」、「酒豪」、「粗暴」という形で描かれます。

酒豪はそうなんでしょう。

粗暴というのも、自分の目上の人に対してはへいこらするが、目下の者に関しては容赦がなく、部下をよく殴り殺したりしていたそうですから納得がいきます。
(劉備にも「部下を殺しすぎる」と注意されてますしね。)

でも、この人、バカだったんでしょうか…。

この人の戦争、策を弄しているものもあり、それが当たってます。

曹操軍(ソウソウグン)劉岱(リュウタイ)を破った際、長坂橋での仁王立ちの際、厳顔(ゲンガン)を生け捕った際等々…。

案外、頭も切れたんじゃないでしょうか?

また、自分のしていない事で悪名をかぶったりしてます。

三国志演義では督郵が劉備に賄賂を要求した為、張飛が督郵を木につるして鞭打った事になってますが、正史の記載では劉備が鞭打ってます。

劉備の聖人君子像を壊さない為に乱暴者の張飛にさせたのでしょうが…。

このあたりを上手くとり、北方謙三氏は北方三国志の中で切れやすい劉備に対し、劉備が切れそうになったら先に自分が切れて暴力を振るうという形で張飛を描いておられます。

秀逸と思います。

私は、この張飛はかなり好きな武将です。

今まで読んだ三国志の中で一番好きな張飛は「北方三国志」の張飛ですかね。

憎め無さと悲哀を背負ったかっこいい武将として描かれています。

読まれてない方は一度読まれてはいかがでしょうか?


もっとアクセスUP
【もっとアクセスUP】- もっとアクセスアップ(トラフィックエクスチェンジ型アクセスアップツール)









お小遣い稼ぎ総合支援サービス 豚の貯金箱

Posted by たか at 03:39 | 三国志 | この記事のURL
2010年03月11日
魯粛は伊達じゃない!
一般的に読まれている三国志として三国志演義がありますが、多くの人はこの本を読んで三国志と理解しています。

三国志演義を読まれた方は魯粛(ロシュク)という武将を恐らく人が良く、劉備(リュウビ)勢力に振り回された無能な男と考えていると思われます。

しかしながら、この男、かなりの男なんですよね、実は…。

私がこれまで読んだ本では、この人は諸葛亮(ショカツリョウ)が劉備に天下三分の計を解きますが、それ以前に似たような思想をもっていたんですね。

彼の場合は天下二分の計なんですが…。

要は長江流域を孫権(ソンケン)が領土とし、北の曹操(ソウソウ)と雌雄を決するというもの。

それが、劉備が転がり込んできた事によって、荊州を劉備に貸し与えて、ある意味天下三分の形を作る事を考えた人なんですね。
(ただ、天下二分の際は蜀も含んでますが、この三分の場合は蜀を含みませんが…。)

赤壁の戦いにおいては、曹操から挑戦状をたたきつけられた段階では孫権陣営では和平派と開戦派に分かれていて、和平派の方が有利だったようです。

その中で、魯粛は断固開戦を唱えます。

最終は周瑜(シュウユ/彼もバリバリの開戦派)も会議の場に駆けつけて議論が沸騰するのですが、その席で、孫権が衣装を変えると言って席を立ちます。

その際に魯粛は孫権についていき、行ったセリフがいかしてます。

自分の主君に対し「降伏してもいいんですよ。私や他の重臣達はそれぞれそれなりの高位に就く事ができます。でもあなたはどうですか?せいぜい身の回りの世話をしてくれる人をつけてもらい、寂しい生活を強いられますよ。」なんて事を言ったらしい。

これは降伏した場合、孫権に再起の力を与えないように飼い殺しにするという事ではなくて、家格の問題なんですね。

孫権の重臣達と孫権を比べると、孫家という家格は数段落ちます。

当時の中国はバリバリの儒教社会。

まだまだ家格が物を言う時代だったんですね。

この魯粛の脅し?も孫権に開戦を決断させた一因だったんでしょうね。

主君にここまで言える魯粛ってすごいと思いませんか?

あの三国志演義で孫権と劉備の間で板挟みになって苦しむ弱気な魯粛とはまた一味も二味も違いますよね。

三国志演義の作者は魯粛に恨みがあった訳ではないでしょうが、彼のせいで魯粛は気弱で人のいい無能な人になってしまったんですね。

可哀そうです。

忘れている人も多いかと思いますが、赤壁の戦いにおける孫権軍の参謀長が魯粛です。

どうです?ちょっとは見直しましたか?
(ってそんな事知ってるよ!なんてツッコミも聞こえてきそうですが…。)


もっとアクセスUP
【もっとアクセスUP】- もっとアクセスアップ(トラフィックエクスチェンジ型アクセスアップツール)









お小遣い稼ぎ総合支援サービス 豚の貯金箱

Posted by たか at 03:02 | 三国志 | この記事のURL
<< 前へ >> 次へ

×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。