2016年12月26日
冤罪物語 連載52 敵討ちの部
人間が救われる道を説くのが宗教で、その役割は大切なところがあります。
また大勢の信者さんが集まっています。
浄土宗・浄土真宗などは既成的他力門ですし、日蓮各宗派は既成新興の両面で発展しています。
神道系の教派神道各団体も多くあります。
その教えは、人間は絶対者(神仏)から分かれてきた生命体であり、神仏によって生かされている。
法華経的には、人間は仏そのものであって、この世に現れている、悪や不幸は実在ではなく、妄念と説いています。
これ等は間違いではないのです。
間違いではないのですが、現代の方々に間違って捉えられる感がないわけではありません。
神仏と人間を捉える重要なポイントで、五井昌久氏は誤解して捉えないように、
「神仏と人間が光一筋の者。一体の者であることが根本理念であること」(霊性の開発 五井昌久著 白光真宏会出版本部)
を重要視して説いています。
私が迷っていたのも、ここ等あたりが出発点でした。
間違えていたのは、神仏を人間と離して捉えていたこと。相対的に見てしまっていたのでした。
相対的ではなく、1つの者という絶対的に捉えていなかったのです。
観念で分かったような気になっていただけかもしれません。
どちらにしても、しっかり確実に捉えていなかったのでした。
次のように説いてありました。
「もう一度言い換えますと、人間が、自分や他人の想念行為の中に、自分そのものその人そのものの想念行為としての悪を認め、不幸を認めているようですと、法華経の絶対の世界、自由自在、真善美の世界には永遠に到達できないのであります」。
「みずからを、知らず知らずに仏から引き離していたものだから、そうした過去の想いに引き続いた想念の世界で、いくら仏を探し歩いても、過去の想念の波が後から後から押し寄せてきて、とても仏と一体になることはできない。だから一度過去の自分と絶縁して、念仏一念で押し通してしまえば、過去の波の中に、自分の想いを引き戻すことが無いから、仏と一体になれて、救われの自分、自由自在な自分本来の人間の姿に還れるのだ」(霊性の開発 五井昌久著 白光真宏会出版本部)
ここまで来て、私は「アレッここにあった」
大きく何か掴まえることができたような気がしました。
神仏と人間は一体の者なので、過去の悪い想念を掴まえないで、
絶縁して祈り一念で通してしまえば救われてしまう。・・・・でいいのかな。
その時点のノートが写真です。
では、現実に私にできるのか?と自問自答すると「赦すとか忘れる」などは、
とてもできません。できることは「感情はそのままにしておいて、守護の神霊への感謝や平和を祈ることならできる」
これが、今の私にできる精いっぱいのところです。
ただ、ここで大きく何か分かったような・安心できたような不思議な感覚があったことも事実です。
つづくのですよ。
また大勢の信者さんが集まっています。
浄土宗・浄土真宗などは既成的他力門ですし、日蓮各宗派は既成新興の両面で発展しています。
神道系の教派神道各団体も多くあります。
その教えは、人間は絶対者(神仏)から分かれてきた生命体であり、神仏によって生かされている。
法華経的には、人間は仏そのものであって、この世に現れている、悪や不幸は実在ではなく、妄念と説いています。
これ等は間違いではないのです。
間違いではないのですが、現代の方々に間違って捉えられる感がないわけではありません。
神仏と人間を捉える重要なポイントで、五井昌久氏は誤解して捉えないように、
「神仏と人間が光一筋の者。一体の者であることが根本理念であること」(霊性の開発 五井昌久著 白光真宏会出版本部)
を重要視して説いています。
私が迷っていたのも、ここ等あたりが出発点でした。
間違えていたのは、神仏を人間と離して捉えていたこと。相対的に見てしまっていたのでした。
相対的ではなく、1つの者という絶対的に捉えていなかったのです。
観念で分かったような気になっていただけかもしれません。
どちらにしても、しっかり確実に捉えていなかったのでした。
次のように説いてありました。
「もう一度言い換えますと、人間が、自分や他人の想念行為の中に、自分そのものその人そのものの想念行為としての悪を認め、不幸を認めているようですと、法華経の絶対の世界、自由自在、真善美の世界には永遠に到達できないのであります」。
「みずからを、知らず知らずに仏から引き離していたものだから、そうした過去の想いに引き続いた想念の世界で、いくら仏を探し歩いても、過去の想念の波が後から後から押し寄せてきて、とても仏と一体になることはできない。だから一度過去の自分と絶縁して、念仏一念で押し通してしまえば、過去の波の中に、自分の想いを引き戻すことが無いから、仏と一体になれて、救われの自分、自由自在な自分本来の人間の姿に還れるのだ」(霊性の開発 五井昌久著 白光真宏会出版本部)
ここまで来て、私は「アレッここにあった」
大きく何か掴まえることができたような気がしました。
神仏と人間は一体の者なので、過去の悪い想念を掴まえないで、
絶縁して祈り一念で通してしまえば救われてしまう。・・・・でいいのかな。
その時点のノートが写真です。
では、現実に私にできるのか?と自問自答すると「赦すとか忘れる」などは、
とてもできません。できることは「感情はそのままにしておいて、守護の神霊への感謝や平和を祈ることならできる」
これが、今の私にできる精いっぱいのところです。
ただ、ここで大きく何か分かったような・安心できたような不思議な感覚があったことも事実です。
つづくのですよ。
タグ:敵討ち
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