2016年12月22日
冤罪物語 連載50 敵討ちの部
五井昌久氏は、人間を詳細に分析しながら救われる道を説いていく。
霊性の開発の中で、
「我欲や打算で協調しても続かない。神への祈りがないから」
これは、救いの道を探ることで、真逆にある救われない道を探そうとしている、
私への警告でもあります。
私は、第1段階で救われの道を理解しなければなりません。
では、救われの道を歩むのに、最も易しく確実にできるその祈りとは?
五井昌久氏は、
「祈りとは、神と一体になる。生命と一体になること」
と説いています。
大生命としての神。守護神としての神。2つの働きに分かれて、真の神を表そうとしている。
天災も、戦争も業想念の消えゆく姿。
肉体の人間として現世にいると思っているが、真実の人間は直霊として神界にも住んでいる。
そこには不幸の影もない。地上界のように住んでいる。
人間の想いを世界平和の祈りの中に置くこと。寝ても覚めてもそうする。すると、
業生の悪や不幸の三界を超えることになる。
1 現れてくる悪や不幸にとらわれなくなる。
2 怒りや妬み焦りがなくなる。
3 自分の存在価値を強く認識するようになる。
4 自分心身の生活が悪くならないと確信がついてくる。
5 本心と、業想念の区別がハッキリとつ。
この領域は、そうなるのだなと認識することしか!
私の今の段階ではそうなると、認識することで精いっぱいです。
さらに、五井昌久氏は説きます。
宗教には、自力門と他力門がある。どちらも行きつく先は同じです。
自力門の代表は禅宗。非常に厳しい修行を積まなければなりません。
白隠禅師や遂翁の厳しい修行は有名です。現代の方がそれをするには躊躇するところがあります。
一方の他力門の浄土宗では、人間は自力では救われ難い。
そういう人間を救くってくださるのは、西方極楽浄土にお在する阿弥陀仏だけであるから、
南無阿弥陀仏と一念込めて称名すれば、その人は弥陀の浄土に引き取ってくださると教えています。
とちらの道でも、行きつく先は同じです。救われの道です。と五井昌久氏は説いています。
つづきます。
霊性の開発の中で、
「我欲や打算で協調しても続かない。神への祈りがないから」
これは、救いの道を探ることで、真逆にある救われない道を探そうとしている、
私への警告でもあります。
私は、第1段階で救われの道を理解しなければなりません。
では、救われの道を歩むのに、最も易しく確実にできるその祈りとは?
五井昌久氏は、
「祈りとは、神と一体になる。生命と一体になること」
と説いています。
大生命としての神。守護神としての神。2つの働きに分かれて、真の神を表そうとしている。
天災も、戦争も業想念の消えゆく姿。
肉体の人間として現世にいると思っているが、真実の人間は直霊として神界にも住んでいる。
そこには不幸の影もない。地上界のように住んでいる。
人間の想いを世界平和の祈りの中に置くこと。寝ても覚めてもそうする。すると、
業生の悪や不幸の三界を超えることになる。
1 現れてくる悪や不幸にとらわれなくなる。
2 怒りや妬み焦りがなくなる。
3 自分の存在価値を強く認識するようになる。
4 自分心身の生活が悪くならないと確信がついてくる。
5 本心と、業想念の区別がハッキリとつ。
この領域は、そうなるのだなと認識することしか!
私の今の段階ではそうなると、認識することで精いっぱいです。
さらに、五井昌久氏は説きます。
宗教には、自力門と他力門がある。どちらも行きつく先は同じです。
自力門の代表は禅宗。非常に厳しい修行を積まなければなりません。
白隠禅師や遂翁の厳しい修行は有名です。現代の方がそれをするには躊躇するところがあります。
一方の他力門の浄土宗では、人間は自力では救われ難い。
そういう人間を救くってくださるのは、西方極楽浄土にお在する阿弥陀仏だけであるから、
南無阿弥陀仏と一念込めて称名すれば、その人は弥陀の浄土に引き取ってくださると教えています。
とちらの道でも、行きつく先は同じです。救われの道です。と五井昌久氏は説いています。
つづきます。
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