2016年12月14日
冤罪物語 連載45 敵討ちの部
納得して腑に落とす読み方をしないと、最も効果的でな的確な敵討ちができない。
こちらの世界では「自力救済」は禁じられていて、江戸時代のような決闘も討伐もできない。
かといって、法律で救済されるかというと、されません。「矛盾している」のです。
例えば、いじめに遭っている子供が自殺してしまった例は、いまさら言うまでもなく、何回も報じられています。
その親子の「気持ち」は「どうでしょうか」「何を感じている」と想像しますか?
子供さんは、生きる道が塞がれてしまったと感じての事でしょうね。
自殺の原因の「いじめ」た人は居るわけです。
その両親は、子供さんの環境の、いじめた本人・学校・教育委員会とに「どういう感情」を持つと思いますか。
この場合の自殺は「間接的殺人」と換言できませんか。
自殺しろ。とは言っていなくても、生きる道が無くなったと感じさせたことで、直接的な原因をつくっています。
平成25年9月28日いじめ防止対策推進法が施行されました。
両親には自力救済が禁止されていますから、直接的な手出しは「何もできません」「許されていません」
ですから、この法律に頼ることになります。
法律で刑事罰があります。民事訴訟で損害賠償請求もできます。
ただし、相手が未成年の場合は刑事も民事も制限があります。
監督者(学校や担任の教師)への刑事や民事訴訟も道はありますが、いじめの多く発生する公立校では、公務員が相手になるので、学校にするのか、教師を相手にするのかは、専門家とよく相談することになります。
刑事告訴して、民事訴訟の損害賠償を請求してみても、自殺してしまった本人に何が、どう届くのでしょうか。
今生で届くものは何もありません。
今生で何も届くことのない、子供の不憫を見ているしかない両親の気持ちを、いったいどこまで察することができますか。
法律で措置しますから、保証は万全完璧です。
とてもそんなことにはなっていません。
矛盾しています。
敵は敵だ。なのに「自分を愛し、人を愛し。自分を赦し、人を赦す」
この「人を愛し・人を赦す」という場面になると、極端に「できない」と思う自分に気が付きました。
気が付くと、いつも同じです。
いつもここで、感じるのは、
「そんなことはできない。していない私に『やったと言い。まともな取り調べを受けてもいないのに調書をつくり。全治1週間の診断書を出した医師。それらを愛せません」
「それは無理。敵は敵さ、始末の方法を見つけにここに来て探っているのに何てことだ」
では、読む本を代える?そうではないのです。
何故かというと、ここ以外は全て納得できるのです。
この五井昌久氏の謂いを、今回改めて熟読して、この場面以外は納得しています。
腑に落ちているのです。・・・・・・・・・・・・・どこか抜かして読んでいるのかな。
「私は、絶対アノ者たちは赦さない」
これは、変えようがない素直な感情なのです。無理して消そうとも思いません。
無理して消そうとしてみても、ダメさそんなに押さえてみてもいつまでも続かないさ。
無理して押さえた感情は、どこかでむき出しになって出ている。
そんなことは、この年まで生きてくると経験しています。
・・・つづきます。
こちらの世界では「自力救済」は禁じられていて、江戸時代のような決闘も討伐もできない。
かといって、法律で救済されるかというと、されません。「矛盾している」のです。
例えば、いじめに遭っている子供が自殺してしまった例は、いまさら言うまでもなく、何回も報じられています。
その親子の「気持ち」は「どうでしょうか」「何を感じている」と想像しますか?
子供さんは、生きる道が塞がれてしまったと感じての事でしょうね。
自殺の原因の「いじめ」た人は居るわけです。
その両親は、子供さんの環境の、いじめた本人・学校・教育委員会とに「どういう感情」を持つと思いますか。
この場合の自殺は「間接的殺人」と換言できませんか。
自殺しろ。とは言っていなくても、生きる道が無くなったと感じさせたことで、直接的な原因をつくっています。
平成25年9月28日いじめ防止対策推進法が施行されました。
両親には自力救済が禁止されていますから、直接的な手出しは「何もできません」「許されていません」
ですから、この法律に頼ることになります。
法律で刑事罰があります。民事訴訟で損害賠償請求もできます。
ただし、相手が未成年の場合は刑事も民事も制限があります。
監督者(学校や担任の教師)への刑事や民事訴訟も道はありますが、いじめの多く発生する公立校では、公務員が相手になるので、学校にするのか、教師を相手にするのかは、専門家とよく相談することになります。
刑事告訴して、民事訴訟の損害賠償を請求してみても、自殺してしまった本人に何が、どう届くのでしょうか。
今生で届くものは何もありません。
今生で何も届くことのない、子供の不憫を見ているしかない両親の気持ちを、いったいどこまで察することができますか。
法律で措置しますから、保証は万全完璧です。
とてもそんなことにはなっていません。
矛盾しています。
敵は敵だ。なのに「自分を愛し、人を愛し。自分を赦し、人を赦す」
この「人を愛し・人を赦す」という場面になると、極端に「できない」と思う自分に気が付きました。
気が付くと、いつも同じです。
いつもここで、感じるのは、
「そんなことはできない。していない私に『やったと言い。まともな取り調べを受けてもいないのに調書をつくり。全治1週間の診断書を出した医師。それらを愛せません」
「それは無理。敵は敵さ、始末の方法を見つけにここに来て探っているのに何てことだ」
では、読む本を代える?そうではないのです。
何故かというと、ここ以外は全て納得できるのです。
この五井昌久氏の謂いを、今回改めて熟読して、この場面以外は納得しています。
腑に落ちているのです。・・・・・・・・・・・・・どこか抜かして読んでいるのかな。
「私は、絶対アノ者たちは赦さない」
これは、変えようがない素直な感情なのです。無理して消そうとも思いません。
無理して消そうとしてみても、ダメさそんなに押さえてみてもいつまでも続かないさ。
無理して押さえた感情は、どこかでむき出しになって出ている。
そんなことは、この年まで生きてくると経験しています。
・・・つづきます。
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