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2018年10月08日

一緒に学ぼう世界史のポイント 121 《満州事変と中国国民政府》


 世界史講義録より
  
 一緒に学ぼう世界史のポイント 121 《満州事変と中国国民政府》




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 満州事変と中国国民政府

 日本が満州事変で中国侵略を本格化した後も、中国国民政府は中国共産党討伐を優先し抗日戦を回避していました。1936年の西安事件を経て、蒋介石は要約抗日を決意しました。

     10-10-11.jpg リットン調査団の現場検証

 世界恐慌と日本の軍国主義化

    10-10-12.jpg 昭和恐慌の実態

 日本では、1923年の関東大震災による震災恐慌に27年の金融恐慌と経済危機が続き、更に訪れた世界恐慌は1930年の金輸出解禁による不況と重なり昭和恐慌と呼ばれる深刻な事態と為りました。
 財閥は恐慌を利用して多くの産業分野で支配権を強め、政党はこれ等の財閥と結び着き国民の信頼を失って行きました。一方で、中国侵略によって現状打破を目指す軍部が台頭し、1932年の五・一五事件、36年の二・二六事件など右翼や軍人によるテロやクーデタが続く中で、政党内閣は崩壊し軍国主義化が加速して行きました。

    10-10-13.jpg 昭和恐慌における娘の身売り

 軍部の独走から生まれた傀儡国家満州国

   10-10-14.jpg 満州国

 1931年9月18日、関東軍は奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破し(柳条湖事件) これを中国軍の犯行として、中国東北地方で中国軍と戦闘に入りました(満州事変)
 関東軍の一部軍人による独断で始められた戦争で、立憲民政党若槻内閣は不拡大方針を表明しましたが、関東軍はこれを無視して軍事行動を続けた為内閣は総辞職し、代わった立憲政友会犬養内閣は、関東軍が東北地方を占領してしまった事実を追認するしかありませんでした。

   10-10-15.jpg 陸軍上海上陸部隊の大苦戦

 1932年3月 日本は侵略行為を糊塗する為、東北地方を日本の領土とはせず清朝最後の皇帝溥儀を執政(34年には皇帝)として満州国を建国しましたが、日本の傀儡国家であることは明白でした。この前の1月には、中国東北地方から世界の目を逸らす為、排日運動が盛り上がった上海に日本軍が上陸し中国軍と交戦する上海事変が起きています(3月に停戦)。
 中国の要請によって、国際連盟から現地に派遣されたリットン調査団は、満州事変を日本の自衛行動とは認めず、又満州国が日本の傀儡国家であるとした為、33年、日本はこれに抗議して国際連盟を脱退しました。

   10-10-16.jpg 松岡洋右 国際連盟脱退

 国内の「敵」と戦う中国国民政府

   10-10-17.jpg 張学良

 蒋介石率いる国民政府は日本の侵略に対して国際連盟を通じた抗議は行ったものの、基本的には無抵抗政策を執りました。この為、柳条湖事件勃発時北京に滞在していた東北軍司令官の張学良は、東北軍11万を錦州に集結しましたが、日本軍が迫ると抗戦すること無く錦州を退き、その後も反撃することはありませんでした。
 蒋介石は、国内を安定させてから外敵を退ける「安内攘外」策を執り東北地方は切り捨てたのでした。蒋介石が総力を挙げて戦っていたのは中国共産党でした。

 中国共産党は国共分裂で国民政府を追われて以降、農村で農地解放を進めながら根拠地建設を行い、1930年には15の根拠地と紅軍(中国共産党の革命軍)兵力6万を擁し、三百余県を支配するまでに為って居ました。31年11月には毛沢東を主席として、江西省南部の瑞金を首都中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立しました。
 満州事変前後の時期に、国民政府は40万を越える戦力を投入して共産党根拠地を攻撃しており、蒋介石は「我々の敵は倭寇(日本)では無く、匪賊(共産党)である」と公言していました。

    10-10-18.jpg 中国共産党紅軍の長征

 中国共産党紅軍の長征  

 数次にわたる国民政府軍の攻撃を撃退した紅軍ですが、1933年 蒋介石が自ら指揮して100万の兵力と飛行機200機を投入し経済封鎖も交えた包囲戦を始めると、根拠地を維持出来ず、34年には10万の紅軍は瑞金を脱出しました。
 以後、国民政府軍の攻撃を逃れながら1万2500キロの道のりを踏破し3万の兵力に減少しながらも、1936年に陜西省延安に到着して、ここに新たな根拠地建設を開始しました。これを長征と言います。



 民族統一戦線を呼びかけた八・一宣言と抗日意識の高まり/span> 

 長征途上の1935年8月1日、中国共産党は八・一宣言を発表し、内戦の停止と民族統一戦線の結成による救国抗日を訴えました。コミンテルンの呼びかけた反ファシズム統一戦線に沿ったものです。
 満州国建国後も日本による侵略は続き、1935年には河北省東部に日本の傀儡政権である冀東防共自治政府が成立しました。この「自治政府」は、沿岸で行われていた日本の密貿易を低関税で公認し、又その支配地域を通過して満州国で生産されたアヘンが中国各地に流れた為、北京の学生は反日デモを行い救国抗日感情が高まって行きました。

    10-10-19.jpg

        西安事件 張学良・蒋介石・周恩来

 蒋介石に抗日を決意させた西安事件

 蒋介石は抗日戦を求める中国国民の期待に応えること無く、1936年、張学良を中共討伐戦司令に任命し延安の共産党討伐を命じました。しかし故郷を日本軍に奪われた張学良とその指揮下の東北軍は共産党の抗日救国の訴えに動かされ対共産党戦に消極的でした。
 1936年12月 蒋介石が督戦の為張学良の司令部のあった西安に赴くと、張学良は蒋介石を監禁し抗日戦を迫りました(西安事件) 中国共産党の周恩来も延安から西安に入り蒋介石の説得を行い(二人は黄埔軍官学校の同僚でした) 抗日戦に同意した蒋介石は、監禁を解かれ南京に戻りました。
 この後、中国共産党に対する攻撃は中止され、翌1937年、日本の中国侵略が本格化すると、遂に第二次国共合作が成立し国民政府=中国国民党と中国共産党は共に日本と戦うことに為りました。

 コラム:その後の張学良

 西安事件後、蒋介石に従って南京に戻った張学良は罪に問われ軟禁されました。1949年に国民政府が台湾に移った後も台湾で軟禁は続き、解放されたのは1991年でした。2001年ハワイで101歳の大往生を遂げました。晩年の張学良は、関係者が全て死去して居たにも関わらず、西安事件で周恩来が蒋介石を説得した具体的な内容については決して話そうとしませんでした。


 満州事変と中国国民政府  おわり  次のページへ 《日中戦争》


 
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