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2024年11月12日

世界文化遺産と炭鉱労働者(私の義理の兄は炭鉱マンだった)

世界文化遺産「三池炭鉱」


福岡県の明治日本の産業革命遺産として、

三井鉱山の「三池炭鉱」関連施設「万田坑跡」
そのほかが 世界文化遺産として登録されています。

同じ炭坑では長崎県の 端島炭鉱 元三菱鉱業が所有する
通称「軍艦島」も世界文化遺産です。

ほかにも筑豊炭田では「伊藤伝衛門」や「白蓮」
そして炭坑労働の写生で有名な「山本作兵衛」などが有名です。


佐渡島(さど)の金山もしかり


共通して言えるのは、世界文化遺産としての関連施設や資料の保存とともに、

炭坑とそこで働いた人々の歴史をどう語り継いでいくのだろうか


今回は「三池炭鉱」について私の見聞も織り交ぜながら記載したいと思います。

福岡県の西南端に位置する大牟田市と、隣接する熊本県荒尾市を含む、

広大な地域で石炭が発見されたのが明治の頃と言われている。



遠浅で有名な有明海の波打ち際に、
海底から剥がれた真っ黒な石炭が打ち寄せられ、
ゴロゴロ転がっている状態のところで、

漁を終えた漁師仲間達が焚火しながら

「オ〜この黒い石が燃えとるバイ」とかなんとか言って
石炭を発見したのが始めかもしれません。(私の推測)



その報告を受けた明治政府が掘削を始めたのがきっかけで、
石炭の鉱脈は陸地だけではなく有明海の海底にまで広がっていました。

その後、三井財閥が明治政府から譲り受け石炭部門として設立した三井鉱山は、
長い間日本の工業生産を支え続け、エネルギー(石炭)産業として発展していきます。



この大牟田市と荒尾市は、 

♬〜月が出た出た 月が出た 三池炭坑の上に出た〜♬ と唄われる、 
民謡(炭坑節)でも有名な炭鉱の街として栄えたところです。



山口県宇部市でも

明治時代から昭和にかけて、海底炭田群を宇部興産が買収合併し、
石炭とセメントで 宇部の化学コンビナート へと発展してゆく。

炭鉱で富を得た複数の炭鉱主たちが、

宇部市の繁華街で昼夜を問わず大賑わいを見せていたと言う、
料亭では靴ベラ代わりに札束を使ったと、
昔風の食堂のお婆さんが話してくれました。


 

 

 

札束で歓喜する資本家と、わずかな賃金で命を懸ける労働者、




炭鉱の労働は過酷なもので、塩をかじりながら大量の汗を流し、
岩盤(最高温度だと50℃にも達する) を掘削する、
身体中が粉塵と汗で黒まみれになるという 。

新聞沙汰にならない落盤(山はね)は日常茶飯事で、
掘削現場では、一寸先は何が起こるか知れたものではない、
作業場で光るのはヘッドライトと大きくみひらいた瞳だけ。

勤務が終わると、
その日の疲れを癒しに大牟田・荒尾の繁華街は、
くりだした労働者達で溢れかえっていた。

「お偉いさんたちゃ料亭バイ、俺たちゃ安酒場で乾杯タイ」 

男たちの顔は笑っていた。





やがてエネルギー資源が石炭から石油へと変わり始めると、

企業は生産調整名目の合理化に着手しながら、
炭坑労働者の人員整理(首切り)へとシフトし、


ついに資本家対労働者の対決 「三池闘争」 へと進んでいく、
労働組合の分断、警察機動隊、地元暴力団を使ったデモ鎮圧。

その時の様子をかすかに覚えている、



炭住街(炭坑労働者の社宅)では第一組合と第二組合の反目、
まさに貧しい者同士が敵対してしまうような状況に置かれ、

第一組合側のスピーカーからは荒木栄作曲の「がんばろう」の歌が
一日中流れていた。



1963年(昭和38年)11月9日ビシッと窓ガラスが揺れた、


TVの臨時ニュースが「三川抗が爆発」と報道している、
窓の外をもう一度見た、
遠くに黒煙が立ち上っている。



母が夕方帰ってきた、「今日三川抗が爆発したゲナヨ」と、母に告げた。

忘れていた! 姉の婿が三川抗の炭坑マンだった・・・

母が言う「出産休暇は昨日までバイ」
「あんたすぐ荒尾まで聞きに行ってくれんね」
「ねぇちゃんには内緒バイ」



4kmほどの道を自転車で走った、姉は出産入院中で荒尾の家は誰もいなかった、

仕方なく三川抗(海底炭鉱 )入り口へ行ってみた。

家族や友人の安否を気遣う人でごった返していた。

「あがったぞー」 大きい声と一緒に担架が救急車に運ばれていく、
隣にいたおばさんは周りの人を捕まえては、
独り言を大きな声で叫んでいた「うちの人は大丈夫ダケン」


この異様な雑踏から逃げるように家に帰った。

死傷者458名、一酸化炭素中毒839名、
私の高校の生徒の親や、高校夜間部生徒もこの事故で亡くなった。


私の義理の兄は出産休暇を延長していて助かった。
(事故当日は救助活動で現場に駆け付けたとの事でした)


世界の炭坑関係者が見学に来る、三井鉱山自慢の三川坑

(1963年)炭塵爆発を起こした。


「三池争議」のあと、
三井鉱山がコスト削減の人員整理(首切り)を最優先にした、

原因のひとつに、
首切り合理化(効率化)が安全管理をおろそかにした為だとも言われている。


炭坑災害では他にも

山口県宇部市の炭坑では(1942年)海水流入事故で183人が死亡する
という事故も起きている。

ここでは犠牲者が今も引き上げられないまま坑道ごと放棄されたと記され、
犠牲者の約7割が(徴用)朝鮮半島出身者だったとも言われている。

最近になって地元有志での遺骨収集が始まったが
国はまだ動こうとしていない


この様に、
日本の近代化産業革命遺産が世界文化遺産として登録される時、
時代を支えながらも、安全無視の過酷な労働の中で命を奪われた人たちの事を、
忘れてはいけないと思う。



1997年三井鉱山(三川抗)閉山


にぎわっていた繁華街もさびれ、
若者は県外に出て行き、残っているのは老人と子供、
人口も最盛期20万から13万ほどに減り、今も減り続けている。


老人は、くわえ煙草でこう言う「昔はよかった」
どれくらい昔のことを「良かった」と言っているのか私にはわからない。



私の母校は昔、集治監所(三池刑務所)だった。

校庭には地下へ通じる防空壕みたいなものがあった、
入ってみたが途中からコンクリートの壁で塞がれていた、
その先には「囚人労働」が行われていた宮原坑が有る、
おそらく囚人を採炭労働に連れ出す地下道だったかもしれない。



私にとって炭坑と言う言葉を聞く時、
どうしても過酷な労働と結びついてしまうのは、
三川抗の炭塵爆発の時の異様な現場に居合わせた為だろうか。





posted by toshipro at 12:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 随筆

2024年09月28日

人生いろいろ 引っ越しも色々 私の体験談(その5)


人生いろいろ 引っ越しも色々 私の体験談(その5)

最初から順序立てて読みたい方は右矢印1こちらからどうぞ


15回目の引っ越し


2度目の単身赴任状態とは言え
山口と福岡は関門海峡を渡ればすぐの距離
金曜日の仕事が終わり車で走ればその日のうちに
我が家へたどり着く。


毎週ではないが繰り返し往復した


或る朝 2001年9月11日(火曜日)
TVのニュースをみながら
出勤前の着替えでネクタイを締めている時
妻から電話があり、
話しながらも手と耳と目は働いていた。


TVにはニューヨークのツインタワーに飛行機が衝突したのか
最上階のあたりから煙が出ている映像が流れていた


電話の先の妻にもTVニュースを点けるように伝えながら
「これ、映画のCMか何かなのかネ〜」
「あっ❣❣ 2機目の飛行機も飛んできて衝突してる」
「ホントかょー・・・」

9.11 米・同時多発テロ


まさかこのニュースが、私が働く損害保険会社に
影響を及ぼすとは夢にも思っていなかった。


安田火災・日産火災・大成火災(私の会社)が合併し
損保ジャパンとしてスタートする為システム統合など
合併に向けた準備を進めていた最中の出来事でした。


(2001年11月)
朝、いつものように、早めに出勤したところ
主力代理店の店主たちが集まっていた。

「きょうは代理店会合でもあるのですか?」
えっ❣❣ 朝のTVニュース見なかったの?

大成火災が経営破綻(倒産の事)したと言ってました。

詳細不明のまま
その日は本社からのメールや電話指示対応で
代理店も社員も今後の成り行きを見守るしか方法は無かった。

その後、耳にした話では(本当の詳細はわからないが)
9・11の時の航空機海外再保険の出債に齟齬が有り
巨額債務が発生、負債を抱えたままの合併を嫌い?
大成火災の破綻手続きに踏み切ったとも言われている。


管財人が入り、三社合併はちょっと変形だが予定通り進め
社員の解雇は無く代理店も全て損保ジャパンに移行する


この報告は日本全国に散らばる大成火災の社員と代理店にとっては
取り敢えずの安心となった。


それからは大成火災山口支社を引き払い、安田火災の山口支店へ移動した
気持ちは難民、既存契約者への対応が一通り済んで

私は希望通り九州本部福岡支店への配転が決まった。




16回目の引っ越し


損保ジャパン九州本部福岡支店損害調査課特別室
として、まるで倉庫のようなフロアーで
旧大成火災の事故案件の整理と支払いに専念した。

金融機関の破綻は「青天の霹靂」ですが
私自身としては、やっと念願の・・・

マイホームからの通勤です。


全ての未払事案も含め損保ジャパンに移行し

私はSJ損害調査2課、課長代理総合職 として合併統合された。



いよいよ私のお引越しも終わりを迎えました

最終章の「終の棲家」は右矢印1こちらから

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タグ:お引越し
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2024年09月27日

人生いろいろ 引っ越しも色々 私の体験談(その4)


人生いろいろ 引っ越しも色々 私の体験談(その4)

最初から順序立てて読みたい方は右矢印1こちらからどうぞ

12回目の引っ越し

春3月
広島支店損害調査課への辞令が出ました
支店管轄として山口県宇部市にある営業所配属が決まり

京都から、いよいよ本州の末端、山口県へ ❣❣



長男:京都の高校3年在学中
次男:中学3年在学中
三男:小学6年在学中

それぞれが受験と転校を控えている時期
家族は京都に残るため、借り上げ社宅は来年まで継続使用

新幹線のホームで家族と別れ、初の単身赴任

久しぶりに
身体ひとつにボストンバック(トラベリングバッグ)1個のお引越し


1DKの安いアパートでの、自炊と外食が半々の単身生活が約1年
(社宅扱いは重複できないので全て自己負担)



この1年の間に阪神淡路の大震災が起こり

次男の宇部市立高校受験の際に
京都から山口への寸断された列車の移動と乗り換えで
まだまだ残る瓦礫の道を、黙々と歩いたのを思い起こします。




13回目の引っ越し


京都から、家族全員を迎え入れる為
借り上げ社宅を初めて自分で探し、
宇部営業所迄近い所に、借り上げマンションを決めました。

引っ越しは私の単身アパートと、京都の社宅からの引っ越しと
とても大変でした(だんだんと、引っ越し貧乏を実感)




わたしの担当範囲は宇部営業所と徳山営業所と広く
小野田・萩・山口・徳山・岩国まで損害調査や示談対応で
動き回りました。



長男は予備校通いのストレス(父子喧嘩)
次男は大学受験(成り行き任せで勉強しない)
三男は中学不登校や高校時代は進路相談で(アレコレ)

家族のそれぞれが独り立ちに向かって
葛藤と成長をする時期を宇部市で過ごしました。




14回目の引っ越し


以前、九州の実家に近い久留米営業所勤務の頃考えた事
どうせ私の人生はあちこち転勤が付きまとう

最後に、また九州へ戻る(実家の両親の看取りもあるだろうし)との想いから
中古1戸建て住宅を購入し

さあマイホームへ引っ越し❣❣
と思ったら

一度も住まないまま沖縄転勤が決まった(苦笑)

仕方なく、会社で福岡へ転勤する人の借り上げ社宅として
使ってもらう事となった。

(それから私の転勤生活の長い時間が経過します)

そのマイホームに、住む人がいないので
借り上げ社宅の契約解除となり
空き家になった状態でいつまでも放っておけない。


と言う、私的な事情から
山口県宇部市のマンションから福岡県の中古マイホームへ
家族だけお引越しとなった(費用は全て自己負担)


長男は志望と裏腹の福岡大学
次男は成り行き推薦で久留米工業大学
三男は魚が好きとの事で海洋専門学校

それぞれが進路を決めた頃で


その頃には私は
宇部営業所と徳山営業所を併合し
山口県小郡市(新幹線停車駅まえに在る)の山口支社で勤務していました。

再び私一人が取り残されて
山口支社まで徒歩10分の単身アパートへお引越し(社宅扱い)


続きはこちらです右矢印1人生いろいろ 引っ越しも色々 私の体験談(その5)


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2024年09月21日

人生いろいろ 引っ越しも色々 私の体験談(その3)


人生いろいろ 引っ越しも色々 私の体験談(その3)

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19才の時
故郷九州をあとに
何処までも続くレールの上を北へ北へと進む列車の中

刻一刻と遠のいていく故郷と、1人で立身する事の心細さや、
未来への期待と決意が入り混じった気持ちで、

ゴトン・・・・と、耳の奥で響く列車の音を
かみしめていた自分を思い出します。


8回目の引っ越し

コンピューター室勤務から始まり、
営業職として江戸川区を奔走している時間の経過の中で、

東京ディズニーランドが完成し、3男が誕生したばかりの年に
転勤が決まりました。


故郷九州で、実家に一番近い久留米営業所配属が決まり、お引越し。

トラックに積み込んだ家財一式が九州へ向かって出発した後
私たち5人は新幹線で「福岡県」へまっしぐら。

私が関東へ来るときは列車で丸1日24時間ほどかけての「列車の旅?」

今回の九州入りは「夢の新幹線?」で朝に出て
夕方には福岡天神のホテルでくつろいでいました。


久留米営業所の所長が手配してくれた社宅は
5階建て賃貸マンションの5階で,
風通しも見晴らしも良いところでした。


しかし、
乳飲み子を抱え3人の子育てを背負った妻の眼には
テラスの落下防止柵も、1回までの階段もエレベーターも、
全てが子育てには「5階の住まいは危険の館」だったのです。

動き回る長男・次男と、目を離せない幼児の世話は
神経をすり減らし、とても安心して暮らせない。

案の定、次男が階段でこけて骨折はしなかったが足を怪我❣❣

事情を話し福岡支店総務担当へ社宅変更を訴えるも不能

子供の命の危険と企業の言いぶんを秤にかけて
やっぱり強行突破するしかない、



9回目の引っ越し


すぐ近所で賃貸住宅、木造平屋建て一軒家を見つけて

社宅家賃もマンションより安い事など大々的に訴え
なによりも、子供のマンション・テラス転落死亡記事なども見せ
社宅転居引っ越しを企業に認めてもらいました。

福岡支店総務担当の怒りを買い、
引っ越し費用、敷金や礼金・不動産仲介手数料
全て自己負担、家賃だけは社宅扱いで補助と言う裁きで決着しました。


10回目の引っ越し


君もそろそろ転勤時期だけど
暑いところと寒いところとどちらが良い?と、問われ。
私は九州暑いところで育ちましたので「暑いところ」と、即答。

おかげで今度は九州よりずっと熱い島「沖縄」への転勤が決まりました

今度は本土とは陸続きではなくお引越しも飛行機

家族5人で飛行機のタラップを降りて大地に立った時
植物園の温室並みの湿度の高さに包まれたのが
印象的でした。

住まいは沖縄営業所の所長が手配してくれた賃貸アパート
沖縄は米軍基地に多くの土地が取られ平地が少ないせいか
狭いアパートでも結構高い家賃なのに驚きました。

既に長男は中学生、次男・3男は小学生
折角沖縄に転勤で来ているのだから
夏休みは石垣島や竹富島へ❣❣

思い立ってもすでに遅し、
全て本土の観光会社が宿泊先を抑えてしまい
仕方なく沖縄本島の北部や中部の民宿ホテルで
ささやかな夏休みを過ごした。

多分沖縄の転任期間は3〜4年の予定だったと思うが
長男の高校進学を考えると、このまま沖縄の高校に進学したら
プラス3年で5年以上になってしまう。


当時、本社人事部の部長が全国の出先支店や営業所を訪問し
直接現場社員の意見を聞くと言う取り組みがあって、
部長が沖縄にやってきた。

一通り取引企業への表敬訪問を終わり
経費は沖縄もちで酒席を用意した。

部長も酒の勢い?で「希望があれば、なんでもいいから言うてみて」
と、言うから

2年で本土に戻りたい

部長:3〜4年の予定じゃなかったかぁ〜本土に戻ってもポストは無いぞ
私 :はい、ポストは無くてOKです、出来れば実家の親も齢ですし
   福岡へ戻れたら親孝行できますけど?・・・どこでもいいです。


11回目の引っ越し

なんとなんと2年で沖縄を後に
今度は京都支店の内勤への転任

京都支店・損害調査課の課長が探してくれた
賃貸住宅の借り上げ社宅は2階建て一軒家

なんだか観光地巡りでもしているのか
リゾート沖縄から古都の京都へ

職種もがらりと変わって事故や災害の支払い部門
一番多いのが交通事故の現場調査や示談交渉。

人間同士の利害関係の争いや保険金詐欺事件の裁判やら
兎に角、裁判官にでもなったのかと思われる程?
民事賠償に関する勉強もして、公平な判断での支払い事案の解決にあたった。

石の上にも3年
損害調査として独り立ち出来たのか如何か判らないが
顧客対応の迅速化をはかると言う人事政策の反映として

営業所への損害調査担当部署の設置が進められた。
まだまだ・・・お引越しは続きます

続きはこちらです右矢印1人生いろいろ 引っ越しも色々 私の体験談(その4)


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タグ:賃貸住宅
posted by toshipro at 10:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 随筆

2024年09月19日

人生いろいろ 引っ越しも色々 私の体験談(その2)


人生いろいろ 引っ越しも色々 私の体験談(その2)

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5回目の引っ越し



面接試験での答弁
前の会社では毎日プログラムを組んで
検査の仕事をしていました。

この答弁が難関突破して採用された理由ではないか???
この瓢箪から駒みたいな嘘=本人は勘違いしていた・・・

なんと私が組んでたプログラムは
機械語マシーンランゲージと言うやつで
1011 1000 0000 0101(バイナリ形式/2進数表記)
直接コンピュータが理解できる方式の命令で
人間には何を命令してるか分かりにくいプログラムだったのです。

え〜❣❣❣(職場上司の驚きの声)

この会社で言うプログラムは商用プログラムと言って
人間に理解できる命令で表記されるプログラミング言語
COBOL(コボル)の事だったのです。

例えば、「動かせろ」右矢印1 move みたいに英語に近い
表現で記述する訳です。

入社早々3か月間の講習を受けさせられてから
はや7年、プログラマーとしてのベテラン?になる頃

多くの方々に祝福されて結婚❣❣当時28歳

二人は若い、親からの資金援助も受けながら
結婚式や新居の敷金や礼金など、いろいろお金もかかりました。

東京の下町アパートで狭いながらも楽しい我が家



6回目の引っ越し

狭いながらも楽しい我が家
長男誕生 ❢ 二人から三人世帯

下町アパートも住みにくくなってきた
子供の夜泣き、残業帰りでPM11 ❢ 夫婦の会話

薄い壁の向こうからドンドンの警告メッセージ
(生活音にまで文句言ゆうーんじゃないよ)
とうとうお隣さんと口論になって
またまた お引越し

同じく下町「亀戸」の今度は一軒家

ウナギの寝床的に細長く日当たり悪くても
子供が騒ごうが夫婦で喧嘩しようが気兼ね無し

我慢我慢の引っ越し費用と敷金や礼金は負担ですネ



7回目の引っ越し

月日は流れ、プログラマーは女性社員に置き換えられ
男社員は営業で外に出ろ ❢ 的な風潮が・・・

私もその流れで、ちょっと古びた営業1年生として
江戸川区を奔り回っていた。

運転免許も取得し小型中古車両だが、マイカーも買った
次男誕生の4人世帯はもう少し日当たりが良い
子供たちが原っぱで遊べるようなところが良いナァ・・・

都心を離れ「浦安」へ、お引越し

その頃の浦安は東京ディズニーランドもなく
すすきの穂が揺れる広大な大地が広がっていて
大型マンションの建設があちこちで始まっていた。

今度は2階建てアパートで日当たりも良く
目の前に食品雑貨の小型スーパーもあり便利だった。


ここまでは東京を中心に引っ越しをしましたが
次はいよいよ東京を離れてのお引越し❣❣

続きはこちらです右矢印1人生いろいろ 引っ越しも色々 私の体験談(その3)



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2024年09月17日

人生いろいろ 引っ越しも色々 私の体験談


人生いろいろ 引っ越しも色々 私の体験談



引っ越し貧乏

かぞえ上げると
よく引っ越しばかりしていました。


思い返すと、その時そのときの思い出があるものですが
後になって思い起こすのは「引っ越し貧乏」

だいたい1回の引っ越しに4〜50万円程が
無くなっていったような記憶がします。


それでも、新しいところで新たな生活が始まると言う
ワクワク感は、私を元気にしてくれたと思います。

人生七転び八起きでもないけれど
引っ越しはいらないものを捨て
新しく入用なものを揃え、

きれいさっぱり区切りをつけて 
気持ち的に リ・スタートがきれる点は、
良かったと思う。

人生区切りをつけて再出発


最初の引っ越しは
身体ひとつにボストンバック(トラベリングバッグ)1個

時代は昭和

当時、金の卵と騒がれた中学卒業生の集団就職

似たように、銀の卵?か、何か知らないが
私も工業高校卒業生として、生まれ故郷の九州をあとに、
就職列車?(煙を吐く機関車)で関東へ ❣ 当時19歳。

このころの企業には食事付きの独身寮があり
改めて家賃などの心配はしなくて済みました。


工業高校電気科を卒業したため
オシロスコープなどで、電流電圧の波形を観たり記録したりの
電気関係の仕事を担当するものだとばかり思っていたのが・・・


現実は大違いで、5mほどの大型機械を操作しながら
勤務も不規則3交代の、製造作業でした。

電気関連業務への配置換えを申し出るも実現不能、
さっさと1年で転職を決意。


2回目引っ越し

からだ一つで故郷を出た者にとって預金もまだ少なく、
転職先の企業に独身寮が有るか、無いかが必須条件でした。

今回も身体ひとつにボストンバック1個で引っ越し完了

神奈川の工場は希望通りの電気関連企業で
電子計算機の検査業務 ❣ 当時20歳。

途中で小田原工場への転勤などで
3回目の引っ越しも有りましたが、
同じく身体ひとつにボストンバック1個。

憧れの電気の仕事

憧れのオシロスコープも駆使しながら
基盤の電気信号やパルスのずれを直したり、

電子計算回路のフローチャートを
μ/sパルス同期で理論解析したりと、
仕事や、学ぶことが楽しい1年でした。

それでもこの企業は
中卒は調整部門、高卒は検査部門、大卒は設計部門
学歴で職種が決まっている事に嫌気がさして
再び転職活動を開始

時代の花形?

コンピューターの製造検査よりも
コンピューターを使う側になりたい ❣

当時21歳、少しづつ世の中が解り始め
ブルーカラー(技術系)からホワイトカラー(商用事務系)への
転身を目指し、チャンスを待った ❣
(新聞の求人欄を欠かさずチェック)

4回目の引っ越し

コンピューター操作員
オペレータ及びプログラマーの求人募集

80数名の応募者が殺到する中
1次面接 右矢印1 筆記試験 右矢印1 2次面接 右矢印1 身体検査
1日がかりの採用試験が終わった時には
4名しか残っていませんでした


なんと運が良いのか、神も仏も私を応援したとしか思えません。

勤務地は神田・大手町
金融関連企業の8階コンピュータ室
独身寮は鉄筋コンクリート3階建て個室が用意された


以後、この企業を退職するまで30数年勤務する事となります。

ここまでは独身時代で
家財も少なく独身寮から独身寮への引っ越しで
引っ越し貧乏にはならなくて済みました。


これから以降は結婚し家族帯同での転居・転勤など
お金のかかる事ばかりになりますが
ちょっと長くなりすぎて疲れましたので
続きは後日UPします。

続きはこちらです右矢印1人生いろいろ 引っ越しも色々 私の体験談(その2)



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posted by toshipro at 23:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 随筆

2024年08月30日

私はトイレを探してる夢を見る



私はトイレを探してる夢を見る


会社を辞めて20年、
何度も何度もトイレを探している夢を見る。

天使55.jpg

夢占いによれば
“ それはトイレは社会を表していると言う事です ”
と、ある。

なるほど、
働いてるときに見なかったのは、

その社会にずっぽり入っているから夢も見ない、
と言う事か・・・

何時もの夢だけど、


私が安心して用を足せる便所がない。

レストランみたいなところに行くと決まって先に使用している人がいて
他を探すことになる。

レストランを出て公園のような小高い山道を小走りに探していると
掘立小屋のような板囲いの小便所は有るが
大便所は、ぼろぼろの板階段を上ったところにある。

登っていくと扉もなく公園を行きかう人が360度見渡せる
ここでは出来ないと、又探す。

今度は小学校の集合トイレだ
ここでも納得のいく大便所に行き着けない。


今まで何十回と見た夢は


大体このようなトイレを探し回る夢なのだ。

夢の中ではとうとう大便をしないままで終わってしまうし
失禁もしていない。

時々思いっきり排便してる夢も見る。

それは昔住んでいた会社の寮の浴場だ
湯船から出た後のシャワー室の片隅で
してしまうのだ。

あまり罪悪感もなくシャワーで洗い流しほっとして目が覚める。

そういう時は本当にまれだけど、
本当に失禁してないか目が覚めてから緊張する。



妻にもこの話をすると

私は最近「トイレのお勤めも」無くなった、と言う。

どういう事かと尋ねると

一時期
なぜか私がスーパーやモールのトイレに行くと
決まって便器が汚れている。

仕方ないと思って掃除するけどなぜかそれが続く、
何か試されているのかもしれないと思っていた。

修行なのか、何かの埋め合わせなのかもしれない・・・



何なのでしょうかネ!

夫婦そろって
トイレにかかわる作業や夢を見るのは

きっと今の日本社会に納得できないことが
多すぎるのかも・・・
(微笑)





タグ:トイレ
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2021年12月01日

レンタルビデオでホモ・サピエンスの涙を観た






息子たちが死んだ

愛は孤独か?独りよがりか?

妻も死んだ

私は孤独だ


誰に命乞いをする

歌い踊って

神に祈るか


恋人たちは歌い踊り

子供を産んで

また繰り返す


人が争い

国が争い

血を流す


愛は不滅

永遠のエネルギー


また繰り返す

永遠の命たちが


天は荒れ

大地は動く


人は泣き彷徨う


神よ私の望みは何か?


雨が降り大地は太陽のもと


一日が巡り


また明日が始まる



私もとどまる事が出来ない


私はどうすれば良いのかわからない


Xmasがやってくる

全てが素晴らしい


戦いが済んで

戦士は捕虜収容所へ

みんなが黙っていた


世界は広い










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2020年06月20日

コロナ騒ぎが表面化させた「差別」と「偏見」

最近、コロナ騒ぎの渦中ですが



世の中に潜んでいた「差別」という意識が具体的に表面化して来たように感じます


 

なぜ人は差別するのか


例えば

警察の強権行為と黒人死亡のニュース


ここでは肌の色が違うと言うだけで区別する

同じ人間としての人格を認めようとしない

ネトウヨとかが政治発言の人にネット攻撃


彼らは文化・芸術芸能・あらゆる方面の著名人が

国民に向かって政治の話をしたり呼びかけたりする

言論の自由を妨害し、多様性を否定する

SNSネット誹謗中傷が人を自殺にまで追い込む


自分の名前を伏せたまま

匿名と言う隠れ蓑を盾に

寄ってたかって一人の人間(特に女性)に対し繰り返しバッシング

(同調圧力・いじめ・不満のはけ口・八つ当たり)

レイプドラッグによる性暴力被害


対等平等の立場で行動できない卑劣な男の歪んだ性

それを許す封建男社会の男尊女卑・隷従虐待思考

 

色々な現れ方をする、この「差別」と「偏見」


私自身長い時間をかけて

脳に刷り込まれた「差別」を消し去る努力を続けてきたように思う

やっと少しだけ男女平等・対等の関係を・・・

自然体で「自由」「平等」「人格・人間の尊厳」などを・・・

理解し実践できているのかな?と思えるようになってきた

 

差別と偏見が無くなり 


そして 自由と平等 人間の尊厳・人格を認め合う


その様な社会は、誰が創って行けるのか


答えは簡単 

私と貴方 そして周りの大勢の人達

つまり人間が個人としても、社会的にも、

今起きてる問題を一つ一つ勉強し

成長すれば良いだけの話です

 

その為に今があるのだ

色々な矛盾 政治のゆがみ 格差拡大 性差別(性的マイノリティLGBT)

汚職収賄 税金に群がる利権集団 などなど 

 

今日はここまで・・・続きはこちらから


 

久しぶりに次の電子書籍
「匿名質問箱: 敏ちゃんタマゴのとくめい質問箱」
を完成させました。https://amzn.to/37kCBBM
姿の見えない方々からの
100の質問にお答えしいています

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2016年06月18日

自己責任とか国家の責任とか

今回は、責任について考えてみました。



人間の社会では、
なかなか一人ぽっちで生きて行くことは難しい、

否、不可能だと思います。



私は誰の世話にもなっていない?

私は人間と接することはない?

自問自答してみれば、おのずと・・・答えはNO。



人間の一生 (誕生から終焉を迎えるまで) は、

否応なしに現実社会の中で、周りに世話を掛けたり、掛けられたり、

毎日、人と係わりながら歩み続けています。




その中でどの様に生きて行くかは、

自分が自由に決める事が出来ますが、

なかなか思うとおりに行かないのが人生なのかもしれません。




思うとおりに行かないのはあなたの責任?

自問自答してみれば・・・、こんどの答えは、

幾通りにもわかれてしまうのではないかと想像します。



例えば、
自分の生き方を決めるのは自由なわけだから、

その結果である責任は自己責任になるのではないですか!?


それでは、
財産を持っている人と持ってない人が現実社会に混在している中では、

金持ちがひたすら勝ち続け、格差拡大していくのも自己責任になるのですか!?



どこまでが自己責任で、どこが社会(国)の責任なの?


今の私に言えるのは、
社会的に富の再配分がきちんと行われる社会になっていないのに、
自己責任だけを吹聴しているように感じます。



こういう事を考え始めると、
社会科学や経済学やら、哲学、思想、解釈など、

物凄く広く、専門分野の学習が必要なのかもしれません。



あらためて生活(経済)の面から言えば、


公平な社会を作り、

格差をなくす方向で富の再分配がきちんと機能する社会

を作る責任は社会(国)の責任じゃないか、

ちゃんと社会(国)がやっているかどうかを監視し、選挙に反映させるのが自己責任ではないか。


などと、参院選をまえにして考えています。




話は飛びますが、東京都知事の公私混同とか、甘利氏の汚職疑惑とか


責任の取り方も最近おかしくなってきているように感じています。


















posted by toshipro at 10:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 随筆

2016年05月18日

転職 最終章

仕事 最終章


どこで働いても、状況は変わらない






三番目の会社は、東京都千代田区神田錦町、
職場は電子計算課、ビルの6階で眼下を走る高速道路の向こう側には気象庁。
(この気象庁は、昨年までエンジニアとして何度か出張した懐かしい場所)

勤務時間は朝9時から夕方4時まで、賞与年三回、夢のような条件と、
独身寮も鉄筋コンクリート3階建て、一人一部屋(憧れの個室)です。



転職を重ね、

「コンピューターを使用する、ユーザー側の人間になりたい」 と願った通り、
電子計算機を使用する仕事に就くことが出来ました、やる気は200%。

最初はオペレーター手順やプログラミングの研修などを受けながら、
朝9時から夕方4時、まだ明るいうちに退社できる、夢のような生活が始まりました。
(研修中も、職場のコンピューターは24時間フル稼働しています)

やがて職場の戦力として仕事に組み込まれ始め、
いつのまにか気が付けば、


一週間に三日働く、徹夜がらみの不規則勤務に、縛られた生活を送っていました。


どういう事かと言いますと、  月曜出勤徹夜、 火曜代休、 
              水曜出勤徹夜、 木曜代休、
                金曜出勤徹夜、 土曜代休、

給与は良くなりましたが、
勤務状況は昔と同じく、不規則勤務から抜け出せていませんでした。




「なんもせんでいい年寄り」を標榜した少年が、転職を通して目にし体験したことは、

最初の職場で遭遇した現実、
朝起きて働き、夕方には帰宅して、夜は眠るという、人間本来のサイクルが、
不規則三交替勤務という労働条件で壊されていく現実。

二番目の職場で感じた、
学歴社会の見本みたいな職場と生産ラインが、人間をそのように区分する、
生涯このレールからはみ出せない、飛び出せない雰囲気。

そして、三番目の会社、
給与はあがったが、一週間に三日働く、徹夜がらみの不規則勤務。




なぜこのように私には、徹夜作業や、不規則勤務がつきまとうのだろう?

子供の頃から「なんもせんでいい年寄り」を望んだりしたのが、
いけなかったのかも知れません。
きっと神さまやら、仏さまが、甘い考えを戒めているのかも・・・


朝日が昇れば仕事をし、
夕方にはその日の疲れを一杯のビールで癒し、
日が沈めば睡眠で明日の活力を蓄える。


私の希望は 「人間らしい普通の生活をしたい」 たったそれだけの事なのに、
現実社会は、それを叶える事の出来ない仕事ばかりが、私には巡って来る。




またまた、「幸せの青い鳥」を探そうと、転職に起ちあがる時、
相談した会社の先輩から一言、

「今の世の中、どこへ行っても似たり寄ったりだょ、転職すれば給料などはむしろ悪くなる」
「今の職場を自分の希望に沿って変えて行けばいいじゃないか」



この一言が私の転職人生にピリオドを打ってくれました。




「今の職場を自分の希望に沿って変えて行けばいいじゃない」
と、一言で言われても、それは容易なことではありません。


1人の人間の要望希望を2人、3人、4人・・・と広げ、
電子計算課職場全員の共通の要望希望として練り上げながら、

一方では会社全体の、多くの職場の人へ向かって、
電子計算課の徹夜の実態を知ってもらい、要望希望に共感し応援してもらう事から始まります。




百里の道も一足から、
1年とちょっと掛かりましたが、遂に電子計算課の社員の徹夜勤務が無くなりました。


それがやれたのも、職場や会社に本物の労働組合が有り、

職場の要求を吸い上げ、会社と団体交渉しながら要求を実現し解決する、
そんな力を持った労働組合を、職場のみんなが守り育てていたからだと思います。




その後私は転職しないまま、この会社で働き続け、

私は56歳で仕事を辞めました。



おわり



仕事〜その2、その3、最終章と、
最後まで読んでいただきありがとうございました。


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posted by toshipro at 12:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 随筆

2016年05月13日

新聞の求人欄

仕事 その3



求人




「私のやりたかった仕事ではありません」と言い残して
会社を辞めると宣言してからは、
新聞の求人欄をチェックしては入社試験に臨みました。



二番目の仕事は、コンピュータ製造部門の検査員の仕事です。
臨時雇員と言う身分でしたが真面目に勤めれば1年後には正社員、
しかも時代の最先端、技術系(電気)の仕事です。

波形やパルスを検知するマイクロスコープ、計算速度をテストするプログラム、
色々覚えるのが楽しくて、仕事が薔薇色に輝いていました。


その反面、納期に合わせた稼働検査は徹夜作業が続き、体力勝負の側面もあります、

中でも耐熱耐湿テストは、密閉された蒸し暑いテスト室に装置と一緒にはいり、
読み取りエラーの頻度を連続12時間記録する、
今で言うところの、熱中症に倒れそうな環境の中での交替作業でした。

それでも、自分が検査し無事に納入先に据え付けをするときは、
コンピューターに向かって「がんばれょ」と声掛けしたくなる位嬉しいものです。




ここの製造ラインは、仕事がぴっちり分かれています、中学卒業は「調整作業」、
高校卒業は「検査作業」、大学卒業は「管理部門と設計部門」。

私は、調整作業が遅れている時など、調整を手伝ったりして、
ボールベアリングの回転音からボールの傷を聞き分ける方法など、
知らない事をたくさん教えてもらい、検査に役立つ事もたくさん有りました。

上司からは、ラインを越えて手を出すのはいけないらしく、
検査は検査して不具合は調整に直させる、調整作業に手を出すな、
と、禁止されてしまいました。



学歴社会の見本みたいな職場で、生涯このラインから飛び出せない、
人間をそのように区別する職場と、レールからはみ出せない雰囲気に、
少しづつ違和感を感じ始めていました。



その頃は仕事も出来るようになり、納入先のSE(サービスエンジニア)が直せない時は、
私が出張し、解決してくるまでに成長していました。



有る時、大阪の繊維ビルへ出張した折の事ですが、
コンピューター納入先のオペレーターから、
「明日の朝には動くようにしとけやぁ」と言ってさっさと帰って行くのを見て、
心の中で呟きました。

お前さんの部下じゃないんだ…
「徹夜で大変だろうけどよろしくね」 だろう…




やがて1年、臨時雇員から正社員への上司の推薦が実り、 

はれて正社員になるという矢先に、退職願を提出した為に、
推薦した上司からは恨み言を言われながら、この会社を去ることになりました。


動機は、大阪出張の折に感じた「ユーザーが殿様」と言う現実が胸に刺さっていた事と、
学歴別の製造ラインの中で、人間が区別、差別されているように感じた事でした。



転職を心に決めてからは、再び新聞の求人広告でリクルート活動開始。
今度は、「コンピューターを使用する、ユーザー側の人間になりたい」
と言う、会社選択の目標が絞り込んであるので、
その方面の求人が出るまで根気よく待ちました。




夢がかなって三番目の会社は電子計算課のオペレーター兼プログラマー、
時代は企業にコンピュータが導入され始めた時期でした。




この続きは、次回(最終章)へ
・・・いよいよ三度目の正直、夢追い人よ頑張れ!・・・

 

 

 

 

 

posted by toshipro at 14:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 随筆

2016年05月11日

仕事を辞めたい

仕事 その2


仕事を辞めたい




今、振り返れば仕事を通して人間と社会の仕組みを、
私なりの方法で色々学んで来た様に思います。



「なんもせんでいい年寄り」 を標榜した少年が、
就職列車にのって社会に放り出された時代に話は戻ります。

工業高校を卒業し、世間知らずのひよっ子として社会に踏み出したのは、1965年4月。



二本の線路が、住み慣れた九州を後へ後へと押しやりながら、
機関車は黙々と関東へ向かい走り続けました。


この時から、私の転職人生が始まります。


最初の仕事は不規則三交替の製造工場で、
6,7m程の大きな機械の動きに合わせて製品を取り出し、
検品しながら箱詰めする作業でした。


先輩の右手の指が2本足りないのは、この機械から製品を取り出す際に、
金型に挟まれてしまったそうです。


「現場は命懸けなんだ」と、自分に言い聞かせ、緊張しながら深夜の作業もやりました、

時にはうつらうつらして製品を取り出せず、金型に傷をつけ、怒鳴られたりもします。
(まるで指を挟んでもいいから金型だけには傷をつけるなと言わんばかりの剣幕)


朝の5時、一番方交替の社員に、その日の機械の調子を申し送りしたあとは、
畑の中にポツンと建てられた「深夜作業明け専用宿舎」まで、
夜明けの道を歩いていきます。

お天道様の光が差し込まない様に雨戸は締め切ったまま午後まで眠りにつきます。



想い描いた仕事の理想や夢から、かけ離れてしまった自分が悔しくて、
人知れず涙のしずくを畳に落とす日も有りました。


4人部屋の独身寮と工場、そして「深夜作業明け専用宿舎」を往復する日々は、
鎖につながれた囚人にでもなったように思える時もあります。


今思えば、朝起きて働き、夕方には帰宅して、夜は眠るという、
人間本来のサイクルが、不規則三交替勤務で壊されていくのが怖かった。





およそ1年が過ぎようとする日、私は人事課長の前で「私のやりたかった仕事ではありません」
と告げ、ひと月後に転職してこの会社を出て行きました。



(つづく)

まだまだ・・・私の転職人生は続いていくのです!








posted by toshipro at 20:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 随筆

2016年05月09日

仕事と私と老人

仕事




私は56歳で仕事を辞めました。



今でも、働くことは人間と生活を支えてくれる大切な要素だと思っています。

でも、私は、
小さい頃から、早く年寄りになりたいなぁ〜と、思っていました。

勉強しにガッコ行かなくていいし…昼間からゴロゴロして道端でお喋りしてるし…
うらやましいなぁ…「なんもせんでいい年寄り」はいいなぁ〜と、思っていたのです。



今、それが実現しています、
希望退職56歳−働き始めは18歳=38年間働いたご褒美なのかもしれません。


世間が、定年延長や雇用延長などと言う言葉を当たり前のように囁き出した時、
私はおびえました 「これ以上働いて、仕事に自分の時間が奪われるのは嫌だ」


目標は55歳定年退職!
何としてでも雇用延長などに捕まらないうちに退職して、
自由な時間を手に入れたい!辞めるチャンスを狙い続けました。


結果はまずまず、目標より1歳オーバーして仕舞いましたが、
56歳で目出度く希望退職のチャンスに恵まれました。

もしかしたら世間では希望退職=リストラと言うかもしれませんが、
私にとってはどちらでも良く、
小さい頃の憧れだった 「なんもせんでいい年寄り」 になれたのです。



自由な時間はたっぷり手に入れましたが、
全てがパーフェクトとはいかないものですね…

これからの老後の生活に目をやると、経済的には不安定(不自由)そのものです。

貯蓄は確実に0円に向かって進み続けるのと、
私の寿命も確実に終焉に向かい歩み続けるのですが、
どちらが早いか、それがこれからの重要なテーマになります。


社会福祉予算も減る一方で最悪の状況になった時の手助けは有るのか、
病気などに罹って入院したらどうなるんだ、など、
色々マイナス面を考えると、なんとも寂しい未来が待っていそうな気もします。



それでも気を持ち直し、「金は天下のまわりもの」 心配してもきりがない、


私は 「質素な、働かない蟻さん」 「なんもせんでいい年寄り」 になれたんです。

これからは、自由な時間を、どう活用して行こうか、
じっくり考えてみたいと思います。





次のブログでは、
 「なんもせんでいい年寄り」を標榜していた少年が、
  実社会に踏み出す時の事を、続けて書いていこうと思います。





今日は、ここまで!最後まで読んでいただきありがとうございました。















タグ:仕事 退職
posted by toshipro at 19:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 随筆

2016年05月01日

スマホの便利さと危険性



スマホにくぎ付け



久しぶりに東京の空の下で生活をしてきた。



二日間ほど、

熊本地震の余震で怖い思いをした後に、

午後からの飛行機で羽田に向かった。



高速道路を走るリムジンバスから、

空に向かって乱立するビルの群が見える。

 


そこは人影もなく、建物の輪郭に沿って光に包まれた「未来都市」、

まるでアニメの映像さながらキラキラ輝いていた。

 



墨田区森下に宿を決め、

近くの餃子屋さんで焼き餃子をつまみ、壜ビールで喉をうるおした。



翌日は都営新宿線に乗り江戸川区瑞江まで移動する、

この時間の車内は、朝の出勤タイムから外れていて、

乗客はシートに腰を落とし、ほどよく空いていた。

 



車内風景としてぼんやりと眺めていて、ふと気が付けば、

こちらのシートも向かいのシートもその先も・・・、

皆が一様にスマホに向き合ってせっせと指を動かしている。

 



この風景は、ずっと以前携帯電話が普及した頃と同じだ、

その頃は若者学生が主流だったが今回は違う、

30代?40代?いやいや爺様婆様まで全年齢に広がっている。

 



電車は地上に出て眼下に荒川、中川の川面が青く光っていた、

ここ江戸川区は懐かしい地域、私が20代後半の頃、

新小岩をベースに営業活動を展開した所。



江戸川区にも「おいてけ堀ってあったナァ・・・」とつぶやくと、

すかさず「おいてけ堀は墨田区の話よ」と妻から訂正の一言。



私の脳裏には、

当時の江戸川区の風景の中に「おいてけ堀」の看板がリアルに再現されていた。



駅を降りると、大きな近郊地図が目にはいった、

瑞江、一之江、篠崎・・・懐かしい地名が並んでいた。

 

 

 

 

 






 

 

 

 

今回の東京行きは、元気なうちに義母に会っておこう、と言うのが目的で、

 


友人親戚などとのコンタクトは全て外し、ここ瑞江の小さなホームを連日訪ねた。



筆談を交えたアイ・コンタクトで、

義母97歳の意識の確かさと、心の穏やかさを確認しながら、3泊4日の最終日を迎える。

 




この間幾度となく「スマホにくぎ付け」の車内風景を目にした、

皆が横並びに同じことをしている事に対しての違和感とでも言うか、

「異常」「没個性」を感じるとともに、気味悪くさえ思えてきた。

 




もし私がこの風景の中で「スマホはやめろ!」と、大声出したら、

全員が一斉に顔をあげ私を確認目視するだろう、

「何だこの爺さん」と言う目つきを残して、再び一斉に顔を落とし、

一瞬前と同じように「スマホにくぎ付け」に戻ってしまうんではないかと想像してしまう。

 




私が思うに、この状態は生産ラインに並ぶロボットと同じように、

決まったことを決まった通りに繰り返すように、

人間が変わって来ているのではないだろうかと心配になって来る。

 



与えられた映像と情報をもとにしか物が考えられなくなる、


TVのバラエティー番組で笑わせられながら、

物事を自分の頭で考える事が出来ない人間を、

大量に生産されているような怖さも感じる、

 

茶の間のTVが24時間持ち運び自由のスマホに代わっただけである。




1人でもいいから、横並びは嫌だ!意地ででも私は本を読む、

と言うような人間が居てほしい。

 



何もしないで、ぼんやりと空想し想いを巡らす人でもいい、

 

目を閉じて瞑想する、或いは頭の中で、

あーでも無い、こーでも無いと理論や理屈をこね回す人でもいい、

 


まちなかでスマホをいじらない
    そんな人間が一人でも居てほしい。

 

 

 

タグ:スマホ
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2016年03月07日

世界文化遺産

世界文化遺産「三池炭鉱」



福岡県の明治日本の産業革命遺産である、
三井鉱山の「三池炭鉱」関連施設 「万田坑跡」 そのほかが 世界文化遺産として登録されました。

同じ炭坑では長崎県の 端島炭鉱 元三菱鉱業が所有する 通称「軍艦島」も世界文化遺産です。

ほかにも筑豊炭田では「伊藤伝衛門」や「白蓮」そして炭坑労働の写生で有名な「山本作兵衛」などが有名です。



共通して言えるのは、世界文化遺産としての関連施設や資料の保存とともに、
炭坑とそこで働いた人々の歴史をどう語り継いでいくのだろうか・・・



今回は「三池炭鉱」について私の見聞も織り交ぜながら記載したいと思います。



福岡県の西南端に位置する大牟田市と、隣接する熊本県荒尾市を含む、
広大な地域で石炭が発見されたのが明治の頃、

遠浅で有名な有明海の波打ち際に、
海底から剥がれた真っ黒な石炭が打ち寄せられ、ゴロゴロ転がっている状態のところで、
漁を終えた漁師仲間達が焚火しながら、スルメをかじり焼酎でも飲んでいる時、
「おーこの黒い軽石が燃えとるバイ」とかなんとか言いながら
石炭を発見したのかもしれません。

その報告を受けた明治政府が掘削を始めたのがきっかけで、
石炭の鉱脈は陸地だけではなく有明海の海底にまで広がっていました。

その後、三井財閥が明治政府から譲り受け石炭部門として設立した三井鉱山は、
長い間日本の工業生産を支え続け、エネルギー(石炭)産業として発展していきます。

この大牟田市と荒尾市は、 
♬〜月が出た出た 月が出た 三池炭坑の上に出た〜♬ と唄われる、 
民謡(炭坑節)でも有名な炭鉱の街として栄えたところです。

山口県宇部市でも明治時代から昭和にかけて、海底炭田群を宇部興産が買収合併し、
石炭とセメントで 宇部の化学コンビナート へと発展してゆく。

炭鉱で富を得た複数の炭鉱主たちが、
宇部市の繁華街で昼夜を問わず大賑わいを見せていたと言う、
料亭では靴ベラ代わりに札束を使ったと、昔風の食堂のお婆さんが話してくれました。



時間にゆとりがある方は
続きを
こちらで→
http://toshiprob.blog.so-net.ne.jp/
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2015年04月08日

第一章(闇から光明の世界へ)

はじめに

私の一生を、誕生から終焉を迎えるまでの心の有りようを軸に据え、生命と身体、心と脳の働き、それに宇宙とは・・・等を絡ませながら随筆として構成しました。

「宇宙」、「心」、そして「脳」、何れも未解明の分野でありますが、著者の推察と読者のイマジネーションとで、「限られた命」と、「永遠の宇宙」のなかを歩んでいる自分自身を、今一度見直せたら幸いだと思います。


第一章(闇から光明の世界へ)

カオスの闇は、長い時空の中でひっそりとした揺らぎに包まれていた、
そこで何故ビッグバンが起きるのか、そしてその後、瞬時に広大な、無限ともいえる宇宙の広がりを造り上げてしまうのか…
いつも宇宙の事「宇宙の設計図」を考えると理解できない嬉しさでワクワクしてしまう。

命も又、神秘の闇の中で育まれ揺らぎ漂うもの、「誰かの仕業?」あるいはDNAの螺旋に組み込まれた、父親や母親の胎内に潜んで居るのだろうか。
宇宙にしても胎内にしても、私達の理解を超えた仕組みによって、「命」のベルトコンベアは動き始める、未来から過去へ、あるいは反転し過去から未来へと無限に動き続けているように思う。

命のベルトコンベアの揺らぎの上に、今又一つの「生命」が出現しようとしている。
幾千幾万の精子が、ここでは弱者を排斥こそしないが全力疾走で卵子に向かい突進し、飛び込んでいく、
精子を受容した卵子は、核分裂に似た火の玉の様な輝きと共に、一瞬の内に殻を閉ざし、中で細胞の融合を始める。

このようにして、命のベルトコンベアの上に「生命」が誕生するさまは、あの世の世界(虚数の時間)からこの世の世界(実数の時間)が始まると言う意味で、宇宙の始まり(ビッグバン)にとてもよく似ている。

「命」はあの世からこの世に、DNAの螺旋設計図を組み合わせながら、
40億年前の生物の誕生から現在までの進化の過程を、僅か10ヶ月と10日で駆け抜けながら、母親の胎内(羊水の中)で育成され、地球上に新たな生命(嬰児)として出現してくる。

母の胎内を宇宙船にたとえれば、宇宙で育てられ地球にやってきた「人間」と思ってみてはどうでしょう、アフリカも日本も中東諸国もアメリカもアジアも、世界中の子供達は宇宙創成140億年の彼方から送り込まれた「命」そのものかも知れません、
男も、女も、肌の色が違っても、同じ生命ととらえられれば、見た目は違っても、それぞれを個性として認め、認識されるならば、「力の暴力」や戦争による殺戮、その根源に潜む「差別」と言う概念をなくす事が出来るかもしれません。

「命」のベルトコンベアは宇宙と同じように永遠のときを刻み流れている、私達の「命」はねじ時計の様にチクタク秒を刻みながら、「命」のベルトコンベアの上を誕生から終焉に向かって歩いています。

例えばベルトコンベアの上に私の誕生した「生命のねじ時計」が在ると想像してください、私の周囲には働き者の父や頑張り屋の母、そして口やかましい近所のおばさん、そして色々な全ての人達が同じように「生命のねじ時計」でチクタク秒を刻みながらベルトコンベアの上で生活し、歩き続けています。

ある時、永遠のときを刻み流れている「命」のベルトコンベアに、「誰の仕業」かワカラナイ(私達の理解を超えた自然の真理)によって突然遮断機が降りてきて、
私をベルトコンベアからはじき落としてしまいます、或いは口やかましい?近所のおばさんは、生命のねじ時計が突然止まってこれ以上歩けなくなり、ベルトコンベアの後ろの端からカオスの闇へ落ち込んでいきます。
これが「死」、なのかもしれません。

「死」をこの世(実数)からあの世(虚数の世界)へ転進する事ではないかと考えると、宇宙創成の時と同じように、「死」も誰の手によるものかワカラナイ設計図(私達の理解を超えた自然の真理)のなせる業なのかも知れません。
自らの頭上に「命」の遮断機が降り注いで来る日や、「生命のねじ時計」が突然止まる日は、今日かも知れず、明日かもしれない。と、言う覚悟を、「心」に置いて今を生きる事がとても大切なのではないだろうか。

過去を振り返って悔やんでばかりいたり、この先如何なるこうなる悩んでばかりいて足踏みするより、今の自分が心に決めた大切な事に向かって一歩一歩「命」のベルトコンベアを踏みしめ歩み続ける事が重要で、
「命」のベルトコンベアから落ちてからあれこれ言っても始まりません。

昔から言われている「生きている内が華よ」の例えを心に刻んで、
「今」を歩いて行きましょう。

ただ一つ気になることは、
今も人間は、戦争の中に居る、世界のどこかで「武器による殺戮」が行われ、一見平和そうな世界のどこかでも、強いものが弱いものを排斥したり死に追い込んだり、「力の暴力」が平然と行使されている、
もしかしたら、これも「宇宙の設計図」に描かれている事であろうか、殺戮の設計図を書き直せる「人間」は居ないのだろうか。

つづく

「生命」の誕生

満天の星空の中を命の流れ星が1つ地上に…
私の小さな命は、福岡県の西南端に位置する炭鉱の町(大牟田市、荒尾市)を見下ろす山村の、古びた民家の中に居た。

産婆は、取り上げても声を出さない私を両手で掴み、天地に向かって「グルン」と一回転させた、泣き声とともにこの世に誕生した私の生命と身体である。
おぼろげな闇の中で「カチッ」という幽かな音と光を合図に、命のねじ時計は動き始めた、同時に「心」と乳白色の「脳」も記憶のヒダを刻み始める。

これより先は、一見消え去ったと思われている遠い過去の「記憶のヒダ」を、トレースしながら話を進めて行こうと思う。

昭和22年2月11日 日本中が貧しく食べる物も少ない時代でした。

朽ち果てた裏木戸を押し開くと薄暗い雑木林に囲まれた石造りの井戸が在る、側で祖母が洗い物をして居る、天からは粉雪がちらほら舞い降りていた。

生まれたばかりなのに、私の「命のねじ時計」は、今にもコトッと止まりそうな一夜を迎えていた。
母は乳を含ませ飲ませようとするが、ことごとく吐き出してしまう私は、泣く力も失せ布団の上で目を閉じたまま、小さな身体でかすかな息づかいを続けている、
蝋燭の赤黄色い小さい炎に照らされながら、私の顔を覗き込む祖母の顔や、差し伸べる手の深い皴が、不安な気分を滲ませていた、
祖母はいつ途絶えるか判らない私の吐息を見つめながら
「明日まで持つかのぉ…」と、呟いた。

翌朝母は私を抱いて、4kmほどの山道を駆けるように大牟田市立病院へと下りて行った。
母の母乳は医療検査器の中で、乳と水分が溶け合わずサラサラと分離している、
気丈な母は、栄養不良で自分が脚気に罹っていることすら知らなかった、
医師は告げた、「脚気の乳を赤子は飲まんよ、今後は粉ミルクを飲ませなさい」さらに告げた「この子の心臓は弁の締りが悪く血液が一部逆流している、
今は小さくて治療は出来ないが様子を見ておかしかったら又、つれてきなさい」
母は「脚気」子は「心臓弁膜症」
まさか母子共々そのような症病名をもらうとは思いもしなかったであろう。
母は小さな私を抱いて山道を足取り重く戻っていった。

昭和22年と言えば、皆が貧しく物資もなかなか入手できない時代に「粉ミルク」など有ろうはずがなかった、家に戻り祖母にも告げた。

祖母は産後の手伝いに佐賀県東与賀村(母の里)から米穀や野菜などを持ってバスとディーゼル列車、機関車と乗り継ぎながら大牟田まで来ていた。

つづく

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気ままに描いた絵や創作童話と お役立ち情報を発信するブログです。 「先ずは簡単にご挨拶」 実は私の一番の趣味が漫画です 今の言葉で言えばコミックです 遠い昔は「貸本屋」さんで単行本は借りて読んでいました 手塚治虫さん達が「トキワ荘」で熱く語り合いながら 漫画の道を切り開いている頃でした 幼い私の夢は 一日中漫画に囲まれている「貸本屋」さんになりたい! そう思い続けていましたが・・・ 高校生になる頃には町の貸本屋さんは 時代の変遷の中で消えていきました・・・ 私の夢もいつの間にか何処でもいいから就職して独立しなきゃ! と、変わっていきました それから・・・こんにちに至るまで 生活の中でほっと一息つく時は コミックが大きな役割を果たしてくれています 2024年7月13日 ブログオーナー toshipro きままな展覧会にお立ち寄りいただき ありがとうございます。 ここで 楽しみの種を探し当てて下さい!
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