車椅子ユーザーのライター、桜井弓月(さくらいゆづき)です。
車椅子で生活していると、不便なことや理不尽に感じることがいろいろとありますが、人のさりげない優しさや気遣いに嬉しくなることも多いものです。
今回は、友人から聞いた話や私自身が体験したことの中でも、特に印象に残っている「嬉しかった気遣い」を厳選してお届けします。
[1]友人の体験談――素知らぬ顔で信号機のボタンを押して立ち去った男性
電動車椅子を使っている友人から聞いた話です。
友人の自宅と最寄り駅の間には、押しボタン式の横断歩道があるそうです。彼は、その横断歩道を渡らないと自宅と駅を行き来できないのですが、ボタンに手が届かないため自分で押すことができません。人が通ればボタンを押してくれるよう頼むことができますが、誰も通らないときは、車が来ないことをよく確認したうえで、赤信号で渡らざるを得ないそうです。
ある日の仕事帰り、横断歩道の付近には誰もいなかったため、友人が赤信号でも渡ろうと考えていたところ、一人の中年男性が歩いてきました。
その男性は、特に友人の方を見るわけでも歩く速度を落とすわけでもなかったのですが、友人が声を掛ける前に、何も言わずにさっとボタンを押したのです。そして、自分は横断歩道を渡らず、何事もなかったかのように、またスタスタ歩いて行ったそうです。
それは、ほんの一瞬の出来事だったと言います。友人は、障害の影響であまり大きな声を出せません。男性が自分自身のためではなく友人のためにボタンを押してくれたのだと気付いて、友人がお礼を言おうとしたときには、男性は声が届かないところまで行ってしまっていました。それで、友人は男性に気付いてもらえないと知りながら、頭を下げたそうです。立ち去る男性と、その背中に向かって頭を下げる友人。まるで映画のワンシーンのような光景が目に浮かびます。
友人の話から想像するに、男性の振る舞いはごく自然で押しつけがましくなく、独りよがりでもなく、とてもスマートだったのでしょう。さっと行動して、何事もなかったかのように立ち去り、助けてもらう側に気を遣わせない。私も含め、そのような振る舞いはなかなかできることではありません。そもそも、押しボタン式の横断歩道の前に車椅子ユーザーがいるのを見て、「ボタンが押せなくて困っているのかもしれない」と気づくだけでも、すごいことだと思います。私はその男性と会ったことも話したこともありませんが、友人から話を聞いただけで「なんてジェントルマンなんだろう!」と、惚れてしまったのでした。
[2]私の体験談――電車に安全に乗れるよう気遣ってくれたサラリーマン
[1]と似たような話ですが、こちらは私自身の体験談です。
ほとんどの鉄道路線ではホームと電車の間に段差や隙間があるため、車椅子ユーザーが利用する場合は駅員さんの手助けが必要です。ただ、私の生活圏内には、車椅子ユーザーが一人で乗降できる路線が一つだけあります。
ある日、その路線の駅で電車に乗ったときのことです。
私が乗ろうとすると、車内のドア付近に立っていたサラリーマン風の男性が、無言で何気なく片足をホームに出しました。私が完全に乗り込むまで、ドアが閉まらないようにしてくれたのです。しかも、車内の足もホームに出した足も、私が乗車するときの妨げにならない位置にありました。
そのときは電車を降りる人がわりと多かったので、私が乗るまでに少しだけ時間を要しました。そういったこともあって、そのサラリーマン風の男性は気遣ってくれたのかもしれません。
そのときの状況を現実的に考えると、私が乗り込む前にドアが閉まってしまう恐れはそれほどなかったと思います。とは言え、とっさにそのような行動ができる人がいることに驚くとともに、その気持ちがとても嬉しかったですし、男性のさりげなさがとても心地よかったのです。私が「ありがとうございます」と言うと、その男性は、何でもないと言うふうに小さく頷きました。
[1]と共通しているのは、どちらの行動も大げさなものではなく、ごく自然であるということです。それはおそらく、彼らにとって他人を気遣うことは、特別なことではないからなのでしょう。
[3]友人の体験談――車椅子をポジティブに説明した若いママさん
再び、[1]と同じ友人から聞いた話です。
道端で若い母親と小さい子供とすれ違ったとき、子どもが友人の車椅子を指して「あれ、何?」と母親に尋ねました。母親がどのように説明するのか気になって友人が注意を向けていると、「おにいさんの足よ。かっこいいでしょ?」と答える声が聞こえてきたそうです。
私はこの話を聞いて、心底感心しました。
子どもから車椅子について問われて、即座にこんなふうに答えられる大人は、いったいどれぐらいいるでしょうか。まず、「車椅子ユーザーにとって、車椅子は足である」ということを本当の意味で認識、理解している非車椅子ユーザーは、意外と多くないのではないかと思います。さらに、子どもに車椅子を「かっこいいもの」と言える心の清々しさ。貴女の方がかっこいいです! おそらく、もう少し理解が進む小学生より、まだまっさらに近い小さな子どもに対しての方が「かっこいいでしょ?」という言葉は効果的なのではないでしょうか。その子に合わせた言葉選びもうまいなあと思いました。
小さな子どもは、物珍しさから車椅子に興味を示します。私も、街なかで私を見た子供が「あの人、何で歩けないの?」とか、電動車椅子を指して「勝手に動いてる!」と言っているのをよく耳にします。
子どもにとって、街なかで車椅子ユーザーと出会うことは良い経験ですし、一緒にいる大人(多くの場合は親御さん)にとっても、車椅子や障害者についてきちんと説明する絶好のチャンスであるはずです。しかし、残念ながら、答えをはぐらかしたり、「そんなこと聞かないの!」とたしなめたり、子どもの興味を他へ移そうとしたりする大人は少なくありません。
そんな中で、件の母親の対応はひときわ光っています。
その母親なら、いろいろな事情で歩けない人がいることや、車椅子がどういうものなのかということを、あとで子どもに分かりやすく説明してくれたのではないかと思います。
[4]私の体験談――「できることはするから。できないことはしないけど」と言った友人
嬉しかった気遣い厳選集の最後は、私が友人から言われた一言です。
この友人というのは、私が数年前に勤務していた会社の同僚女性で、彼女自身、内部疾患を抱えています。
入社して間もない頃、お互いの病気や障害のことを話しているときでした。彼女が「何か(困ったことが)あったら言って。できることはするから」と言い、そのあとに「できないことはしないけど」と笑いながら付け足したのです。
私は、「できることはするから」よりも、「できないことはしないけど」という一言で気持ちが軽くなり、救われた思いがしました。この一言に、対等であろうとする彼女の気持ちが表れているように感じたのです。
対等な関係とは、「助ける側と、助けられる側」ではありません。お互いに、相手が困っていれば、できる範囲で手を差し伸べ、できないことはしない。それが自然なあり方でしょう。私には私の、彼女には彼女の、できることとできないことがあり、限界があります。それぞれが、できることをすればいいのです。それが人間関係の基本です。
「できないことはしない」と宣言することによって、「できることをする」という言葉も特別なものではなくなります。何か助けてもらったら、もちろん感謝するけれども、申し訳ないと思わなくていいし、必要以上に気を遣わなくてもいいのだ。「できないことはしないけど」という一言は、そんなふうに思わせてくれる言葉でした。
あれから10年余り経ちますが、彼女とは今でも仲良くしています。
さりげない気遣いは、心を軽くしてくれる
この記事を書きながら、今回ご紹介した4つのエピソードの共通点は何だろうかと考えてみました。それはおそらく、どれも大仰なものではなく、ごく自然になされた言動である、という点ではないでしょうか。
さらりと手を差し伸べてくれた人たち、気持ちの良い言葉を聞かせてくれた人たちは、障害者に対して変に構えがなく、ニュートラルなのだろうと思います。彼らの言動から感じるのは、障害があるということに特別な意味を持たせていないということです。
障害を持って生活していると、人に助けてもらうことが非常に多いです。助けてもらえるのはとてもありがたいことですが、「人の助けがなければ生活できない人生」というのは、やりきれなさを抱えることもありますし、重荷でもあります。
そんな中で、何の気負いもない、素朴でさりげない気遣いに触れると、心と体が本当に軽くなり、障害という重荷から解放されるような気分になるのです。 執筆 桜井弓月(さくらいゆづき)
2017.09.07 ガジェット通信
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