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高原茂
メンタル心理カウンセラー・上級心理カウンセラー・行動心理士の高原茂です。宜しくお願い致します。 「このサイトはアフィリエイト広告(Amazonアソシエイト含む)を掲載しています。」 など
プロフィール

2025年01月25日

【金は天下の回りもの】

【金は天下の回りもの】

お金はエネルギーです。

エネルギーは、

循環してこそ意味があります。

お金を必要以上に貯め込まないように留意しましょう。

これに関して、

『富と宇宙と心の法則』(著者 ディーパック・チョプラ 訳者 住友進 サンマーク出版)

の中に、こう書いてあります。

「お金は血液のようなものです。

いつもサラサラ流れていなくてはなりません。

ため込んだり、
しがみついたりしていると、
ドロドロになってしまうのです。

人間が成長するためには、
お金はつねに流れていなくてはなりません。

その流れが止まれば、
凝固した血液と同じように、
循環はさえぎられ、
体を壊してしまうだけです。

お金とは、
宇宙に捧げた奉仕の結果として、
わたしたちに与えられる生命エネルギーです。

つねに自分に流れてくるようにするには、
エネルギーをたえず循環させておかなければなりません。」(42頁)

お金とは、

世のため人のために奉仕した結果として、

与えられる報酬です。

銀行に金を積むのではなくて、

宇宙銀行に徳を積む。

お金はあの世まで持っていくことはできないが、

徳は後世まで評価される。

『虎は死して皮を留(とど)め、人は死して名を残す』

『金は天下の回りもの』

Money is a great traveler in the world.

『江戸っ子は宵越しの銭は持たぬ』

『江戸者の生まれそこない金をため』(古川柳)

『守銭奴になるな 篤志家になれ』

(推薦図書)
『富と宇宙と心の法則』
(著者 ディーパック・チョプラ 訳者 住友進 サンマーク出版)
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2025年01月24日

【人を変えようとしない】

【人を変えようとしない】

人を変えようとせず

自分を変える

自分が変われば

周りが変わる

なぜなら

外界は己の内界を映し出す鏡だから

他者を変えようとするのではなくて、

自己意識の向上に努めることが肝要です。

自身のものの見方・考え方を変えることの大切さについて、

『菩薩を生きる ―入菩薩行論―』 
(シャーンティデーヴァ著 寺西のぶ子=訳 監修=長澤廣青 バベルプレス) 

の中に、こう書いてあります。

「凶暴な者は、虚空と同じく無限にいる。

そのすべてを抑えることなど、できるはずもない。

だが、この憤る心を制すれば、
敵をすべて屈服させたようなものだ。

大地を皮で覆いつくそうにも、
それだけの皮がどこにあるというのか。

だが、私の靴の底に皮を貼れば、
大地をすっかり皮で覆ったのも同じだ。

すなわち、外界のできごとは
私の手では抑えられない。

だが、自分の心を抑えてしまえば、
ほかに抑えるべきものはなくなる。」(86頁)

人を変えることはできません。

しかし、自分を変えることはできます。

自分が変われば周りも変わります。

『類友の法則』で気の合った人・波長が合う人が集まってきます。

周りが変われば世界が変わったのと同じことです。

他人ばかりを悪く思ってはいけない。

まず自分がよい人間になれば、

他人もよい人間になる。

『世の中の 人を悪(あ)しとも思ふなよ 我だに良くば 人も良からむ』(荒木田守武)

「『世界を変えるには自分を変えなければならない』というチョプラ博士のスピリチュアリティに完全に同意します」(ダライ・ラマ)

(推薦図書)
『菩薩を生きる ―入菩薩行論―』 
(シャーンティデーヴァ著 寺西のぶ子=訳 監修=長澤廣青 バベルプレス) 
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2025年01月23日

【釈迦に説法、孔子に悟道】

【釈迦に説法、孔子に悟道】

『釈迦に説法』という成句があります。

意味は、

「よく知っている者になお教えること。説く必要のないこと。」

です。

類句に『河童に水練』があります。

英語では、

Don’t teach fishes to swim.
(魚に泳ぎを教えるな)

と言います。

個人に対して、

生き方をアドバイスしたり、

人生観を押し付けたりしないように留意しましょう。

個人への意見は、

お節介や干渉になりかねません。

人には、それぞれ『魂の修行』があります。

人の修行を邪魔しない。

『爾は爾たり我は我たり』(孟子)

人のことをかれこれ言わず、

己の為すべきを為す。

情報は、

大衆に向けて発信しましょう。

学ぶ人は学びます。

学ばない人は学びません。

『馬の耳に念仏』

です。

『縁なき衆生は度し難し』
(いかに仏でも仏縁のない人は救済しにくい)

(参考図書)
『読み・書き・話すための 故事ことわざ辞典』(学習研究社)
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2025年01月22日

【独善に陥らない】

【独善に陥らない】

私たちは、とかく、

ひとりよがりになりがちです。

お互い、

独善に陥らないよう気をつけましょう。

人の数だけ思想があります。

人の数だけ使命があります。

『自分が正しい。あなたは間違っている』

と、自身の正当性を主張しないように注意しましょう。

これに関して、

『本当の幸せをつかむ7つの鍵』(著者 ディーパック・チョプラ 訳者 住友進 サンマーク出版)

の中に、こう書いてあります。

「 ほとんどの人は、

自分の考えを世間に押しつけようとする罠にはまっています。

正しいことと間違ったことの判断基準を設けて、

長年、
その善悪に関する信念を絶対に曲げようとはしません。

『私が正しい』 と信じていれば満足できるかもしれませんが、

それではほんとうの幸せは訪れてはくれません。

(中略)

自分が正しいことを証明することで、

幸せになった人は今までに誰ひとりいないのです。

結局、
待っているのは対立と対決のみです。

自分が正しいと言い張れば、

かならずほかの誰かが間違っていることになってしまうからです。

(中略)

誰もがよくご存知のとおり、

『自分が正しい』

という態度をかたくなに変えようとしなければ、

神の名のもとに続々と争いが起こってくるでしょう。

(中略)

世の中を愛ではなく判断で見ようとすれば、

あなたは愛のない世界に暮らすことになるのです。」(99頁〜101頁)

人の数だけものの見方があります。

このことを忘れないようにしましょう。

自分のほうが正しいと主張しないことが大切です。

我を張れば他の誰かを悪者にしてしまいます。

相手の意見を否定しなくなれば、

心は穏やかになり、

視野も広がります。

『書物の数だけ思想があり、思想の数だけ人間が居るという、在るがままの世間の姿だけを信ずれば足りるのだ』(小林秀雄)

(推薦図書)
『本当の幸せをつかむ7つの鍵』
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2025年01月21日

【和顔施とは?】

【和顔施とは?】

和顔施とは、

布施行(仏教における他者への施し)の一つです。

柔和な顔色で、

いつもにこやかに人に接することです。

財物がなくても、

誰にでも簡単にできます。

和顔施は、

大乗仏教において最も重要な

『衆生を幸せにする行い(菩薩行)』

の一つです。

笑顔で接することで、

周りの人たちに元気や明るさを与えることができます。

『和顔施』について、

『生きることば あなたへ』(著者 瀬戸内寂聴 光文社)

の中に、こう書いてあります。

「布施とは、相手の欲することを与えること。

物施もあれば心施もあります。

でもわたしは、
顔施ということばがいちばん好き。

だれに逢ってもにこにこ優しい表情をみせることで、

顔さえあればだれにでも可能なのです。」(191頁)

お互いに、

いつでも、

どこでも、

誰にでも、

柔和な顔色で、

にこやかに接したいものですね。

『幸運の女神はいつも微笑んでいる』

(推薦図書)
『生きることば あなたへ』
(著者 瀬戸内寂聴 光文社)
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2025年01月20日

【法施とは?】

【法施とは?】

『法施』とは、仏教用語です。

菩薩が修行する6種の項目である六波羅蜜の一つに、

布施行があります。

この布施行の一つが『法施』です。

法施に関して、

『〈仏教を学ぶ〉ブッダの教えがわかる本』(著者 服部祖承 大法輪閣)

の中に、こう書いてあります。

「六波羅蜜の第一は、布施ですが、
布施とは、一般に僧侶の読経に対しての謝礼金と考えられているのではないでしょうか。

しかし、布施とは、本来、
何の報酬も求めない純粋な意味での施しのことです。

つまり、
与えっぱなし、
施しっぱなしのことなのです。

損得を考えない、
相手の幸せのみを考えて施すことです。

この布施には、
次の三種があります。

1、財施(お金や物を与えること)

2、法施(仏教の教えを説き伝えること)

3、無畏施(安心を与えること)

財施とは、
自分に関係のある人、ない人にかかわらず、
一切の人々に財物を施すことです。

法施とは、
仏教の真理を知らない人に、
説き聞かすことです。

財施よりも、
法施のほうがより重要です。

金や物だけで世の中は価値づけられるものではありません。

どんなに人に財物を施しても、
それを自由にできる間には限度があります。

また、
死後に、その財物は持っていけるものでもありません。

しかし、
法施は、
その人の生き方を根底から変えることができます。

つまり、
仏果菩提(=悟り)を成ずることができるのです。

しかし、
世間では、
法施より財施をありがたいと考えがちです。

愚かな人は、
わずかな金や物を得ても喜色満面に表わします。

ところが、
仏教の教えを聞いて、
ありがたいと思う人は少ないのが現状でしょう。

次の無畏施とは、
人に対して、
恐れることなく、
勇猛心をもって人生を生きていくことを教えることなのです。

恐怖や不安におののき恐れている人に、
安堵の心を起こさせることが無畏施です。

布施には、さらに、
身施と呼ばれるものがあります。

つまり、
困っている人に力を貸したり、
人に親切を尽くすとか、
他人に奉仕をするとかということです。

財施や法施は、
自分が財物や仏法を所有していなければ施すことはできませんが、
この身施は、
そのような財や法を持たなくても、
また、
無畏を施す力量がなくても、
誰でも容易にできるものです。

このような意味の身施が、
いかに世の中を明るくし、
人々の心をなごやかにすることでしょう。

一方、
金や物の追求に血みどろになっている餓鬼の姿は、
どんなにか醜いものでしょう。」(82頁〜83頁)

仏教の教えは、

『悟りを開くための智慧』

です。

四諦・八正道・三法印・六波羅蜜などの仏道を学び、

実践しましょう。

仏法を学び、

悟りを開くべく、

共に精進しましょう。

(推薦図書)
『〈仏教を学ぶ〉ブッダの教えがわかる本』
(著者 服部祖承 大法輪閣)
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2025年01月19日

【命より大切なものとは?】

【命より大切なものとは?】

この世の自分の命よりも大切なものとは何でしょうか?

これについて、

『いのちより大切なもの』(著者 星野富弘 いのちのことば社 フォレストブックス)

の中に、こう書いてあります。

「いのちが一番大切だと
思っていたころ
生きるのが
苦しかった

いのちより
大切なものが
あると知った日
生きているのが
嬉しかった

(中略)

私は以前、

『いのちより大切なものとは?』

と聞かれた時には、

こう答えていました。

『その答えはこうですよ、
と言うことは簡単だけど、
きっとそれは意味のないことです。

自分で苦しみながら見つけた時に、
あなたにとって意味があるのです』

と。

見つけたと思っても、
もしかしたらまた違ってくるかもしれない。

一生探し続けて、
死を迎える前日に、
ようやく自分なりの答えが見つかるかもしれない。

肝心なのは自分で見つけるということです。」(24頁〜27頁)

「その一つから 花が咲き
その一つから 葉が出る
一つに総てが含まれ
一つに総てが現わされる

それがなくなったら
私もなくなってしまうような
ただ一つがある」(39頁)

「毎日見ていた
空が変わった
涙を流し友が祈ってくれた
あの頃
恐る恐る開いた
マタイの福音書
あの時から
空が変った
空が私を
見つめるようになった」(42頁)

「あなたに逢ってから
私は道の真ん中を
歩かなくなった
真ん中はあなた
私は少し横を歩きます」(45頁)

「どんな時にも
神さまに愛されている
そう思っている

手を伸ばせば届くところ
呼べば聞こえるところ
眠れない夜は枕の中に
あなたがいる」

「手と足が
不自由になって
歩けなくなりました
土を掘ることも
スキーをすることも
出来なくなりました
でも神様ありがとう
あなたが持たせてくれた
たった十グラムの筆ですが
それで私は花を咲かせたり
雪を降らせたり出来るのです
神様ほんとにありがとう」(49頁)

「けがをしたのは六月十七日。

二十四歳の梅雨の頃でした。

梅雨の時期になると今でもその時のことを思い出し、
暗く重い気持ちになります。

九年という長い入院期間、

『あれがなかったら俺の人生は違っていた』

と何度も思いました。

あの日、
生徒たちの前で宙返りをしなければよかった、
いや器械体操などしなければよかったのだ、
大学の入試に落ちていればよかった、
むしろ病弱だあればよかった・・・。

限りなく過去を遡っては後悔をくり返していました。

いっそのこと生まれなければよかった・・・・。

来る日も来る日も病室の天井を見ながら思いました。

そして、いつもそこに行き着いてしまうのです。

それはあまりにもみじめなことでした。

人間にとっていちばんの苦しみは、
『今が苦しい』ということよりも、
この苦しみがいつまでも続くのではないかと不安になることです。

けがをする前には、
これといって大きな夢や希望に燃えていたわけでもなかったのに、
私は、あの日を境に夢も希望もすべてなくしてしまったかのような気持ちになりました。

私が大けがをしたと聞いて、
ある日、
大学時代の先輩が駆けつけて来てくれました。

そして後で、

『ぼくにできることは、これしかありません』

と聖書を届けてくれたのです。

しばらくそのままにしていた聖書を、
ある日思い切って母に開いてもらうと、
このことばに出会いました。

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます』(新約聖書/マタイの福音書11章28節)

(中略)

けがをする前の私は、
自分の努力で何でもできると信じ、
宗教は弱い人が頼るものだと思っていたのですが、

『これは、俺の考えている宗教とは全然違う』

と思うようになりました。

その時の私は、
先行きが見えない日々に心が疲れきっていたのです。

最新の医療でも治せなかった自分の身体。

助けてくれる人なんているわけがない。

それが正直な気持ちでした。

しかし、
聖書を読み返しているうちに、
重い心の中に、
温かい何かが湧いてくるような気がしました。

それまで生きてきて、
初めて味わう感覚でした。

教会が一つもない村で、
高校生だった私が、
この聖書のことばに出会えたのは不思議なことだと思います。

私が神さまをまったく知らない時から、
いずれ大きな苦しみに遭う私のために、
このことばを用意してくださっていたのだと、
深い感動を覚えました。

あの時から、
空が変わりました。

私は独りではなく、
空が、
神さまが見ていてくれると思うようになったのです。

満たされた日々の中で、
人はなかなか神を感じることはできません。

信仰をもった後でさえ、
なぜこんなことが起こるのだ、
と思うことがたくさんありました。

でも最近、
ほんの少しわかってきたような気がします。

神さまが私たちに贈ってくださる幸せのほとんどは、
最初からいい顔をして近づいてこない。

むしろ私たちにとって、
拒みたくなるような姿でやってくるのだと。

私はたまたまこんな大けがをしましたが、
だからといって私だけが特に大変というわけではなく、
人は皆それぞれ他人にはわからない苦しみや悲しみを抱えています。

大切なのは、
それをどう受け止めていくかということではないでしょうか。

確かに、
けがをして大変な思いをしました。

人にもずいぶん迷惑をかけました。

でも、
何も起きずに順調に生きている自分を想像すると恐ろしくなります。

教師としても、
人間としても、
何も知ってはいなかったからです。

死の淵をさまよい、
障害ゆえにできなくなったこともたくさんあります。

でも、
いのちより大切なものに気づくことができた。

けがをしたおかげで、
この人生ほんの少し得をしたかな・・・・。

そう思っています。

(中略)

けがをして、
もう一生首から下を動かすことはできないのだとわかってきた時に、

『俺はもう生きている価値がない』

と思いました。

夜は、

『次の朝には死んでいたらいいのに』

と思いながら寝るのですが、
いつもどおりの朝が来て、
看護師さんが脈や血圧を測ると正常値なのです。

食事を抜けば死ねるかと思って幾日か抜いてみたのですが、
腹が減って減って・・・・次の食事を腹いっぱい食べてしまいました。

あの時のご飯、
うまかったなあ。

その時、

『いのちというものは、俺とは別にあるんだ。
俺がいくら生きることをあきらめても、
いのちは一生懸命生きようとしているのだ』

と思いました。

私の努力でいのちがあるのではなく、

『いのちが一生懸命俺を生かしてくれている』

と気づいたのです。

『自分は今、やさしくて大きなものに生かされているんだ、死にたいなんて、いのちに申し訳ない』、

そう思いました。」(55頁〜64頁)

「苦しみによって苦しみから救われ、
悲しみの穴をほじくっていたら
喜びが出てきた。
生きているって、おもしろいと思う。」(80頁)

「『そればかりではなく患難さえも喜んでいます。
それは、患難が忍耐を生み出し、
忍耐が練られた品性を生み出し、
練られた品性が希望を生み出す・・・・』(聖書)

私のうす暗い明日に、
かすかな光がさし込んでくるような気がした。

今のこの苦しみは、
苦しみだけに終わるのでなく、
豊かな人間性や希望につながっているというのである。」(84頁)

「こうして生かされていることを、
感謝せずにはいられません。
生かされているということは、
たとえようもない不思議な恵みです。」(86頁)

自分の命より大切なものについて考えてみる。

私たちは何のために生きているのか?

何をするためにこの世に生まれてきたのか?

生きる意味とは何か?

といった根源的な問いに答えを出す。

答えは人から与えられるものではない。

生涯を通して探究し、

己の生き様によって示す。

人にはそれぞれ与えられた使命がある。

天命がある。

己の天命は何か?

胸に手を当て訊いてみる。

内なる声を聞く。

天性を活かし、

天職に就き、

天命を全うする。

世のため人のため天のために最善を尽くす。

『私が知りたいのは神の考えだ。
それ以外はすべて些細なことでしかない』(アルベルト・アインシュタイン)

(日本図書館協会選定図書)
『いのちより大切なもの』
(著者 星野富弘 いのちのことば社 フォレストブックス)
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2025年01月18日

【無条件の笑顔】

【無条件の笑顔】

『顔は心の窓』

と、よく言われます。

気分や心持ちは表情に出ます。

外界は内界を映し出す鏡です。

いつでも、

どこでも、

どんなときも、

笑顔でいれるかが天から試されています。

これに関して、

『和顔 仏様のような顔で生きよう』(著者 山田無文 禅文化研究所)

の中に、こう書いてあります。

「裸で、無計画で生まれてきた私どもが、
親やまわりの人や、
天地のおめぐみで、
大きくすこやかに育ち、
その人その人にふさわしい花を咲かせるのです。

それは高い教養を身につけ、
心の修養を積み、
そして良い人相になることです。

人間がこの世に生まれてきた目的は、
仏のような立派な人相をつくるためだと思います。

(中略)

『忍辱』は腹を立てないこと。

腹の立つことがあっても、
お互いがこらえ合い、
詫び合い、
懺悔し合っていく、
それが菩薩の浄土であります。

心の中に、
詫び合い、
こらえ合い、
謝り合う心が完成した時、
大勢の立派な人相をした人たちが集まってくるのです。

(中略)

泣いて生まれて情で育ち
花を咲かせて実を結ぶ

という歌がありますが、
私どもは皆な泣いて生まれたのです。

笑って生まれた人は一人もありません。

赤ん坊が、
温かいお母さんのお腹の中から出た時は、
浮き世の風は刃のように肌を刺したことでしょう。

柔らかい綿にくるんでもらっても、
それはまるで針の山のように痛かったでしょう。

誰しも自分の生まれた時のことは忘れてしまっておりますが、
こうして皆な泣いて生まれたのです。

(中略)

これから、
その人その人にふさわしい花を咲かせるのです。

花には色があり、
香りがあります。

それは高い教養を身につけることです。

心の修養を積み、
よい趣味を身につけることです。

そして、
よい人相になることです。

そして、
花には蜜がありますが、
それは世の中に奉仕しようとする心、
何かを捧げる心であります。

花さえ咲かせれば、
実はひとりでに結びます。

幸福というものは、
こちらから求めるものではなく、
向こうから与えられるものであります。

西洋の諺に、

『求めて得たものは快楽にすぎず、求めずして与えられたものが幸福である』

とありますが、
私どもは、
求めなくても、
他から自然に与えられた幸福をいただくようにならなければなりません。

(中略)

草木がこの世に生じたのは、
美しい花を咲かせるためであるように、
人間がこの世に生まれてきた目的は、
仏のような立派な人相をつくるためだと思います。

死ぬまでに、
せいぜいよい人相になりたいものであります。」(110頁〜113頁)

『いつでも、どこでも、どんなときも笑顔』

でいることができれば、

合格です。

修行の終了です。

天から終業証書(修了証書)をいただけます。

『至福を得た人の笑いには理由がない』(荘子)

『悟った人の笑顔には理由がない』

『神は笑っている』(ディーパック・チョプラ)

『顔を見ればすべてがわかる。
なぜなら、外界は内界を映し出す鏡だから』

『幸運の女神はいつも微笑んでいる』

(推薦図書)
『和顔 仏様のような顔で生きよう』
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2025年01月17日

【宇宙は均衡と調和で成り立つ】

【宇宙は均衡と調和で成り立つ】

宇宙は、

『バランス』



『調和』

で成り立っています。

だから、

『中道・中庸・中立』

が肝要です。

両極端に走らないように注意しましょう!

これに関して、

『六波羅蜜のはなし』(原作 ひろさちや 漫画 森村たつお 鈴木出版)

の中に、こう書いてあります。

「六波羅蜜の
第四番目は
精進じゃ

精進とは
努力するという
意味だが
ただ努力をすれば
いいという
わけではない

正しい努力で
なければ
精進ではない

(中略)

正しい努力とは
智恵のある
努力を言うのじゃ

これに対し
まちがった努力とは
ただがむしゃらに
努力することじゃ

(中略)

金もうけのために
必死で努力する

いわば
馬車馬が
目の前に
にんじんを
ぶら下げられて
やみくもに
走っているような
努力・・・・

こんな努力は
精進とは言えん

二十九歳で故郷の
カピラ城を出て
修行僧となった
お釈迦さまは

三十五歳で
さとりを開かれる
までの六年間
毎日厳しい苦行をされた

しかも
その中心は
極端な断食行で
あった

お釈迦さまとともに
苦行をやっていた
五人の仲間たちは
口をそろえて

この男は
断食によって
死んでしまった

――と言ったほど
それはすごい
苦行であった

その苦行のさなか
お釈迦さまは
農夫のうたを
耳にした

琵琶の絃
きりり
しめれば
ぷつり切れ

さりとて
ゆるめりゃ
べろん
べろん

(中略)

修行中の
研ぎすまされた
精神の極みにあった
お釈迦さまは
このうたから一つの
真理を得られた

(中略)

釈迦族の
王子として
栄耀栄華を
極めることも
極端であれば

死とすれすれの
苦行もまた
極端である

このような
両極端に
固執していては
さとりは
開けない

両極端に
かたよらない道――

われは
中道をいく

そう決意された
のじゃよ

お釈迦さまは
この中道によって
さとりに到達
されたのじゃ

したがって
精進とは

この中道に
基づいたもので
なければ
ならんのじゃ

あまりにも
極端な努力は

この中道の精神に
反するから
精進とは認めない

(中略)

精進とは
欲望を
コントロールして

足るを知る心を
もったうえで
努力すること
なんじゃ

足るを知る
心を失うと

わしたちは
餓鬼になって
しまうぞ

餓鬼とは
何ごとにも
満足できずに
むさぼりの心を
もった存在なのじゃ

ゆったりと

かたよらずに

のんびりと
努力すること

それが
精進波羅蜜じゃ」

人生は、

バランスと調和が大事です。

両極端に走らないように心掛けましょう。

宇宙は、

自然の生態系、人体の生理など、

すべてバランスをとっています。

『宇宙では、あらゆる要素が調和をとりながら、互いに影響し合っています。
すなわち、宇宙とは、バランスと調和を創り出す力なのです』(ディーパック・チョプラ)

(推薦図書)
『六波羅蜜のはなし』
(原作 ひろさちや 漫画 森村たつお 鈴木出版)
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(参考図書)
『世界はバランスでできている!』
(著者 ジョン・F・ディマティーニ 訳者 岩元貴久 フォレスト出版)
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2025年01月16日

【宗教とは何か?】

【宗教とは何か?】

宗教とは何でしょうか?

ブリタニカ国際大百科事典に、

こう書いてあります。

「ラテン語のrelegere(再読する)、
またはreligare(つなぐ)に由来するとされている。

日本語の『宗教』は古くから漢訳仏典にあったものを、
明治にreligionの公式訳語として採用採用して以来広まったもの。

一般的にいえば、
宗教とは、
人と自分の神聖とみなすものとの関係をさし、
神 godはその人格的または超人間的な象徴にすぎない。

この『神聖』という概念を提出したのは R.オットーである(1917)。

しかし何を聖とするか、
またその象徴の範囲をどこにおくかで定義の仕方は種々あり、
信念を重視するシュライエルマッハーの『絶対的依存感情』、
E.B.タイラーの『霊的存在への信念』、
また R.R.マレットのマナの研究による超自然的・神秘的能力に対する畏敬、
または P.ラディンや E.デュルケムの社会的団結力のシンボルとしての価値を重視する見方などがある。

しかし、
宗教は、
単に個人の宗教感情でも社会的・文化的産物でもなく、
その双方を基に形成される人間の行為として成立しているもので、
全人間的な把握を必要とする。

伝統的社会では、
単に神話やマナとして存在していることもあるが、
文化の展開につれ、教義や儀式が体系化されている。」

現代社会+政治・経済用語集には、
こう書いてあります。

「経験や理性でもって理解しがたく、
コントロールできない現象や存在に対して究極的な意味と価値を与えたもの。

原始宗教・民族宗教・世界宗教など多様な宗教がある。

多くの場合、
教祖や教典、教義、典礼などをもつ。

宗教の定義は千差万別である。

主な学説には次のものがある。

主知的観点:ミュラーは宗教の知的・思弁的側面を強調して『無限なるものを認知する心の能力』とした。

主情的観点:シュライエルマッハーは、宗教のもつ畏怖(いふ)とか感動といった非合理的側面を強調して『ひたすらなる依存感情』とした。

主意的観点:人間の意志、実践的生活への動機づけの側面から、
カントは『いっさいの義務を神の命令として認知すること』とした。

聖と俗の観点:デュルケームはタブーによって分離され、
禁忌された『聖なるもの』が俗なる社会、
個人を絶対的に支配する象徴ととらえた。

社会集団の観点:宗教は教団、教会、宗派など何らかの集団を構成し、
教義や儀礼を通じてその価値体系を個人に内面化するものと考える。」

倫理用語集には、

こう書いてあります。

「一般的に、
超越的なものに対して信仰を抱き、
教祖や教義、儀礼、組織などをもつもの。

宗教は次のように分類される。

@宗教の原初的な形態である原始宗教と、その進化・複雑化した宗教。

A特定の民族や国家に根づいた民族宗教と、民族や国家を超えた世界宗教。

B人間の本性に基づく自然宗教と神の啓示に依拠する啓示宗教。

C多数の神を崇(あが)める多神教と唯一の神を崇拝(すうはい)する一神教。

また、
宗教はさまざまに定義されてきた。

@霊的・超自然的な存在、絶対者への信仰という信念に基づく定義。

A人間が直面する様々な問題に対する応答としての社会的機能に基づく定義、

B聖なるものや絶対者に対する畏怖(いふ)や崇敬の感情に基づく心理的な定義、

C儀礼や宗教的な行為に基づく実践的な定義。

しかし、
現在では、
こうした宗教の定義は西洋中心的であり、
その概念は定義できないとして批判されてもいる。」

宗教と信仰を混同しないでください。

宗教は、

教団を営み、

ヒエラルキー(階層制)です。

信仰は、

神聖なものを信じ尊ぶことです。

信仰心を持つことは、

非常に重要です。

しかし、

特定の宗教や宗派に固執する必要はありません。

教団に所属せずとも、

個人的に信仰することはできます。

『信仰は、人間が生きる拠り所とすべき力の一つだ。
そして、それが皆無となることは破滅を意味する』(ウィリアム・ジェームズ)

『浅薄な哲学は人の心を無神論に傾け、深遠な哲学は人の心を信仰へ導く』(フランシス・ベーコン)

『どんな本も

どんな教師も

それについて

あなたに教えることはできません

ひとをあてにしてはなりません

宗教団体に加わってもなりません

ひとは そのすべてを

自分自身から

学ばなくてはならないのです』(J・クリシュナムルティ)

『自灯明 法灯明』
(自らを拠り所とし、法を拠り所とする)

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