2016年03月21日
八十二話 お題:後れ(他より後になること) 縛り:中幕(幕末から昭和初期の歌舞伎で一番目狂言と二番目狂言の間に演じる狂言)、シンガー(歌手)、首題(文書などの初めに書かれている題目)、公明(公正で不正や隠し立てがないこと)、デキシー(十九世紀末にアメリカ南部で生まれた最も初期のジャズ)
数年前に体験した話である。
当時私はレコード会社で働いており、有名なデキシーの男性シンガーのCDの企画に携わっていた。CDの発売のため男性シンガーと交渉を行おうとしたところ、彼は大の親日家らしく交渉は是非日本で行いたいとのことだった。私は交渉を有利に進めるため、なんとか会社から予算をもぎ取り日本で彼を接待することにした。いざ会ってみると彼が親日家というのは本当で、用意した様々なもてなしを心から楽しんでくれた。特に歌舞伎鑑賞に関してはちょうど昭和初期の歌舞伎を再現するという珍しい舞台だったこともあって、中幕が始まった頃にはすっかり観るのに夢中という様子だった。接待を無事終え、これで印象もずいぶんよくなっただろうと私は彼との交渉の場を設けることにした。私がCD発売のための契約条件を提示すると、彼はその場で条件を確認した。彼はしばらく考え込んだあと、ひどく残念そうな顔で、
「すまないが、君の会社とは契約できない」
と言った。私が条件に問題があるのなら可能な限り譲歩させてもらう、と言うと、
「問題はそこじゃないんだ。君には素晴らしい体験をさせてもらったし、こちらとしても本当は契約したいんだが……これを見てくれ」
そう言って彼は一通の手紙を見せてきた。その手紙は首題から我が社は貴方の全てを知っていますと書かれた非常識極まりないものだったが、問題はその内容だった。そこには彼が私の会社との契約を進めていること、そして私が彼に提示した契約条件と全く同じ条件が書かれており、更に、我が社はこの条件よりも1ドル高い条件を提示させていただきます、是非ご検討ください、と続いていた。私が手紙の内容に驚いていると、彼はひどく言い辛そうに、
「私への態度から考えても、きっと君は公明で誠実な人柄なのだと思う。ただ、問題は君の会社だ。今日初めて明かされた契約の内容がこの手紙に完璧に書かれている以上、この手紙を送ってきたのは君の会社の中にいる人物だということだ。残念だが、こんなことをする人物がいる会社と契約することはできない」
と言った。私は上司に報告し、その結果社内で調査が行われたものの犯人はわからず、また最悪なことに他社にもこの一件が知られてしまった。あろうことか私の会社はこの事態を鎮静化するために無実の社員に罪を被せ退職させる、という手段に出た。その無実の社員とは私のことである。今私は全く別の業界で働き、平穏な生活を送っているが、時折、何の罰も受けずのうのうと生きている真犯人を探し出し、この手で滅茶苦茶にしてやりたいという衝動がこみ上げてくる。
当時私はレコード会社で働いており、有名なデキシーの男性シンガーのCDの企画に携わっていた。CDの発売のため男性シンガーと交渉を行おうとしたところ、彼は大の親日家らしく交渉は是非日本で行いたいとのことだった。私は交渉を有利に進めるため、なんとか会社から予算をもぎ取り日本で彼を接待することにした。いざ会ってみると彼が親日家というのは本当で、用意した様々なもてなしを心から楽しんでくれた。特に歌舞伎鑑賞に関してはちょうど昭和初期の歌舞伎を再現するという珍しい舞台だったこともあって、中幕が始まった頃にはすっかり観るのに夢中という様子だった。接待を無事終え、これで印象もずいぶんよくなっただろうと私は彼との交渉の場を設けることにした。私がCD発売のための契約条件を提示すると、彼はその場で条件を確認した。彼はしばらく考え込んだあと、ひどく残念そうな顔で、
「すまないが、君の会社とは契約できない」
と言った。私が条件に問題があるのなら可能な限り譲歩させてもらう、と言うと、
「問題はそこじゃないんだ。君には素晴らしい体験をさせてもらったし、こちらとしても本当は契約したいんだが……これを見てくれ」
そう言って彼は一通の手紙を見せてきた。その手紙は首題から我が社は貴方の全てを知っていますと書かれた非常識極まりないものだったが、問題はその内容だった。そこには彼が私の会社との契約を進めていること、そして私が彼に提示した契約条件と全く同じ条件が書かれており、更に、我が社はこの条件よりも1ドル高い条件を提示させていただきます、是非ご検討ください、と続いていた。私が手紙の内容に驚いていると、彼はひどく言い辛そうに、
「私への態度から考えても、きっと君は公明で誠実な人柄なのだと思う。ただ、問題は君の会社だ。今日初めて明かされた契約の内容がこの手紙に完璧に書かれている以上、この手紙を送ってきたのは君の会社の中にいる人物だということだ。残念だが、こんなことをする人物がいる会社と契約することはできない」
と言った。私は上司に報告し、その結果社内で調査が行われたものの犯人はわからず、また最悪なことに他社にもこの一件が知られてしまった。あろうことか私の会社はこの事態を鎮静化するために無実の社員に罪を被せ退職させる、という手段に出た。その無実の社員とは私のことである。今私は全く別の業界で働き、平穏な生活を送っているが、時折、何の罰も受けずのうのうと生きている真犯人を探し出し、この手で滅茶苦茶にしてやりたいという衝動がこみ上げてくる。
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