2016年03月14日
魚肉の歴史 History of Fish
◆魚食の起源◆
魚肉は最も古くから食べられていた食材のひとつです。漁業の歴史は10万年以上も遡れると言われ、日本各地にも、漁業の証である「貝塚」がたくさん残っています。JR大森駅そばに残る「大森貝塚」から日本の考古学研究が始まったことも、よく知られているところでしょう。
魚を食べる一番お手軽な方法は、もちろん生でそのままかぶりつくことですが、魚は牛肉などに較べ1.5倍の水分が含まれますので、そのまま放っておくとすぐに腐敗してしまいます。そこで、古代の人々は、天日に干したり、火にくべたりして乾燥させ、保存する方法を思いつきました。いわゆる「干物」とか「燻製」と呼ばれる方法です。海に近い地方や、塩がふんだんに取れる地方では、塩漬けなども試されたことでしょう。
魚の身をすり潰してペースト状にする「練り物」も、既に5000年前の古代バビロニア(現在のトルコ)で考え出されていたそうで、人間と魚がいかに古くから結びついていたかが、この事実からも伺うことができます。
◆古代ギリシア・ローマの魚食◆
魚食の文化は世界中に分布していますが、中でもとりわけ大量の魚を食べたとされるのが、古代ギリシア・ローマの人々でした。「臭い食物、難破した人がやむを得ず食べるもの」と魚を毛嫌いしたホメロスのような人もいましたが、周辺を海に囲まれたギリシア・ローマにとって、最も手っ取り早く手に入れることのできた食べ物であったのです。実際、ローマの遺構からは魚を解体する台や、水を流す溝などが見つかっていますし、シチリア島からは漁の様子を描いたモザイク画も見つかっています。
当時の人々にとって最も一般的だった魚はイワシやニシンですが、意外にマグロやカツオなどの回遊魚もよく食べられていたようです。現に三世紀の詩人オピアノスはマグロ漁の様子を詩に残していますし、賢人アリストテレスも、クロマグロの回遊経路を論文にして残しています。
さらには牡蠣(カキ)などの貝類、カニ、エビなどの甲殻類、果てはクラゲやチョウザメ、「悪魔の魚」とヨーロッパ人に忌み嫌われているイカやタコでさえ、彼らは口にしたと言われています。
古代ローマでは魚の養殖も行われていて、富裕層の中には自前の生簀を持っている人もおりました。紀元前一世紀の軍人ルクルスも、家に大きな養殖池を持っていて、ウツボやウナギなどの魚を養殖し、大きな収益を挙げていたということです。
◆アジア・アフリカの魚食◆
その古代ローマ・ギリシアに較べて、アジア・アフリカはどうだったのかと言えば、食べていたことは食べていましたが、あくまでも一般庶民のための食べ物で、非常に安く、あるいはタダで取り引きされており、神官やファラオ(国王)といった階層にある人は決して口にしなかったそうです。旧約聖書にも「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す」(民数記第11章)などと書かれています。労働賃金の半分がこの魚で支払われたこともありました。
このように、アジア・アフリカでいまいち魚食が富裕層に広まらなかったのは、恐らくこれらの地方が牧畜中心の生活を送っていて、魚に頼らなくても何とかなったこと、河川や海がギリシア・ローマに較べて小さく、魚介類に接する機会があまりなかったことなどが影響しているのではないかと思います。
そのせいか、ユダヤ教でもイスラム教でも、肉食への禁忌は厖大にあるのに、こと魚となるとほとんど禁忌は存在しません。わずかにユダヤ教で「ウロコのない魚は食べてはいけない」とされているくらいです。
◆中世ヨーロッパの魚食◆
中世ヨーロッパは肉や乳製品のイメージが強いせいか、あまり魚が食べられていないような印象ですが、もちろんそんなことはなくて、彼らは魚もよく食べました。ニシンやイワシをはじめとして、鱈やマス、ニジマス、サケ(サーモン)、カレイ、ヒラメ、マグロ、鯖、アジ、アナゴ、カワカマス(カマスによく似たニシン科の魚)、ウナギ、チョウザメ、鯉などの魚類、蟹やエビ、ザリガニ(ロブスター)などの甲殻類、ムール貝やアサリ、牡蠣(カキ)などの貝類、果てはクラゲなども食していたようです。
意外なことに、「悪魔の魚」として忌み嫌われていたハズのイカタコ類や、現在論議を呼んでいるクジラやイルカでさえも、当時の人々はけっこう口にしたようなのです。
当時のフランスのガスコーニュ地方には、多くのクジラがやって来ていて、彼らはその脂身やベーコンをよく食べていたと言われています。この地方には鯨で財をなした「鯨御殿」みたいなものが今もいくつか残っています。スペインのバスク地方でも、クジラの舌と言えば珍味中の珍味であり、食通たちの垂涎(すいぜん)の的となりました。
◆ヨーロッパの漁師たち◆
当時の漁法は付近の海を廻る近海漁業が中心です。捕獲された魚は近くの港へすぐ水揚げされて、周辺の街に配送されました。ハンザ同盟(ハンザやケルンなどのバルト海沿岸の都市で構成された都市同盟)やオランダは、ニシンの取り扱いで巨額の財を成し、オランダの首都アムステルダムの街は「ニシンの骨で建てられている」などと言われました。日本の小樽や松前にも、ニシン漁で財を成した人々の「ニシン御殿」がいくつも残っています。
港から内陸部へは魚介類専門の業者が搬送しますが、その範囲は馬車が一日で駆け抜けられる距離、100〜120キロメートル以内に限られたそうです。それ以上の距離となると、干物や塩漬けなど、何らかの形に加工し直す必要があり、例えばアイスランド海域で遠洋漁業をする船には、捕らえた魚を塩漬けにする設備が整っており、倉庫には乗組員用の食料のほかに、一トンを超える塩と、塩漬け魚を貯蔵するための大量の樽が用意されていたと言います。
◆魚の食べ方◆
漁師によって水揚げされた魚は、新鮮な場合はそのままムニエルなどに加工されて、人々の食卓にのぼります。新鮮だと、私たちは刺身を思い浮かべてしまいますが、恐らくは魚のような薄味の食材に合う、日本の醤油みたいな濃い醤醢(ひしお)がヨーロッパになかったため、チーズや酢など、濃い味の調味料と合わさざるを得なかったのかも知れません。鯉のようにそのままでは泥臭くて食べられないものが多かったというのも理由の一つでしょう。
新鮮でないものや、保存の必要があるものについては、干物や燻製、塩漬けやパテ(練り物)などに加工されて人々の口に入りました。ちなみに、ニシンの干物は当時のヨーロッパにおける最も一般的な食材の一つだったそうで、そのまま囓(かじ)るか、もしくは煮物に混ぜて食べました。ベトナムのニョクマムのような魚醤(ぎょしょう)を作って、それをかけて食べることもあったようです。日本で言うところのあんかけ料理みたいなものでしょうか。
◆国王の魚◆
ところで、港から離れた場所では鮮魚を食べるのは無理だったのかと言えば、必ずしもそういうわけではなく、川や湖にはカワカマスや鯉などの淡水魚がたくさん棲んでおりましたので、そういった魚を食べていました。時期によっては遡上してきたサケやウナギなどをも口にする場合もあったようです。
もっとも、そうした淡水魚の棲む池や川は、たいてい領主か教会の支配下にあり、人々はお金を払わないとこれらの場所から自由に魚を捕ることができませんでした。
この「水利権」は、製粉に使う水車の利用権などとともに、当時の領主にとって非常に大きな収入源となっていました。時には、捕った魚そのもので税金を物納することもあったそうです。15世紀のスコットランド王ジェームズ四世は、国王の管理下にある河川でのサケ釣りを固く禁じていて、違反者には厳罰を課しました。また、水産資源保護のために小さな魚を捕らないことも法令で定められており、中世フランスでは「8プス(およそ22センチ)以下のカワカマスを捕った者は罰金を支払わなければならない」という法律が制定されました。
◆魚の養殖◆
魚の養殖も古い時代から行われていて、カール大帝の時代(8〜9世紀ごろ)には各地に養殖池が整備されています。修道院でも「四旬節」などの宗教行事と結びついて魚を食べることが奨励され、敷地内の貯水池ではさまざまな魚が飼われました。
当時、最も多く養殖の対象となったのは「鯉」でした。この魚はきわめて悪食で、どんな汚れた水にも棲み、しかも生命力が旺盛で、味も比較的良好です。また、水から揚げてもエラに水をかけるだけでしばらく生きているので、運ぶ際にも移動生簀のような大がかりな道具が必要でなく、箱に詰めるだけで良いという利点があるので、各地で積極的に養殖されたと言います。
魚肉は最も古くから食べられていた食材のひとつです。漁業の歴史は10万年以上も遡れると言われ、日本各地にも、漁業の証である「貝塚」がたくさん残っています。JR大森駅そばに残る「大森貝塚」から日本の考古学研究が始まったことも、よく知られているところでしょう。
魚を食べる一番お手軽な方法は、もちろん生でそのままかぶりつくことですが、魚は牛肉などに較べ1.5倍の水分が含まれますので、そのまま放っておくとすぐに腐敗してしまいます。そこで、古代の人々は、天日に干したり、火にくべたりして乾燥させ、保存する方法を思いつきました。いわゆる「干物」とか「燻製」と呼ばれる方法です。海に近い地方や、塩がふんだんに取れる地方では、塩漬けなども試されたことでしょう。
魚の身をすり潰してペースト状にする「練り物」も、既に5000年前の古代バビロニア(現在のトルコ)で考え出されていたそうで、人間と魚がいかに古くから結びついていたかが、この事実からも伺うことができます。
◆古代ギリシア・ローマの魚食◆
魚食の文化は世界中に分布していますが、中でもとりわけ大量の魚を食べたとされるのが、古代ギリシア・ローマの人々でした。「臭い食物、難破した人がやむを得ず食べるもの」と魚を毛嫌いしたホメロスのような人もいましたが、周辺を海に囲まれたギリシア・ローマにとって、最も手っ取り早く手に入れることのできた食べ物であったのです。実際、ローマの遺構からは魚を解体する台や、水を流す溝などが見つかっていますし、シチリア島からは漁の様子を描いたモザイク画も見つかっています。
当時の人々にとって最も一般的だった魚はイワシやニシンですが、意外にマグロやカツオなどの回遊魚もよく食べられていたようです。現に三世紀の詩人オピアノスはマグロ漁の様子を詩に残していますし、賢人アリストテレスも、クロマグロの回遊経路を論文にして残しています。
さらには牡蠣(カキ)などの貝類、カニ、エビなどの甲殻類、果てはクラゲやチョウザメ、「悪魔の魚」とヨーロッパ人に忌み嫌われているイカやタコでさえ、彼らは口にしたと言われています。
古代ローマでは魚の養殖も行われていて、富裕層の中には自前の生簀を持っている人もおりました。紀元前一世紀の軍人ルクルスも、家に大きな養殖池を持っていて、ウツボやウナギなどの魚を養殖し、大きな収益を挙げていたということです。
◆アジア・アフリカの魚食◆
その古代ローマ・ギリシアに較べて、アジア・アフリカはどうだったのかと言えば、食べていたことは食べていましたが、あくまでも一般庶民のための食べ物で、非常に安く、あるいはタダで取り引きされており、神官やファラオ(国王)といった階層にある人は決して口にしなかったそうです。旧約聖書にも「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す」(民数記第11章)などと書かれています。労働賃金の半分がこの魚で支払われたこともありました。
このように、アジア・アフリカでいまいち魚食が富裕層に広まらなかったのは、恐らくこれらの地方が牧畜中心の生活を送っていて、魚に頼らなくても何とかなったこと、河川や海がギリシア・ローマに較べて小さく、魚介類に接する機会があまりなかったことなどが影響しているのではないかと思います。
そのせいか、ユダヤ教でもイスラム教でも、肉食への禁忌は厖大にあるのに、こと魚となるとほとんど禁忌は存在しません。わずかにユダヤ教で「ウロコのない魚は食べてはいけない」とされているくらいです。
◆中世ヨーロッパの魚食◆
中世ヨーロッパは肉や乳製品のイメージが強いせいか、あまり魚が食べられていないような印象ですが、もちろんそんなことはなくて、彼らは魚もよく食べました。ニシンやイワシをはじめとして、鱈やマス、ニジマス、サケ(サーモン)、カレイ、ヒラメ、マグロ、鯖、アジ、アナゴ、カワカマス(カマスによく似たニシン科の魚)、ウナギ、チョウザメ、鯉などの魚類、蟹やエビ、ザリガニ(ロブスター)などの甲殻類、ムール貝やアサリ、牡蠣(カキ)などの貝類、果てはクラゲなども食していたようです。
意外なことに、「悪魔の魚」として忌み嫌われていたハズのイカタコ類や、現在論議を呼んでいるクジラやイルカでさえも、当時の人々はけっこう口にしたようなのです。
当時のフランスのガスコーニュ地方には、多くのクジラがやって来ていて、彼らはその脂身やベーコンをよく食べていたと言われています。この地方には鯨で財をなした「鯨御殿」みたいなものが今もいくつか残っています。スペインのバスク地方でも、クジラの舌と言えば珍味中の珍味であり、食通たちの垂涎(すいぜん)の的となりました。
◆ヨーロッパの漁師たち◆
当時の漁法は付近の海を廻る近海漁業が中心です。捕獲された魚は近くの港へすぐ水揚げされて、周辺の街に配送されました。ハンザ同盟(ハンザやケルンなどのバルト海沿岸の都市で構成された都市同盟)やオランダは、ニシンの取り扱いで巨額の財を成し、オランダの首都アムステルダムの街は「ニシンの骨で建てられている」などと言われました。日本の小樽や松前にも、ニシン漁で財を成した人々の「ニシン御殿」がいくつも残っています。
港から内陸部へは魚介類専門の業者が搬送しますが、その範囲は馬車が一日で駆け抜けられる距離、100〜120キロメートル以内に限られたそうです。それ以上の距離となると、干物や塩漬けなど、何らかの形に加工し直す必要があり、例えばアイスランド海域で遠洋漁業をする船には、捕らえた魚を塩漬けにする設備が整っており、倉庫には乗組員用の食料のほかに、一トンを超える塩と、塩漬け魚を貯蔵するための大量の樽が用意されていたと言います。
◆魚の食べ方◆
漁師によって水揚げされた魚は、新鮮な場合はそのままムニエルなどに加工されて、人々の食卓にのぼります。新鮮だと、私たちは刺身を思い浮かべてしまいますが、恐らくは魚のような薄味の食材に合う、日本の醤油みたいな濃い醤醢(ひしお)がヨーロッパになかったため、チーズや酢など、濃い味の調味料と合わさざるを得なかったのかも知れません。鯉のようにそのままでは泥臭くて食べられないものが多かったというのも理由の一つでしょう。
新鮮でないものや、保存の必要があるものについては、干物や燻製、塩漬けやパテ(練り物)などに加工されて人々の口に入りました。ちなみに、ニシンの干物は当時のヨーロッパにおける最も一般的な食材の一つだったそうで、そのまま囓(かじ)るか、もしくは煮物に混ぜて食べました。ベトナムのニョクマムのような魚醤(ぎょしょう)を作って、それをかけて食べることもあったようです。日本で言うところのあんかけ料理みたいなものでしょうか。
◆国王の魚◆
ところで、港から離れた場所では鮮魚を食べるのは無理だったのかと言えば、必ずしもそういうわけではなく、川や湖にはカワカマスや鯉などの淡水魚がたくさん棲んでおりましたので、そういった魚を食べていました。時期によっては遡上してきたサケやウナギなどをも口にする場合もあったようです。
もっとも、そうした淡水魚の棲む池や川は、たいてい領主か教会の支配下にあり、人々はお金を払わないとこれらの場所から自由に魚を捕ることができませんでした。
この「水利権」は、製粉に使う水車の利用権などとともに、当時の領主にとって非常に大きな収入源となっていました。時には、捕った魚そのもので税金を物納することもあったそうです。15世紀のスコットランド王ジェームズ四世は、国王の管理下にある河川でのサケ釣りを固く禁じていて、違反者には厳罰を課しました。また、水産資源保護のために小さな魚を捕らないことも法令で定められており、中世フランスでは「8プス(およそ22センチ)以下のカワカマスを捕った者は罰金を支払わなければならない」という法律が制定されました。
◆魚の養殖◆
魚の養殖も古い時代から行われていて、カール大帝の時代(8〜9世紀ごろ)には各地に養殖池が整備されています。修道院でも「四旬節」などの宗教行事と結びついて魚を食べることが奨励され、敷地内の貯水池ではさまざまな魚が飼われました。
当時、最も多く養殖の対象となったのは「鯉」でした。この魚はきわめて悪食で、どんな汚れた水にも棲み、しかも生命力が旺盛で、味も比較的良好です。また、水から揚げてもエラに水をかけるだけでしばらく生きているので、運ぶ際にも移動生簀のような大がかりな道具が必要でなく、箱に詰めるだけで良いという利点があるので、各地で積極的に養殖されたと言います。
【このカテゴリーの最新記事】
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/4805750
この記事へのトラックバック