2016年03月26日
ナマズと地震の関係の歴史
江戸の地震と鯰絵
地震と鯰の関係の始まりは江戸時代の1855年。この年の10月2日に安政江戸地震(M6.9)が起きた。この時の江戸の地震被害は大きく、多くの家屋が倒壊した。この地震の時に鯰絵が描かれた。鯰絵は地震後にたくさん刷られた木版画。地震は、地下深くに住む巨大ナマズ「地震鯰」が起こすものだとして、当時いろんな鯰絵が描かれた。
地震鯰は、普段は鹿島大明神が「要石」と呼ばれる大きな石で押さえつけられて暴れられないようになっているが、神無月(10月)は、八百万の神々が出雲大社に集まる。鹿島大明神はそれに出席しなければならないために、自分の留守の間の地震鯰の番を恵比寿様達に任せて出雲へ旅立つ。しかし、恵比寿様は鹿島大明神に比べて弱いので、その隙を狙って地震鯰が暴れる。だから10月に地震が起きる、というのが当時の話だったらしい。
地震直後に描かれた鯰絵は、地震を起こして庶民に被害を与えた鯰が寄って集って殴りつけるものなど、地震に対する人々のやり場のない怒りが描かれるものが多かった。しかしその一方、いじめられる鯰をかばう人々も描かれるものがあった。その人々とは、大工など、地震によって仕事を増やし、思わぬ儲けを得た者達だ。大工達と鯰が盃を交わす鯰絵もある。地震は庶民から多くのものを奪った一方で、一部の人には多大な利益を及ぼした。そういった世間への風刺がこの鯰絵には込められているのであろう。
その後、大工など地震で富を得た人々は飲み食いで多くの金を使い、金が世の中を多く回ることによって、地震後に思わぬ好景気がやってきた。この頃には大工などが金を口から吐き出し、その下で庶民がその金を奪いあっている絵も描かれている。庶民は徐々に生活に落ち着きを取り戻し、地震を冷静に振り返ることができるようになると、地震を起こした鯰を神様のようにあがめられている鯰絵が描かれるようになった。
このように地震後にたくさんの鯰絵が描かれてきたが、鯰絵が世の中に出回ることによって世直しの気風が高まることを恐れた幕府は、地震発生の2ヵ月後、鯰絵の木版をとりあげてしまって、鯰絵は描かれなくなってしまった。こうして鯰絵は当時の世間から消えてしまったのである。
ただここで興味深いことをひとつ。鯰というのは日本では南から北へその生息地域を広げていったのはそれほど昔のことではなく、現在までの調査によると、安政江戸地震が起きた頃はまだ江戸には鯰が生息していなかったのではないか、とのこと。(琵琶湖には当時もいたらしい。)ってことは人々はなんで地震の原因を鯰に求めたんだろう。
琵琶湖とナマズ
鯰はうろこがなくて体の表面は粘液で覆われている。琵琶湖には3種の鯰がいるらしく、一般的なマナマズの他に、イワトコナマズとビワコオオナマズがいて、マナマズ以外の2種は琵琶湖固有種らしい。当時京都大学の友田淑郎さんが発見したとのこと。ちなみにイワトコっていうのは琵琶湖周辺での鯰の呼び名。ビワコオオナマズは体長は大きいもので1.2mにもなり、琵琶湖最大の魚だそうだ。
世界の鯰
ナマズ目の魚は多くの種があって、その生態はまだまだ知られていないことが多く、生態学の立場からも結構注目されているみたい。アフリカのマラウィ湖のカンパンゴは、孵化した子供がある程度大きくなるまで親が育てるのだが、その間の子供の餌はなんと母親が産む卵だそうだ。また、ナマズの仲間には体内受精するものもいるらしい。
地震と鯰の関係の始まりは江戸時代の1855年。この年の10月2日に安政江戸地震(M6.9)が起きた。この時の江戸の地震被害は大きく、多くの家屋が倒壊した。この地震の時に鯰絵が描かれた。鯰絵は地震後にたくさん刷られた木版画。地震は、地下深くに住む巨大ナマズ「地震鯰」が起こすものだとして、当時いろんな鯰絵が描かれた。
地震鯰は、普段は鹿島大明神が「要石」と呼ばれる大きな石で押さえつけられて暴れられないようになっているが、神無月(10月)は、八百万の神々が出雲大社に集まる。鹿島大明神はそれに出席しなければならないために、自分の留守の間の地震鯰の番を恵比寿様達に任せて出雲へ旅立つ。しかし、恵比寿様は鹿島大明神に比べて弱いので、その隙を狙って地震鯰が暴れる。だから10月に地震が起きる、というのが当時の話だったらしい。
地震直後に描かれた鯰絵は、地震を起こして庶民に被害を与えた鯰が寄って集って殴りつけるものなど、地震に対する人々のやり場のない怒りが描かれるものが多かった。しかしその一方、いじめられる鯰をかばう人々も描かれるものがあった。その人々とは、大工など、地震によって仕事を増やし、思わぬ儲けを得た者達だ。大工達と鯰が盃を交わす鯰絵もある。地震は庶民から多くのものを奪った一方で、一部の人には多大な利益を及ぼした。そういった世間への風刺がこの鯰絵には込められているのであろう。
その後、大工など地震で富を得た人々は飲み食いで多くの金を使い、金が世の中を多く回ることによって、地震後に思わぬ好景気がやってきた。この頃には大工などが金を口から吐き出し、その下で庶民がその金を奪いあっている絵も描かれている。庶民は徐々に生活に落ち着きを取り戻し、地震を冷静に振り返ることができるようになると、地震を起こした鯰を神様のようにあがめられている鯰絵が描かれるようになった。
このように地震後にたくさんの鯰絵が描かれてきたが、鯰絵が世の中に出回ることによって世直しの気風が高まることを恐れた幕府は、地震発生の2ヵ月後、鯰絵の木版をとりあげてしまって、鯰絵は描かれなくなってしまった。こうして鯰絵は当時の世間から消えてしまったのである。
ただここで興味深いことをひとつ。鯰というのは日本では南から北へその生息地域を広げていったのはそれほど昔のことではなく、現在までの調査によると、安政江戸地震が起きた頃はまだ江戸には鯰が生息していなかったのではないか、とのこと。(琵琶湖には当時もいたらしい。)ってことは人々はなんで地震の原因を鯰に求めたんだろう。
琵琶湖とナマズ
鯰はうろこがなくて体の表面は粘液で覆われている。琵琶湖には3種の鯰がいるらしく、一般的なマナマズの他に、イワトコナマズとビワコオオナマズがいて、マナマズ以外の2種は琵琶湖固有種らしい。当時京都大学の友田淑郎さんが発見したとのこと。ちなみにイワトコっていうのは琵琶湖周辺での鯰の呼び名。ビワコオオナマズは体長は大きいもので1.2mにもなり、琵琶湖最大の魚だそうだ。
世界の鯰
ナマズ目の魚は多くの種があって、その生態はまだまだ知られていないことが多く、生態学の立場からも結構注目されているみたい。アフリカのマラウィ湖のカンパンゴは、孵化した子供がある程度大きくなるまで親が育てるのだが、その間の子供の餌はなんと母親が産む卵だそうだ。また、ナマズの仲間には体内受精するものもいるらしい。
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