2021年02月14日
押絵と旅する男 本文全32章
(^_-)-☆アスカミチル
オッス
「御来場、ごっつあんです!!」
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順番にお楽しみくださいねん。
「押絵と旅する男」本文32(最終回)紹介!!
江戸川乱歩作 光文社文庫刊
引 用
底本
【江戸川乱歩全集第五巻】
「押絵と旅する男」
2005(平成17)1/20 光文社文庫刊
初出
【新青年】 博文館 昭和4年刊
老人は暗然として押絵の中の老人を見やっていたが、やがて、ふと気が付いた様に、
「アア、飛んだ長話を致しました。併(しか)し、あなたは分かって下さいましたでしょうね。ほかの人達の様に、私を気違いだとは仰いませんでしょうね。アア、それで私も放し甲斐が在ったと申すものですよ。
どれ、兄さんたちもくたびれたでしょう、それに、あなた方を前に置いて、あんな話をしましたので、さぞかし恥ずかしがっておいででしょう。では、今やすませてあげますよ。」
と云いながら、押絵の額を、ソッと黒い風呂敷に包むのであった。その刹那、私の気のせいであったのか、押絵の人形たちの顔が、少し崩れて、一寸恥ずかしそうに、唇の隅で、私に挨拶の微笑を送った様に見えたのである。
老人はそれきり黙り込んでしまった。私も黙っていた。汽車は藍も変わらず、ゴトンゴトンと鈍い音を立てて、闇の中を走っていた。十分ばかりそうしていると、車輪の音がのろくなって、窓の外にチラチラと、二つ三つの燈火(あじかり)が見え、汽車は、どことも知れぬ山間の小駅に停車した。
駅員がたった一人、ぽっつりと、プラットフォームに立っているのが見えた。
「ではお先へ、私は一晩ここの親戚へ泊まりますので。」
老人は額の包みを抱えてヒョイと立上り、そんな挨拶を遺して、車の外へ出て行ったが、窓から見ていると、細長い老人の後姿は(それが何と押絵の老人そのままの姿であったが)簡略な柵の所で、駅員に切符を渡したかと見ると、そのまま、背後の闇の中へ溶け込む様に消えて行ったのである。
以 上
「押絵と旅する男」本文31紹介
2020.02.15 Saturday14:55
「押絵と旅する男」本文 紹介
江戸川乱歩作 光文社文庫刊
引 用
底本
【江戸川乱歩全集第五巻】
「押絵と旅する男」
2005(平成17)1/20 光文社文庫刊
初出
【新青年】 博文館 昭和4年刊
その後、父は東京の商売をたたみ、富山近くの故郷へ引っ込みましたので、それにつれて、私もずっとそこへ住んでおりますが、あれからもう三十年の余りになりますので、久々で兄にも変わった東京が見せてやりたいと思いましてね、こうして兄と一緒に旅をしているわけでございますよ。
ところが、あなた、悲しいことには、娘の方は、いくら生きているとはいえ、元々人の拵(こしら)えたものですから、年を取るということが在りませんけれど、兄の方は、押絵になっても、それは無理矢理に形を変えたまでで、根が寿命のある人間の事ですから、私たちと同じように年を取って参ります。
御覧くださいまし、二十五歳の美少年で在った兄が、もうあの様に白髪になって、顔には醜い皺が寄ってしまいました。
兄の身にとっては、どんなにか悲しいことでございましょう。相手の娘はいつまでも若くて美しいのに、自分ばかりが汚く老け込んで行くのですもの。恐ろしいことです。
兄は悲しげな顔をしております。数年以前から、いつもあんな苦しそうな顔をしております。それを思うと、私は兄が気の毒でしようがないのでございますよ。」
以 上
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「押絵と旅する男」本文30紹介
2020.02.15 Saturday14:55
「押絵と旅する男」本文 紹介
江戸川乱歩作 光文社文庫刊
引 用
底本
【江戸川乱歩全集第五巻】
「押絵と旅する男」
2005(平成17)1/20 光文社文庫刊
初出
【新青年】 博文館 昭和4年刊
「あの人たちは、人間は押絵なんぞになるものじゃないとおもいこんでいたのですよ。
でも、押絵になった証拠にハ、その後兄の姿が、ふっつりと、この世から見えなくなってしまったじゃありませんか。
それをも、あの人たちは、家出したのだ何ぞと、まるで見当違いな当て推量をしているのですよ。おかしいですね。結局、私は何と云われても構わず、母にお金をねだって、とうとうその覗き絵を手に入れ、それを持って、箱根から鎌倉の方へ旅をしました。それはね、兄に新婚旅行が射せてやりたかったからですよ。
こうして汽車に乗っておりますと、その時の事を思い出してなりません。やっぱり、今日の様に、近衛を窓に立てかけて、兄や兄の恋人に、外の景色を見せてやったのですからね。
兄はどんなにか幸せでございましたろう。娘の方でも、兄のこれほどの真心を、どうしていやの思いましょう。二人は本当の新婚者の様に、恥ずかしそうに顔を赤らめながら、お互いの肌と肌とを触れ合って、さもむつまじく、尽きぬ睦言を語り合った者でございますよ。
以 上
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「押絵と旅する男」本文29紹介
2020.02.15 Saturday14:54
「押絵と旅する男」本文29紹介
江戸川乱歩作 光文社文庫刊
引 用
底本
【江戸川乱歩全集第五巻】
「押絵と旅する男」
2005(平成17)1/20 光文社文庫刊
初出
【新青年】 博文館 昭和4年刊
ところが、長い間探し疲れて、喪との覗き屋の前へ戻って参った時でした。
私はハタとあることに気が付いたのです。と申すのは、兄は押絵の娘に恋い焦がれた余り、魔性の遠眼鏡の力を借りて、自分の身体を押絵の娘と同じくらいの大きさに縮めて、ソッと押絵の世界へ忍び込んだのではあるまいかということでした。
そこで、私はまだ店を片付けないでいた覗き屋に頼みまして、吉祥寺の場を見せて貰いましたが、なんとあなた、案の定、兄は押絵になって、カンテラの光の中で、吉三(きちざ)の代わりに、嬉しそうな顔をして、お七を抱きしめていたではありませんか。
でもね、私は悲しいとは思いませんで、そうして本望を達した、兄の幸せが、涙の出るほどうれしかったものですよ。
私はその絵をどんなに高くてもよいから、必ず私に譲ってくれと、覗き屋に堅い約束をして、(妙なことに、小姓の吉三の代わりに洋服姿の兄が坐っているのを、覗き屋は少しも気がつかない様子でした。)
家へ飛んで帰って、一部始終を母に告げました所、父も母も、何を云うのだ。お前は気が違ったのじゃないかと申して、何といっても取り上げてくれません。おかしいじゃありませんか。ハハハハハハ。」
老人は、そこで、さもさも滑稽だと言わぬばかりに笑い出した。そして、変なことには、私もまた、老人に同感して、一緒になって、ゲラゲラとわらったのである。
以 上
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「押絵と旅する男」本文28紹介
2020.02.15 Saturday14:54
「押絵と旅する男」本文28紹介
江戸川乱歩作 光文社文庫刊
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底本
【江戸川乱歩全集第五巻】
「押絵と旅する男」
2005(平成17)1/20 光文社文庫刊
初出
【新青年】 博文館 昭和4年刊
逆さに覗くのですから、二三間向うに立っている兄の姿が、二尺くらいに小さくなって、小さいだけに、ハッキリと、闇の中に浮き出して見えるのです。
外の景色は何も映らないで、小さくなった兄の洋服姿だけが、鏡の真ん中に、チンと立っているのです。それが、多分兄が後じさりに歩いて行ったのでしょう。見る見る小さくなって、とうとう一尺位の、人形くらいの可愛い姿になってしまいました。
そして、その姿が、ツーッと宙に浮いたかと見ると、アッと思う間に、闇の中へ溶け込んでしまったのでございます。
私は怖くなって、(こんなことを申すと、年甲斐もないと思召しましょうが、その時は、本当にゾッと、怖さが身に沁みたものですよ。)いきなり眼鏡を外して、「兄さん」と呼んで、兄のみえなくなった方へ走り出しました。
ですが、どうしたわけか、いくら探しても探しても、兄の姿が見えません。時間から申しても、遠くへ行ったはずはないのに、どこを訪ねてもわかりません。なんと、あなた、こうして私の兄は、それっきり、この世から姿を消してしまったのでございますよ・・・・・・それ以来というもの、私は一層遠眼鏡という魔性の器械を恐れる様になりました。
殊にも、このどこの国の船長ともわからぬ、異人の持ち物であった遠眼鏡が、特別嫌でして、外の眼鏡は知らず、この眼鏡だけは、どんなことがあっても、逆さに見てはならぬ。逆さに覗くと凶事が起こると、固く信じているのでございます。あなたがさっき、これを逆さにお持ち為すった時、私が慌ててお止め申したわけが、お分かりでございましょう。
以 上
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「押絵と旅する男」本文27紹介
2020.02.15 Saturday14:53
「押絵と旅する男」本文27紹介
江戸川乱歩作 光文社文庫刊
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底本
【江戸川乱歩全集第五巻】
「押絵と旅する男」
2005(平成17)1/20 光文社文庫刊
初出
【新青年】 博文館 昭和4年刊
そして、耳の底にドロドロと太鼓の鳴っているような音が聞こえているのですよ。その中で、兄は、じっと遠くの方を見据えて、いつまでもいちまでも、ったち尽くして居りました。その間が、たっぷり一時間は在った様に思われます。
もうすっかり暮れ切って、遠くの玉乗りの花瓦斯が、チロチロと美しく輝きだした時分に、兄はハッと目が覚めたように、突然私の腕をつかんで、
『アア、良いことを思い付いた。お前、お頼みだから、この遠眼鏡を逆さにして、大きなガラス玉の方を目に当てて、そこから私を見ておくれでないか。』
と、変なことを云いだしました。
『何故です。』
って尋ねても、
『まあいいから、そうしてお呉れな。』
と申して聞かないのでございます。
一体私は生まれつき眼鏡類を、余り好みませんので、遠眼鏡にしろ、顕微鏡にしろ、遠い所の物が、目の前へ飛びついて来たり、小さな虫けらが、けだものみたいに大きくなる、お化けじみた作用が薄気味悪いのですよ。
で、兄の秘蔵の遠眼鏡も、余り覗いたことが無く、覗いたことが少ないだけに、余計それが魔性の器械に思われたものです。
しかも日が暮れて、人顔もさだかに見えぬ、うすら寂しい観音堂の裏で、遠眼鏡をさかさにして、兄を覗くなんて、吉外じみても居ますれば、薄気味悪くもありましたが、兄が立って頼むものですから、仕方なく云われた通りにして覗いたのですよ。
以 上
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「押絵と旅する男」本文26紹介
2020.02.14 Friday12:49
「押絵と旅する男」本文 紹介
江戸川乱歩作 光文社文庫刊
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【江戸川乱歩全集第五巻】
「押絵と旅する男」
2005(平成17)1/20 光文社文庫刊
初出
【新青年】 博文館 昭和4年刊
アア、あの
『膝でつっらついて、目で知らせ』
という変な節回しが、耳についているようでございます。覗き絵の人物は押絵になっておりましたが、その道の名人の作であったのでしょうね。
お七の顔の生き生きとして綺麗であったこと。私の目にさえ本当に生きているように見えたのですから、兄があんなことを申したのも、全く無理はありません。
兄が申しますには、
『仮令(たとい)この娘さんが、拵えものの押絵だとわかっても、私はどうもあきらめられない。
悲しいことだがあきらめられない。たった一度でいい、私もあの吉三(きちざ)の様な、押絵の中の男になって、この娘さんと話がしてみたい。』
と云って、ぼんやりと、そこに突っ立ったまま、動こうともしないのでございます。
考えて見ますとその覗きからくりの絵が、光線を取るために上の方が開けてあるので、それが斜めに十二階の頂上からも見えた者に違いありません。
その時分には、もう日が暮れかけて、一足もまばらになり、覗きの前にも、ニ三人のおかっぱの子が、未練らしく立ち去り兼ねて、うろうろしているばかりでした。昼間からどんより曇っていたのが、日暮れには、今にも一雨来そうに、雲が下って来て、一層抑えつけられるような、気でも狂うのじゃないかと思う様な、いやな天候になって居りました。
以 上
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「押絵と旅する男」本文25紹介
2020.02.14 Friday12:47
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江戸川乱歩作 光文社文庫刊
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【江戸川乱歩全集第五巻】
「押絵と旅する男」
2005(平成17)1/20 光文社文庫刊
初出
【新青年】 博文館 昭和4年刊
兄の気の迷いだとは思いましたが、しおれかえっている様子が、あまり気の毒だものですから、気休めに、その辺の掛茶屋などを尋ね回ってみましたけれども、そんな娘さんの影も形もありません。
探している間に、兄と別れ別れになってしまいましたが、掛茶屋を一巡して、暫くたって元の松の木の下へ戻って参りますとね、そこには色々な露天に並んで、一軒の覗きからくり屋が、ピシャンピシャンと鞭の音を立てて、商売をして居りましたが、見ますと、その覗きの眼鏡を、兄が中腰になって、一生懸命覗いていたじゃございませんか。
『兄さん何をしていらっしゃる』
と云って、肩を叩きますと、ビックリして振り向きましたが、その時の兄の顔を、私は今だに忘れることが出来ませんよ。
何と申せばよろしいか、夢を見ているようなとでも申しますか、顔の筋がたるんでしまって、遠い所を見ている目つきになって、私に話す声さえも、変にうつろに聞こえたのでございます。
そして、
『お前、私たちが探していた娘さんはこの中にいるよ。』
と申すのです。
そう云われたものですから、私は急いでおあしを払って、覗きの眼鏡を覗いて見ますと、それは八百屋お七の覗きからくりでした。丁度吉祥寺の書院で、お七が吉三(きちざ)にしなだれかかっている絵が出て居りました。忘れもしません。
からくり屋の夫婦者は、しわがれ声を合せて、鞭で拍子を取りながら、
『膝でつっらついて、目で知らせ』
と申す文句を歌っている所でした。
以 上
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「押絵と旅する男」本文24紹介
2020.02.14 Friday12:45
「押絵と旅する男」本文 紹介
江戸川乱歩作 光文社文庫刊
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底本
【江戸川乱歩全集第五巻】
「押絵と旅する男」
2005(平成17)1/20 光文社文庫刊
初出
【新青年】 博文館 昭和4年刊
お話したのでは分かりますまいが、本当に絵の様で、又何かの前兆の様で、私は何とも云えない怪しい気持ちになったものでした。
何であろうと、急いで下を覗いて見ますと、どうかしたはずみで、風船やが粗相をして、ゴム風船を、一度に空へ飛ばしたものと分かりましたが、その時分は、ゴム風船そのものが、今よりはずっと珍しゅござんしたから正体が分かっても、私はまだ妙な気持ちがして居ったものですよ。
妙なもので、それがきっかけになったと云う訳でもありますまいが、ちょうどその時、兄は非常に興奮した様子で、青白い顔をポッと赤らめ、息をはずませて、私の方へやって参り、いきなり私の手をとって、
『さあ行こう。早く行かぬと間に合わぬ。』
と申して、グングン私を引っ張るのでございます。
引っ張られて、塔の石段を駆け下りながら、訳を尋ねますと、いつかの娘さんがみつかったらしいので、青畳を布いた広い座敷に座っていたから、これから行っても大丈夫元の所にいると申すのでございます。
兄が見当をつけた場所と云うのは、観音堂の裏手の、大きな松の木が目印で、そこに広い座敷が在ったと申すのですが、さて、二人で其処へ行って、探して見ましても、松の木はちゃんとありますけれど、その近所にハ、家らしい家もなく、まるで狐につままれたような案配なのですよ。
以 上
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「押絵と旅する男」本文23紹介
2020.02.14 Friday12:44
「押絵と旅する男」本文23紹介
江戸川乱歩作 光文社文庫刊
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底本
【江戸川乱歩全集第五巻】
「押絵と旅する男」
2005(平成17)1/20 光文社文庫刊
初出
【新青年】 博文館 昭和4年刊
云うまでもなく、兄はそんなご飯もろくろく食べられない様な、衰えた体を引き摺って、又その娘が観音様の境内を通りかかることもあろうかと空頼みから、毎日毎日、勤めの様に、十二階に昇っては、眼鏡を覗いていたわけでございます。
恋というものは、不思議なものでございますね。
兄は私に打ち明けてしまうと、又熱病闇の様に眼鏡を覗き始めましたっけが、私は兄の気持ちにすっかり同情いたしましてね、千に一つも希の無い、ムダな探しものですけれど、およしなさいと留め立てする気も起こらず、餘の事に涙ぐんで、兄の後姿をじっと眺めていたものですよ。
するとその時・・・・・・
ア、私はあの怪しくも美しかった光景を、忘れることが出来ません。三十年以上も昔の事ですけれど、こうして目を塞ぎますと、その夢の様な色取りが、まざまざと浮かんでくるほどでございます。
殺気も申しました通り、兄の後ろに立っていますと、見えるものは、空ばかりで、モヤモヤとした、群雲の中に、兄のほっそりとした洋服姿が、絵のように浮き上がって、群雲の方で動いているのを、兄の体が宙に漂うかと見誤るばかりでございました。
がそこへ、突然、花火でも打ち上げたように、白っぽい大空の中を、赤や青や紫の無数の玉が、先を争って、フワリフワリと昇って行ったのでございます。
以 上
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「押絵と旅する男」本文22紹介
2020.02.14 Friday12:42
「押絵と旅する男」本文22紹介
江戸川乱歩作 光文社文庫刊
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【江戸川乱歩全集第五巻】
「押絵と旅する男」
2005(平成17)1/20 光文社文庫刊
初出
【新青年】 博文館 昭和4年刊
仲々打ち明けませんでしたが、私が繰り返し繰り返し頼むものですから、兄も根負けをしたとみえまして、とうとう一か月来の胸の内を私に話してくれました。
ところが、その兄の煩悶の原因と申すものが、これがまた誠に変てこれんな事柄だったのでございますよ。
兄が申しますには、一月ばかり前に、十二階へ昇りまして、この遠眼鏡で観音様の境内を眺めて居りました時、日とゴミの間に、チラッと、一人の娘の顔を見たのだそうでございます。
その娘がそれはもう何とも云えない、この世のものとも思えない、美しい人で、日頃女には冷淡で在った兄も、その遠眼鏡の中の娘だけには、ゾッと寒けがしたほども、すっかり心を惑わされてしまったと申しますよ。
その時兄は、一目見ただけで、びっくりして、遠眼鏡を外してしまったものですから、もう一度見ようと思って、同じ見当を夢中になって探した相ですが、どうしてもその娘の顔にぶっつかりません。
遠眼鏡では近くは見えても実際は遠方の事ですし、沢山の人ごみの中ですから、一度見えたからと云って、二度目に探し出せると決まったものではございませんからね。
それからと申すもの、兄はこの眼鏡の中の美しい娘が忘れられず、極々内気な人でしたから、古風な恋煩いを始めたのでございます。
今のお人はお笑いなさるかもしれませんが、その頃の人間は、誠におっとりしたものでして、生きずりに一目見た女を恋して、わずらいついた男なども多かった時代でございますからね。
以 上
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「押絵と旅する男」本文21紹介江戸川乱歩作 光文社文庫刊
2020.02.13 Thursday10:17
「押絵と旅する男」本文21紹介
江戸川乱歩作 光文社文庫刊
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底本
【江戸川乱歩全集第五巻】
「押絵と旅する男」
2005(平成17)1/20 光文社文庫刊
初出
【新青年】 博文館 昭和4年刊
頂上には、十人余りの見物が一塊になっておっかな相な顔をして、ボソボソ小声で囁きながら、品川の海の方を眺めて居りましたが、兄はと見ると、それとは離れた場所に、一人ぼっちで、遠眼鏡を目に当てて、しきりと浅草の境内を眺めまわして居りました。
それを後ろから見ますと、白っぽくどんよりどんよりした雲ばかりの中に、兄の天鵞絨の洋服姿が、くっきりと浮かび上がって、下の方のゴチャゴチャしたものが何も見えぬものですから、兄だということは分かっておりましても、何だか西洋の油絵の中の人物みたいな気持がして、神々しい様で、言葉をかけるのもはばかられたほどでございましたっけ。
でも、母の言いつけを思い出しますと、そうもしていられませんので、私は兄の後ろに近づいて、
『兄さん何をみていらっしゃいます。』
と声をかけたのでございます。
兄はビクッとして、振り向きましたが、気まずい顔をして何も言いません。
私は、
『兄さんの此の頃のご様子には、御父さんも御母さんも大変心配して、いらっしゃいます。
毎日毎日どこへお出かけなさるのかと、不思議に思っておりましたら、兄さんはこんな所へ来ていらしったのでございますね。
どうかその訳を云って下しまし。日頃仲良しの私だけでも打ち明けてくださいまし。』
と、近くに人の居ないのを幸いに、その塔の上で、兄をかき口説いたものですよ。
以 上
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「押絵と旅する男」本文20紹介江戸川乱歩作 光文社文庫刊
2020.02.13 Thursday10:16
「押絵と旅する男」本文20紹介
江戸川乱歩作 光文社文庫刊
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底本
【江戸川乱歩全集第五巻】
「押絵と旅する男」
2005(平成17)1/20 光文社文庫刊
初出
【新青年】 博文館 昭和4年刊
それに日清戦争の当時ですから、その頃は珍しかった、戦争の油絵が、一方の壁にずっと懸け並べてあります。まるで狼みたいな、おっそろしい顔をして、吠えながら、突貫している日本兵や、剣付鉄砲に脇腹をえぐられ、吹き出す血のりを両手で押さえて、顔や唇を紫色にしてもがいている支那兵、ちょんぎられた辮髪の頭が、風船玉のように空高く飛び上がっている所や、何とも言えない毒々しい、血みどろの油絵が、窓からの薄暗い光線で、テラテラと光っているのでございますよ。
その間を、陰気な石の段々が、蝸牛の殻みたいに、上へ上へと際限もなく続いて居ります。
本当に変てこれんな気持ちでしたよ。
頂上は八角形の欄干丈(だ)けで、壁のない、見晴らしの廊下になっていましてね、そこへたどりつくと、俄かにパッと明るくなって、今までの薄暗い道中が長うござんした丈けに、びっくりしてしまいます。
雲が手の届きそうな低い所に在って、見渡すと、東京中の屋根がごみみたいに、ゴチャゴチャしていて、品川のお台場が、盆席のように見えて居ります。
目まいがしそうなのを我慢して、下を覗きますと、観音様の御堂だってずっと低い所に在りますし、小屋掛けの見世物が、おもちゃの様で、歩いている人間が、頭と足ばかりに見えるのです。
以 上
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「押絵と旅する男」本文19紹介江戸川乱歩作 光文社文庫刊
2020.02.13 Thursday10:15
「押絵と旅する男」本文19紹介
江戸川乱歩作 光文社文庫刊
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底本
【江戸川乱歩全集第五巻】
「押絵と旅する男」
2005(平成17)1/20 光文社文庫刊
初出
【新青年】 博文館 昭和4年刊
よござんすか。しますとね。兄は上野行きの馬車鉄道を待ちあわせてひょいとそれに乗り込んでしまったのです。当今の電車と違って、次の車に乗って後を付けると云う訳には行きません。
何しろ車台が少のうござんすからね。私は仕方がないので母親にもらったお小遣いを奮発して、人力車に乗りました。
人力車だって、少し威勢のいい挽き子なれば馬車鉄道を見失わない様に、あとをつけるなんぞ、訳なかったもんでございますよ。
兄が馬車鉄道を降りると、私も人力車を降りて、又テクテクと跡を付ける。そうして、行きついたところが、何と浅草の観音様じゃございませんか。
兄は仲店から、お堂の前を素通りして、お堂裏の見世物小屋の間を、人並みをかき分けるようにして、さっき申し上げた十二階の前まで来ますと、石の門を入って、お金を払って「凌雲閣」という額の上った入り口から、塔の中へすがたを消したじゃあございませんか。
まさか兄がこんなところへ、毎日毎日通っていようとは、夢にも存じませんので、私は呆れてしまいましたよ。子供心にね、私はその時まだ二十にもなってませんでしたので、兄はこの十二階の化け物に魅入られたんじゃないかなんて、変なことを考えたものですよ。
私は十二階へは、父親に連れられて、一度昇ったったきりで、その後逝ったことはありませんので、なんだか気味が悪いように思いましたが、兄が昇って行くものですから、仕方がないので、私も、一回くらい遅れて、あの薄暗い石の段々を昇って行きました。
窓も大きくございませんし、煉瓦の壁が厚うござんすので、穴倉のように冷え冷えと致しましてね。
以 上
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「押絵と旅する男」本文18紹介江戸川乱歩作 光文社文庫刊
2020.02.13 Thursday10:15
「押絵と旅する男」本文18紹介
江戸川乱歩作 光文社文庫刊
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底本
【江戸川乱歩全集第五巻】
「押絵と旅する男」
2005(平成17)1/20 光文社文庫刊
初出
【新青年】 博文館 昭和4年刊
どんな風かと申しますと、兄はご飯もろくろく食べないで、家内の者とも口を利かず、考え事ばかりしている。体はやせてしまい、顔は肺病やみの様に土気色で、目ばかりギョロギョロさせている。
もっとも普段から顔色のいい方じゃあござんせんでしたがね。それが一倍青ざめて、沈んでいるのですから、本当に気の毒なさまでした。
その癖ね、そんなでいて、毎日欠かさず、まるで勤めにでも出る様に、おひるッから、日暮れ時分まで、フラフラとどっかへ出かけるんです。
どこへ行くのかって聞いてみても、、ちっとも云いません。母親が心配して、兄の塞(ふさ)いでいる訳を、手を変え品を変え尋ねても、少しも打ち明けません。そんなことが一か月も続いたのですよ。
あんまり心配なものだから、私はある日、兄が一体どこへ出かけるのかと、ソッとあとをつけました。そうするように母親が私に頼むもんですからね。
兄はその日も、ちょうど今日の様などんよりとした、厭な比でござんしたが、お昼過ぎから、そのころ兄の工夫で仕立てさせた、当時としては飛び切りハイカラな、黒天鵞絨(くろびろーど)の洋服を着ましてね、この遠眼鏡を肩から下げ、ヒョロヒョロと、日本橋通りの馬車鉄道の方へ歩いて行くのです。
私は兄に気取られぬ様に、付いて行ったわけですよ。
以 上
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「押絵と旅する男」本文17紹介江戸川乱歩作 光文社文庫刊
2020.02.13 Thursday10:14
「押絵と旅する男」本文17紹介
江戸川乱歩作 光文社文庫刊
引 用
底本
【江戸川乱歩全集第五巻】
「押絵と旅する男」
2005(平成17)1/20 光文社文庫刊
初出
【新青年】 博文館 昭和4年刊
だが、不思議なことに、私はそれを少しもおかしいとは感じなかった。
私たちはその瞬間、自然の法則を超越した、我々の世界とどこかで食い違っている処の、別の世界に住んでいたらしいのである。
「あなたは十二階へおのぼりなさったことがおありですか。アア、おありなさらない。それは残念ですね。あれはいったいどこの魔法使いが建てましたものか、実に途方もない、変てこれんな代物でございましたよ。
表面はイタリーの技師バルトンと申すものが設計したことになっていましたがね。まあ考えて御覧なさい。その頃の浅草公園と云えば、名物が蜘蛛男の見世物、娘剣舞に、玉乗り、源水の独楽回しに、覗きからくりなどで、精々変わった所が、お富士様の作り物に、メーズと云って、八陣隠れ杉の見世物位でございましたからね。
そこへあなた、ニョキニョキと、まあ飛んでもない高い煉瓦造りの塔が出来ちまったんですから、おどろくじゃござんせんか。
高さが四十六間と申しますから、半町の余りで、八角形の頂上が、唐人の帽子みたいに、とんがっていて、ちょっと高台へ昇りさえすれば、東京中どこからでも、その赤いお化けが見られたものです。
今も申す通り、明治二十八年の春、兄がこの遠眼鏡を手に入れて間もない頃でした。兄の身に妙なことが起こって参りました。親父何ぞ、兄め気でも違うのじゃないかって、ひどく心配しておりましたが、私もね、お察しでしょうが、馬鹿に兄思いでしてね、兄の変てこれんなそぶりが、心配で心配でたまらなかったものです。
以 上
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「押絵と旅する男」本文16紹介江戸川乱歩作 光文社文庫刊
2020.02.12 Wednesday10:48
「押絵と旅する男」本文16紹介
江戸川乱歩作 光文社文庫刊
引 用
底本
【江戸川乱歩全集第五巻】
「押絵と旅する男」
2005(平成17)1/20 光文社文庫刊
初出
【新青年】 博文館 昭和4年刊
「是非伺いたいものですね。」
私は、普通の生きた人間の身の上話を出も催促するように、獄何でもない事の様に、老人をうながしたのである。
すると、老人は顔の皺を、さも嬉しそうに歪めて、
「アア、あなたは、やっぱり聴いて下さいますね。」
と云いながら、さて、次のような世にも不思議な物語を始めたのであった。
「それはもう、一生涯の大事件ですから、よく記憶しておりますが、明治二十八年の四月の、兄があんなに(と云って彼は押絵の老人を指さした)なりましたのが、二十七日の夕方のことでござりました。
当時、私も兄も、まだ部屋住みで、住まいは日本橋通三丁目でして、親父が呉服商を営んで居りましたがね。何でも浅草の十二回が出来て、間もなくの事でございましたよ。だもんですから、兄なんぞは、毎日のようにあの凌雲閣(りょううんかく)へ登って喜んでいたものです。
と申しますのが、兄は妙に異国物が好きで、新しがり屋でござんしたからね。この遠眼鏡にしろ、やっぱりそれで、兄が外国船の船長の持ち物だったという奴を、横浜の支那人町の、変てこな道具屋の店先で、めっけて来ましてね。
当時にしちゃア、随分高いお金を払ったと申して居りましたっけ。」
老人は「兄が」と云うたびに、まるでそこにその人が坐ってでもいる様に、押絵の老人の方に目をやったり、指さしたりした。
老人は彼の記憶に在る本当の兄と、その白髪の老人とを、混同して、押絵が生きて彼の話を聞いてでもいるような、すぐ側に第三者を意識したような話し方をした。
以 上
(^_^メ)アスカね📯📯📯📯📯
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「押絵と旅する男」本文15紹介江戸川乱歩作 光文社文庫刊
2020.02.12 Wednesday10:47
「押絵と旅する男」本文15紹介
江戸川乱歩作 光文社文庫刊
引 用
底本
【江戸川乱歩全集第五巻】
「押絵と旅する男」
2005(平成17)1/20 光文社文庫刊
初出
【新青年】 博文館 昭和4年刊
「私の頭が、どうかしている様です。いやに蒸しますね。」
私は照れ隠しみたいな挨拶をした。すると老人は、猫背になって、顔をぐっと私の方へ近寄せ、膝の上で細長い指を合図でもする様に、ヘラヘラと動かしながら、低い低いささやき越えになって、
「あれらは生きて居りましたろう。」
と云った。そして、さも一大事を打ち明けると云った調子で、一層猫背になって、ギラギラした目を真ん丸に見開いて、私の顔を穴のあくほど見詰めながら、こんなことをささやくのであった。
「あなたは、あれらの、本当の身の上話を聞きたいとは思召しませんかね。」
私は汽車の動揺と、車輪の響きのために、老人の低い、つぶやくような声を、聴き間違えたのではないかと思った。
「身の上話と仰いましたか。」
「身の上話でございますよ。」
老人はやっぱり低い声で答えた。
「殊に、一方の、白髪の老人の身の上話を出ございますよ。」
「若い時分からのですか。」
私も、その晩は、何故か妙に調子はずれな物の云い方をした。
「ハイ、あれが二十五歳の時のお話でございますよ。」
以 上
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「押絵と旅する男」本文14紹介江戸川乱歩作 光文社文庫刊
2020.02.12 Wednesday10:47
「押絵と旅する男」本文14紹介
江戸川乱歩作 光文社文庫刊
引 用
底本
【江戸川乱歩全集第五巻】
「押絵と旅する男」
2005(平成17)1/20 光文社文庫刊
初出
【新青年】 博文館 昭和4年刊
私は一通り、女の全身を、双眼鏡の先で、嘗めまわしてから、その娘がしなだれかかっている、幸せな白髪男の方へ眼鏡を転じた。
老人も双眼鏡の中で生きていたことは同じであったが、見た所四十ほども年の違う、若い女の肩に手を回して、さも幸福そうな形で在りながら、妙なことには、レンズ一杯の大きさに写った、彼の皺の多い顔が、その何百本の皺の底で、いぶかしく苦悶の相を現わしているのである。
それは、老人の顔がレンズのために眼前一尺の近さに、異様に大きく迫っていたからでもあったであろうが、見詰めていればいる程、ゾッと怖くなるような、悲痛と恐怖との混じり合った一種異様の表情で在った。
それを見ると、私はうなされたような気分になって、双眼鏡をのぞいていることが、耐えがたく感じられたので、思わず、目を離して、キョロキョロと辺りを見回した。
すると、それはやっぱり寂しい夜の汽車の中であって、押絵の額も、それをささげた老人の姿も、もとのままで、窓の外は真っ暗だし、単調な車輪の響きも、変わりなく聞こえていた。悪夢から覚めた気持であった。
「あなた様は、不思議そうな顔をしておいでなさいますね。」
老人は額を、元の窓の所へ立てかけて、席に着くと、私にもその向こう側に座るように、手真似をしながら、私の顔を見詰めて、こんなことを云った。
以 上
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「押絵と旅する男」本文13紹介江戸川乱歩作 光文社文庫刊
2020.02.12 Wednesday10:46
「押絵と旅する男」本文13紹介
江戸川乱歩作 光文社文庫刊
引 用
底本
【江戸川乱歩全集第五巻】
「押絵と旅する男」
2005(平成17)1/20 光文社文庫刊
初出
【新青年】 博文館 昭和4年刊
蜑(あま)の裸身(はだかみ)が、底の方に或る時は、青い水の層の複雑な動揺のため、に、その身体が、まるで海藻の様に、不自然にクネクネと曲がり、輪郭もぼやけて、白っぽいお化けみたいに見えているが、それが、つうッと浮き上がって来るにしたがって、水の層の青さが段々に薄くなり、形がハッキリして来て、ポッカリと水上に首を出すと、その瞬間、ハッと目が覚めたように、水中の白いお化けが、忽ち人間の正体を現すのである。
丁度それと同じで、押絵の娘は、双眼鏡の中で、私の前に姿を現し、実物大の、一人の生きた娘として、蠢(うごめ)き始めたのである。十九世紀の古風なプリズム双眼鏡の玉の向う側には、全く私たちの思いも及ばぬ世界があって、そこに結綿(ゆいわた)の色娘と、古風な洋服の白髪男とが、奇怪な生活を営んでいる。
覗いては悪いものを、私は今魔法使いに覗かされているのだ。と云った様な形容のできない変てこな気持ちで、しかし私は憑(つ)かれた様にその不可思議な世界に見入ってしまった。
娘は動いていたわけではないが、その全身の感じが、肉眼で見た時とは、ガラリと変わって、生気に満ち、青白い顔が矢や桃色に上記氏、胸は脈打ち(実際私は心臓の鼓動さえ聞いた。)肉体からは縮緬(ちりめん)の衣裳を通して、むしむしと、若い女の生気が蒸発しているように思われた。
以 上
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「押絵と旅する男」本文12紹介江戸川乱歩作 光文社文庫刊
2020.02.11 Tuesday10:14
「押絵と旅する男」本文12紹介
江戸川乱歩作 光文社文庫刊
引 用
底本
【江戸川乱歩全集第五巻】
「押絵と旅する男」
2005(平成17)1/20 光文社文庫刊
初出
【新青年】 博文館 昭和4年刊
私は珍しさに、暫くその双眼鏡をひねくり廻していたが、やがて、それを覗くために、両手で目の前に持って行った時である。
突然、実に突然、老人が悲鳴に近い叫び声を立てたので、私は危うく眼鏡を取り落とす所であった。
「いけません。いけません。それはさかさですよ。さかさにのぞいてはいけません。いけません。」
老人は、真っ青になって、目を真ん丸に見開いて、しきりと手を振っていた。双眼鏡を逆に覗くことが、何故それほど大変なのか、私は老人の異様な挙動を理解することが出来なかった。
「成る程、成る程、さかさでしたっけ。」
私は双眼鏡をのぞくことに気を取られていたので、この老人の不審な表情を、さして気にも留めず、眼鏡を正しい方向に持ち直すと、急いでそれを目に当てて押絵の人物を覗いたのである。
焦点が合って行くにしたがって、二つの円形の視野が、徐々に一つに重なり、ボンヤリとした虹の様なものが、段々ハッキリして来ると、びっくりするほど大きな娘の胸から上が、それが全世界ででもあるように、私の眼界一杯に広がった。
あんなふうな物の現れ方を、私は後にも先にも見た事が無いので、読む人に分からせるのが難儀なのだが、それに近い感じを思い出してみると、たとえば、船の上から、海に潜った蜑(あま)の、ある瞬間の姿に似ていたとでも形容すべきであろうか。
以 上
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「押絵と旅する男」本文11紹介江戸川乱歩作 光文社文庫刊
2020.02.11 Tuesday10:13
「押絵と旅する男」本文11紹介
江戸川乱歩作 光文社文庫刊
引 用
底本
【江戸川乱歩全集第五巻】
「押絵と旅する男」
2005(平成17)1/20 光文社文庫刊
初出
【新青年】 博文館 昭和4年刊
私の表情に驚きの色を見て取ったからか、老人は、いと頼もし気な口調で、殆ど叫ぶように、
「アア、あなたは分かって下さるかもしれません。」
と云いながら、肩から下げていた、黒川のケースを、丁寧に鍵で開いて、その中から、いとも古風な双眼鏡を取り出してそれを私の方へ差し出すのであった。
「コレ、この遠眼鏡で一度ご覧くださいませ。イエ、そこからでは近すぎます。
失礼ですが、もう少しあちらの方から。左様丁度その辺がようございましょう。」
誠に異様な頼みではあったけれど、私は限りなく好奇心のとりことなって、老人の云うがままに、席を立って額から五六歩遠ざかった。
老人は私の見やすいように、両手で額を持って、電燈にかざしてくれた。今から思うと、実に変てこな、気違いめいた光景に相違なかったのである。
遠眼鏡と云うのは、恐らくニ三十年も以前の舶来品であろうか、私たちが子供の時分、良くメガネ屋の看板で見かけたような、異様な形のプリズム双眼鏡であったが、それが手擦れの為に、黒い覆皮がはげて、所々真鍮の生地が現われているという、持ち主の洋服と同様に、いかにも古風な、物懐かしい品物で在った。
以 上
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「押絵と旅する男」本文10紹介江戸川乱歩作 光文社文庫刊
2020.02.11 Tuesday10:12
「押絵と旅する男」本文10紹介
江戸川乱歩作 光文社文庫刊
引 用
底本
【江戸川乱歩全集第五巻】
「押絵と旅する男」
2005(平成17)1/20 光文社文庫刊
初出
【新青年】 博文館 昭和4年刊
洋服には正しい縫い目があり、適当な場所に粟粒程の釦(ぼたん)までつけてあるし、娘の乳のふくらみと云い、腿のあたりの艶(なま)めいた曲線と云い、こぼれた緋縮緬(ひちりめん)、チラと見える肌の色、指には貝殻の様な爪が生えていた。
虫眼鏡で覗いて見たら、毛穴や産毛までちゃんと拵(こしら)えてあるのではないかと思われたほどである。
私は押絵と云えば、羽子板の役者の似顔の細工しかみたことが無かったが、そして、羽子板の細工にも、随分精巧なものもあるのだけれど、この押絵は、そんなものとは、まるで比較にもならぬほど、巧緻(こうち)を極めていたのである。
恐らくその道の名人の手になったものであろうか。だが、それが私の所謂(いわゆる)「奇妙」な点ではなかった。
額全体が余程古いものらしく、背景の泥絵具は所々剥げ落ちていたし、娘の緋鹿の子も、老人の天鵞絨(びろうど)も、見る影もなく色あせていたけれど、剥げ落ち色あせたなりに、名状しがたき毒々しさを保ち、ギラギラと、見る者の眼底に焼き付くような生気を持っていたことも、不思議と云えば不思議であった。だが、私の「奇妙」という意味はそれでもない。
それは、強いて云うならば、押絵の人物が二つとも、生きていたことである。
文楽の人形芝居で、一日の演技の内に、たった一度か二度、それもほんの一瞬間、名人の使っている人形が、ふと神の息吹をかけられでもしたように、本当に生きていることが在るものだが、この押絵の人物は、その生きた瞬間の人形を、命の逃げ出す隙を与えず、咄嗟(とっさ)の間に、そのまま板に張り付けたという感じで、永遠に生きながらえているかと見えたのである。
以 上
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「押絵と旅する男」本文9紹介江戸川乱歩作 光文社文庫刊
2020.02.11 Tuesday10:11
「押絵と旅する男」本文9紹介
江戸川乱歩作 光文社文庫刊
引 用
底本
【江戸川乱歩全集第五巻】
「押絵と旅する男」
2005(平成17)1/20 光文社文庫刊
初出
【新青年】 博文館 昭和4年刊
左手の前方には、墨黒々と不細工な書院風の窓が描かれ、同じ色の文机が、その傍に角度を無視した描き方で据えてあった。
それらの背景は、あの絵馬札の絵の独特な画風に似ていたと云えば、良く分かるであろう
その背景の中に、一尺位の丈の二人の人物が浮き出していた。浮き出していたと云うのは、その人物だけが押絵細工で出来ていたからである。
黒天鵞絨(くろびろうど)の古風な洋服を着た白髪の老人が、窮屈そうに坐っていると、(不思議なことには、その容貌が、髪の色を除くと、額の持ち主の老人にそのままなばかりか、着ている洋服の仕立て方までそっくりであった。)緋鹿の子の振り袖に、黒繻子の帯の映りの良い十七ハの、水のたれる様な結綿の美少女が、何とも言えぬ嬌愁を含んで、その老人の洋服の膝にしなだれかかっている、謂わば芝居の濡れ場に類する画面で在った。
洋服の老人と色娘の対照と、甚だ異様であったことは云うまでもないが、だが私が「奇妙」に感じたというのはその事ではない。
背景の粗雑に引き換えて、押絵の細工の精巧なことは驚くばかりであった。
顔の部分は、白絹は凹凸(おうとつ)を作って、細い皺まで一つ一つ現わしてあったし、娘の髪は、本当の毛髪を一本一本植え付けて、人間の髪を結うように結ってあり、老人の頭は、これも多分本物の白髪を、丹念に植えたものに相違なかった。
以 上
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「押絵と旅する男」本文8紹介江戸川乱歩作 光文社文庫刊
2020.02.10 Monday20:14
「押絵と旅する男」本文8紹介
江戸川乱歩作 光文社文庫刊
引 用
底本
【江戸川乱歩全集第五巻】
「押絵と旅する男」
2005(平成17)1/20 光文社文庫刊
初出
【新青年】 博文館 昭和4年刊
「これが御覧になりたいのでございましょう。」
私が黙っているので、彼はもう一度同じことを繰り返した。
「見せて下さいますか。」
私は相手の調子に引き込まれて、つい変なことを云ってしまった。
私は決してその荷物を見たい為に席を立ったわけではなかったのだけれど。
「喜んでお見せいたしますよ。わたくしは、さっきから考えていたのでございますよ。あなたはきっとこれを見にお出でなさるだろうとね。」
男は―――寧(むし)ろ老人と云った方がふさわしいのだが―――そう云いながら、長い指で、起用に大風呂敷をほどいて、その額みたいなものを、今度は表を向けて、窓の方へ立てかけたのである。
私は一目チラッと、その表面を見ると、思わず目を閉じた。何故であったか、その理由は今でも分からないのだが、何となくそうしなければならない感じがして、数秒の間目を塞いでいた。
再び目をあいた時、私の前に、嘗て見た事の無いような、奇妙なものが在った。と云って、私はその「奇妙」な点をハッキリと説明する言葉を持たぬのだが。
額には歌舞伎芝居の御殿の背景みたいに、いくつもの部屋を打ち抜いて、極度の遠近法で、青畳と格子天井が遥か向うの方まで続いているような光景が、藍を主とした泥絵具で毒々しく塗りつけて在った。
以 上
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「押絵と旅する男」本文7紹介 江戸川乱歩作・光文社文庫刊
2020.02.10 Monday12:59
「押絵と旅する男」本文7紹介
江戸川乱歩作 2005光文社文庫刊
引 用
底本
【江戸川乱歩全集第五巻】
「押絵と旅する男」
2005(平成17)1/20 光文社文庫刊
初出
【新青年】 博文館 昭和4年刊
私は、四十歳にも六十歳にも見える、西洋の魔術師のような風采のその男が、段々怖くなってきた。
怖さというものは、外にまぎれる事柄の無い場合には、無限に大きく、身体じゅう一杯に広がって行くものである。
私は遂には、産毛の先までも怖さが充ちて、たまらなくなって、突然立ち上がると、向うの隅のその男の方へツカツカと歩いて行った。その男がいとわしく、恐ろしければこそ、私はその男に近づいて行ったのであった。
私は彼と向き合ったクッションへ、そっと腰を卸し、近寄れば一層異様に見える彼の皺だらけの白い顔を、私自身が妖怪ででもあるような一種不可思議な、転倒した気持で、眼を細く息を殺して、じっとのぞき込んだものである。
男は私が自分の席を立った時から、ずっと目で私を迎えるようにしていたが、そうして私が彼の顔をのぞき込むと、待ち受けていたように、顎で傍らの例の扁平な荷物を指示し、何の前置きもなく、さもそれが当然の挨拶ででもあるように、
「これでございますか。」
と云った。その口調が、あまり当たり前で在ったので、私は却って、ギョッとしたほどであった。
以 上
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「押絵と旅する男」本文6紹介 江戸川乱歩作・光文社文庫刊
2020.02.10 Monday12:57
「押絵と旅する男」本文紹介6
江戸川乱歩作 2005光文社文庫刊
引 用
底本
【江戸川乱歩全集第五巻】
「押絵と旅する男」
2005(平成17)1/20 光文社文庫刊
初出
【新青年】 博文館 昭和4年刊
彼は丁寧に荷物を包み終わると、ひょいと私の方に顔を向けたが、ちょうど私の方でも熱心に相手の動作を眺めていた時であったから、二人の視線がガッチリとぶつかってしまった。
すると、彼は何か恥ずかしそうに唇の端を曲げて、かすかに笑って見せるのであった。
私も思わず首を動かして挨拶を返した。
それから、小駅をニ三通過する間、私たちはお互いの隅に座ったまま、遠くから、時々視線を交えては、気まづくそっぽを向くことを、繰り返していた。
外は全く暗闇になっていた。窓ガラスに顔を押し付けてのぞいて見ても、時たま沖の漁船の舷燈が遠く遠くポッツリと浮かんでいるほかには、全くなんの光も無かった。
果てしの無い暗闇の中に、私たちの細長い車室だけが、たった一つの世界のように、いつまでもいつまでも、ガタンガタンと動いて行った。
そのほの暗い車室の中に、私たち二人だけを取り残して、全世界が、あらゆる生き物が、跡形もなく消え失せてしまった感じであった。
私たちの二等車には、度の駅からも一人の乗客もなかったし、列車ボーイや車掌も一度も姿を見せなかった。そういうことも、今になって考えて見ると、甚だ奇怪に感じられるのである。
以 上
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「押絵と旅する男」本文紹介5・江戸川乱歩作 2005光文社文庫刊
2020.02.10 Monday12:51
「押絵と旅する男」本文紹介4
江戸川乱歩作 2005光文社文庫刊
引 用
底本
【江戸川乱歩全集第五巻】
「押絵と旅する男」
2005(平成17)1/20 光文社文庫刊
初出
【新青年】 博文館 昭和4年刊
一度風呂敷に包んであったものを、態々取り出して、そんな風に外へ向けて立てかけたものとしか考えられなかった。それに、彼が再び包むときにチラと見たところによると、額の表面に描かれた極彩色の絵が、妙に生々しく、何となく世の常ならず見えた事であった。
私は改めてこの変てこな荷物の持ち主を観察した。そして、持ち主その人が、荷物の異様さにもまして、一段と異様であったことに驚かされた。
彼は非常に古風な我々の父親の若い時分の色あせた写真でしか見る事の出来ない様な、襟の狭い、肩のすぼけた、黒の背広服を着ていたが、併しそれが背が高くて、足の長い彼に、妙にしっくりと合って、甚だ粋にさえ見えたのである。
顔は細面で、両目が少しギラギラし過ぎていたほかは、一体に良く整っていて、スマートな感じであった。
そして、きれいに分けた頭髪が、豊かに黒々と光っているので、一見四十前後で在ったが、良く注意して見ると、顔中に夥しい皺が在って、ひととびに六十過ぎに見えぬことも無かった。
この黒々とした頭髪と、色白の顔面を縦横にきざんだ彼との対照が、始めてそれに気づいた時、私をはっとさせたほども、非常に不気味な感じを与えた。
以 上
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「押絵と旅する男」本文紹介4・江戸川乱歩作 2005光文社文庫刊押絵と旅する男」
2020.02.09 Sunday19:17
「押絵と旅する男」本文紹介4
江戸川乱歩作 2005光文社文庫刊押絵と旅する男」
引 用
底本
【江戸川乱歩全集第五巻】
「押絵と旅する男」
2005(平成17)1/20 光文社文庫刊
初出
【新青年】 博文館 昭和4年刊
不思議な偶然であろうか、あの辺の汽車はいつでもそうなのか、私の乗った二等車は、教会堂のようにガランとしていて、私の外にたった一人の先客が、向うの隅のクッションに蹲(うずくま)っているばかりであった。
汽車は寂しい海岸の、けわしい崖や砂浜の上を、単調な機械の音を響かせて、果てしもなく走っている。沼の様な海上の靄の奥深く、黒血の色の夕焼けが、ボンヤリと感じられた。
異様に大きく見える白帆が、その中を、夢のように滑っていた。少しも風のない、むしむしする日であったから、所々開かれた汽車の窓から、進行につれて忍び込むそよ風も、幽霊のように尻キレとんぼで在った。
沢山の短いトンネルと雪除けの柱の列が、広漠たる灰色の空と海とを、縞目に区切って通り過ぎた。
親知らずの断崖を通過するころ、車内の電燈と空の明るさとが同じに感じられた程、夕闇が迫って来た。
丁度その時分、向うの隅のたった一人の同乗者が、突然立ち上がって、クッションの上に大きな黒繻子(くろじゅす)の風呂敷を拡げ、窓に立てかけてあった、二尺に三尺ほどの、扁平な荷物を、その中へ包み始めた。
それが私に何とやら奇妙な感じを与えたのである。その扁平なものは、多分額に相違ないのだが、それの表側の方を、何か特別の意味でもあるらしく、窓ガラスに向けて立てかけてあった。
以 上
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「押絵と旅する男」本文紹介3・江戸川乱歩作 2005光文社文庫刊押絵と旅する男」
2020.02.09 Sunday13:48
「押絵と旅する男」本文紹介3
引 用
底本
【江戸川乱歩全集第五巻】
「押絵と旅する男」
2005(平成17)1/20 光文社文庫刊
初出
【新青年】 博文館 昭和4年刊
それは、妙な形の黒雲に似ていたけれど、黒雲なればその所在がハッキリ分かっているのに反し、蜃気楼は、不思議にも、それと見る者との距離が非常に曖昧なのだ。
遠くの海上に漂う大入道の様でもあり、ともすれば、眼前一尺に迫る異形の靄かと見え、はては、見る者の角膜の表面に、ポッツリと浮かんだ、一点の曇りのようにさえ感じられた。
この距離の曖昧さが、蜃気楼に、想像以上の不気味な気違いめいた感じを与えるのだ。
曖昧な形の、真っ黒な巨大な三角形が、塔のように積み重なって行ったり、瞬く間にくずれたり、横に伸びて長い汽車のように走ったり、それが幾つかにくずれ、立ち並ぶ檜の梢と見えたり、じっと動かぬ様でいながら、いつとはなく、全く違った形に化けて行った。
蜃気楼の魔力が、人間を気違いにするものであったなら、恐らく私は、少なくとも帰り道の汽車の中までは、その魔力をのがれることが出来なかったであろう。二時間の余も立ち尽くして、大空の妖異を眺めていた私は、その夕方魚津を立って、汽車の中に一夜を過ごすまで、全く日常と異なった気持ちでいた事は、確かである。
若しかしたら、それは通り魔のように、人間の心を掠め侵すところの、一時的狂気のたぐいででもあったであろうか。
魚津の駅から上野への汽車に乗ったのは、夕方の六時ころであった。
「押絵と旅する男」本文紹介2
引 用
底本
【江戸川乱歩全集第五巻】
「押絵と旅する男」
2005(平成17)1/20 光文社文庫刊
初出
【新青年】 博文館 昭和4年刊
私はその時、生まれて初めて蜃気楼と云う物を見た。蛤の息の中に美しい竜宮城の浮かんでいる、あの古風な絵を想像していた私は、本物の蜃気楼を見て、脂汗のにじむような、恐怖に近い驚きに撃たれた。
魚津の浜の松並木に豆粒のような人間がウジャウジャと集まって、息を殺して、眼界一杯の大空と海面とを眺めていた。私はあんな静かな、唖のように黙っている海を見た事が無い。
日本海は荒海と思い込んでいた私には、それもひどく意外であった。その海は、灰色で、小波一つ無く、無限の彼方まで打ち続く沼かと思われた。そして、太平洋の海のように、水平線は無くて、海と空とは、同じ灰色に溶け合い、厚さの知れぬ靄(もや)に覆い尽くされた感じだった。
空だとばかり思っていた、上部の靄の中を、案外にもそこが海面で在って、フワフワと幽霊の様な、大きな白帆が滑って行ったりした。蜃気楼とは、乳色のフィルムの表面に墨汁をたらして、それが自然にジワジワとにじんで行くのを、途方もなく巨大な映画にして、大空に映し出したようなものであった。
遥かな能登半島の森林が、喰い違った大気の変形レンズを通して、すぐ目の前の大空に、焦点のよく合わぬ顕微鏡の下の黒い虫みたいに、曖昧に、しかも馬鹿馬鹿しく拡大されて、見る物の頭上におしかぶさってくるのであった。
以 上
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「押絵と旅する男」本文紹介1・江戸川乱歩作 2005光文社文庫刊
2020.02.08 Saturday20:38
「押絵と旅する男」本文紹介1
江戸川乱歩作 2005光文社文庫刊
この話が私の夢か私の一時的狂気の幻でなかったならば、あの押絵と旅をしていた男こそ狂人であったに相違ない。
だが、夢が時として、どこかこの世界と喰い違った別の世界を、チラリと覗かせてくれる様に、又狂人が、我々の全く感じ得ぬ物事を見たり聞いたりすると同じに、これは私が、不可思議な大気のレンズ仕掛けを通して、一刹那、この世の視野の外にある、別の世界の一隅を、ふと隙見したのであったかもしれない。
いつもと知れぬ、ある薄曇った日のことである。その時、私は態々(わざわざ)魚津へ蜃気楼を見に出かけた帰り道であった。
私がこの話をすると、時々、お前は魚津なんかへ行ったことはないじゃないかと、親しい友人に突っ込まれることがある。
そう云われてみると、私は何時(いつ)の何日に魚津へ行ったのだと、ハッキリ証拠を示すことが出来ぬ。それではやっぱり夢であったのか。だが私は嘗(かっ)て、あのように濃厚な色彩を持った夢を見た事が無い。
夢の中の景色は、映画と同じに、全く色彩を伴わぬものであるのに、あの折の汽車の中の景色だけは、それもあの毒々しい押絵の画面が中心になって、紫と臙脂(えんじ)の勝った色彩で、まるで蛇の眼の瞳孔のように、生々しく私の記憶に焼き付いている。着色映画の夢というのがあるのであろうか。
引用資料
底本
【江戸川乱歩全集第五巻】
「押絵と旅する男」
2005(平成17)1/20 光文社文庫刊
初出
【新青年】 博文館 昭和4年刊
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