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2018年06月13日

6月13日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1878年6月13日は、ドイツ帝国の首都ベルリンで宰相ビスマルクが主催した大国際会議、ベルリン会議が開催された日です。7月13日まで1ヶ月間、7ヶ国の首脳が集まりました。
 東方問題で揺れる19世紀のヨーロッパでは、不凍港獲得を目指すロシア帝国の黒海、地中海方面への南下政策を一貫して行ってきており、1853年から3年続いたクリミア戦争もその1つでありました。しかしロシアの野望をことごとく英仏ら西欧列強にくじかれ、好機を待つしかほかならなかったのです。
 こうした中で、ロシアの南下政策において片を付ける必要があったのが、ヨーロッパ南東部および西アジアに版図を広げるオスマン帝国(現・トルコ)の存在でした。複合民族、複合宗教で内乱の絶えないオスマン帝国では、支配下に置かれたセルビアやモンテネグロといったスラブ系民族や、同じく支配下に置かれていたブルガリアも独立を求める反乱がとりわけ激しい状況でした。スラブ民族の親玉的存在であるロシア帝国は、この状態を絶好の機会ととらえて、1877年、オスマン帝国に対して宣戦布告しました(露土戦争)。ロシアは、前のクリミア戦争では英仏に支援を受けたオスマン帝国に敗れ、黒海の中立化やロシアのオスマン帝国海域での艦船航行禁止などの不利な条約を結ばされており、これらを帳消しにするための戦争でした。
 結果はロシアの勝利に終わり、1878年にサン・ステファノ条約が結ばれました。ロシア有利に動き、オスマン帝国から、ルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立を承認し、同じくスラブ系のボスニア・ヘルツェゴヴィナの自治権を認めるとしました。しかしイギリスやオーストリアがこの条約の発効に難色を示し、第三国の仲介によって公平な判断を示そうと、国際会議を開くことになったのです。この第三国こそ、7年前に誕生したばかりの新鋭ドイツ帝国で、鉄血宰相の異名を持つ誠実な仲介人、オットー・フォン・ビスマルクでありました。
 ビスマルクが主催したベルリン会議は、陽の当たった1878年6月13日に開催されました。参加国は開催国ドイツをはじめ、ロシア・イギリス・オスマン帝国・オーストリア・フランス・イタリアの計7ヵ国でした。
 参加国はサン=ステファノ条約をリセットして、新たにベルリン条約を結びました。ブルガリアはオスマン帝国の支配下にはあるものの自治を正式に認められ、ルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立も認められました。スラブ系住民の多いボスニア・ヘルツェゴヴィナは、ゲルマン系のオーストリアが管理することになりました。一方ロシアは、ドナウ川の航行権、賠償金の獲得などにとどまり、セルビア、モンテネグロらを利用したバルカン半島の制覇、そして南下政策の達成はまたも阻まれた結果となりました。
 ロシアはとうとうヨーロッパの南下政策をあきらめて、極東などのアジア方面に触手を伸ばす路線に転換することになりますが、幾度の失敗でロシア国内も不穏な情勢となって、1881年、時の皇帝アレクサンドル2世も暗殺されるなど、変動著しい時代に入っていくのでありました。
参考文献:『世界史の目』より

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