2019年03月30日
3月30日は何に陽(ひ)が当たったか?
1282年3月30日は、"シチリアの晩鐘"とよばれる暴動・虐殺事件がシチリア島で起こった日です。
12世紀後半、神聖ローマ帝国(962-1806)では第一次シュタウフェン朝(ホーエンシュタウフェン朝。1138-1208,1215-54)が南イタリアに勢力を上げ、シチリアを征服しました(ドイツのシチリア征服。1194)。このシュタウフェン朝シチリア王国では2代目王として、後に神聖ローマ皇帝となるフリードリヒ2世(帝位1215-1250)がフェデリーコ1世(シチリア王位1197-1250)の名で同島に君臨しました。
しかしイタリア政策をめぐって神聖ローマ帝国とローマ教皇間で紛争が勃発、イタリアでは都市単位、貴族単位にはゲルフ(グェルフ。教皇党)とギベリン(皇帝党)をそれぞれ結成して対立を深めました。そこで教皇は、フランス・カペー朝(987-1328)の聖王と呼ばれたルイ9世(位1226-70)の弟で、カペー系のアンジュー家の始祖であるアンジュー伯シャルル(シャルル・ダンジュー。伯位1246-1285)をシチリア王位の最有力継承者として推薦、ローマ教皇(ウルバヌス4世。位1261-64)に支持されたシャルルは、当時シチリア王だったフリードリヒ2世の庶子マンフレート(王位1258-66)を南イタリアのベネヴェントで破り(1266)、マンフレートを戦死させました。これにて、ホーエンシュタウフェン家のシチリア支配は終焉を迎え、アンジュー伯シャルルはカルロ1世(シチリア王位1266-1285)として王位に就きました(1266)。フランス支配下におけるシチリア王国の誕生です(アンジュー朝シチリア王国)。
同じ頃、ビザンツ帝国(395-1453。東ローマ帝国)のパラエオロゴス朝(パレオロゴス朝。1261-1453)という、ビザンツ帝国における最後の王朝がおこり、ビザンツ皇帝ミハイル8世(ミカエル8世。初代皇帝。位1261-82)は、以前のような強大国ではないものの、ビザンツ再興を果たしたことでその権威をあらわにし、帝国の版図を最盛期の状態に戻すことのみを考え、十字軍時代における首都コンスタンティノープル奪還時に援助のあったジェノヴァや、かつての敵ヴェネツィアとも協力体制を取るなど、数々の策略でもって版図を拡げ始めていきました。また十字軍結成に至る、教皇側における本来の目的であった東西教会の統合をローマ教皇に進言して(第2回リヨン公会議。1274)、教皇から支持を得ようとしました。
一方でアンジュー朝シチリア王国のカルロ1世は、ホーエンシュタウフェン家のシチリア支配を終わらせた後、そのミハイル8世が誇るビザンツ帝国の征服を考えていました。地中海における大帝国を築くことがカルロ1世の野心であったのです。
当然この動きはビザンツ帝国パラエロゴス朝にも伝わり、ミハイル8世はアンジュー家と敵対するイベリアのアラゴン王国(1035-1137。1137年からはバルセロナ伯のカタルニャと同君連合国家を組み、アラゴン連合王国となる。1137-1479)と協力体制を敷きました。
このとき、アンジュー伯シャルルことカルロ1世の支配するシチリアでは、圧政を続けるアンジュー家の支配を快く思わず、島のイタリア系住民は不満をあらわし、情勢はどちらかといえば悪化傾向にありました。これを知ったビザンツ皇帝ミハイル8世は、カルロ1世からの厳しい搾取に苦しむシチリア島民の反仏精神を扇動する行動に出て、フランス人排斥運動へと発展させていきました。
1282年3月30日は、復活祭の翌日にあたる月曜日でした。教会では大勢の島民が夕刻の祈り(晩禱。ばんとう)を捧げ、これを告げる入相の鐘、つまり晩鐘(ばんしょう)が鳴らされました。
この瞬間、惨事は起こりました。シチリア島の中心都市パレルモで、島民によるフランス兵虐殺が始まりました。晩禱に集まっていた島民に近寄ったフランス兵が、地元の女性に手を出したことで、その夫が怒り、その兵士を刺し殺したことが直接の原因でした。その場にいた他の島民もたちまち暴徒と化し、次々と兵士の一団に襲いかかり、全員虐殺してしまったのです。
晩鐘が鳴らされたと同時に起こったこの暴動は、瞬く間にシチリア全土に拡大し、フランス系住民と分かるやいなやすぐにその場で殺されていきました。この事件で亡くなったフランス系住民は約4000人といわれています。この事件を、"シチリアの晩鐘"や"シチリアの晩禱"と呼びます。このとき、暴動を起こしました島民が叫んだ合い言葉、「Morte alla Francia Italia anela(フランスに死を、これはイタリアの叫びだ)」の頭文字をとった言葉が、"mafia(シチリアの方言で「乱暴な態度」の意)"であり、"マフィア"という言葉の由来となったといわれています(創作など諸説有り。しかしマフィアの言葉そのものは、シチリアが発祥です)。
この事件を軽く見ていた、フランス・カルロ1世は対応に遅れ、気づいた時には全土に広がる排仏運動を目の当たりにするしかありませんでした。結局、シチリア全土を失うことになり、シチリア王位はマンフレートの娘婿であるアラゴン国王ペドロ3世(位1276-85。シチリア王ピエトロ1世。シチリア王位1282-85)にとって代わられ、アンジュー家のシチリア支配は終わりを告げました。同時に、ビザンツ帝国征服計画もミハイル8世によって阻止されたのです(ミハイル8世は晩鐘事件のあった同1282年末に病死しますが、パラエロゴス朝はローマ帝国史において最長寿王朝となっていきます)。
引用文献『世界史の目 第141話』より
12世紀後半、神聖ローマ帝国(962-1806)では第一次シュタウフェン朝(ホーエンシュタウフェン朝。1138-1208,1215-54)が南イタリアに勢力を上げ、シチリアを征服しました(ドイツのシチリア征服。1194)。このシュタウフェン朝シチリア王国では2代目王として、後に神聖ローマ皇帝となるフリードリヒ2世(帝位1215-1250)がフェデリーコ1世(シチリア王位1197-1250)の名で同島に君臨しました。
しかしイタリア政策をめぐって神聖ローマ帝国とローマ教皇間で紛争が勃発、イタリアでは都市単位、貴族単位にはゲルフ(グェルフ。教皇党)とギベリン(皇帝党)をそれぞれ結成して対立を深めました。そこで教皇は、フランス・カペー朝(987-1328)の聖王と呼ばれたルイ9世(位1226-70)の弟で、カペー系のアンジュー家の始祖であるアンジュー伯シャルル(シャルル・ダンジュー。伯位1246-1285)をシチリア王位の最有力継承者として推薦、ローマ教皇(ウルバヌス4世。位1261-64)に支持されたシャルルは、当時シチリア王だったフリードリヒ2世の庶子マンフレート(王位1258-66)を南イタリアのベネヴェントで破り(1266)、マンフレートを戦死させました。これにて、ホーエンシュタウフェン家のシチリア支配は終焉を迎え、アンジュー伯シャルルはカルロ1世(シチリア王位1266-1285)として王位に就きました(1266)。フランス支配下におけるシチリア王国の誕生です(アンジュー朝シチリア王国)。
同じ頃、ビザンツ帝国(395-1453。東ローマ帝国)のパラエオロゴス朝(パレオロゴス朝。1261-1453)という、ビザンツ帝国における最後の王朝がおこり、ビザンツ皇帝ミハイル8世(ミカエル8世。初代皇帝。位1261-82)は、以前のような強大国ではないものの、ビザンツ再興を果たしたことでその権威をあらわにし、帝国の版図を最盛期の状態に戻すことのみを考え、十字軍時代における首都コンスタンティノープル奪還時に援助のあったジェノヴァや、かつての敵ヴェネツィアとも協力体制を取るなど、数々の策略でもって版図を拡げ始めていきました。また十字軍結成に至る、教皇側における本来の目的であった東西教会の統合をローマ教皇に進言して(第2回リヨン公会議。1274)、教皇から支持を得ようとしました。
一方でアンジュー朝シチリア王国のカルロ1世は、ホーエンシュタウフェン家のシチリア支配を終わらせた後、そのミハイル8世が誇るビザンツ帝国の征服を考えていました。地中海における大帝国を築くことがカルロ1世の野心であったのです。
当然この動きはビザンツ帝国パラエロゴス朝にも伝わり、ミハイル8世はアンジュー家と敵対するイベリアのアラゴン王国(1035-1137。1137年からはバルセロナ伯のカタルニャと同君連合国家を組み、アラゴン連合王国となる。1137-1479)と協力体制を敷きました。
このとき、アンジュー伯シャルルことカルロ1世の支配するシチリアでは、圧政を続けるアンジュー家の支配を快く思わず、島のイタリア系住民は不満をあらわし、情勢はどちらかといえば悪化傾向にありました。これを知ったビザンツ皇帝ミハイル8世は、カルロ1世からの厳しい搾取に苦しむシチリア島民の反仏精神を扇動する行動に出て、フランス人排斥運動へと発展させていきました。
1282年3月30日は、復活祭の翌日にあたる月曜日でした。教会では大勢の島民が夕刻の祈り(晩禱。ばんとう)を捧げ、これを告げる入相の鐘、つまり晩鐘(ばんしょう)が鳴らされました。
この瞬間、惨事は起こりました。シチリア島の中心都市パレルモで、島民によるフランス兵虐殺が始まりました。晩禱に集まっていた島民に近寄ったフランス兵が、地元の女性に手を出したことで、その夫が怒り、その兵士を刺し殺したことが直接の原因でした。その場にいた他の島民もたちまち暴徒と化し、次々と兵士の一団に襲いかかり、全員虐殺してしまったのです。
晩鐘が鳴らされたと同時に起こったこの暴動は、瞬く間にシチリア全土に拡大し、フランス系住民と分かるやいなやすぐにその場で殺されていきました。この事件で亡くなったフランス系住民は約4000人といわれています。この事件を、"シチリアの晩鐘"や"シチリアの晩禱"と呼びます。このとき、暴動を起こしました島民が叫んだ合い言葉、「Morte alla Francia Italia anela(フランスに死を、これはイタリアの叫びだ)」の頭文字をとった言葉が、"mafia(シチリアの方言で「乱暴な態度」の意)"であり、"マフィア"という言葉の由来となったといわれています(創作など諸説有り。しかしマフィアの言葉そのものは、シチリアが発祥です)。
この事件を軽く見ていた、フランス・カルロ1世は対応に遅れ、気づいた時には全土に広がる排仏運動を目の当たりにするしかありませんでした。結局、シチリア全土を失うことになり、シチリア王位はマンフレートの娘婿であるアラゴン国王ペドロ3世(位1276-85。シチリア王ピエトロ1世。シチリア王位1282-85)にとって代わられ、アンジュー家のシチリア支配は終わりを告げました。同時に、ビザンツ帝国征服計画もミハイル8世によって阻止されたのです(ミハイル8世は晩鐘事件のあった同1282年末に病死しますが、パラエロゴス朝はローマ帝国史において最長寿王朝となっていきます)。
引用文献『世界史の目 第141話』より
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史