2019年01月23日
1月23日は何に陽(ひ)が当たったか?
1579年1月23日は、スペインの支配から独立するために結成された、ユトレヒト同盟の発足年月日です。現在のオランダの母体となりました。
現在のベルギー・オランダ・ルクセンブルク、いわゆるベネルクス3国を中心とする地域をネーデルラントと呼びます。ネーデルラントの主産業はフランドル地域(ベルギー西部・オランダ南西部)が中心の毛織物生産で、貿易ではアントワープ(アントウェルペン)市が15世紀から繁栄していました。16世紀には宗教改革で、カルヴァン派プロテスタントがオランダにも波及し、ゴイセン(ヘーゼン。"乞食"の意味)と呼ばれていました。
ネーデルラントは1556年、スペイン・ハプスブルク家の領土として支配されていました。時のスペイン国王はカルロス1世(位1516-56)でした。スペインは熱心なカトリック国で、次のスペイン国王フェリペ2世(位1556-98。カルロス1世の子)は、ゴイセンの多いネーデルラントに、カトリック信仰を強制し、カルヴァン派を反逆罪で処刑するなど、徹底した大弾圧を行いました。カルヴァン派は、土着農村における中小貴族に多く、彼らはスペインの暴政に対して同盟を作りました。スペイン軍は、これを"乞食党(後にゴイセンと呼ばれる)"とののしり、繰り返し弾圧を行っていきました。弾圧に逃れた者の中には、"海乞食(ゼー・ヘーゼン)"と呼ばれて海賊船隊をつくり、スペイン船軍を追放するなど活躍しました。
ゴイセンの反抗に対し、フェリペ2世は1567年、ネーデルラント総督アルバ公(1507-82)を派遣して恐怖政治をしき、反抗者は次々と処刑されました。ネーデルラントの独立運動を図ったフランドルの軍人・政治家のエグモント(1522-68)は、この頃に捕らえられ、処刑されています。このため、毛織物生産地フランドルや、アントワープ市があるブラバントにいた商工業者1万人が他地方に亡命していきました。ネーデルラントの人民はこの高圧的な行政を"スペイン人の狂暴"とさけびました。
この恐怖政治に立ち上がったのが、オラニエ公ウィレム("沈黙公"。1533-84)という人物です。オラニエ家とは、現在のオランダ王家の家系で、ドイツのナッサウ伯が南フランスのオラニエ公領を相続しました。ウィレムはオラニエ公領を相続(1544)したのち、カルロス1世に仕え(1548)、ホラント州(ゾイデル海西側)など3州の総督に任命されました(1555)が、次のフェリペ2世の治世下、ウィレムはスペイン・ハプスブルク家の反動政治に対抗してカトリックからプロテスタントに改宗し、ゴイセンを率いて、スペインからの独立運動を指導し、戦闘を開始しました。1568年、オランダ独立戦争の火蓋が切って落とされたのです。
イギリスの支援もあって、ウィレム軍は一時優勢でしたが、フランドルやブラバントなどのネーデルラント南部の10州(南部10州。現在のベルギー地方)は、スペイン軍による猛攻撃で、商工業の中心アントワープなどが陥落し、結果カトリックの小領主層がスペインに投降して脱落(1579)、スペイン寄りのアラス同盟が結成され、スペイン・ハプスブルク家領に留まりました。このため、ホラントなどのネーデルラント北部の7州(北部7州。現在のオランダ地方)は、アラス同盟に対抗、陽の当たった1579年1月23日、ユトレヒト同盟を結成、1581年、遂にネーデルラント連邦共和国として独立宣言を行い、ウィレムはオランダ総督(統領。任1581-84)となりました。統領はオラニエ家が世襲する最高官職で、ウィレムが初代統領となったのです。特に北部7州の中でもホラント州が優位を占め、同共和国はその州名から"オランダ"と呼ばれるようになりました。
オランダ総督ウィレム1世として、戦時中でも南部10州を説得するなど努力を尽くしましたが、1584年、フェリペ2世が、ウィレム1世を暗殺した者に褒賞金を給付することを北部7州に流したことで、ウィレム1世は北海沿岸のデルフトで、旧教徒により暗殺されました。
スペインはその後も、オランダ独立軍(ウィレムの子フィリップスが後継)とオランダを支援したイギリスと戦いました。このときスペインは、大規模な海上戦力"無敵艦隊(アルマダ)"を130隻と約3万人の船兵で構成、1588年7月、リスボン(現ポルトガル首都)からアルマダを出動させました(アルマダ海戦)。しかし、当時のドーヴァー海峡の悪天候もあって、イギリス海軍が優勢となり、アルマダは壊滅、スペインは大敗北を喫し、これ以降、どの領土にいても"太陽の沈まぬ国"として君臨したハプスブルク家のスペイン帝国の植民地規模は縮小の一途を辿っていきました。
オランダでは、アントワープに代わる巨大都市アムステルダムが政治経済の中心部として大いに栄えました。1602年にはオランダ東インド会社が設立され、香辛料貿易によって東南アジア経営にのりだし、経済発展につとめました。1609年にはアムステルダム銀行も設立されました。
1609年、独立戦争は休戦となり、スペインとの和平が成立し、事実上の独立が達成されました。その後、ドイツで行われた1648年のウェストファリア条約で、カルヴァン派の公認に加えて、オランダと、同時にハプスブルク家により支配されてきたスイスが、独立を国際的に承認され(オランダ・スイス独立承認)、ハプスブルク家の威信は、一時失墜しました。
『世界史の目 第27話』
現在のベルギー・オランダ・ルクセンブルク、いわゆるベネルクス3国を中心とする地域をネーデルラントと呼びます。ネーデルラントの主産業はフランドル地域(ベルギー西部・オランダ南西部)が中心の毛織物生産で、貿易ではアントワープ(アントウェルペン)市が15世紀から繁栄していました。16世紀には宗教改革で、カルヴァン派プロテスタントがオランダにも波及し、ゴイセン(ヘーゼン。"乞食"の意味)と呼ばれていました。
ネーデルラントは1556年、スペイン・ハプスブルク家の領土として支配されていました。時のスペイン国王はカルロス1世(位1516-56)でした。スペインは熱心なカトリック国で、次のスペイン国王フェリペ2世(位1556-98。カルロス1世の子)は、ゴイセンの多いネーデルラントに、カトリック信仰を強制し、カルヴァン派を反逆罪で処刑するなど、徹底した大弾圧を行いました。カルヴァン派は、土着農村における中小貴族に多く、彼らはスペインの暴政に対して同盟を作りました。スペイン軍は、これを"乞食党(後にゴイセンと呼ばれる)"とののしり、繰り返し弾圧を行っていきました。弾圧に逃れた者の中には、"海乞食(ゼー・ヘーゼン)"と呼ばれて海賊船隊をつくり、スペイン船軍を追放するなど活躍しました。
ゴイセンの反抗に対し、フェリペ2世は1567年、ネーデルラント総督アルバ公(1507-82)を派遣して恐怖政治をしき、反抗者は次々と処刑されました。ネーデルラントの独立運動を図ったフランドルの軍人・政治家のエグモント(1522-68)は、この頃に捕らえられ、処刑されています。このため、毛織物生産地フランドルや、アントワープ市があるブラバントにいた商工業者1万人が他地方に亡命していきました。ネーデルラントの人民はこの高圧的な行政を"スペイン人の狂暴"とさけびました。
この恐怖政治に立ち上がったのが、オラニエ公ウィレム("沈黙公"。1533-84)という人物です。オラニエ家とは、現在のオランダ王家の家系で、ドイツのナッサウ伯が南フランスのオラニエ公領を相続しました。ウィレムはオラニエ公領を相続(1544)したのち、カルロス1世に仕え(1548)、ホラント州(ゾイデル海西側)など3州の総督に任命されました(1555)が、次のフェリペ2世の治世下、ウィレムはスペイン・ハプスブルク家の反動政治に対抗してカトリックからプロテスタントに改宗し、ゴイセンを率いて、スペインからの独立運動を指導し、戦闘を開始しました。1568年、オランダ独立戦争の火蓋が切って落とされたのです。
イギリスの支援もあって、ウィレム軍は一時優勢でしたが、フランドルやブラバントなどのネーデルラント南部の10州(南部10州。現在のベルギー地方)は、スペイン軍による猛攻撃で、商工業の中心アントワープなどが陥落し、結果カトリックの小領主層がスペインに投降して脱落(1579)、スペイン寄りのアラス同盟が結成され、スペイン・ハプスブルク家領に留まりました。このため、ホラントなどのネーデルラント北部の7州(北部7州。現在のオランダ地方)は、アラス同盟に対抗、陽の当たった1579年1月23日、ユトレヒト同盟を結成、1581年、遂にネーデルラント連邦共和国として独立宣言を行い、ウィレムはオランダ総督(統領。任1581-84)となりました。統領はオラニエ家が世襲する最高官職で、ウィレムが初代統領となったのです。特に北部7州の中でもホラント州が優位を占め、同共和国はその州名から"オランダ"と呼ばれるようになりました。
オランダ総督ウィレム1世として、戦時中でも南部10州を説得するなど努力を尽くしましたが、1584年、フェリペ2世が、ウィレム1世を暗殺した者に褒賞金を給付することを北部7州に流したことで、ウィレム1世は北海沿岸のデルフトで、旧教徒により暗殺されました。
スペインはその後も、オランダ独立軍(ウィレムの子フィリップスが後継)とオランダを支援したイギリスと戦いました。このときスペインは、大規模な海上戦力"無敵艦隊(アルマダ)"を130隻と約3万人の船兵で構成、1588年7月、リスボン(現ポルトガル首都)からアルマダを出動させました(アルマダ海戦)。しかし、当時のドーヴァー海峡の悪天候もあって、イギリス海軍が優勢となり、アルマダは壊滅、スペインは大敗北を喫し、これ以降、どの領土にいても"太陽の沈まぬ国"として君臨したハプスブルク家のスペイン帝国の植民地規模は縮小の一途を辿っていきました。
オランダでは、アントワープに代わる巨大都市アムステルダムが政治経済の中心部として大いに栄えました。1602年にはオランダ東インド会社が設立され、香辛料貿易によって東南アジア経営にのりだし、経済発展につとめました。1609年にはアムステルダム銀行も設立されました。
1609年、独立戦争は休戦となり、スペインとの和平が成立し、事実上の独立が達成されました。その後、ドイツで行われた1648年のウェストファリア条約で、カルヴァン派の公認に加えて、オランダと、同時にハプスブルク家により支配されてきたスイスが、独立を国際的に承認され(オランダ・スイス独立承認)、ハプスブルク家の威信は、一時失墜しました。
『世界史の目 第27話』
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史