2018年09月29日
9月29日は何に陽(ひ)が当たったか?
1938年9月29日は、ミュンヘン会談が行われた日です。イギリス、フランス、ドイツ、イタリアの首脳が集まった国際会議で、翌30日まで行われました。
当時ドイツはアドルフ・ヒトラー(1889〜1945)の率いるナチスの支配でした。ドイツは1933年の国際連盟脱退以降、周辺の地域を占領して国力を拡大させていき、1936年にベニート・ムッソリーニ(1925-43)率いるイタリアとベルリン・ローマ枢軸を形成して強勢化につとめました。一方この勢力に対して、イギリスとフランスは戦火の拡大を恐れ不干渉政策を通していました。ドイツは英仏不干渉を先読みして1938年3月にはドイツ人居住区の拡大を目的にオーストリアを併合しました。
オーストリア併合後、ナチス・ドイツはドイツ人が多く居住する、ドイツ側国境地帯ズデーテン地方の割譲を、これらを領有するチェコスロヴァキアに要求しました。すでにチェコスロヴァキアはフランスやソ連と相互援助条約を結んでおり、要求をかたくなに拒否しました。ヒトラーは英仏の不干渉を期待して戦争で脅しをかけ始めました。これにおいてもイギリス・フランスは戦火拡大を避けるために不干渉に乗り出そうとしますが、チェコスロヴァキア大統領エドヴァルド・ベネシュ(任1935-38,46-48)は英仏不干渉に反対しました。このため、イギリス・フランスは観念してイタリアのムッソリーニの仲介によって、1938年9月29日、ソ連とチェコスロヴァキアを除いて、イギリス首相ネヴィル・チェンバレン(任1937-40)、フランス首相エドゥアール・ダラディエ(任1933,34,38-40)、ドイツのヒトラーそしてイタリアのムッソリーニの4者4国の間でミュンヘン会談が開催されることになりました。
この会談でドイツはズデーテン地方を最後に、これ以上の領土は要求しない約束を取り決め、これを交換条件として、ズデーテン地方獲得を認めました(ミュンヘン協定)。チェコスロヴァキアは英仏のここまで来た対ドイツの宥和政策(アピーズメント・ポリシー)に呆れ果てて、チェコスロヴァキア大統領のベネシュは大統領を辞任、国外亡命することになりました。会談に呼ばれなかったソ連もイギリスとフランスに不信感を募らせる結果となってしまいました。
この宥和政策は、平和主義イギリスにとっては、ミュンヘン協定によって世界大戦を防げたと大喜びしたわけで、これまで行ってきた不干渉政策は間違いなかったと主張しました。しかし、宥和政策は思わぬ結果をもたらしました。1939年3月ドイツはすぐさまミュンヘン協定を無視してチェコスロヴァキアを解体し、チェコ内のスラヴ系民族が居住するベーメン(ボヘミア)・メーレン(モラヴィア)両地方を併合、またスロヴァキア地方を独立させた後すぐにドイツ軍が制圧してこれをドイツの保護国にしたのです。これによってチェコスロヴァキア共和国は崩壊しました。これによって、併合の今後の矛先は、ドイツと完全な隣国となったポーランドに向けられることは明らかでした。
ミュンヘン会談後のドイツの行動に対して、イギリス・フランスは遂に宥和政策の道を捨てることに決心し、ポーランドの安全保障に気持ちを集中します。1939年4月イギリスはポーランドと安全保障を約束しました。ドイツは当然ポーランド進出を計画し、ポーランドに対してまず、ヴェルサイユ条約(1919)によって国際連盟が管理する自由都市となったポーランド唯一の海港ダンチヒ市の割譲、そして、同じくヴェルサイユ条約によってポーランド領となったドイツ人の多いポーランド回廊の割譲を要求しました。要求を断れば軍事行動に出るとヒトラーに脅されたポーランドは当然イギリス・フランスの援助に期待しました。しかしこの時のイギリスとフランスは、チェコスロヴァキア解体と同様、早急の妥結は見出されないままでいました。それよりもイギリスとフランスは、ドイツがポーランドを割譲した後は、ポーランドの東隣国ソ連と、防共・反共の立場から戦争するだろうと固く信じていたのです。一方のヒトラーも、ポーランド要求に際して、ミュンヘン会談に続く首脳会談を期待したと言われています。
このような情勢の中で、ヨシフ・スターリン(1879-1953)の率いるソ連では、ドイツのポーランド要求に対するイギリス・フランスの消極的な態勢をみて、イギリス・フランスがドイツの反ソ反共に協力するのではないかと錯覚するようになりました。また、ドイツのヒトラーも、ポーランド要求に対する不利を避けるには、共産圏ながらもポーランドの東隣国ソ連に接近した方が得だと考えました。ただ、ポーランド割譲した後は、遅かれ早かれソ連と戦争になるだろう、一方でイギリスやフランスはいつものように戦争を避けるため、不干渉で貫くだろうとヒトラーは読んで、ここはひとまずソ連と握手しようと、1939年8月23日、ドイツとソ連間に独ソ不可侵条約を締結するという想定外の行動に出たのです。ファシズムと共産勢力が手を結んだことに、独ソ戦を期待したイギリスとフランスは驚き、一方で防共協定を結び、ソ連と戦う姿勢だったイタリア・日本・スペイン、そして西ヨーロッパ各国の共産主義者や共産党組織も愕然とし、動揺を隠せませんでした。
1939年9月1日、ドイツはソ連との間に挟まれたポーランド侵攻を決行しましたが、9月3日、ヒトラーが参戦しないと踏んだイギリス・フランスがドイツに対して宣戦し、列強を巻き込む第二次世界大戦が勃発してしまいました。形骸と化したミュンヘン会談の結末は、歴史上稀に見る大戦争を迎えることになるのでした。
当時ドイツはアドルフ・ヒトラー(1889〜1945)の率いるナチスの支配でした。ドイツは1933年の国際連盟脱退以降、周辺の地域を占領して国力を拡大させていき、1936年にベニート・ムッソリーニ(1925-43)率いるイタリアとベルリン・ローマ枢軸を形成して強勢化につとめました。一方この勢力に対して、イギリスとフランスは戦火の拡大を恐れ不干渉政策を通していました。ドイツは英仏不干渉を先読みして1938年3月にはドイツ人居住区の拡大を目的にオーストリアを併合しました。
オーストリア併合後、ナチス・ドイツはドイツ人が多く居住する、ドイツ側国境地帯ズデーテン地方の割譲を、これらを領有するチェコスロヴァキアに要求しました。すでにチェコスロヴァキアはフランスやソ連と相互援助条約を結んでおり、要求をかたくなに拒否しました。ヒトラーは英仏の不干渉を期待して戦争で脅しをかけ始めました。これにおいてもイギリス・フランスは戦火拡大を避けるために不干渉に乗り出そうとしますが、チェコスロヴァキア大統領エドヴァルド・ベネシュ(任1935-38,46-48)は英仏不干渉に反対しました。このため、イギリス・フランスは観念してイタリアのムッソリーニの仲介によって、1938年9月29日、ソ連とチェコスロヴァキアを除いて、イギリス首相ネヴィル・チェンバレン(任1937-40)、フランス首相エドゥアール・ダラディエ(任1933,34,38-40)、ドイツのヒトラーそしてイタリアのムッソリーニの4者4国の間でミュンヘン会談が開催されることになりました。
この会談でドイツはズデーテン地方を最後に、これ以上の領土は要求しない約束を取り決め、これを交換条件として、ズデーテン地方獲得を認めました(ミュンヘン協定)。チェコスロヴァキアは英仏のここまで来た対ドイツの宥和政策(アピーズメント・ポリシー)に呆れ果てて、チェコスロヴァキア大統領のベネシュは大統領を辞任、国外亡命することになりました。会談に呼ばれなかったソ連もイギリスとフランスに不信感を募らせる結果となってしまいました。
この宥和政策は、平和主義イギリスにとっては、ミュンヘン協定によって世界大戦を防げたと大喜びしたわけで、これまで行ってきた不干渉政策は間違いなかったと主張しました。しかし、宥和政策は思わぬ結果をもたらしました。1939年3月ドイツはすぐさまミュンヘン協定を無視してチェコスロヴァキアを解体し、チェコ内のスラヴ系民族が居住するベーメン(ボヘミア)・メーレン(モラヴィア)両地方を併合、またスロヴァキア地方を独立させた後すぐにドイツ軍が制圧してこれをドイツの保護国にしたのです。これによってチェコスロヴァキア共和国は崩壊しました。これによって、併合の今後の矛先は、ドイツと完全な隣国となったポーランドに向けられることは明らかでした。
ミュンヘン会談後のドイツの行動に対して、イギリス・フランスは遂に宥和政策の道を捨てることに決心し、ポーランドの安全保障に気持ちを集中します。1939年4月イギリスはポーランドと安全保障を約束しました。ドイツは当然ポーランド進出を計画し、ポーランドに対してまず、ヴェルサイユ条約(1919)によって国際連盟が管理する自由都市となったポーランド唯一の海港ダンチヒ市の割譲、そして、同じくヴェルサイユ条約によってポーランド領となったドイツ人の多いポーランド回廊の割譲を要求しました。要求を断れば軍事行動に出るとヒトラーに脅されたポーランドは当然イギリス・フランスの援助に期待しました。しかしこの時のイギリスとフランスは、チェコスロヴァキア解体と同様、早急の妥結は見出されないままでいました。それよりもイギリスとフランスは、ドイツがポーランドを割譲した後は、ポーランドの東隣国ソ連と、防共・反共の立場から戦争するだろうと固く信じていたのです。一方のヒトラーも、ポーランド要求に際して、ミュンヘン会談に続く首脳会談を期待したと言われています。
このような情勢の中で、ヨシフ・スターリン(1879-1953)の率いるソ連では、ドイツのポーランド要求に対するイギリス・フランスの消極的な態勢をみて、イギリス・フランスがドイツの反ソ反共に協力するのではないかと錯覚するようになりました。また、ドイツのヒトラーも、ポーランド要求に対する不利を避けるには、共産圏ながらもポーランドの東隣国ソ連に接近した方が得だと考えました。ただ、ポーランド割譲した後は、遅かれ早かれソ連と戦争になるだろう、一方でイギリスやフランスはいつものように戦争を避けるため、不干渉で貫くだろうとヒトラーは読んで、ここはひとまずソ連と握手しようと、1939年8月23日、ドイツとソ連間に独ソ不可侵条約を締結するという想定外の行動に出たのです。ファシズムと共産勢力が手を結んだことに、独ソ戦を期待したイギリスとフランスは驚き、一方で防共協定を結び、ソ連と戦う姿勢だったイタリア・日本・スペイン、そして西ヨーロッパ各国の共産主義者や共産党組織も愕然とし、動揺を隠せませんでした。
1939年9月1日、ドイツはソ連との間に挟まれたポーランド侵攻を決行しましたが、9月3日、ヒトラーが参戦しないと踏んだイギリス・フランスがドイツに対して宣戦し、列強を巻き込む第二次世界大戦が勃発してしまいました。形骸と化したミュンヘン会談の結末は、歴史上稀に見る大戦争を迎えることになるのでした。
ミュンヘン会談への道:ヒトラー対チェンバレン 外交対決30日の記録 (MINERVA西洋史ライブラリー) 新品価格 |
中古価格
¥9,899から
(2018/8/25 20:30時点)
ヒトラーとミュンヘン協定 (1979年) (教育社歴史新書―西洋史〈A4〉)
中古価格
¥849から
(2018/8/25 20:31時点)
【このカテゴリーの最新記事】
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
posted by ottovonmax at 00:00| 歴史