2018年07月24日
7月24日は何に陽(ひ)が当たったか?
延長8年6月26日(ユリウス暦930年7月24日)、平安京内裏(だいり)の清涼殿(マップはこちら。wikipediaより)に雷が落ち、多数の死傷者を出した日です。
第60代、醍醐天皇(在位897-930)の治世がスタートすると、律令体制下の政治は左大臣藤原時平(ときひら。871-909)と右大臣菅原道真(845-903)に委ねられました。
藤原時平は、日本史上初の関白となった藤原基経(もとつね。836-891。藤原北家出身)の子です。父基経は相当の権力者で、先代の宇多天皇(在位887-897)の時、いわゆる"阿衡(あこう)の紛議"事件(887年。天皇勅書内容で基経が侮辱を受けた事件。天皇の無念の譲歩で詔勅却下)で、天皇と摂関家の権力の差が浮き彫りになりました。この事件は、宇多天皇の信任を受けた重臣、菅原道真によって収束しました。時平も若くして高位官職を任されましたが、関白の地位は戴けませんでした。
醍醐天皇の代で、藤原時平は20代後半で左大臣にまで昇りつめましたが、醍醐天皇は父である先代の宇多天皇(宇多法皇)より、父が全幅の信頼を寄せていた菅原道真を引き続き登用しました。
藤原時平は努力家でしたが若気の至りで失敗もあり、その都度ベテランの道真に指摘される始末で、両者の関係は悪化する一方でした。しかし醍醐天皇は、時平の努力を買い、彼を見捨てませんでした。一方の菅原道真は宇多法皇からの後ろ盾があり、娘が醍醐天皇の弟である斉世親王(ときよ。886-927)と結婚しており、外戚として皇族においても一目置かれる存在でした。
こうした中で、"菅原道真が、娘婿の斉世親王への譲位を謀っている"との噂が出始めました。醍醐天皇は、かつて父が"阿衡の紛議"で、権力を奪い合う貴族の政争に巻き込まれ、天皇としての体面を潰された苦い経験が、まさに自身にも降りかかるかのような畏怖に襲われました。醍醐天皇は、昌泰4年(しょうたい。901年)にこの一件に決着を付けるべく、「大宰権帥(だざいのごんのそち)へ異動」の宣命書を菅原道真におくりつけました。これは九州にある太宰府(だざいふ)への左遷を意味しました。当時としては、大宰権帥への異動は、高位有力者の左遷コースだったのです。この一件は"昌泰の変"と呼ばれ、生活が一変した道真は太宰府で無念のまま、2年後の903年に没し、高位を叙されていた子どもたちも土佐や播磨に左遷されてしまいました。
その後、醍醐天皇は政務を円滑にはかることを心がけました。結果的には摂関政治が抑えられ、理想的な天皇親政による安定した治世がおくられ、"延喜の治"という治世を残しました。時平も律令の格式の整理につとめ、律令の補完修正の法令集(格)や律令の施行細則(式)を編纂、「延喜格式」として世に残しました。
"延喜の治"を成功させ、優れた功績を残した時平は909年、39歳で没しました。その後、宮廷では悲劇に苛まれます。時平の妹である藤原穏子(ふじわらのおんし。885-954)は醍醐天皇の後宮(女御。にょうご)で、その間に産まれた保明親王(やすあきら。903-923)が次期天皇として立太子されるも、923年父醍醐天皇に先立ち、21歳で薨去しました。そこで、保明親王の子である慶頼王(921-925)を立太子しましたが、彼も5歳で夭逝する事態に遭いました。保明薨去の2年後のことでした。醍醐天皇は一連の不幸を、道真左遷による怨念によるものとして、左遷を取り消し、慰霊に努めました。
そして930年、陽が当たる、いや当たらない出来事が起こりました。延長8年6月26日(ユリウス暦930年7月24日)、この時期は日照り続きで、京都は水不足で悩んでいました。醍醐天皇は水対策について、高官を集めて内裏の清涼殿にて会議を開きました。すると、次第に京都の上空に、当たっていた太陽の光を遮るほどの黒雲が立ちこめ、大雨が降り注ぎました。大雨は雷を伴って激しく降りましたが、最初は水の確保に天皇をはじめ、重臣は大喜びでした。しかしそれも束の間でした。雨が発生して小一時間後、雷が清涼殿の柱に落下したのです。この落雷で"昌泰の変"に関わった高官をはじめ、数名の官人や警備兵が死傷する災難となりました。醍醐天皇は直後に別室に非難して無事ではありましたが、惨劇を目の当たりにしたショックにより病に伏せはじめ、 延長8年9月22日(ユリウス暦930年10月16日)、ついに保明親王の弟に譲位することになりました(朱雀天皇。在位930-946)。醍醐天皇は譲位して一週間後に出家し醍醐法皇となりましたが、その日に崩御しました。
この清涼殿落雷事故は、菅原道真の怨霊が引き起こしたとして、京を震え上がらせました。その後、雷神を呼び寄せて朝廷に災いをもたらしたとする絵巻物『北野天神縁起絵巻。画像はこちら。wikipediaより』が描かれ、後世に残る奇怪な伝説として知られるようになりました。
第60代、醍醐天皇(在位897-930)の治世がスタートすると、律令体制下の政治は左大臣藤原時平(ときひら。871-909)と右大臣菅原道真(845-903)に委ねられました。
藤原時平は、日本史上初の関白となった藤原基経(もとつね。836-891。藤原北家出身)の子です。父基経は相当の権力者で、先代の宇多天皇(在位887-897)の時、いわゆる"阿衡(あこう)の紛議"事件(887年。天皇勅書内容で基経が侮辱を受けた事件。天皇の無念の譲歩で詔勅却下)で、天皇と摂関家の権力の差が浮き彫りになりました。この事件は、宇多天皇の信任を受けた重臣、菅原道真によって収束しました。時平も若くして高位官職を任されましたが、関白の地位は戴けませんでした。
醍醐天皇の代で、藤原時平は20代後半で左大臣にまで昇りつめましたが、醍醐天皇は父である先代の宇多天皇(宇多法皇)より、父が全幅の信頼を寄せていた菅原道真を引き続き登用しました。
藤原時平は努力家でしたが若気の至りで失敗もあり、その都度ベテランの道真に指摘される始末で、両者の関係は悪化する一方でした。しかし醍醐天皇は、時平の努力を買い、彼を見捨てませんでした。一方の菅原道真は宇多法皇からの後ろ盾があり、娘が醍醐天皇の弟である斉世親王(ときよ。886-927)と結婚しており、外戚として皇族においても一目置かれる存在でした。
こうした中で、"菅原道真が、娘婿の斉世親王への譲位を謀っている"との噂が出始めました。醍醐天皇は、かつて父が"阿衡の紛議"で、権力を奪い合う貴族の政争に巻き込まれ、天皇としての体面を潰された苦い経験が、まさに自身にも降りかかるかのような畏怖に襲われました。醍醐天皇は、昌泰4年(しょうたい。901年)にこの一件に決着を付けるべく、「大宰権帥(だざいのごんのそち)へ異動」の宣命書を菅原道真におくりつけました。これは九州にある太宰府(だざいふ)への左遷を意味しました。当時としては、大宰権帥への異動は、高位有力者の左遷コースだったのです。この一件は"昌泰の変"と呼ばれ、生活が一変した道真は太宰府で無念のまま、2年後の903年に没し、高位を叙されていた子どもたちも土佐や播磨に左遷されてしまいました。
その後、醍醐天皇は政務を円滑にはかることを心がけました。結果的には摂関政治が抑えられ、理想的な天皇親政による安定した治世がおくられ、"延喜の治"という治世を残しました。時平も律令の格式の整理につとめ、律令の補完修正の法令集(格)や律令の施行細則(式)を編纂、「延喜格式」として世に残しました。
"延喜の治"を成功させ、優れた功績を残した時平は909年、39歳で没しました。その後、宮廷では悲劇に苛まれます。時平の妹である藤原穏子(ふじわらのおんし。885-954)は醍醐天皇の後宮(女御。にょうご)で、その間に産まれた保明親王(やすあきら。903-923)が次期天皇として立太子されるも、923年父醍醐天皇に先立ち、21歳で薨去しました。そこで、保明親王の子である慶頼王(921-925)を立太子しましたが、彼も5歳で夭逝する事態に遭いました。保明薨去の2年後のことでした。醍醐天皇は一連の不幸を、道真左遷による怨念によるものとして、左遷を取り消し、慰霊に努めました。
そして930年、陽が当たる、いや当たらない出来事が起こりました。延長8年6月26日(ユリウス暦930年7月24日)、この時期は日照り続きで、京都は水不足で悩んでいました。醍醐天皇は水対策について、高官を集めて内裏の清涼殿にて会議を開きました。すると、次第に京都の上空に、当たっていた太陽の光を遮るほどの黒雲が立ちこめ、大雨が降り注ぎました。大雨は雷を伴って激しく降りましたが、最初は水の確保に天皇をはじめ、重臣は大喜びでした。しかしそれも束の間でした。雨が発生して小一時間後、雷が清涼殿の柱に落下したのです。この落雷で"昌泰の変"に関わった高官をはじめ、数名の官人や警備兵が死傷する災難となりました。醍醐天皇は直後に別室に非難して無事ではありましたが、惨劇を目の当たりにしたショックにより病に伏せはじめ、 延長8年9月22日(ユリウス暦930年10月16日)、ついに保明親王の弟に譲位することになりました(朱雀天皇。在位930-946)。醍醐天皇は譲位して一週間後に出家し醍醐法皇となりましたが、その日に崩御しました。
この清涼殿落雷事故は、菅原道真の怨霊が引き起こしたとして、京を震え上がらせました。その後、雷神を呼び寄せて朝廷に災いをもたらしたとする絵巻物『北野天神縁起絵巻。画像はこちら。wikipediaより』が描かれ、後世に残る奇怪な伝説として知られるようになりました。
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史