2018年06月01日
6月1日は何に陽(ひ)が当たったか?
1903年6月1日は、東京千代田区にて日比谷公園が開園した日です。
16万平方メートル以上の広大な敷地をもつこの公演は、日比谷図書文化館や日比谷公会堂、レストラン松本楼、市政会館などの施設があることでも知られております。林学者で"公園の父"と呼ばれた本多静六(ほんだ せいろく。1866-1952)を中心としたプロジェクト・チームを結成し、西洋風を意識した、かつ日本人に親しまれる公園を設計することになりました。4月に起工、2ヶ月で仮開園を迎えました。
開演した当初、同公園は国家的イベントに多目的に活用されました。また一方で、国民が娯楽やスポーツにて集い、活用する公園として親しまれました。1905年8月には、我が国初の野外音楽堂である、日比谷野外音楽堂(小音楽堂。"野音"で知られる大音楽堂は1923年完成)が建設されました。
順調に公園の整備が進む中で、同1905年9月5日、開園して初めての大きな騒動が起こりました。
この頃の日本は、帝国主義政策を推進する欧米列強とも対等に関わっていた時期でもありました。日清戦争の勝利(1984-95。1895年下関条約)で中国・清王朝から多額の賠償金を獲得し、台湾・澎湖諸島、遼東半島の日本への割譲などが決まりました。しかしロシアが主導する三国干渉(ドイツ、フランス、ロシア)で、遼東半島を返還せざるを得ませんでした。その後列強の中国分割(租借)、北清事変(1900-01)、日英同盟結成(1902)など、時代を揺るがす大きな外交が行われました。その中で、日本はロシアと朝鮮半島や満州地方の利権問題で対立が表面化していました。日露対立が決定的になったのは、北清事変の際にロシア軍が満州を占領するといった暴挙に出たことで、日本ではイギリスからのバックアップでロシアと戦争になる気運が高まっていきました。
その後日露戦争(1904-05)が勃発、日本国民はロシア主導の三国干渉に対し復讐を誓い、"臥薪嘗胆"の精神で苦役と重税に耐えてロシアに打ち勝つことを念じてきました。戦況は日本有利、結果、日本が大国ロシアに対して勝利を収めました。翌年、アメリカを仲介国とするポーツマス条約が日露間で開かれましたが、結果的には満州と朝鮮はロシアが撤退したものの、賠償金がロシアから得られなかったことで、下関条約ほどの大きな効果を得られませんでした。この結果に日本の世論は国家政府に対して不満を投げつけることになりました。
日比谷公園では、三国干渉から10年、"臥薪嘗胆"でロシア対策に協力してきたことを主張した決起集会が時折開かれていました。そして条約が締結した1905年9月5日、再度開催されるこの集会を抑えようとした警官の日比谷公園の包囲に対して、集会に参加しようと公園に来た群衆が暴徒と化し、公園内に侵入して警官たちを襲撃する事件が起こりました。やがて事態はエスカレートし、警察署、内務大臣官邸、政府系の新聞社も襲撃され、市内各地で火災があがり、首都機能がストップする一歩手前まで来たため、政府は戒厳令を翌6日に発し、11月末まで発令は続きました。この日比谷焼き打ち事件は、結果的に500名以上の死傷者(うち死者17名)、2000名以上の検挙者を出す大事件に発展しました。ポーツマス条約調印の責任を受けて、第一次桂太郎内閣(1901-06)は国民の支持を失い、翌年1月に総辞職することになりました。こうして、明治から大正にかけ、開園当初の日比谷公園は、民衆の大規模な国民集会の決起場所としても利用され、時には社会運動や暴動の拠点として知られるようになりました。
平和を現出している現在の日比谷公園では、彩られた花壇と大噴水による、いこいの広場として、ガーデニングイベントや大胆なイルミネーション・イベント、海外交流イベント、フード・フェスティバル、テレビドラマのロケーション、その他音楽イベント等、平和な時代を象徴する催し物が多く行われています。
主要引用:Wikipediaより
16万平方メートル以上の広大な敷地をもつこの公演は、日比谷図書文化館や日比谷公会堂、レストラン松本楼、市政会館などの施設があることでも知られております。林学者で"公園の父"と呼ばれた本多静六(ほんだ せいろく。1866-1952)を中心としたプロジェクト・チームを結成し、西洋風を意識した、かつ日本人に親しまれる公園を設計することになりました。4月に起工、2ヶ月で仮開園を迎えました。
開演した当初、同公園は国家的イベントに多目的に活用されました。また一方で、国民が娯楽やスポーツにて集い、活用する公園として親しまれました。1905年8月には、我が国初の野外音楽堂である、日比谷野外音楽堂(小音楽堂。"野音"で知られる大音楽堂は1923年完成)が建設されました。
順調に公園の整備が進む中で、同1905年9月5日、開園して初めての大きな騒動が起こりました。
この頃の日本は、帝国主義政策を推進する欧米列強とも対等に関わっていた時期でもありました。日清戦争の勝利(1984-95。1895年下関条約)で中国・清王朝から多額の賠償金を獲得し、台湾・澎湖諸島、遼東半島の日本への割譲などが決まりました。しかしロシアが主導する三国干渉(ドイツ、フランス、ロシア)で、遼東半島を返還せざるを得ませんでした。その後列強の中国分割(租借)、北清事変(1900-01)、日英同盟結成(1902)など、時代を揺るがす大きな外交が行われました。その中で、日本はロシアと朝鮮半島や満州地方の利権問題で対立が表面化していました。日露対立が決定的になったのは、北清事変の際にロシア軍が満州を占領するといった暴挙に出たことで、日本ではイギリスからのバックアップでロシアと戦争になる気運が高まっていきました。
その後日露戦争(1904-05)が勃発、日本国民はロシア主導の三国干渉に対し復讐を誓い、"臥薪嘗胆"の精神で苦役と重税に耐えてロシアに打ち勝つことを念じてきました。戦況は日本有利、結果、日本が大国ロシアに対して勝利を収めました。翌年、アメリカを仲介国とするポーツマス条約が日露間で開かれましたが、結果的には満州と朝鮮はロシアが撤退したものの、賠償金がロシアから得られなかったことで、下関条約ほどの大きな効果を得られませんでした。この結果に日本の世論は国家政府に対して不満を投げつけることになりました。
日比谷公園では、三国干渉から10年、"臥薪嘗胆"でロシア対策に協力してきたことを主張した決起集会が時折開かれていました。そして条約が締結した1905年9月5日、再度開催されるこの集会を抑えようとした警官の日比谷公園の包囲に対して、集会に参加しようと公園に来た群衆が暴徒と化し、公園内に侵入して警官たちを襲撃する事件が起こりました。やがて事態はエスカレートし、警察署、内務大臣官邸、政府系の新聞社も襲撃され、市内各地で火災があがり、首都機能がストップする一歩手前まで来たため、政府は戒厳令を翌6日に発し、11月末まで発令は続きました。この日比谷焼き打ち事件は、結果的に500名以上の死傷者(うち死者17名)、2000名以上の検挙者を出す大事件に発展しました。ポーツマス条約調印の責任を受けて、第一次桂太郎内閣(1901-06)は国民の支持を失い、翌年1月に総辞職することになりました。こうして、明治から大正にかけ、開園当初の日比谷公園は、民衆の大規模な国民集会の決起場所としても利用され、時には社会運動や暴動の拠点として知られるようになりました。
平和を現出している現在の日比谷公園では、彩られた花壇と大噴水による、いこいの広場として、ガーデニングイベントや大胆なイルミネーション・イベント、海外交流イベント、フード・フェスティバル、テレビドラマのロケーション、その他音楽イベント等、平和な時代を象徴する催し物が多く行われています。
主要引用:Wikipediaより
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史