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2016年09月05日

屋号#大阪丸その(39) (大阪城*T)







屋号#大阪丸その(39)
(大阪城*プロローグ)




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今回は、大阪城を特集してみたいと思います。



大阪城の様々な側面を上手くとらえることが出来たら、良いのですが・・・。






〜〜〜〜〜〜〜〜〜





【大阪城/大坂城】
(別名:金城、錦城)



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●以下、プロローグ編



大阪にある歴史的にも有名なあの大阪城です。




今から数カ月前の暖かなある日のこと、大阪城に行ってみることにしました。
子供の頃以来のことです。



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環状線・大阪城公園駅で降り、大阪城ホールの方向を歩いて行きます。



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その日は若い女性が、沢山、駅で降り、大阪城ホール方向に向かって歩いていました。
思い思いのお洒落をお友達と楽しみつつ、うちわやタオルなど、グッズを手にして・・・。

その賑わいは大阪城ホール前周辺ではピークに達していました。



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本当に沢山の人達・・・・・ほとんどが、綺麗に装った若い女性達。


後から知ったのですが、TVにも出ているジャニーズの若手グループのコンサートのようでした。

(余談ですが、コンサートが始まる前の早い時間帯に大阪城ホールか→駅→電車で戻っていく人達は、ジャニーズファンでありながらもチケットが取れず、せめてとばかりにグッズだけ買いに来て戻る人達のようです。
偶然ですが、知人の娘さん達もチケットが取れず、グッズだけを買いにこの日、大阪城ホールに向かったそうです。)





その人並みをかぎ分けるように大阪城ホールの横を通過し、大阪城公園に。
(裏にあるコンサート用のトレーラーも越えて、大阪城公園の中心部を目指します。)



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やっとのことでたどり着くと、大阪城のお堀の外側で、皆、楽しそうにバーベキューしていました。
子供たちもバーベキュー横で、ローラースケート、ローラーボードや一輪車、などを楽しんでいて。



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こんなところでバーベキューは有り?なのかなぁとも一瞬思いましたが、実は、この辺りはバーベキュー解放地区でした。
わいわい、楽しそうです。


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*********************************





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お堀沿いに真田幸村の恰好をされた方達の行列に出くわしました。
NHKの大河ドラマで脚光を浴びた大阪城のPRのようです。



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季節は春から夏にかけてのこと・・・この日も暑い一日で、赤い武将の恰好の方も汗をぬぐいながらの出陣でした。






お堀の周りにある水路に架かっている小さな橋を渡り、既に見えている大阪城を見ながら、城壁の石垣を眺めつつ、進んで行きます。



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いわゆる残念石(築城の為に切り出されたが、実際には使われなかった石達)が設置してある小さな公園を歩きました。

山里丸という場所だそうです。



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模様が入った様々な石が、あります。
刻印石=築城にかかわった大名が持って来た石を示す印。他大名に持っていかれない為に刻印したといわれています。



少し奥に、敵陣に追い詰められた秀頼と淀君が自決した辺りに石碑があります。



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木々に囲まれた空間は、はるかかなたの歴史に想いをはせながらの小休憩には良いかも知れません。



幾人かの鷹匠の方達が、タカを手に止まらせていました。

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さらに木々の間に見える大阪城天守閣方面を目指して行きます。




大阪城のチケット売り場で、チケットを購入後、長い列を並んで入場を待ちました。
列の中には外国からの旅行者の方も多かったです。




列で並んでいるときに横にある案内板で、お城の天守閣近くの小高い丘の地下に上水道【大手前配水池】があると書かれていました。

こんな場所に、しかも地下に?と思いましたが、約120年前に作られた明治生まれの近代的上水道は今も健在だそうです。

今、現在も淀川からくみ取った飲み水を電力を使用せず、自然放流やポンプで周辺地域に供給しているらしい。


一日の配水量は大阪市内全体の3%を占めるとのこと。(約3万6千世帯に水を供給する貯水槽。)
場所は、大阪城天守閣に隣接しています。



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城前にあるサッカー場のような広い芝生に水槽が埋まっているようです。






かなり脱線しつつではありますが、ようやくお城の石垣に囲まれた大きな階段を上って行きます。



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石垣・・・・・クレーンなどの重機もない昔の人たちのすぐれた技術に驚きます。

大きな石をうまく組み合わせているのが分かります。



いよいよ大阪城。




その手前左側に井戸がありました。



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私はここであるものを発見しました。



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井戸の上に紋があったのですが、その紋はTVの「水戸黄門」などでおなじみの【葵のご紋】なのです。



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【葵のご紋】・・・・・三つ葉葵紋は、徳川家のルーツである松平家の家紋であったとのこと。(他説では、元は本多家や酒井家の説もあり。)
そもそもは賀茂神社の神紋であった葵紋(二葉葵)から、三つ葉葵紋は派生したとも言われています。
江戸時代には、この三つ葉葵紋を他家での使用禁止とし、徳川家一門だけに許された権威ある紋となりました。




私自身は、あまり歴史に詳しくないので、実は、一瞬、あれっ?!と思ったのですが・・・。
大阪城は、豊臣秀吉が築城したと記憶していたので。



豊臣秀吉築城は正解ではあるのですが、大坂城の歴史はそれだけではなく、その後、城の運命は激動の時代を経て来ているようです。






実は、通称「太閤さんの城」と言われる大阪城ではあるのですが、現在、地表に見える大阪城の遺構=城跡に現存する櫓や石垣も全て、徳川家、江戸幕府によるものと調査で判明しているそうです。



つまり私達が現在見ている大坂城は、豊臣秀吉による大坂城ではなく、徳川家、江戸幕府による大坂城跡なのです。
(厳密にいうと、江戸時代からのたびたびの火災や落雷、ほとんどが消失・・・昭和初期に市民からの募金150万円で再建。しかし第二次世界大戦の空襲でも大坂城は標的となり、火の手をあげ、多大な被害を受けています。幾度もの火災などの災難をくぐり抜けて、現在の大阪城は存在しています。)




●また後の号で、大阪城の簡単な史歴にも触れる予定ですが、簡単に要約すると、豊臣秀吉死後、関ケ原の合戦に敗れたのち、摂河泉65万7千400石の一大名に転落・・・しかし二代目秀頼は、秀吉亡き後も、豪華絢爛な大坂城を居城としていました。


●1614年(慶長19年)大坂冬の陣・・・徳川家康率いる大軍に攻められ、篭城戦を行う。
そして講和が結ばれ、二の丸、三の丸などの破却が取り決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城となります。


●秀頼は堀の再建を試みます。
しかし、これが講和条件破棄とみなされます。


●1615年(慶長20年)大坂夏の陣・・・冬の陣から4か月後、大坂城はついに落城し、豊臣家は滅亡します。



●落成後の大坂城は、徳川家康の外孫である松平忠明に大坂城下の復興の任務とともに与えられます。





●1619年(元和5年)に忠明は大和郡山に移封。



●江戸幕府は大坂藩を廃止し、大坂を幕府管轄領(天領)としました。



●その後、二代目将軍・徳川秀忠、江戸幕府による豊臣色を払拭する大坂城の修築工事が行われました。





(その後やその他の史歴は、また別号にての予定です。)



〜〜〜〜〜〜〜〜〜






私が、ふと不思議に思った大阪城の井戸にある【葵のご紋】の意味が・・・大阪城の歴史を知ることで、やっと腑に落ちたのでした。





(次号に続く)


































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