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2018年10月16日
モンタナ州と私 その1
モンタナ州は私にとっては忘れがたい思い出がある州である
ひとつは、Crow Indian の居留地へ通って、Inter-tribal Festival に3日間通って、
彼らの魂の祈りを目の当たりにしたことである
確か8月の半ばあたりだったと思う
仕事でCrow Indian reservationを訪れるアメリカ人の知り合いに同行して
彼が仕事をしている間に、私はネイティブアメリカンの祭りを見学させてもらおうと
1週間の予定で一緒にモンタナ州を旅する計画をたてた
Billings という町で待ち合わせをして、毎朝一緒に食事をしてから、一緒に祭りへ車で1時間のドライブ
夏の暑い日、炎天下での祭りなので覚悟して出かけていたが、モンタナ州は乾燥しているので、気温が上がってもそれほど体に堪えなかった。まあ、あの時自分は20代後半だったので、元気だったからかもしれない
Crow Indianのドラムと歌を生で初めて聞いたとき、すべての時が止まり、心が震えたのを覚えている
日本の和太鼓もときどき魂が揺さぶられる気持ちになるときがあるが、彼らの甲高い声とドラムのビートが若干催眠術のような作用をもたらしたのかもしれないが、意識がとんだ気がした
Montana Sky
は有名である。
白い雲、真っ青な空、済んだ空気、自然と対峙することで、自分の内面を見つめることもできる静寂があった
トランス状態になっているのではないかと思われるほどの激しいダンスを目の当たりにして、
見ている自分たちも、だんだんと入っていく感覚・・・
時間の感覚がわからなくなり、そこにただよう心地よさ・・・
とても貴重な体験だったと、今はわかる
そこで初めて食べたFried Bread
日本の給食で昔食べた揚げパンのような懐かしい味
バッファローの肉を燻製にしたものを、スープに入れて、ジャガイモ、ニンジン、そして玉ねぎが入っている素朴な味のスープ、狩りをしながら生活してきた彼らのかつての厳しい生活に思いをはせながら、味わいながら食したのを覚えている
彼らは生き方を探す旅にでることがあるという
一人ずっと歩き、山の頂上で天の声を聴くまで、帰って来ないこともあるらしい
魂を探すというか、自分の生き方を定めるというか、自分ひとりになって、自然と対峙し
内なる声を聴くことに、私はとても共感を覚えた
自分が迷うとき、テレビも、電話も全てオフにして、じーっと動き出したくなるまで動かないことがある
でも、迷いが消えた時、一皮むけて、迷わずに一歩踏み出すことができる
誰かに言われたとか、人にどう思われるかを気にするのではなく
自分がどうしたいのか、自分の声を、体の声を聴いていくことは、本当に大切なことだ
自分の人生を生きるためには
人の期待になんて応える必要はない
タクシーの運転手みたいに、人の行きたいところへ行く必要はない
自分の自動車を自分で運転して自分の行きたいところへ行けばいい
そのためには、少々変な人だったり、嫌な人になったりするかもしれない
でも自分の人生ですから・・・・
ただただ広い草原に降り立って、夕日を見つめながら、少し肌寒い風はほてった肌に心地よく
このまま時間が止まればいいのに・・・・と太陽が地平線に沈むまでの様子を眺めていたことは
私にとってはトランキライザーになっている
ひとつは、Crow Indian の居留地へ通って、Inter-tribal Festival に3日間通って、
彼らの魂の祈りを目の当たりにしたことである
確か8月の半ばあたりだったと思う
仕事でCrow Indian reservationを訪れるアメリカ人の知り合いに同行して
彼が仕事をしている間に、私はネイティブアメリカンの祭りを見学させてもらおうと
1週間の予定で一緒にモンタナ州を旅する計画をたてた
Billings という町で待ち合わせをして、毎朝一緒に食事をしてから、一緒に祭りへ車で1時間のドライブ
夏の暑い日、炎天下での祭りなので覚悟して出かけていたが、モンタナ州は乾燥しているので、気温が上がってもそれほど体に堪えなかった。まあ、あの時自分は20代後半だったので、元気だったからかもしれない
Crow Indianのドラムと歌を生で初めて聞いたとき、すべての時が止まり、心が震えたのを覚えている
日本の和太鼓もときどき魂が揺さぶられる気持ちになるときがあるが、彼らの甲高い声とドラムのビートが若干催眠術のような作用をもたらしたのかもしれないが、意識がとんだ気がした
Montana Sky
は有名である。
白い雲、真っ青な空、済んだ空気、自然と対峙することで、自分の内面を見つめることもできる静寂があった
トランス状態になっているのではないかと思われるほどの激しいダンスを目の当たりにして、
見ている自分たちも、だんだんと入っていく感覚・・・
時間の感覚がわからなくなり、そこにただよう心地よさ・・・
とても貴重な体験だったと、今はわかる
そこで初めて食べたFried Bread
日本の給食で昔食べた揚げパンのような懐かしい味
バッファローの肉を燻製にしたものを、スープに入れて、ジャガイモ、ニンジン、そして玉ねぎが入っている素朴な味のスープ、狩りをしながら生活してきた彼らのかつての厳しい生活に思いをはせながら、味わいながら食したのを覚えている
彼らは生き方を探す旅にでることがあるという
一人ずっと歩き、山の頂上で天の声を聴くまで、帰って来ないこともあるらしい
魂を探すというか、自分の生き方を定めるというか、自分ひとりになって、自然と対峙し
内なる声を聴くことに、私はとても共感を覚えた
自分が迷うとき、テレビも、電話も全てオフにして、じーっと動き出したくなるまで動かないことがある
でも、迷いが消えた時、一皮むけて、迷わずに一歩踏み出すことができる
誰かに言われたとか、人にどう思われるかを気にするのではなく
自分がどうしたいのか、自分の声を、体の声を聴いていくことは、本当に大切なことだ
自分の人生を生きるためには
人の期待になんて応える必要はない
タクシーの運転手みたいに、人の行きたいところへ行く必要はない
自分の自動車を自分で運転して自分の行きたいところへ行けばいい
そのためには、少々変な人だったり、嫌な人になったりするかもしれない
でも自分の人生ですから・・・・
ただただ広い草原に降り立って、夕日を見つめながら、少し肌寒い風はほてった肌に心地よく
このまま時間が止まればいいのに・・・・と太陽が地平線に沈むまでの様子を眺めていたことは
私にとってはトランキライザーになっている
2018年09月15日
1989年5月のトルネード
今 アメリカの東海岸に60数年に1度というハリケーンが上陸し北上しようとしている
私もNorth Calorina州の大学に1年間留学していたことがあるので、人ごととは思えない思いで
事の成り行きを見守っている
私の友達がNC州にいるのだが、FBでもし避難する場所がなかったら、自分のうちに来てもよい
というコメントを載せていた
100万人に対して避難を勧告しているというのは、すごいことだ。
いったいその人たちはどこへ避難するというのだろうか
実際に自分も1989年5月5日にトルネードが大学の敷地内を通り抜けた
ヒストリカルディストリクトの中にある大学であったが、見事に広場の木が倒されたり、
ある一定の高さから上が無くなっていたのを目の当たりにして、トルネードの威力を認識したのを
覚えている
グラウンドにタッチダウンした町の状況は悲惨だったが、大学は地上20メートルぐらいの高さを移動して
いったため、高い棟の屋根が吹き飛ばされたり、木が寮に倒れてきて窓ガラスを突き破って3階の1部屋が
めちゃくちゃになった程度で済んだ。
自分の部屋は木が倒れてきた部屋の反対側だったので、それほど被害はなかったが、避難をしているときは
気がきではなかった。
昼の12時過ぎにトルネードウォッチが発表された
なんのことだかは理解できていなかった
夕方友達の部屋に遊びに行っているときに、サイレンが鳴り響き雨脚が強くなっていった
数分もたたないうちに、風が激しくなり、まるで地下鉄のホームに電車が入ってくるような音が
ずっとしていた。
寮の先輩が一部屋一部屋ドアを叩き、全員地下室へ逃げるように声をかけていた
私もその指示に従って、地下室へと移動した
ぞくぞくと人が集まり始め、枕を抱えてニュースを見たり、話をしたりしていた
すると、全身びしょ濡れの学生が数名外から避難してきた
その学生の話からすると、ほんの数分で足首ほどの雨が降り、車のガラスが気圧の急激な変化で割れていたと
いうことだった(私の英語の理解が間違えていなければ)
音が鳴りやみ、外に出てみようということになった
ドアを開けると外はひんやりした空気が肌をさしていたのを覚えている。そして空には満天の星が輝いていたのを覚えている。
昼間は空気が全く動かない、暑苦しい日だったので、そのギャップに驚いた。
数日後に数マイル離れた場所に再びトルネードが襲い掛かった。
その年の春から夏にかけては300近いトルネードが南部の州に発生したという珍しい年だったということをあとで知ることとなった
1週間寮が閉鎖されることになり(もし火事が起きても敷地内の倒木が邪魔をして緊急車両が入って来られないため安全ではないと判断された)留学生の私ともう一人の日本人の友達は、寮をでなければならなくなった
東京の大学のアメリカ人の教授の母親の家にお世話になることになった。1週間という期間、本当にゆったりとした時間を過ごすことになった。
このブログのタイトルになった言葉は教授の母親がにっこりとしながら私に話しかけてくれたセリフである
大学の単位を取るために、あれも、これもやらなくちゃと焦っていた私に彼女が落ち着かせようと励ましてくれたときのセリフである
One at a time
意志の力が弱い私は、すっかりリラックスしてしまって、レポートは書きあがらないわ、ファイナルの準備に集中できないわで、いくつか単位を落とす羽目となってしまった
でも今でも教授の母親とゆったりと語り合った時間は私にとって特別な時間として心の中に残っている。
典型的な南部のおうちで、アイスティーを飲みながら、そのとき大切だと思っていたことを言葉にしてみる。
すると、彼女は必ずといっていいほど、
「Do what you have to do」
「Do what you want to do」
「Do as you like」
など、批判的なコメントは決してせず、自分の望むことをしなさいと言われ続けたような印象が残っている。
日本にいるときには、批判的なコメントやコントロールされている感じを感じていたが、ありのままを受け止めてもらう心地よさを体験した
今での彼女は私のヒーローである。残念ながら、2年前に亡くなってしまったが、彼女のような人間に自分もなれているかなと問いかけることが多い
ハリケーンやトルネードという言葉を聞くと
いつもママさんのことを思い出す
そして被害が最小限で済むように祈っています
私もNorth Calorina州の大学に1年間留学していたことがあるので、人ごととは思えない思いで
事の成り行きを見守っている
私の友達がNC州にいるのだが、FBでもし避難する場所がなかったら、自分のうちに来てもよい
というコメントを載せていた
100万人に対して避難を勧告しているというのは、すごいことだ。
いったいその人たちはどこへ避難するというのだろうか
実際に自分も1989年5月5日にトルネードが大学の敷地内を通り抜けた
ヒストリカルディストリクトの中にある大学であったが、見事に広場の木が倒されたり、
ある一定の高さから上が無くなっていたのを目の当たりにして、トルネードの威力を認識したのを
覚えている
グラウンドにタッチダウンした町の状況は悲惨だったが、大学は地上20メートルぐらいの高さを移動して
いったため、高い棟の屋根が吹き飛ばされたり、木が寮に倒れてきて窓ガラスを突き破って3階の1部屋が
めちゃくちゃになった程度で済んだ。
自分の部屋は木が倒れてきた部屋の反対側だったので、それほど被害はなかったが、避難をしているときは
気がきではなかった。
昼の12時過ぎにトルネードウォッチが発表された
なんのことだかは理解できていなかった
夕方友達の部屋に遊びに行っているときに、サイレンが鳴り響き雨脚が強くなっていった
数分もたたないうちに、風が激しくなり、まるで地下鉄のホームに電車が入ってくるような音が
ずっとしていた。
寮の先輩が一部屋一部屋ドアを叩き、全員地下室へ逃げるように声をかけていた
私もその指示に従って、地下室へと移動した
ぞくぞくと人が集まり始め、枕を抱えてニュースを見たり、話をしたりしていた
すると、全身びしょ濡れの学生が数名外から避難してきた
その学生の話からすると、ほんの数分で足首ほどの雨が降り、車のガラスが気圧の急激な変化で割れていたと
いうことだった(私の英語の理解が間違えていなければ)
音が鳴りやみ、外に出てみようということになった
ドアを開けると外はひんやりした空気が肌をさしていたのを覚えている。そして空には満天の星が輝いていたのを覚えている。
昼間は空気が全く動かない、暑苦しい日だったので、そのギャップに驚いた。
数日後に数マイル離れた場所に再びトルネードが襲い掛かった。
その年の春から夏にかけては300近いトルネードが南部の州に発生したという珍しい年だったということをあとで知ることとなった
1週間寮が閉鎖されることになり(もし火事が起きても敷地内の倒木が邪魔をして緊急車両が入って来られないため安全ではないと判断された)留学生の私ともう一人の日本人の友達は、寮をでなければならなくなった
東京の大学のアメリカ人の教授の母親の家にお世話になることになった。1週間という期間、本当にゆったりとした時間を過ごすことになった。
このブログのタイトルになった言葉は教授の母親がにっこりとしながら私に話しかけてくれたセリフである
大学の単位を取るために、あれも、これもやらなくちゃと焦っていた私に彼女が落ち着かせようと励ましてくれたときのセリフである
One at a time
意志の力が弱い私は、すっかりリラックスしてしまって、レポートは書きあがらないわ、ファイナルの準備に集中できないわで、いくつか単位を落とす羽目となってしまった
でも今でも教授の母親とゆったりと語り合った時間は私にとって特別な時間として心の中に残っている。
典型的な南部のおうちで、アイスティーを飲みながら、そのとき大切だと思っていたことを言葉にしてみる。
すると、彼女は必ずといっていいほど、
「Do what you have to do」
「Do what you want to do」
「Do as you like」
など、批判的なコメントは決してせず、自分の望むことをしなさいと言われ続けたような印象が残っている。
日本にいるときには、批判的なコメントやコントロールされている感じを感じていたが、ありのままを受け止めてもらう心地よさを体験した
今での彼女は私のヒーローである。残念ながら、2年前に亡くなってしまったが、彼女のような人間に自分もなれているかなと問いかけることが多い
ハリケーンやトルネードという言葉を聞くと
いつもママさんのことを思い出す
そして被害が最小限で済むように祈っています
2018年08月23日
T君来日で思い出されるアメリカの想いで
1984-1985年の1年間、アメリカの高校に留学していた私が感じた小さな町のアメリカ
田舎の町だったし、学校だったから、どの人も素朴で、人をだますような人たちはいなかった
ネット環境もないあの当時、夜の出来事は翌日には皆に知れ渡っているような、情報網が町中に張り巡らされていて、お互いがお互いをケアしているといえば聞こえはよいが、ある意味、世間の目をだますことはできないと感じていた
飲酒年連がその当時は19歳だったアメリカで、18歳の高校生がお酒を飲まないわけがなかった
田舎の町で楽しみといえば、
ボーリングやヘイライド(干し草を積んだトラックの荷台に乗って、牧草地帯を走り回る)
ファウンデーションデーのお祭り(町の創立記念日)、
独立記念日、
ステイトフェアー(州で行われる牛の品評会、育てた野菜の品評会と移動遊園地のような祭り)、
キャンプ、
ボランティア活動、
地元高校のアメリカンフットボールやバスケットボールの試合観戦、
などしか楽しみがない
公の場所ではみんなPopを飲んでいるが(Popとは炭酸飲料のこと、東海岸と西海岸ではSodaと呼ぶ)
高校生だけで週末は集まってお酒を飲むことが、一つの楽しみになっていた
あとは御多分にもれず、SEXだ
さて、アメリカの小さな町のコミュニティーでは、とにかく時間の流れ方が都会とは異なる
優先順位も都会のそれとは異なる
人々の繫がりを大切にしていて、よく話をする
日本にいたときは、よくテレビを見ていたが、アメリカにいるときはテレビはそれほどみなかった
まず、ドアを開けるとリビングになっている。そこにテレビがあった
そのリビングへ朝の7時半にもなると、となりの気さくなおじさんが突然やってきて「モーニング」と言って新聞を持ってくる
ホストマザーはもう年金で暮らしているおばあちゃんだったので、隣の家の新聞をまわして読ませてもらっていたのだ。そしてその町の新聞を切り抜いてはスクラップブックに張り付けていた
なんとも無駄のない、新聞の活用の仕方だと思う
そして隣のおじさんは、ひとしきり町の噂話をしていく。
あ〜 これが小さな町の噂が止まらない、止められない、一度流れてしまうと、どうにもならない町の構造なんだなと、目の前の二人の会話を聞いて、はっきりとわかった
本当に話をすることが好きなんだ。小さなことでも情報を交換していく。
「〇〇で××を買ったけどあれだったら▽▽で買った方がいいよ」
「〇〇さんが◆◆するって言ってるから、自分もそうしようと思ってる」とか
高校生のような若い人は直接リビングへ訪ねていって話をするわけではない
町の中の電話は、基本料金を払えばどこへかけても無料というシステムなので、若者はどんな小さなことでもすぐに電話をかけて、情報交換をする。電話の線も5メートルぐらいあるのは当たり前で、ながーいコードを自分の部屋まで引き入れて電話をしている姿は本当だった
日本は話した分だけ電話代がかかる時代だった
だから、電話は要件をよく考えて、簡潔に話せるように準備してから掛けたものだが、
アメリカでは違った。システムが異なれば、生活様式も違うってことなんだな〜と
漠然と感じていた
さてこれは私の身に起きたこと
実は、ある週末、私は友達の家で結構飲んでしまっていた
うっすらとは覚えているが、数人の男子と人目をはばからずに、メイクアウトしていたとうい自覚はあった
まあ、欲求不満だったんでしょう・・・(笑)
そして、翌日の日曜日の朝、教会のミサを終えて、町で文房具を買っていた私に友達が近づいてきて
「昨日の話聞いたわよ〜楽しかったらしいね」と一言だけ告げて立ち去って行った
あちゃー やってしまったわね〜
どんな言われようをしたのかわからないけれど、一度流れてしまったうわさは回収不要なのはよくわかっていた。そして、人のうわさも75日というのもわかっていた。
Done is Done
その件に関してはあきらめるしかなかった。でもね〜愛しのマイクもこのこと知ってるんだよね〜
それだけは後悔したかな。まあその時には日本に彼氏もいたので、愛しのマイクではないけれども
その後私への対応が大きく変わったわけではないけれど、男好きな留学生というイメージはついたかもな〜と心に若干の不安を抱えながらも、やはり飲むとやりたい放題の私はかわりませんでした。
でもそんな田舎町の世間の目を気にしながら生活することへの窮屈さと同時に、心温まる人々の絆がそこにはある
ホストマザーの隣の家に住んでいる女性は、ベットに寝たきりらしい
ときどき、車で誰かがやってきては、出ていくのを見たことがある
しばらくすると、ホストマザーも昼時に隣に食事を運んでいるのを見た
彼女に聞くと
「教会で(彼女はカソリック)毎日誰が食事を届けるか決めていて、今日は〇〇さんの代わりに私が届けることになっていたの」
と言っていた。
町の中の弱者に対して、行政だけの対応ではなく、教会のボランティア活動の中でも手を差し伸べるシステムが構築されているのかと、感動したことを覚えている
若干監視されているようでプライバシーがない VS 困った時には手を差し伸べてくれる安心感
こんな感じだろうか
おそらく日本の田舎の町もそんな風にお互いを監視しながらも、お互いを助け合っている文化があるんじゃないかと思いながら、ポーチに座って、裸足で芝生を感じながら、リスが木を登っていくのを眺めて感慨にふけっていたのを今でも鮮明に覚えている
T君来日に、アメリカに想いを馳せて・・・・
田舎の町だったし、学校だったから、どの人も素朴で、人をだますような人たちはいなかった
ネット環境もないあの当時、夜の出来事は翌日には皆に知れ渡っているような、情報網が町中に張り巡らされていて、お互いがお互いをケアしているといえば聞こえはよいが、ある意味、世間の目をだますことはできないと感じていた
飲酒年連がその当時は19歳だったアメリカで、18歳の高校生がお酒を飲まないわけがなかった
田舎の町で楽しみといえば、
ボーリングやヘイライド(干し草を積んだトラックの荷台に乗って、牧草地帯を走り回る)
ファウンデーションデーのお祭り(町の創立記念日)、
独立記念日、
ステイトフェアー(州で行われる牛の品評会、育てた野菜の品評会と移動遊園地のような祭り)、
キャンプ、
ボランティア活動、
地元高校のアメリカンフットボールやバスケットボールの試合観戦、
などしか楽しみがない
公の場所ではみんなPopを飲んでいるが(Popとは炭酸飲料のこと、東海岸と西海岸ではSodaと呼ぶ)
高校生だけで週末は集まってお酒を飲むことが、一つの楽しみになっていた
あとは御多分にもれず、SEXだ
さて、アメリカの小さな町のコミュニティーでは、とにかく時間の流れ方が都会とは異なる
優先順位も都会のそれとは異なる
人々の繫がりを大切にしていて、よく話をする
日本にいたときは、よくテレビを見ていたが、アメリカにいるときはテレビはそれほどみなかった
まず、ドアを開けるとリビングになっている。そこにテレビがあった
そのリビングへ朝の7時半にもなると、となりの気さくなおじさんが突然やってきて「モーニング」と言って新聞を持ってくる
ホストマザーはもう年金で暮らしているおばあちゃんだったので、隣の家の新聞をまわして読ませてもらっていたのだ。そしてその町の新聞を切り抜いてはスクラップブックに張り付けていた
なんとも無駄のない、新聞の活用の仕方だと思う
そして隣のおじさんは、ひとしきり町の噂話をしていく。
あ〜 これが小さな町の噂が止まらない、止められない、一度流れてしまうと、どうにもならない町の構造なんだなと、目の前の二人の会話を聞いて、はっきりとわかった
本当に話をすることが好きなんだ。小さなことでも情報を交換していく。
「〇〇で××を買ったけどあれだったら▽▽で買った方がいいよ」
「〇〇さんが◆◆するって言ってるから、自分もそうしようと思ってる」とか
高校生のような若い人は直接リビングへ訪ねていって話をするわけではない
町の中の電話は、基本料金を払えばどこへかけても無料というシステムなので、若者はどんな小さなことでもすぐに電話をかけて、情報交換をする。電話の線も5メートルぐらいあるのは当たり前で、ながーいコードを自分の部屋まで引き入れて電話をしている姿は本当だった
日本は話した分だけ電話代がかかる時代だった
だから、電話は要件をよく考えて、簡潔に話せるように準備してから掛けたものだが、
アメリカでは違った。システムが異なれば、生活様式も違うってことなんだな〜と
漠然と感じていた
さてこれは私の身に起きたこと
実は、ある週末、私は友達の家で結構飲んでしまっていた
うっすらとは覚えているが、数人の男子と人目をはばからずに、メイクアウトしていたとうい自覚はあった
まあ、欲求不満だったんでしょう・・・(笑)
そして、翌日の日曜日の朝、教会のミサを終えて、町で文房具を買っていた私に友達が近づいてきて
「昨日の話聞いたわよ〜楽しかったらしいね」と一言だけ告げて立ち去って行った
あちゃー やってしまったわね〜
どんな言われようをしたのかわからないけれど、一度流れてしまったうわさは回収不要なのはよくわかっていた。そして、人のうわさも75日というのもわかっていた。
Done is Done
その件に関してはあきらめるしかなかった。でもね〜愛しのマイクもこのこと知ってるんだよね〜
それだけは後悔したかな。まあその時には日本に彼氏もいたので、愛しのマイクではないけれども
その後私への対応が大きく変わったわけではないけれど、男好きな留学生というイメージはついたかもな〜と心に若干の不安を抱えながらも、やはり飲むとやりたい放題の私はかわりませんでした。
でもそんな田舎町の世間の目を気にしながら生活することへの窮屈さと同時に、心温まる人々の絆がそこにはある
ホストマザーの隣の家に住んでいる女性は、ベットに寝たきりらしい
ときどき、車で誰かがやってきては、出ていくのを見たことがある
しばらくすると、ホストマザーも昼時に隣に食事を運んでいるのを見た
彼女に聞くと
「教会で(彼女はカソリック)毎日誰が食事を届けるか決めていて、今日は〇〇さんの代わりに私が届けることになっていたの」
と言っていた。
町の中の弱者に対して、行政だけの対応ではなく、教会のボランティア活動の中でも手を差し伸べるシステムが構築されているのかと、感動したことを覚えている
若干監視されているようでプライバシーがない VS 困った時には手を差し伸べてくれる安心感
こんな感じだろうか
おそらく日本の田舎の町もそんな風にお互いを監視しながらも、お互いを助け合っている文化があるんじゃないかと思いながら、ポーチに座って、裸足で芝生を感じながら、リスが木を登っていくのを眺めて感慨にふけっていたのを今でも鮮明に覚えている
T君来日に、アメリカに想いを馳せて・・・・
2018年08月03日
ユタ州でのホームステイ 中学1年 夏
夏になると、アメリカが恋しくなる
仕事の関係で夏休み意外に長期で休みを取れないから、
旅行はいつも夏だったからかもしれない
一番初めにアメリカに行ったのは 中学1年の夏 ユタ州でのホームステイだった
英語も習い始めたのが中1の4月 まだ英語らしい英語がわかならかったときだった
ことのはじまりは、父親が「アメリカにホームステイすることができるけど、行きたいか?」
という問いにあまり深く考えずに「うん」と答えたところから始まる。
その言葉を聞いて両親が積み立てを始めた。
そのころまだアメリカに子供をホームステイさせる家はそれほどなかった
周りにも海外旅行へいったことのある友達は、数えるほどしかなかった
でも、ある意味、あの夏の体験が今の自分に大きく影響を与えている部分があるので
投資としては成功したと言えるだろう。
行先はユタ州。モルモン教の本山がある州。州民の6割はモルモン教徒らしい
ホストファミリーもモルモン教徒だった
右も左もわからない12歳だった私は、なんの先入観もないうちに彼らと出会い
今でもモルモン教徒に対する変なとらえ方はしていない
宗教を寛容にとらえることができる自分も、このときの経験が大きいかもしれない
彼らは普通のアメリカ人だったと思う
ただ、カフェインを取らない、アルコールを飲まないなどいくつかの制約があった
私はコカ・コーラや紅茶を飲むことはできたけれど、彼らはそれを口にはしなかった
そんなことを知らなかった私は、日本から緑茶をみやげとして持って行ったけれど
丁重にお断りされた。
英語がわからなかったわりには、たぶんそういう風に説明されたんだと思う。
辞書という単語も知らなかった私は、和英辞書をレッドブックと呼び、英和辞書をグリーンブックと言っていた。なぜならそれが表紙の色だったから。
でもその中学生が使う辞書を使って、意思疎通を毎日のようにしていた
絵をかいたり、数字を書いたり、身振り手振りでなんとかなるものだと思った
食事は驚いたことが1つだけあった。
ある日ホストファーザーが「ライスが食べたいか?」と聞いてきたので「食べたい」と答えると
炊いたご飯に牛乳、砂糖、シナモンをかけて私に渡してきた
OMG。。。。。シリアルに限りなく近い食べ方をしていた
アメリカ人にかかると、コメはシリアルなんだと物のとらえ方の多様性を感じた
私はいっそご飯に生卵をかけて食べたかった。
もう1つ驚いたことがある。
モルモン教徒のまじめな印象とはかけ離れている出来事
ホストブラザー(これがその時はイケメンだと思っていた)がトイレットペーパーをもって一緒に来いというので、ホストシスター2人と私を含む4人で誰かの家の庭に連れて行かれた
そこで、ホストブラザーが、今からこの庭に雪を降らせる・・・というようなことをいいはじめ
トイレットペーパーを丁寧にならべ庭の芝生の上を真っ白にした。庭に植えてある木にも巻き付け
クリスマスツリーだと言っては楽しそうにいたずらをしていた
青々とした芝生に、その家の庭だけ、白い雪が降っているようになっていた。
いたずらのスケールも大胆だなと思った
数日後、その家の高校生(ホストブラザーの友達)が仕返しにやってきた
庭を水浸されていたような気がするが、仕返しの内容はあまり覚えていない
さらに電話の線が異常に長いことが印象に残っている
家の中には電話が1台しかなかった
でもそのコードが長いので、自分の部屋に電話を持ち込んで話をすることができたのだ
ホストブラザーは彼女と長時間話をしていた
中学生ながら、プライバシーを大事にするアメリカ人の家族を見て
大人っぽいと思っていた。
冷蔵庫が2つあって一つは大きい冷凍庫だった
ピザや肉が凍らせてあって、週に1度の買い物で済む理由がよくわかった
あのころ缶のコカ・コーラが250ミリリットルだった日本に比べ、350ミリリットルの缶ばかりのアメリカを見て、なんでもビッグなんだな〜と思っていた
靴を脱がないで家の中をあるく
家の中には絨毯が敷き詰められている
トイレにも絨毯が敷かれ
びっくりした
夜は12時を過ぎてもステートフェアで遊びほうけていたり
車の荷台にねころがって星を見ながらドライブしたり
家の中にトイレが3か所あったり、地下室にも部屋があったり
ネズミを退治するためのライフルが家の中にあったり
セントラルヒーティングで家の中はどこもかしこも涼しかったのを覚えている
34日間のホームステイだったが、この時の体験が、高校時代の留学へ
高校時代の留学が大学時代の留学へとすべてのはじまりはこの34日間の体験からはじまった
息子を小5でカナダのサマーキャンプへ小6で日本人が一人もいないキャンプへ参加させたが
英語のあまりわからなかった彼も、ふた夏のサバイバル生活で、生き残ることができた自信は今の彼を作っている一つの基礎となっていると思う。
現在はYoutubeで F×ck とか Sh×tとか使う動画を見て、ときどき汚い言葉を使っては
親の顔色をうかがっている
おいおいそんな言葉は家の外ではつかわないでくれよ〜と心配している母を横目に、
「キャンプでそういう言葉をつかったら「No,No,Yoshi」って言われたんだ〜」とときどき思い出すようだ
大人の私でも40年前の体験をつい昨日のような気持ちで思い出すことがある
きっと息子もそういう瞬間がときどきあるんだと思う
夏になるとアメリカ熱にかかっちゃうこまった中年のおばさん
乾いた空気、どこまでも続く地平線、満点の星空
まあとりあえずお金を貯めて、次の機会を待つとしよう・・・・
仕事の関係で夏休み意外に長期で休みを取れないから、
旅行はいつも夏だったからかもしれない
一番初めにアメリカに行ったのは 中学1年の夏 ユタ州でのホームステイだった
英語も習い始めたのが中1の4月 まだ英語らしい英語がわかならかったときだった
ことのはじまりは、父親が「アメリカにホームステイすることができるけど、行きたいか?」
という問いにあまり深く考えずに「うん」と答えたところから始まる。
その言葉を聞いて両親が積み立てを始めた。
そのころまだアメリカに子供をホームステイさせる家はそれほどなかった
周りにも海外旅行へいったことのある友達は、数えるほどしかなかった
でも、ある意味、あの夏の体験が今の自分に大きく影響を与えている部分があるので
投資としては成功したと言えるだろう。
行先はユタ州。モルモン教の本山がある州。州民の6割はモルモン教徒らしい
ホストファミリーもモルモン教徒だった
右も左もわからない12歳だった私は、なんの先入観もないうちに彼らと出会い
今でもモルモン教徒に対する変なとらえ方はしていない
宗教を寛容にとらえることができる自分も、このときの経験が大きいかもしれない
彼らは普通のアメリカ人だったと思う
ただ、カフェインを取らない、アルコールを飲まないなどいくつかの制約があった
私はコカ・コーラや紅茶を飲むことはできたけれど、彼らはそれを口にはしなかった
そんなことを知らなかった私は、日本から緑茶をみやげとして持って行ったけれど
丁重にお断りされた。
英語がわからなかったわりには、たぶんそういう風に説明されたんだと思う。
辞書という単語も知らなかった私は、和英辞書をレッドブックと呼び、英和辞書をグリーンブックと言っていた。なぜならそれが表紙の色だったから。
でもその中学生が使う辞書を使って、意思疎通を毎日のようにしていた
絵をかいたり、数字を書いたり、身振り手振りでなんとかなるものだと思った
食事は驚いたことが1つだけあった。
ある日ホストファーザーが「ライスが食べたいか?」と聞いてきたので「食べたい」と答えると
炊いたご飯に牛乳、砂糖、シナモンをかけて私に渡してきた
OMG。。。。。シリアルに限りなく近い食べ方をしていた
アメリカ人にかかると、コメはシリアルなんだと物のとらえ方の多様性を感じた
私はいっそご飯に生卵をかけて食べたかった。
もう1つ驚いたことがある。
モルモン教徒のまじめな印象とはかけ離れている出来事
ホストブラザー(これがその時はイケメンだと思っていた)がトイレットペーパーをもって一緒に来いというので、ホストシスター2人と私を含む4人で誰かの家の庭に連れて行かれた
そこで、ホストブラザーが、今からこの庭に雪を降らせる・・・というようなことをいいはじめ
トイレットペーパーを丁寧にならべ庭の芝生の上を真っ白にした。庭に植えてある木にも巻き付け
クリスマスツリーだと言っては楽しそうにいたずらをしていた
青々とした芝生に、その家の庭だけ、白い雪が降っているようになっていた。
いたずらのスケールも大胆だなと思った
数日後、その家の高校生(ホストブラザーの友達)が仕返しにやってきた
庭を水浸されていたような気がするが、仕返しの内容はあまり覚えていない
さらに電話の線が異常に長いことが印象に残っている
家の中には電話が1台しかなかった
でもそのコードが長いので、自分の部屋に電話を持ち込んで話をすることができたのだ
ホストブラザーは彼女と長時間話をしていた
中学生ながら、プライバシーを大事にするアメリカ人の家族を見て
大人っぽいと思っていた。
冷蔵庫が2つあって一つは大きい冷凍庫だった
ピザや肉が凍らせてあって、週に1度の買い物で済む理由がよくわかった
あのころ缶のコカ・コーラが250ミリリットルだった日本に比べ、350ミリリットルの缶ばかりのアメリカを見て、なんでもビッグなんだな〜と思っていた
靴を脱がないで家の中をあるく
家の中には絨毯が敷き詰められている
トイレにも絨毯が敷かれ
びっくりした
夜は12時を過ぎてもステートフェアで遊びほうけていたり
車の荷台にねころがって星を見ながらドライブしたり
家の中にトイレが3か所あったり、地下室にも部屋があったり
ネズミを退治するためのライフルが家の中にあったり
セントラルヒーティングで家の中はどこもかしこも涼しかったのを覚えている
34日間のホームステイだったが、この時の体験が、高校時代の留学へ
高校時代の留学が大学時代の留学へとすべてのはじまりはこの34日間の体験からはじまった
息子を小5でカナダのサマーキャンプへ小6で日本人が一人もいないキャンプへ参加させたが
英語のあまりわからなかった彼も、ふた夏のサバイバル生活で、生き残ることができた自信は今の彼を作っている一つの基礎となっていると思う。
現在はYoutubeで F×ck とか Sh×tとか使う動画を見て、ときどき汚い言葉を使っては
親の顔色をうかがっている
おいおいそんな言葉は家の外ではつかわないでくれよ〜と心配している母を横目に、
「キャンプでそういう言葉をつかったら「No,No,Yoshi」って言われたんだ〜」とときどき思い出すようだ
大人の私でも40年前の体験をつい昨日のような気持ちで思い出すことがある
きっと息子もそういう瞬間がときどきあるんだと思う
夏になるとアメリカ熱にかかっちゃうこまった中年のおばさん
乾いた空気、どこまでも続く地平線、満点の星空
まあとりあえずお金を貯めて、次の機会を待つとしよう・・・・
2018年07月03日
グレイハウンドでアメリカ横断 1989年夏
夏になるとアメリカ熱が復活してくる
世界一周もしたいのだけど
アメリカももう一度横断したい
前回は大学3年生のとき
North Carolina 州 Charlotte からグレイハウンドで New Orleans 経由 Los Angelse
一緒にとの年に留学していたメンバー3人で、帰国前の旅行を計画した
女二人と男一人
妙な組み合わせだったけど、お互いにお金もないし、チープな旅だった
ニューオリンズではバーボンストリートをジャズを楽しみながらあるいたり
ちょっといかがわしいエリアを物珍しそうに、見て回った
フレンチクオーターまでバス停からタクシーで行った記憶がある
にぎやかで、風情あふれる街だった
最近は、ヴァンパイアダイアリーズのスピンオフ 『オリジナルズ』の舞台がニューオリンズなので
見ていて思い出すことがある
次に覚えていることは
Interstate 10を西に向かうバスにのっていると
後ろの座席からマリファナのにおいがただよってきた
乗客が騒ぎ出したが、私たち3人は何が起きているのかあまり理解ができていなかった
するとバスは突然ある建物の前で止まった
それは警察署の前だった
ドアがあくと警察が中に入ってきて、数名が最後部の座席から連れられてバスを降りていった
次に覚えているのは
メキシコとの国境に近いエルパソ付近をバスが運行しているとき、
道のはじにバスが停車し、やはり数名のユニフォームを着た人が乗り込んできた
今度は乗客全員にバスから降りることを要求されて、
私たちも全員バスから降りた
まあ、朝ご飯を食べる場所(大きなバスの停留所でレストランがあるところ)や昼におみやげやお昼を食べる場所、おなじく夕飯を食べる場所以外はバスから降りることができなかったので、足が伸ばせるので降りることに別段抵抗はなかった
日本人の私たちだけがおろされるなら少々怖い気持ちもわいてくるであろうが、
何しろ全員だから。
ただし、米国市民でないひとはパスポートを持って降りるように要請された
私と女友達はパスポートが入っているバックをもっておりたが、男友達は手ぶらでおりた
「パスポートもってるの?」
ときくと
「もってるから大丈夫だ」
といっていた
バスから降りると、ライフルを肩から下げた軍隊の人が5〜6名バスの外に立っていた
内心この人たちを怒らせたら、逮捕されちゃうのかなとか、こんな何もない砂漠地帯で
人を殺したって、誰にもばれないだろうなぁなどと、妄想が膨らむと同時にちょっと怖かった
そしてその男友達が
「パスポートを見せて」
と一人の国境警備隊の人から要求されると
突然シャツを脱ぎ、T-シャツをめくり
腹に巻いていたストッキングをぐるぐると外し始めた
そしてすっかりストッキングを外すと、中に入れてあったパスポートを取り出し、警備隊の人に見せた
きっと国境警備隊の人も、この日本人は少しおかしいと思ったに違いない
笑うこともできず、まじめな顔をして本人確認をして、表情を崩すことなく本人にパスポートを返却した
グレイハウンドの密入国のチェックはランダムで、運転手によると今日はたまたまだと言っていたように記憶している
きっとトランプ政権になり、今では毎日やっているのではないかと思う
なぜならば、グレイハウンドのバス料金はやはりお安い
所得のある人ならば、飛行機を選ぶだろうし、時間に余裕があるひとは、アムトラックなどの電車を選ぶだろうから
今となってはいい思い出だが、知らないということは怖いことだと思う
そしてロスからレンタカーでサンディエゴへ。そこからティワナ(メキシコ国境を出てすぐの町)へも
日帰り旅行をした
本当にすぐにメキシコに行って、昼食を食べて、戻ってきただけだったが
ほんの数キロ離れただけで、雰囲気が変わり少々怖かった
サンディエゴのマクドナルドではオレンジジュースを頼んだが、
相手は英語のわからないふりをしたのかどうかわからないが、
氷の解けたあきらかにオーダーミスで放置してあったにちがいないオレンジジュースを出してきた
人種差別的な対応で、スペイン語でジョークを言い合っているように見えた従業員に
若干傷つけられた
店の中を見渡すと、従業員もお客も私たち以外の人はみなメキシコ人だったので
アウェイ感満載で、また怒らせたら何をされるかわからないなあとも思ったので
文句も言わず、ほとんど日本語も話せず、そそくさと食べてそのマクドナルドから
出てきた。エリアによっては危険を感じる体験だった
南部の湿地帯、ミシシッピー河を超えたり、ディープサウスの州をいくつか横断してきたが、
本当にトレーラーハウスばかりあるエリアのそばを走ったり、西部に入ると
道中赤土の大地をみたり、羊の群れをみたり、大きなサボテンをみたり、砂漠を走ったり
変化の富んだ風景を堪能した
もしまたアメリカ横断をすることがあったら、ルート66を北上して、オハイオ州あたりのアーミッシュの村にステイしてみたいと思っている
そんな機会が果たして訪れるかどうか・・・・
でもいろいろな資料を読んで準備だけはしておこうと思っている
2018年06月18日
アメリカ旅行の思い出 その1
ブログを書いていたら、昔のこと思い出し、急にいろいろと書きたくなった。
若い時にアメリカへは何度も旅行にいったが、一番気持ちが落ち着いたのは南西部だったように思う。
ある夏には、友達とウィンドウズロック、グランドキャニオン、モニュメントバレー、からのラスベガス。
でもカジノにはたちよらず、デスバレーへ。
友達が熱中症になり、頭痛を訴えて、ダウンしてしまった。
夏なんて時期にデスバレーを訪れる人は少ないから(シーズンじゃない?)
このまま車がもし故障したら、友達ともども死んじゃうよ~
ちょー焦って車を運転した記憶。
次に思い出したのがナバホ族のガイドにナバホ族と間違えらえたウィンドウズロック。
1時間半の馬に乗って岩に描かれた絵(ペトログラフ)を見学に行くツアに参加中、
「どこから来たの」 と聞かれ
「日本からだよ」と答えたんだけど
「僕はリザベーションのどこから来たの と聞いたつもりだったんだ」 と言われた。
「・・・・・・」と私。
一瞬何を言っているのかわからなかったが、どうもナバホ族と間違えられて、
広いナバホの居留地のどこから来たのかと聞いたつもりだったのに、
日本人と知ってちょっとびっくりしたということだったらしい。
彼はナバホ族の人がナバホの観光地に観光客としてきたと思っていたのだった。
ペトログラフ自体も興味深いものだったが、
ナバホ族に間違えらえたことをどうとらえていいか考えてしまった。
実は、ニューメキシコへ入ってすぐの町でも、ナバホ族と間違えられたので、雰囲気が似ているのかもしれない。そういえば、Native American's Intertribal festival をモンタナ州で見学したときも、妙にその場にフィットしていたように思う。
デスバレーでは汗が出ない。
現実には汗は出ているのだが、水滴となって垂れてこないで。その場ですぐに蒸発してしまう。
わきの下、膝の裏が湿らない。でもTシャツには白い塩が噴いた跡が。
さらに、風は吹いているが熱風で、顔にドライやーを当てられているような感じで、
目が乾いて開けていられなかった。
そして何がぶきみだったかというと、
誰も、何も存在していないところだから(小さな虫などはいるかもしれないが)
音が聞こえない。
静寂と孤独の空間。
今でもあの不思議な感じは覚えている。
モニュメントバレーでは、ナバホインディアンのジープに乗り込み、赤土の埃の舞う中、
自分が西部劇の映画に出ているような気分になった。
夕日が沈む瞬間までじーっと静かに太陽を見つめ、
荘厳な気持ちに胸が熱くなったりした。
グランドキャニオンでは、Uターン禁止の場所で車をUターンさせて
警察から車を止められひやっとした。
8月の夏だったにも関わらず、陽が落ちると肌寒かったのを覚えている。
翌年の夏には、モアブのアーチーズ、メサベルデ、4corners 、デンバー、ロッキー山脈などの
ユタ州とコロラド州の自然を満喫した。
これまたロッキー山脈では3時間の乗馬のツアーに参加し、自然豊かな森の中を馬に乗って進み、
おいしいランチをいただいた。
空気が澄んでいた記憶がある。
アーチーズでは朝の4時半に起き、空気のひんやりした寒さを感じながら、
水や地図を持ち、道なき道を石が積まれているだけの道しるべを頼りに、頂上まで登った。
朝日がちょうど出てきたころに、その場にいる人たちは、太陽をそれぞれの思いで拝み、
想いにふけっていたそのとき、
イタリア人がぎゃーぎゃー大声で話ながら登ってきた。
そして彼らが頂上に来て朝日を見た時の大げさな喜びの声の後、
一瞬の静寂はあったものの、またベラベラ話しはじめた。
「ここから突き落としてやろうか??」
と本気で思ってしまった。
人に対して寛容さだけがとりえだと思っていた自分だが、
苦労して登って、やっとの思いで登頂し、
朝日を堪能したかったのに邪魔されて、思わず余裕がなくなった。
そういえば、あの時の写真のネガはどこにあるのだろう???何度も引っ越しをしたから、そういう思い出の品もどこかにしまい込んでしまったようだ。
ちょっと時間があったらアルバムの整理でもしようかと思った。
↓ デリケートアーチ