2018年06月27日
アーミッシュになぜ惹かれてしまうのだろうか
アーミッシュに本格的に関心を持ったのは、この本を読んでから
『アーミッシュの赦し』なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を許したのか
ドナルド・B・クレイビル/ スティーブン・M・ノルト/ デヴィッド・L・ウィーバーザーカー
一番驚いたのは、自分の家族が殺されたのにも関わらず、
犯人を赦し、その犯人の家族をも赦し、自分も娘を殺され辛い時期でもあるのに、
犯人の家族を励まそうとする、アーミッシュの思考でした。
自分の娘がレイプされても、
「私たちはあの若者を許します。別の生き方をしてほしいのです」
「動機がわかってもしかたがない。神がお計らいになることの本当の理由は
私たちにはわかりません。」
「私たちは裁く立場にない。それは偉大なる神がなさること」
そしてアーミッシュは、赦さなければ許されない、と信じている。
アーミッシュの信仰の核心、救いの概念の核心
神の赦しは、他者を進んで赦せるかどうかにかかっている。アーミッシュの話、説教、文章に
繰り返し現れるフレーズは
『許されるためには、赦さなければならない』
「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、
もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
マタイ伝第6章第14−15節
アーミッシュの中心的価値はコミュニティーにある。そのため独特のルールとして
自己否定、従順、受容、慎ましさという教会の不文律(オードヌング)がある。
自分自身を教会の権威の下に置き、神に服従して生きること、そしてそれを行為でもって
表現することが何よりも大切なこととなる。
自分の子どもが殺されてもである。
「いくら許してもそれで終わりということではなく、何度でも赦さなくてはいけない」
自分の人間らしい感情と追従すべき考えの葛藤の中で、自分の悲しみを受け入れ、怒りを超えて
相手を赦すことに取り組んでいく彼らは、本当に聖書に描かれていることに忠実に生きているんだなあと
感じた。
1年間修行に出て、終われば通常の生活に戻るようなものではなく、自分がアーミッシュと生きていくと
決めた時から、死ぬまでずーっとである。1回赦したら自分が赦されるというわけではなく、死ぬまで将来的にも、何度でも怒りを受け入れ、相手を赦さななければ、自分は救われない(天国に入れない)
すべてを神にゆだねる全幅の信頼は次のアーミッシュのコメントから読み取れる。
「人が間違った選択をしても、神はお止になりません。この出来事がどんな善をもたらすのかはわかりません。でもきっと何か意味があるのです。」
「あんな恐ろしいことを誰かにまかせるのは神のご意志ではありません。でも神があれを起こるにまかせた以上、きっと私たちの精神にとって善いことがもたらされるのです。」
どんな出来事が起きようが、神が意図をもってなされたことだろうから、受け止めて、赦していく。
自分の個人としての感情を否定し、受け入れ、乗り越え、赦す。
これが人間にとって健康な精神状態を保つという視点で考えてみて、果たして健康的といえるのかどうかはわからない。そもそもボタンは装飾、装飾は、虚栄、だから服には一切のボタンがついていない。
模様のある服は着ない。アクセサリーはつけない、など人よりも目立つことは、嫌われる。
自慢話や知識をひけらかすことも、聖書の教えからは離れてしまうので好まれない。
アメリカの文化の特徴として認知されている自己主張をことごとく否定しながら生きている彼らにとって、
自分の感情でさえも主張することをコントロールしているわけだ。
いままでも、アーミッシュのコミュニティーの絆の強さ、シンプルライフ、自然と生きる姿、物事に対する感謝、神に対する絶対的な信頼など様々なことが魅力的であった。でも今回、自分の感情を味わうよりもさきに、聖書の教えにしたがうストイックさに、自己否定の意味を初めて知りました。自分が思っていた以上の自己否定と実践でした。
また、神が一番偉く、次に男性、そして女性と順位が明確であることに、違和感を抱きました。
自分が旦那からのDVがあったとしても離婚できない。DVがあっても逃げることもできない。それでも神のご意志だと受け止めて、赦すことができるのだろうか???
今まで思っていたイメージをはるかに超え、考えさせられる本でした。
しかしながら、神に従って生きる 日々の継続的な実践 コミュニティーの在り方にはいまだに魅力を感じています。現代には失われてしまっている何かに反応しているからかもしれません。
『アーミッシュの赦し』なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を許したのか
ドナルド・B・クレイビル/ スティーブン・M・ノルト/ デヴィッド・L・ウィーバーザーカー
一番驚いたのは、自分の家族が殺されたのにも関わらず、
犯人を赦し、その犯人の家族をも赦し、自分も娘を殺され辛い時期でもあるのに、
犯人の家族を励まそうとする、アーミッシュの思考でした。
自分の娘がレイプされても、
「私たちはあの若者を許します。別の生き方をしてほしいのです」
「動機がわかってもしかたがない。神がお計らいになることの本当の理由は
私たちにはわかりません。」
「私たちは裁く立場にない。それは偉大なる神がなさること」
そしてアーミッシュは、赦さなければ許されない、と信じている。
アーミッシュの信仰の核心、救いの概念の核心
神の赦しは、他者を進んで赦せるかどうかにかかっている。アーミッシュの話、説教、文章に
繰り返し現れるフレーズは
『許されるためには、赦さなければならない』
「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、
もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
マタイ伝第6章第14−15節
アーミッシュの中心的価値はコミュニティーにある。そのため独特のルールとして
自己否定、従順、受容、慎ましさという教会の不文律(オードヌング)がある。
自分自身を教会の権威の下に置き、神に服従して生きること、そしてそれを行為でもって
表現することが何よりも大切なこととなる。
自分の子どもが殺されてもである。
「いくら許してもそれで終わりということではなく、何度でも赦さなくてはいけない」
自分の人間らしい感情と追従すべき考えの葛藤の中で、自分の悲しみを受け入れ、怒りを超えて
相手を赦すことに取り組んでいく彼らは、本当に聖書に描かれていることに忠実に生きているんだなあと
感じた。
1年間修行に出て、終われば通常の生活に戻るようなものではなく、自分がアーミッシュと生きていくと
決めた時から、死ぬまでずーっとである。1回赦したら自分が赦されるというわけではなく、死ぬまで将来的にも、何度でも怒りを受け入れ、相手を赦さななければ、自分は救われない(天国に入れない)
すべてを神にゆだねる全幅の信頼は次のアーミッシュのコメントから読み取れる。
「人が間違った選択をしても、神はお止になりません。この出来事がどんな善をもたらすのかはわかりません。でもきっと何か意味があるのです。」
「あんな恐ろしいことを誰かにまかせるのは神のご意志ではありません。でも神があれを起こるにまかせた以上、きっと私たちの精神にとって善いことがもたらされるのです。」
どんな出来事が起きようが、神が意図をもってなされたことだろうから、受け止めて、赦していく。
自分の個人としての感情を否定し、受け入れ、乗り越え、赦す。
これが人間にとって健康な精神状態を保つという視点で考えてみて、果たして健康的といえるのかどうかはわからない。そもそもボタンは装飾、装飾は、虚栄、だから服には一切のボタンがついていない。
模様のある服は着ない。アクセサリーはつけない、など人よりも目立つことは、嫌われる。
自慢話や知識をひけらかすことも、聖書の教えからは離れてしまうので好まれない。
アメリカの文化の特徴として認知されている自己主張をことごとく否定しながら生きている彼らにとって、
自分の感情でさえも主張することをコントロールしているわけだ。
いままでも、アーミッシュのコミュニティーの絆の強さ、シンプルライフ、自然と生きる姿、物事に対する感謝、神に対する絶対的な信頼など様々なことが魅力的であった。でも今回、自分の感情を味わうよりもさきに、聖書の教えにしたがうストイックさに、自己否定の意味を初めて知りました。自分が思っていた以上の自己否定と実践でした。
また、神が一番偉く、次に男性、そして女性と順位が明確であることに、違和感を抱きました。
自分が旦那からのDVがあったとしても離婚できない。DVがあっても逃げることもできない。それでも神のご意志だと受け止めて、赦すことができるのだろうか???
今まで思っていたイメージをはるかに超え、考えさせられる本でした。
しかしながら、神に従って生きる 日々の継続的な実践 コミュニティーの在り方にはいまだに魅力を感じています。現代には失われてしまっている何かに反応しているからかもしれません。
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