2016年09月13日
無条件に愛するとは
無条件の愛。
これは、誰かを変えようとしたり、期待したりせず、その人がその人らしく生きる権利を愛すること。
誰かがすること、言うことを好きになる必要はないのです。
ただ、その人が意見を持つ権利を愛するということ。
お返しに何かを受け取る期待をせず、愛することができる。
それが、無条件の愛となる。
人は状況を操作して、自分の支配下に置こうとして…さまざまな手段を取ることをします。
例えば、親子関係だったら…?
親は子どもに言う事を聞かせようとするために
「そんなことを言う子は、好きではありません」
「そんなことをするなら、テレビを見せません」
…
いろいろ言っているのでは?
大人の世界は?
「自分に有利に働いてくれないなら、いいようには言わない」
「自分に利益をもたらすから、この人のために力を貸す」
…
いろいろありますね。
愛を得るために…
お金や名声を利用する場合もあるかもしれません。
これは、無条件の愛ではなく、愛の形ではない。
さて、無条件に愛する必要があるのか?
もし、自分が無条件に愛されたいのならば、与えたモノしか返ってこない。
そういう意味では、無条件に愛されたいのならば愛する必要はあるかもしれません。
その人が意見を持つ権利を愛すること。
どんな意見を持つかは、その人の自由なのです。
そして、その人が持つ意見に対して、あなたがどのような意見を持つことも自由なのです。
お互い
どんな意見を持つことも自由。
これが、無条件に愛する状態なのかもしれませんね。
その人がその人らしく生きることを認めることは、その人がやっていることを認めることではありません。
その人らしく考えて意見を持つことは自由ですが、その人がその意見で行動した結果が問題があるのならばそれはその行動を認めることではないのです。
これを間違えている人がやることは、自主性に任せるという呪いのような言葉に由来した放任主義。
これをしてしまう人がそれまでにやってきたことはがんじがらめに縛る行為だったのだろうって思います。
だから、やり方が自主性に任せると言いながら、放任しているだけになるのです。
その人らしく考えて意見を持っていい。
ただ、判断すべき事柄を伝えることが大事です。
見えていない情報がありすぎて、判断が適切にできないことが問題なのですね。
いろいろと事実が見えていて、その判断をして行動をするか?
それはわかりません。
見えていない見せていないことが多いと、判断を誤ることはあると思います。
例えば、なぜ日本は戦争をしたか?
なぜ日本は戦争を続けたか?
これらも、同じ。
その時の日本がとっていたやり方を北朝鮮が今やっているだけ…。
情報を見せない。知らせない。教えない。
これは、日本だって…いまだにやっていること。
そしておそらく、世界中の国々がやっているかもしれないと思いますわ。
ただ、見せない、知らせない、教えない…こんなことができない時代にはなっていますね。
きちんと適切に情報を得る機会を与え、その人がどう判断するか?
情報が足りなくて不適切な判断をして、不適切な行動をとった結果をどう対処するか?
その人がどのような意見を持つことも愛する。
判断を誤った後に、次に気づいたときにどうするか?
これもその人の自由なのです。
最後は神様…宇宙…いろんな言い方がありますが、少なくとも己が見ている。
判断するための情報を適切に与えると、どのような判断をする人も同じ答えを出す場合があります。
例えば、地球環境が悪くなっても良いか?など…
100年後と言われたら、良いと答える人もいるかもしれません。
でも、いろんな判断するための情報を得て…それでも良いと答える人…
減っていくと思いませんか?
地球を捨てて、他の惑星に行く。
そんな風に考えるのならば…地球をダメにしても次があるなど、そうやって取り組むこともあるかもしれません。
ただ、自分が生きているとして、代替の星もなく…
どうでしょうか?
情報を与えないで、相手を操作しようとする…そんなやり方をいまだにやる人たちもいます。
そうすることで、相手を操作しやすいということを知っているから…。
ただ、そうすることで判断が偏り、その判断が不適切でエゴでしか考えられていない決断を取り続けていたら…
竹がどんなに曲げようとしても、もとのまっすぐな状態に戻ろうとするように、世の中も、反動をもってもとのまっすぐな状態に戻ろうとする。自然の原理です。反動が大きいかどうかは…歪み具合によりますが…。
あるべき姿になるだけ…歪ませている自覚がなくても、情報を与えられないでゆがめている人たちは世の中にたくさんいるのです。
ただ、歪ませていることが生み出す最終結末を知っていて、それでも同じことをやり続けるか?それは、どうでしょう…?
見せていないもの、わかっていないものが多すぎると、判断を誤ることがあります。
そして、誤った判断によって生じるものは、望まない結果…。行為の直後は自分のエゴを満たす満足は得られるかもしれません。しかし、中長期的には、取り返しがつかない結果を招くこともあるのですね。
ただ、歪みを元に戻そうとする力が働くと反動は大きく、歪ませようとし続けたなら、その反動でどこかに吹っ飛ばされたりするくらいの力を受けて…無理やりでも元に戻るものです。まっすぐな…本来あるべき姿にね。
北朝鮮のやっていることを、おかしい…そう思いながら見ることができるのならば、今の日本はどうか?見てみた方がいいとも思います。
なぜなら、他国がおかしく見えるのならば、自分の国もおかしいところがあるかもしれないのです。
同じ手段を取らないために…。
エゴを押し通す人の意見を通し続けようとするあまり、周囲のそのおかしさに気づく人間から同じことをとする意欲を喪失させ、同じようにエゴを押し通したい人たちで徒党を組み、その体制を維持しようとする。
おかしさに対してどうにかしたいという思いを持つ人たちを抑え込もうとして、ますますエゴを通そうとする状況を作るために組織を動かしていく。同じようにエゴを押し通したい人たちを中心に置き、苦言が入らないような体制にしていく。
全体のために…という視点を持ち、エゴを押し通すことを自ら辞めることができるか?
大きなキーポイントだと思います。
自ら辞めることができないならば、
周りがそれを押しつぶす以外、全体を守ることができない。
いろんなことが見えてきたとき、どう考えるか…どんな意見を持つか…自由なのです。
問題があった判断だったと自己の責任を意識して、戦犯としての責任を受けた人もいますし、その自己の責任を逃れようとして生きてこの世を作った人もいます。
日本人だっていろいろですね。
大きかろうと小さかろうと、戦場へ行った理由は、戦場へ行くことを拒否しなかったから。
拒否できないと思い従うことも、その人が持った意見なのです。
そして、その後どんなことを行うのか…
無条件に愛するとは、その人がたとえ誤った判断をして隠し通そうとしていても、その人のその意見を持つ権利を愛する。それによってどのような結末が訪れるか…それをその人は覚悟するという意味でしかないから。
カルマを増やすという言い方をしますが、その人の持つカルマをどうするか…来世まで持っていくのも自由。
次の世代…その人の子孫ががそのカルマを受けた人生を歩むようになるだけですし、それを含めて行動している。
知らなかった…と言うことが、適切な判断をさせないことがある。
無条件に愛するというのは、
その人が持った意見を変えることでもありません。
その人が持った意見をもとに行動して、それによって得ることすべてを受けることを認めること。
判断基準として得られる情報を最大限に提供することはできても、行動を変えることはできないのだと理解すること。
まがったものは必ず元に戻る。
自然の原理。
少し曲がって気づいて戻すと、反動は少ない。
だけど、大きく曲がって戻す…または、よりまげる…
どちらを選ぶかによって反動が変わる。
反動が大きくなればなるほど、その反動によって痛い思いをすることは出てくるでしょう。
今の世でその反動を受けるか、来世で受けるか…
子孫がその反動を受けていることを見ながら、反動を受けるというパターンもありますね。
直接に反動が返ってくる…自分に…より辛いと聞きますね。
何をどう選ぶかは、見えているモノによって違うと思いますが、視野が狭く…判断を誤ったとしても、それも自己責任。
受けるべきは受けなければいけない…自然のおきてですね。
これは、誰かを変えようとしたり、期待したりせず、その人がその人らしく生きる権利を愛すること。
誰かがすること、言うことを好きになる必要はないのです。
ただ、その人が意見を持つ権利を愛するということ。
お返しに何かを受け取る期待をせず、愛することができる。
それが、無条件の愛となる。
人は状況を操作して、自分の支配下に置こうとして…さまざまな手段を取ることをします。
例えば、親子関係だったら…?
親は子どもに言う事を聞かせようとするために
「そんなことを言う子は、好きではありません」
「そんなことをするなら、テレビを見せません」
…
いろいろ言っているのでは?
大人の世界は?
「自分に有利に働いてくれないなら、いいようには言わない」
「自分に利益をもたらすから、この人のために力を貸す」
…
いろいろありますね。
愛を得るために…
お金や名声を利用する場合もあるかもしれません。
これは、無条件の愛ではなく、愛の形ではない。
さて、無条件に愛する必要があるのか?
もし、自分が無条件に愛されたいのならば、与えたモノしか返ってこない。
そういう意味では、無条件に愛されたいのならば愛する必要はあるかもしれません。
その人が意見を持つ権利を愛すること。
どんな意見を持つかは、その人の自由なのです。
そして、その人が持つ意見に対して、あなたがどのような意見を持つことも自由なのです。
お互い
どんな意見を持つことも自由。
これが、無条件に愛する状態なのかもしれませんね。
その人がその人らしく生きることを認めることは、その人がやっていることを認めることではありません。
その人らしく考えて意見を持つことは自由ですが、その人がその意見で行動した結果が問題があるのならばそれはその行動を認めることではないのです。
これを間違えている人がやることは、自主性に任せるという呪いのような言葉に由来した放任主義。
これをしてしまう人がそれまでにやってきたことはがんじがらめに縛る行為だったのだろうって思います。
だから、やり方が自主性に任せると言いながら、放任しているだけになるのです。
その人らしく考えて意見を持っていい。
ただ、判断すべき事柄を伝えることが大事です。
見えていない情報がありすぎて、判断が適切にできないことが問題なのですね。
いろいろと事実が見えていて、その判断をして行動をするか?
それはわかりません。
見えていない見せていないことが多いと、判断を誤ることはあると思います。
例えば、なぜ日本は戦争をしたか?
なぜ日本は戦争を続けたか?
これらも、同じ。
その時の日本がとっていたやり方を北朝鮮が今やっているだけ…。
情報を見せない。知らせない。教えない。
これは、日本だって…いまだにやっていること。
そしておそらく、世界中の国々がやっているかもしれないと思いますわ。
ただ、見せない、知らせない、教えない…こんなことができない時代にはなっていますね。
きちんと適切に情報を得る機会を与え、その人がどう判断するか?
情報が足りなくて不適切な判断をして、不適切な行動をとった結果をどう対処するか?
その人がどのような意見を持つことも愛する。
判断を誤った後に、次に気づいたときにどうするか?
これもその人の自由なのです。
最後は神様…宇宙…いろんな言い方がありますが、少なくとも己が見ている。
判断するための情報を適切に与えると、どのような判断をする人も同じ答えを出す場合があります。
例えば、地球環境が悪くなっても良いか?など…
100年後と言われたら、良いと答える人もいるかもしれません。
でも、いろんな判断するための情報を得て…それでも良いと答える人…
減っていくと思いませんか?
地球を捨てて、他の惑星に行く。
そんな風に考えるのならば…地球をダメにしても次があるなど、そうやって取り組むこともあるかもしれません。
ただ、自分が生きているとして、代替の星もなく…
どうでしょうか?
情報を与えないで、相手を操作しようとする…そんなやり方をいまだにやる人たちもいます。
そうすることで、相手を操作しやすいということを知っているから…。
ただ、そうすることで判断が偏り、その判断が不適切でエゴでしか考えられていない決断を取り続けていたら…
竹がどんなに曲げようとしても、もとのまっすぐな状態に戻ろうとするように、世の中も、反動をもってもとのまっすぐな状態に戻ろうとする。自然の原理です。反動が大きいかどうかは…歪み具合によりますが…。
あるべき姿になるだけ…歪ませている自覚がなくても、情報を与えられないでゆがめている人たちは世の中にたくさんいるのです。
ただ、歪ませていることが生み出す最終結末を知っていて、それでも同じことをやり続けるか?それは、どうでしょう…?
見せていないもの、わかっていないものが多すぎると、判断を誤ることがあります。
そして、誤った判断によって生じるものは、望まない結果…。行為の直後は自分のエゴを満たす満足は得られるかもしれません。しかし、中長期的には、取り返しがつかない結果を招くこともあるのですね。
ただ、歪みを元に戻そうとする力が働くと反動は大きく、歪ませようとし続けたなら、その反動でどこかに吹っ飛ばされたりするくらいの力を受けて…無理やりでも元に戻るものです。まっすぐな…本来あるべき姿にね。
北朝鮮のやっていることを、おかしい…そう思いながら見ることができるのならば、今の日本はどうか?見てみた方がいいとも思います。
なぜなら、他国がおかしく見えるのならば、自分の国もおかしいところがあるかもしれないのです。
同じ手段を取らないために…。
エゴを押し通す人の意見を通し続けようとするあまり、周囲のそのおかしさに気づく人間から同じことをとする意欲を喪失させ、同じようにエゴを押し通したい人たちで徒党を組み、その体制を維持しようとする。
おかしさに対してどうにかしたいという思いを持つ人たちを抑え込もうとして、ますますエゴを通そうとする状況を作るために組織を動かしていく。同じようにエゴを押し通したい人たちを中心に置き、苦言が入らないような体制にしていく。
全体のために…という視点を持ち、エゴを押し通すことを自ら辞めることができるか?
大きなキーポイントだと思います。
自ら辞めることができないならば、
周りがそれを押しつぶす以外、全体を守ることができない。
いろんなことが見えてきたとき、どう考えるか…どんな意見を持つか…自由なのです。
問題があった判断だったと自己の責任を意識して、戦犯としての責任を受けた人もいますし、その自己の責任を逃れようとして生きてこの世を作った人もいます。
日本人だっていろいろですね。
大きかろうと小さかろうと、戦場へ行った理由は、戦場へ行くことを拒否しなかったから。
拒否できないと思い従うことも、その人が持った意見なのです。
そして、その後どんなことを行うのか…
無条件に愛するとは、その人がたとえ誤った判断をして隠し通そうとしていても、その人のその意見を持つ権利を愛する。それによってどのような結末が訪れるか…それをその人は覚悟するという意味でしかないから。
カルマを増やすという言い方をしますが、その人の持つカルマをどうするか…来世まで持っていくのも自由。
次の世代…その人の子孫ががそのカルマを受けた人生を歩むようになるだけですし、それを含めて行動している。
知らなかった…と言うことが、適切な判断をさせないことがある。
無条件に愛するというのは、
その人が持った意見を変えることでもありません。
その人が持った意見をもとに行動して、それによって得ることすべてを受けることを認めること。
判断基準として得られる情報を最大限に提供することはできても、行動を変えることはできないのだと理解すること。
まがったものは必ず元に戻る。
自然の原理。
少し曲がって気づいて戻すと、反動は少ない。
だけど、大きく曲がって戻す…または、よりまげる…
どちらを選ぶかによって反動が変わる。
反動が大きくなればなるほど、その反動によって痛い思いをすることは出てくるでしょう。
今の世でその反動を受けるか、来世で受けるか…
子孫がその反動を受けていることを見ながら、反動を受けるというパターンもありますね。
直接に反動が返ってくる…自分に…より辛いと聞きますね。
何をどう選ぶかは、見えているモノによって違うと思いますが、視野が狭く…判断を誤ったとしても、それも自己責任。
受けるべきは受けなければいけない…自然のおきてですね。
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