由比正雪の幕府を倒す計画は、慶安4年(1651年)7月23日の夜、一味に加わっていた奥村八左衛門らが訴人となり、計画は事前に露見してしまう。
まず、丸橋忠弥が江戸で捕縛される。忠弥は、槍の名手であったにもかかわらずあっけなく捕まってしまった。
その前日である7月22日に既に正雪は、弟ら九人を伴い江戸を出発しており、計画が露見していることを知らないまま、7月25日の晩に駿府に到着した。
静岡市葵区梅屋町の町年寄梅屋太郎右衛門方に宿泊したが、翌26日の早朝、奉行所の捕り方に宿を囲まれ、異様な雰囲気の中で計画が露見したことを察した。
若い門弟たちは切って出ようとはやったけれど正雪は許さず、「生け捕られ拷問にあい見苦しい死に様をするよりも一緒に尋常に切腹しよう」と言って少しも騒がずその
まま切腹した。
続く
*参考資料:中央公論社発行 日本の歴史19巻
由比正雪墓跡
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