2007年10月05日
不倫は文化である
先日、職場の歓送迎会があった。その時に出た話題が「浮気」である。相手が浮気することを許せるか、もしくは自分は浮気をすると思うか、どこまで行ったら浮気なのか・・・等々の話だ。
そういえば、昔「不倫は文化である」と言って物議を醸した石田何某という俳優がいた。「文化」であるかどうかはわからないが、石田何某の言っていることに当時から反発を感じなかった私なのである。というか「結婚」という制度自体に「なんだかなぁ」と思っているのだ。最も身近なところにいる夫婦が幸せそうに見えず、しかし制度や世間体に縛られて別れることもできず・・・という状況を目の当たりにしていたからかもしれない。
以前、アメリカかどこかの学術論文で、人間は一生の間に4〜5人くらいのパートナーを取り替えていくのが、最も生理に合っている・・・という説が発表されたのを新聞で見た時「それだったら、私も理解できるなぁ」などと思ったものだ。
25歳くらいで結婚して、死ぬまで・・・寿命が80歳だとしたら55年もある・・・同じ人を好きでいられる自信が私には全くないのだ。
しかし、そういう考え方が大多数の善男善女には支持されないこともわかっている。というわけで、本日のエントリーは、世の善男善女が読むと不愉快かと思うので、以下、あぶり出し仕様である。間違ってもPCを火で炙らないように。
そもそも「結婚」なんて制度は、誰がいつ考え出したのだろう?。「結婚」という制度がなければ「戸籍」という制度も成り立たなくなるだろうが、近親婚を避ける以外の利点があるのだろうか?。IT技術者としては、「戸籍システム」がなくなれば、わけわからん外字の作成が減って、少しは業務がラクになるんでは・・・などと思うが。
何かの雑誌で立ち読みしたコラムの中に、「かつての日本は、恋愛や性に、今よりもずっとおおらかだった」と書いてあった。
源氏物語の時代のように、心の向くまま、気にいった女のところに通い、気持ちが離れたら通わなくなる・・・というのが、一番正直な生き方・愛し方である気がする。源氏物語は男が主人公の話だが、男だけでなく女も同様でいいのではないかと思うのだ。
ただ一人の人だけを一途に思い続けることが悪いとは思っていないし、そういう人にめぐり合えれば幸せだろうと思うのだが、そうじゃなくてもOKだろう。社会的に生活していく中で、心を動かされる異性が一人だけなんて(もしくは一人だけにしか心を動かされてはならないなんて)、とてもやりきれないと思うのだ。もちろん結婚してしまっていれば、気持ちの赴くままに行動したくても、背負っている様々な事象やしがらみを考えると、気持ちに正直になるのが難しいことはわかるのだが・・・。
実際のところ、結婚という契約を交わしたことで、相手の心を独占できるわけでもないし、移ろいやすい人間の心を制度で規定する法律自体が欺瞞に満ちたものなんではないかと思う。
情報処理技術者試験という国家試験があるが、これは一度取ってしまえば、生涯その肩書きを葵の印籠のように振りかざせる種類のものだ。失効ということがないのだ。
しかしMCP(Microsoft Certified Professional)やDTPエキスパートなどは違う。一定期間が過ぎたら再試験もしくは最新バージョンでの試験合格が要求される種類のものだ。
結婚という制度は、一見、情報処理技術者試験のように、「取ったら(結婚したら)それでゴール」のように見えるが、本当はMCPのように更新するための努力をお互いにしなければ関係継続は難しい種類のものだと思う。愛し愛される努力を怠れば、気持ちが離れて行っても仕方がない。また努力だけではどうしようもないことも起こるだろう。それも仕方のないことだ。
・・・と諦めのよさそうなことを言いながら、源氏物語の中で一番共感するキャラクターは六条の御息所だったりするのだが。(六条の御息所は、源氏の心が葵の上にあることがわかった時、心を病み、葵の上を呪い殺す役回りの女性である。)
後世の人間が無理矢理作り上げた“結婚制度という倫理観”に縛られるのは、人間を不自由にしている気がしてならない。
なんだかんだと理屈をこねくりまわしたが、一言で言っちゃえば、相手が独身だろうと彼女や彼氏がいようと結婚していようと「好きになっちゃったらしょうがないよ」なのだよなぁ。
できれば結婚している相手とはそうならないようにとブレーキはかかるが、気持ちが動いてしまったら、どうしようもない。