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2016年04月17日
福山雅治のドラマ「ラブストーリー」にでてくる吃音(きつおん=どもり)!私も以前なりました
ドラマで吃音が有名になりましたねぇ。私はある人と話すストレスからどもるようになりました。
同級生で同僚、だけどその職場では13年先輩の人が、私にプレッシャーを与えていました。
そこに働くまでの私は、接客業と言うメチャメチャ喋る仕事をしていたので、喋りは勿論得意でしたし、司会もするスピーチもする、話を聞いているフリも得意、アッチの人とコッチの人とか器用に話せる方だと自負していました。
そんな私が同級生の誘いで転職をし、全く知識のない福祉の世界に足を踏み入れ、自分が全然役に立てていない気がしていた頃がありました。
同級生に必要とされての転職。
しかし同級生だからこそ彼女の方もやりにくかったかもしれません。
彼女は昔から成績優秀
私は偏りがあり、理系は10 社会科は1 要領だけは良い人間
福祉には優しい気持ちさえあればなんとかなる、と飛び込んだのですが、13年先輩の彼女は情勢を把握し福祉の今を常に探っている人でした。
器が大きく、施設全体 京都の福祉全体 もしかしたら日本の福祉を見ていたのかもしれません。
私は全然そこまで知識もついていかないし、お酒で悪くなったのか分からない記憶力で、毎日のルーティンワークを覚える事で必死なのに、情勢の話を夜遅くまで私にしてきました。
迷惑、不愉快、息苦しい、分からない、帰りたい、もっと私が仕事を覚えてからにしてほしい、あなたは情勢を把握し私は目の前の小さな仕事をするという役割分担で良いんじゃない?など色々頭で考えていました。
私の話は少し置いておいて
その施設を利用している知的障害の利用者さんの中には、どもる(吃音症)人がいました。
わたしは知識も無いので、どもる原因など考えた事もなかったし、自分の事で精一杯で、どもりを気にした事もありませんでした。
しかし自宅での父との会話で「どもる人って、親から暴力をふるわれてたり、親や上司からの圧力でどもるようになるらしいよ」と聞いて、どもる利用者さんのお父さんはどんな人なのか気になりました。
いつも施設の行事を手伝ってくれる優しいお父さんですが、息子に腹が立ったりした時は時々殴るらしいです。
父の話は本当だったと思いました。
ここで私の話に戻しますが、福祉に働いて1年半程経った頃でしょうか。
私は自分がどもるようになった事に気付きました。
同級生の同僚と話すとき、言葉がスラスラ出てこないのです。
今までの人生で初めてでした。
今までならお酒でベロベロでも、何も考えが無い時でも、スラスラペラペラ話せた私が
今までなら頭に浮かんだことを言葉に出す連携がスムーズだったというか、次々言葉が浮かぶというか、それが当たり前でした。
それなのに言葉が頭に出てこないというか、頭の中に浮かぼうとしている言葉に霧がかかって見えない、みたいな感じでした。
頭の良い同僚に話を合わせたいのに、よくどもるようになっていきました。
会議でも発言出来ないし、発表しないとイケナイ時は異常に緊張して声が震える。
以前のように、司会やスピーチを平気でしていた自分とは別人になっていました。
プライベートも不安定だった事も原因の1つだったと思います。
そして食事もシッカリは食べれていませんでしたし、体の不健康が心をモロくしていたんだと思います。
朝仕事に行く前になると、動悸がしました。
同級生からの圧力ごときが跳ね返せない体になっていたのですね。
たまたま同級生の同僚は、私が勤めて2年半後に退職しましたが、その後も私の吃音症はスグには治りませんでした。
しかし会議で発言出来るようになったキッカケが訪れました。
やめた同僚の代わりに移動してきた年下の先輩が、底抜けに明るいトボケた人で、会議での発言もダメダメなんだけど笑える事ばかり言う、マジメで良い人なんだけど頼りない人でした。
会議でその人の後に発言するのがとてもやりやすく、少しずつ会議で発言出来るようになりました。
それと、やめた同僚のように、情勢の知識を私に求める人がいなくなったので、気も楽になったのかもしれません。
あと、会議の時に風邪でマスクをしていたら、表情が隠れるから発言しやすい事にも気付き、マスク作戦も利用しました。
結局私はその施設に4年半勤め、結婚前に退職したのですが、マタニティーブルーもあり、結婚してからも吃音症は治っていませんでした。
そして1年程前(結婚してから1年半後)転機が訪れました。
お義父さんが亡くなってお義母さんと毎日食事をご一緒するようになり、お義母さんが何でもかんでも「アレ」「アレ」と言うのを、なんて便利な言葉だと私はマネするようになり、言葉で完璧に伝えようという完璧主義を捨て、適当に話すようになりました。
仕事ではそれではダメでしょうが、別にプライベートでは迷惑かからないし、気持ちを軽く
それと以前から私を自信過剰にさせるほど褒めてくれる友達の、相変わらずの褒め殺しの言葉の数々が、みるみる私の心を充電満タンにし、走り出しそうなほど軽くしていきました。
マタニティーブルーが終わったのも吃音が治った理由の1つだと思います。
スラスラ喋れる自分が戻ってきたと感じたのは、昨年、私を自信過剰にする褒め殺しの友達のお祝いの席で、私がスピーチをする機会がありました。
スピーチなんて10年ぶりくらいで、少し前は会議でも発言出来なくなっていた私でしたが、相変わらずの友達の褒め殺しと、完璧じゃなくて良い(適当で良い)という気持ちと、精神的な不安定が消えた事によって、どもりなんて1回もない、書いていった紙なんて見ないアドリブ入りのスピーチを堂々とする事が出来ました。
もう大丈夫そうです。
また今後精神バランスを崩してどもりだしたら、まず健康な体を作り、友達に褒め殺しにしてもらい、不安要素を取り除き、適当に気楽に話す、で治ると思っています
ちなみに「問題夫と戦いながら、42才妻初めての体外受精をします!」というブログも書いています。
↓是非読んで下さい↓
https://fanblogs.jp/mamechishiki6
障がい者施設に働いて学んだ事2:精神的に病む:障害者
精神バランスを崩しそうな人には、聞きにくい事をドンドン聞いて、言いにくい事をドンドン吐き出させるのが効果的のようです
東北の震災の時に、福島県の障がい者福祉施設に応援に行きました。
と言っても直後ではなく数か月後でしたが、その施設の施設長と男性事務員さん迎えてくれました。
初日の晩に施設長さんが話してくれた事を思い出すと今でも涙が出ます。
その施設の男性事務員さんが、地域の消防団に入っておられたので、震災以来毎日捜索活動や死体運びをしておられたそうです。
毎日たくさんの死体を見る。そして運ぶ。今まででは考えられない毎日。受け入れがたい生活。
日に日に病んでいく事務員さんを見て、施設長さんはわざと「今日はどんな死体がいたのか」「何体死体がいたのか」イッパイ色々聞いたそうです。
すごく不謹慎なようにも思える質問。
亡くなった方の関係者さんからしたら、ホント不謹慎でしょう。
しかしこの事務員さんを救う為には必要な会話だったのです。
そっとしておいてあげた方が良いのでは?と思いがちですが、そっとしておく事はこういう時はダメらしいです。
そんな質問をするとまた思い出して、泣きながら嘔吐するそうですが、それでも自分1人でため込んではイケナイそうです。
自分の中にためていそうな事をドンドン聞いてあげて、ドンドン吐き出させる。
毎日毎日話を聞いてあげる。
その会話が完全に事務員さんを救ったようで、私が応援に行った時には全くおかしい様子など無い、健康な事務員さんでした。
質問者には、事務員さんと人間関係も勿論重要だと思いますし、否定したり途中で話を切ったりしない大らかさもきっと必要でしょう。
聞いても話しにくそうなら、まずは自分の話を先にしてあげるのもきっと良いでしょう。
包み込むタイプの人間じゃないなら、無理にマネはしない方が良いかもしれませんが、病んでる人に誰も近付かないような状態を放っておけない時、包み込む心の準備をして優しく大らかに少し会話をしてみるのも良いかもしれません。
福島への応援の少し後、いとこが鬱になって自殺しました。
今から思うと、何も出来ないけど会話ぐらいしに行ってみたら良かったな。
ダメで元々。
お金を貸してくれ、などの悩みには答えられませんが、心が傷ついたりスゴイ衝撃を受けたりして鬱になっているような、話を聞いて晴れていく可能性のある悩みなら、聞いてあげれば良かったな、と後悔しています。
ちなみに「問題夫と戦いながら、42才妻初めての体外受精をします!」というブログも書いています。
↓是非読んで下さい↓
https://fanblogs.jp/mamechishiki6
2016年04月14日
障がい者施設に働いて学んだ事:障害者
4年程働くと、自分がいかに恵まれているのかに気付けるかもしれません。〜ちなみに先輩指導員も4年目頃にこの仕事の深さに気付いたと言ってました〜
4年半しか働いていなくて、そろそろ分かってきたという時に退職してしまったのですが、障がい者福祉施設での経験は私の人生観を変えました
美容部員→祇園ホステス→ベンチャー企業役員→飲食店経営 等々と進んで来た人生で、何をしても満足しない、お金は何も考えず無駄使い、とりあえず朝まで飲む、みたいな人生を歩んでいました。
何か人の役に立てるような事がしたい、とか、自分を求めてくれるところで働きたい、と考えてる中でカナリの進路変更をし、福祉へと足を踏み入れました。
最初は何をして良いか分からないし、どう接して良いのか分からないし、どうすれば役に立つかも分からないし、お酒のせいか年のせいか忘れっぽいし、本当に大変でした
色んな障がい者さんの話を聞く中で驚いたのは、私より遥かに賢い大学生や大学卒業生が、精神バランスを崩して精神障がい者になっていたり、知り合いのお兄さんが交通事故から障がい者になっていたりで、私もいつ障がい者になってもおかしくないと思いました。
大学の途中で精神障がい者になった人は、人生で初めての彼女が出来て異常にハイテンションになり、結婚を意識して不安になり異常にローテンションになった結果、精神バランスが崩れて精神障がい者になってしまいました。
生まれつき障害を持って生まれてきた人もいます。
昔で言う知恵遅れ、今は知的障がいと言いますが、計算は出来ないし漢字も読み書き出来ないし地図も分からないし不器用、だけど体は健康で力持ちで記憶力も超超良かったり。(知的障がいにも色んな人がいますが)
私は記憶力に自信が無いので、本当に色々忘れて大目玉くらうところを、何十回もその人達に助けられました
政治にも経済にも詳しく政治家になりたいと思っているような人が車椅子生活で、頭は良いのに喋る事も出来ないしほとんど動く事も出来ないような生活をしている、という人もいました。
私なんか社会科の成績1だったのに、申し訳ない気持ちでした。
どうして「申し訳ない」なんて思うのか
それは自分が精一杯生きていないから、だったのではないでしょうか。
自分も精一杯生きていたら申し訳ないなんて思う事ないのです。
でもその頃は自分が恵まれている事にも気付いていない、何に精一杯になって良いか分からない、商売みたいに頑張れば収入が上がったりすると頑張った度合いが分かりやすいのですが、「頑張り=収入」ではない分野ってどうやったら精一杯なのか分かりませんでした。
仕事だけじゃなく周りの人間に対しても、「頑張り=収入」じゃない事に対しての価値を見出す事に苦労していました。
とにかく障がい者さん達に出来ない事(その頃の私は車の運転とお金の計算)をフォローして過ごす日々が続きました。
飛び抜けた才能を持っている人達なんだけど、その人達の苦手分野も分かってきて、物事を深く分析出来ないとか、急がば回れとかは分からないとか、全体を把握出来ないとか、手の込んだ料理は出来ないとか、心配事が自分で解決出来ないとか。
私はそういう困っておられる事にユックリ手を差しのべる事が生きがいになっていきました。
そんなある時障がい者の人達のDVDを見ました。
色んな障がい者さん達が生き生きと働くDVDでした。
そのDVDの最後が「障がいを持って生まれてくるのは、別にこの人達ではなくアナタでも良かったのですが、たまたま神様が割り当てたのがこの人達だっただけです。この人たちはある役割を持って生まれてきました。それは健常者の人達に自分は幸せなんだと気づいてもらう事です。」みたいな内容でした。
才能のある障がい者さんは、もっと他にも役割がおありでしょうが、少なくともこの1つは役割を持っておられるんだと思いました。
そして私は何の役割も無い、と思いました。
何か役割を考えよう、私の役割って何なのかズット考えました。
商売をしていた頃は、地元にないようなお店を作って地元を活性化させたいとか考えたり、少しは儲けさせてもらったし、振り返ると楽しかったと思います。
しかし過去にしがみつくのは好きじゃないし、昔と同じ事しても儲からない(とかウマクいかない)のが世の常
今までやった事ない事に目を向けたい
そして気付きました
人には、小さな悩みでも大きな壁になる事があって、ショーモナイ事なんだけどコレを超えないと先に進めない気がする、みたいな時があるから、私でも解決出来そうな事ならお手伝いしてスッキリさせてあげたい。
例えば以前は両親を支えるなんて考えた事なかったが、体力もドンドン衰えているので庭仕事など手伝ってみたり、夫の親の心の支えにもなれたらいいな。
こんな考えにさせてくれた福祉施設にも勿論恩返ししたい。(退職はしましたがその施設の友の会の役員にならせて頂きました)
今ではその他の事でも募金活動や署名運動、地元の学校の活性化などにもほんの少しですが力を注がせて頂いてるつもりです。
だいたい今まで自分を過剰評価しすぎてたというか、小さな事を大事にせず大きなことばっかり考えていたから地盤が固めれてなかったと思います。
自分は五体満足に生んでもらって、しかも今日までラッキーにも精神的にも身体的にも支障なく生きれている
考える事も出来るし行動する事も出来る
それだけで充分すごーい
そう思うと、普通ならワズラワシイような難問も考えるのが楽しいし、時間のかかるメンドクサイ作業も自分なら出来る気がして楽しいし、なかなか理解してもらえない事でも時間をかけてさりげなく理解に導くのも面白いと感じています。
今後、優しい気持ちと大きな心を持って生きていけたら幸せです
自分は幸せ者だと気付いた人が、間違いなく幸せな人なんだと思います
ちなみに「問題夫と戦いながら、42才妻初めての体外受精をします!」というブログも書いています。
↓是非読んで下さい↓
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2016年04月04日
MRIで頭がおかしくなりそうでした(パニック)
MRIでパニック障害になるところでした
今までにMRIを3回受けた事があります。
1回目は32歳の頃に脳の検査
2回目は40歳で股関節の検査
3回目は41歳で子宮の検査でした。
1回目の脳の検査は、20代の頃に寝ている時に例えようの無い痛みが頭に走ったのに、病院に行ってないという話をたまたま知り合いの脳外科の先生にしたところ、念の為検査しておこうとなって病院に行きました
MRI中に、何か抑えられないイライラみたいなものがこみ上げてきて、機械から出ようと思って技師さんを見ました。
そしたらそこに知り合いの先生が来ていて、キャラが面白い先生だったので急に気分が楽になり、ギリギリ何も起こらず無事MRIを終えました。
この頃は水商売をしていたので、二日酔いかと思っていました
2回目は股関節が外れかけてからずっと痛くて行きました
股関節だから、頭も機械から出ているし、音楽もかけてくれると言うから安心していましたが、今度は知らない病院で、知ってる先生もいないし、心も超不安状態のままだったから相当ヤバくて、あと1分長かったら頭が爆発して障害者の仲間入りするところだったかもしれません。
MRIの音が大きすぎて、音楽なんて全然聞こえませんでした。
この頃には私は障害者施設の職員を経験していたので、これがパニックだと分かりました。
ネットで調べたら、MRIがきっかけで精神障害者になった人もおられました。
私はギリギリ大丈夫だったものの、次の日までしんどかったです。
3回目はMRIは嫌だと言ったのですが、医者には私の気持ちは分からないのか出来るだけ受けるように勧めてくるし、不妊治療に関する筋腫の重要な検査だったので色々準備して挑みました。
@自分が落ち着ける枕
A寒くないようにひざ掛けやレッグウォーマー
B精神を安定させる薬(病院で出してもらった)
C↓
1枚物の読み物 この病院は技師さんが知り合いだったので、雑誌を読んでても良いと言って頂いて心が軽くなったのですが、寝ころびながら腕がだるくなるような雑誌では動いてしまってやり直しになりそうですし、甘えに甘えてこれをMRIの機械に貼ってもらって、見やすい感じにしてもらって挑みました。 |
拡大すると文字がみえますかねぇ? |
大好きなワンピースの本を自分でA4 1枚にまとめたのです |
お陰で私はまだこの健常者の世界で生きています。
結局、薬は飲むのが怖かったので飲んでいません。
2回目の病院では知り合いがいない病院で、知らない技師さんに「動かないでくださいね」と言われたので気持ちがスゴク窮屈になりましたが、3回目の病院では「雑誌を読んでても良い」と言って頂けた事も、心を軽くした大きな大きな要因だと思います。
それとヤッパリ対策を打って行った事が一番大きかったと思いますし、考える頭があるのに今まであまり使ってなかったのかな
今回色々調べて自分を救う事が出来て嬉しいです
自分の体と人生を、自分で救う事が出来ました
こんな人は少ないとは思いますが、私のこの経験が誰かのお役に立てたら嬉しいです
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ちなみに「問題夫と戦いながら、42才妻初めての体外受精をします!」というブログも書いています。
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