2011年10月02日
司馬遼太郎記念館を訪ねて
今日は司馬遼太郎さんの記念館を訪ねてきました。
歴史物を書く一人として、司馬さんはとても大きな目標であるわけですが、行って感じたのはこの人に追いつくのは大変なことだなということです。ただし、諦めではなく、後を追う価値があるという意味です。
物を書くにあたって、様々な資料(僕の場合は史料でもある)に当たるのは当然なのですが、特に司馬さんはその量が半端ではありません。自宅の蔵書で一つの図書館に匹敵するほどの量があるそうです。それだけの力を注いで一つの作品を作り上げてこられたのですから、今の僕が及ばないのは当然でもあります。
記念館の中の手紙で、司馬さんは「二十一世紀の街角には私はいないでしょう。(中略)私は君たちに二十一世紀はどうだったかとたずねたい」(記憶の中なのでかなり曖昧ですが、大意はこの通りです)と残しておられます。同時に、現代文明の暴走に心を痛め、しかし人間はそれほど愚かでもなく、その過ちに気づくことができるともおっしゃっています。
二十一世紀がどのような世紀か、その全てを見ることは当然僕にもできないのですが、少なくとも、ただ人間は二十世紀の過ちには気付いて、より正しい道を歩こうとしている、と報告できるような気が、しています。
歴史物を書く一人として、司馬さんはとても大きな目標であるわけですが、行って感じたのはこの人に追いつくのは大変なことだなということです。ただし、諦めではなく、後を追う価値があるという意味です。
物を書くにあたって、様々な資料(僕の場合は史料でもある)に当たるのは当然なのですが、特に司馬さんはその量が半端ではありません。自宅の蔵書で一つの図書館に匹敵するほどの量があるそうです。それだけの力を注いで一つの作品を作り上げてこられたのですから、今の僕が及ばないのは当然でもあります。
記念館の中の手紙で、司馬さんは「二十一世紀の街角には私はいないでしょう。(中略)私は君たちに二十一世紀はどうだったかとたずねたい」(記憶の中なのでかなり曖昧ですが、大意はこの通りです)と残しておられます。同時に、現代文明の暴走に心を痛め、しかし人間はそれほど愚かでもなく、その過ちに気づくことができるともおっしゃっています。
二十一世紀がどのような世紀か、その全てを見ることは当然僕にもできないのですが、少なくとも、ただ人間は二十世紀の過ちには気付いて、より正しい道を歩こうとしている、と報告できるような気が、しています。
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