2012年07月24日
且夫れ重刑は、人を罪せんが為めに非ず
夫れ重きに以りて止(や)む者は、未だ必ずしも軽きに以(よ)りて止まず。軽きに以りて止む者は、必ず重きに以りて止む。是を以て上重刑を設くるや、而ち姦尽〃(ことごと)く止み、姦尽〃止まば、則ち此れ奚(な)んぞ民を傷(そこ)なわんや。
「韓非子」 金谷治 訳注 岩波文庫より
たまに読み返したりする韓非子ですが、つくづくマキャヴェリストだなと思います。情も必要ですが、まず法治国家の仕事は法を定め、自らがその法を遵守することであって、その法をかいくぐることではないはずです。
大津のいじめによる自殺でネット上で実名と顔写真がさらされるということが起こりましたね。そこからさまざまな問題が起こっています。ネット上での誹謗中傷だけならまだしも、中には脅迫状を送りつけたりするような手合いも現れています。それでまったく関係のない人に脅迫状や脅迫電話などがかかったりしているみたいですね。
確かにいじめの加害者は許されるものではないですが、自分たちの行為もそれと同等、もしくはそれ以上の卑劣さを持っているということに気づかないのでしょうか。自分たちは制裁のつもりかもしれませんが、顔も出さず、実名も出さず、ただ安全なところからやる。それもネット上で全員が加害者を叩くからやる。その精神の卑劣さ、矮小さ、汚らわしさは何者にも例えようがありません。僕の表現が可能な範囲で敢えて例えるとすれば蛆虫の巣でしょうか。
彼(ら)には今後、罪科が付きまといます。それによりさまざまなところで縛りを受け、己の行為を悔いるときがくるでしょう。当然学校側も大きな責任と罪を背負います。それを成すのは、まずは法です。すべての人に他人を傷つける権利がないように、すべての人に、私的に制裁を加える権利も、法治国家には存在しないのです。そして法を用いる人間には、それを厳格に適用する責務が生じます。それが、人と社会との「契約」です。
わざわざ韓非子を持ち出しましたが、僕は死刑廃止論者ではありません。厳格に運用され、正確に適用されるなら死刑は存在してもかまわないと思っています。ただ、ここで冤罪は絶対に許されません。後戻りができないからです。だから、死刑が執行される、そのときまで厳密に検証され続ける必要があります。また、悪法に従わなければならない、とも思っていません。それは悪法だから守らない、というわけではなく、民主国家においては、悪法に対して戦う手段があるからです。それもまた、「契約」です。
法とは、そして法治国家とは、つまりはそれらの「契約」によって立っています。その「契約」に背いて私的な制裁を加えることは、何人にも許されていないのです。唯一つの例外は、生命の根源的な欲求からくる行動、つまり「正当防衛」のみです。これは生命の「存在」が法の「存在」よりも先行することに由来します。レヴィナスの語法を借りれば、人は「食べ物ではない」ということかもしれません。
今一度、その「契約」に立ち返り、人が「行為」するとき、それが何を意味するのか、もう一度考え直してもらいたいものです。
「韓非子」 金谷治 訳注 岩波文庫より
たまに読み返したりする韓非子ですが、つくづくマキャヴェリストだなと思います。情も必要ですが、まず法治国家の仕事は法を定め、自らがその法を遵守することであって、その法をかいくぐることではないはずです。
大津のいじめによる自殺でネット上で実名と顔写真がさらされるということが起こりましたね。そこからさまざまな問題が起こっています。ネット上での誹謗中傷だけならまだしも、中には脅迫状を送りつけたりするような手合いも現れています。それでまったく関係のない人に脅迫状や脅迫電話などがかかったりしているみたいですね。
確かにいじめの加害者は許されるものではないですが、自分たちの行為もそれと同等、もしくはそれ以上の卑劣さを持っているということに気づかないのでしょうか。自分たちは制裁のつもりかもしれませんが、顔も出さず、実名も出さず、ただ安全なところからやる。それもネット上で全員が加害者を叩くからやる。その精神の卑劣さ、矮小さ、汚らわしさは何者にも例えようがありません。僕の表現が可能な範囲で敢えて例えるとすれば蛆虫の巣でしょうか。
彼(ら)には今後、罪科が付きまといます。それによりさまざまなところで縛りを受け、己の行為を悔いるときがくるでしょう。当然学校側も大きな責任と罪を背負います。それを成すのは、まずは法です。すべての人に他人を傷つける権利がないように、すべての人に、私的に制裁を加える権利も、法治国家には存在しないのです。そして法を用いる人間には、それを厳格に適用する責務が生じます。それが、人と社会との「契約」です。
わざわざ韓非子を持ち出しましたが、僕は死刑廃止論者ではありません。厳格に運用され、正確に適用されるなら死刑は存在してもかまわないと思っています。ただ、ここで冤罪は絶対に許されません。後戻りができないからです。だから、死刑が執行される、そのときまで厳密に検証され続ける必要があります。また、悪法に従わなければならない、とも思っていません。それは悪法だから守らない、というわけではなく、民主国家においては、悪法に対して戦う手段があるからです。それもまた、「契約」です。
法とは、そして法治国家とは、つまりはそれらの「契約」によって立っています。その「契約」に背いて私的な制裁を加えることは、何人にも許されていないのです。唯一つの例外は、生命の根源的な欲求からくる行動、つまり「正当防衛」のみです。これは生命の「存在」が法の「存在」よりも先行することに由来します。レヴィナスの語法を借りれば、人は「食べ物ではない」ということかもしれません。
今一度、その「契約」に立ち返り、人が「行為」するとき、それが何を意味するのか、もう一度考え直してもらいたいものです。
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コメントありがとうございます。<br>
冤罪が起きるのは、防げないと僕も思います。この場合の「厳格」とは、それが妥協なく疑う余地のないレベルまで事実関係を確認すること、です。法を執行する立場である警察や検察、裁判所がその案件について全力で取り掛かり、しばしばニュースで出てくるような杜撰なことをせず、事実関係を確認し、その上で下した決定に対して最後まで責任を持ち、執行までに疑問が出ればそれに対してまた妥協なく調べることです。つまり冤罪を防ぐことに対して最大限の努力を払い続ける責務があることをいいます。ただ、これは判決および刑の執行のレベルにおいてであり、僕が死刑廃止せよとまで考えない理由は、やはりタイトルにあります。<br>
そもそも韓非子の厳罰の理由は、それを適用することが目的ではなく、それを定めることでやってはいけないことを示し、人々に犯罪を起こさせないようにする、抑止力にあります。もちろん、そんな単純なことでは人々の犯罪はやみません。隠れて人は犯罪を行うでしょうし、それならばそれを取り締まらなければならない。その際の警察力としての注意喚起が、この一文の主旨となります。
「冤罪が起きないように厳格に運用されなければならない」ということなら、それは不可能ではないですか? 人間のすることには必ず限界がある。それを良しとするなら、死刑制度維持、不可とするなら、死刑制度廃止となるのではないでしょうか。