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古びた喫茶店の窓際、静かに雨が降る中、遥(はるか)は一杯のコーヒーを前にして待っていた。店内には小さな時計の音と、カップが触れ合う控えめな音だけが響いている。
約束の時間を少し過ぎていた。彼は来ないのだろうか。
「遅れてごめん。」
ドアのベルが鳴り、傘をたたみながら彼――直人(なおと)が現れた。少し濡れた髪に、彼のいつもの無邪気な笑顔が浮かぶ。
「全然、平気だよ。」遥は微笑みながら彼の向かいに座る姿を見守った。
「雨の日にこんな所で待たせるなんて悪かったな。」直人は少し恥ずかしそうに頭をかいた。
「それも悪くないよ。雨の日って、なんか特別じゃない?」遥は窓の外を見つめた。濡れた道路に映る街灯の光が、静かに揺れている。
「特別?」
「うん。空気が変わる気がする。普段見逃していることが、全部鮮明に見えるみたいな。」
直人はふと真面目な表情になり、彼女の言葉を嚙みしめるようにうなずいた。「確かに、そうかもな。こういう日は、いつもより感情が近い気がする。」
二人はしばらく言葉を交わさず、ただ雨音に耳を傾けた。
やがて直人が口を開く。「あのさ……今日伝えたいことがあったんだ。」
遥の胸が少し高鳴る。「何?」
「俺、来月から転勤なんだ。」
その言葉は、雨音と共に遥の心に深く沈んだ。
「そう……なんだね。」
「でも、これで終わりにしたくない。遥と、これからも一緒にいたいんだ。」
遥は驚いた表情を見せた後、静かに笑った。「雨の日の約束、覚えてる?」
直人は少し考えるようにして頷いた。「忘れるわけないだろ。いつか一緒に旅をしようって、あの時もこんな雨の日だったな。」
「じゃあ、その約束、これからも守ってくれる?」
「もちろんだよ。」
雨は少しずつ弱まり、二人の間に新しい未来が静かに流れ始めた。