2箇所あって、1つは生麦事件発生場所。もう1つは生麦事件碑。2つは700m近く離れている。生麦事件発生場所というのは、イギリス人4人が島津久光の籠の近くまで馬で割っていって薩摩藩士に抜刀された所。大きな碑を期待してた為か、歩道脇の目立たぬ所に小さな看板が立っていたが目の前に行っても気がつかなかった。生麦事件碑の方は、イギリス人4人の内の1人のリチャードソンが落命した所。こっちはキリンビール工場の前で小さな公園ぽくスペースも取られていて大きな碑もあった。旧東海道沿いかなあ。雨の夕方を歩いたが、この2ヶ所の間も随分遠く感じた。この距離をリチャードソンたちは馬で逃げ、一方の薩摩藩士は刀持って馬を追いかけて行ったのか。と昔に思いをはせる。
しかし、このイギリス人達も大胆だったんだあ。幕末の尊王攘夷運動が真っ只中で、異国人は攘夷派の志士に襲撃されてた時期に、馬でドンドンよく知らない国の中に入っていくなんて。自分は気が小さいから言葉が通じない外国の中にドンドン入っていく度胸はないな。景色が良いからといって熊が出る山の中に入っていく心持ち。
一方の薩摩側もイギリス人が割り込んで来た時は「面倒だなあ。問題なければいいけどなあ。」と思ったと思う。島津久光の籠の近くに来る迄は抜刀してないみたいだし、朝廷の勅使と一緒の手前もあって弱気な対応も出来ない。そもそも島津久光は外国に弱腰な幕政を立て直そうと朝廷の勅使と一緒に江戸に来てたのに、その薩摩藩が「なんだ、薩摩もやっぱり外国に対して弱腰じゃんか。」ととられる態度は出来ないし、幕府からも「何しに江戸に来てた!口だけじゃん。」思われるという事になる。かといって外国と問題を起こして負ける様な事があっても面目が立たない。
当時、日本の慣習に通じてる外国人は、大名行列に遭遇した場合は行列に道を開けて下馬、脱帽して表敬の挨拶をしてたそうで、この久光の行列もそうした外国人ともすれ違って来てて問題なかったらしい。せめて、このイギリス4人も出かける前に居留地で日本の慣習について話を聞いとけば、こんな事にはならなかったろうに。言葉も通じず、慣習も知らないでの勝手な振る舞いはこんな悲劇につながるか。自分も他所に行った時は先ずは様子を見る事を心掛よう。
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