自分の認識では少し違う。イギリスの近代兵器や文明に圧倒されたから攘夷から倒幕・開国へと方針を転換した訳ではなく、幕府の弱腰外交に見切りをつけ、公武合体論から倒幕へと方針を転換した。というのが正しい。という認識。
そもそも、薩摩藩は攘夷派ではなく公武合体派。幕府が勅許なく1858年の日米修好通商条約で裁判権、関税権、為替権等が不平等な内容で条約を結んだのに対し、この幕府は頼りないから朝廷と幕府と大名でチャント話し合いながら進めていきましょう。というのが公武合体論。その証拠に島津久光は江戸に行く途中に京都の寺田屋で薩摩藩内の攘夷派の過激分子を粛清(寺田屋騒動)している。
イギリスの近代兵器や文明に圧倒されたというのはそうだけど、薩摩藩は薩英戦争のずっと前からそんなの知ってた。ずっと前から反射炉や蒸気船を作ったりして西洋に脅威を感じ軍備の近代化を急いでた開国派。
薩英戦争だって薩摩が負けたとは言えない。イギリス艦隊は5隻の軍艦で鹿児島湾に侵入し、結果3隻破損して旗艦の艦長と副長を含めた13人が死亡している。一方の薩摩側の志望者は5名。イギリス艦隊は命からがら逃げかえった感じ。薩摩はイギリスの強さは最初から知ってたので事は構えたくなかった。でも後にはひけない。その為の準備だけはしてきてた。って感じ。
負けたら薩摩が香港みたいにイギリスの植民地になるかも知れない。というか、このままだと日本全体が欧米の植民地になるかも知れない。と思うと戦争するのは相当な判断だったと思う。そこ迄腹をくくっている薩摩藩に比べて幕府がズルズルと欧米の言いなりになってるのを見ると、さすがに「日本の為にはこんな幕府は要らん。」と倒幕に向かった。という認識。
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