2009年11月06日
マイケル・ジャクソンは何者だったのか?
Special vol.29
マイケル・ジャクソン特集
Michael Jackson
今年6月25日に突然、この世を去ったKing of Pop、マイケル・ジャクソン。 4歳で初ステージを踏み、11歳で全米チャート1位を記録し、史上最高額の所得を得たエンターテイナーとして、 史上最も成功したエンターテイナーとしてギネス・ワールド・レコーズに認定された彼は、疑いもなく天才である。 確かに、彼の一生は天才の運命そのものだった。天才といえば聞こえはいいが、多くの社会的批判を受けながらも、 彼の音楽世界へののめり込みは壮絶なる努力の賜物だったことを、彼の存命中にどれくらいの人々が感じていただろうか? 50歳でステージを降りた天才の軌跡は、我々に何を知らしめてくれるのだろうか?
モータウン最後の砦
マイケル・ジャクソンとは何者だったのか?09年6月25日以降、繰り返される問いに明確な答えは出ていない。ここではまず、その疑問を抱いた方々の一助となるべく、彼の歩みをもう1度振り返ることにする。
マイケル・ジャクソンと兄弟たちは、60年代に栄華を極めたモータウン・レコーズの最後の砦のひとつだった。ジェイムス・ブラウンのミニチュアのようにソウル・ミュージックの規範に正しく則ったファンキーでパワフルなダンスを舞い、愛くるしくポップに歌うマイケルを看板としたジャクソン5。モータウンが独自のスタイルを貫いて大成功に導いた例は、ほぼ彼らの時期で途絶えることになる。グループが登場した69年は様々な意味での分岐点であり、70年代の到来と共にニュー・ソウルが台頭し、マーヴィン・ゲイやスティーヴィー・ワンダーら、モータウンの看板スターたちもその流れを創り出す立場となる。文字通りヒット・ファクトリーから量産される形のポップ・ミュージックは、個々の価値観が多様化する時代にそぐわなくなりつつあった。とはいえ、一夜にしてガラリと様相が転換したのではなく、ジャクソン5がシーンに現れたと同時に連発した、「帰ってほしいの」から4曲の全米No.1は、そのままプレスリーやビートルズの登場時に通じるマスヒステリカルな人気ぶりを示しているし、それらが今日までスタンダードなポップスとして高い完成度を保っているのは否定できない事実だ。マイケル・ジャクソン当時の映像などを観ると全身を使って弾けるように踊り、あらん限りを託して歌う姿は実に健気で感動的であり、観客の熱狂を誘いどこまでも熱い視線が注がれたのも充分頷ける。自らのパフォーマンスが人々の微笑みを誘うーわずか10歳の少年の心に芽生えたエンターテイナーとしてのプロフェッショナルな資質と気質とは、その生き方を定めたのではないだろうか。誰かを歓ばせるために最善の努力をする、それが成就するのが自身の最大の歓びである。マイケル・ジャクソンは、そんな人生を選んだ。そして、自我の発露と共にモータウンとの別れを迎える。
新天地へ
グループがジャクソンズとして選んだパートナーが、大手CBS(現ソニー・レコード)系列にあるエピックであった。彼らは当時の大きな潮流を築いていたフィラデルフィア・ソウルに接近し、名匠ギャンブル&ハフを迎えて『ザ・ジャクソンズ・ファースト』(76年)と『ゴーイング・プレイシズ』(77年)を発表する。流麗なストリングスを導入するなどクラシックの要素も取り入れ、多彩で洗練されたスタイリッシュなサウンドを以て幅広いファン層に訴求していたフィリー・ソウルのアーティストたちは、同時にオージェイズを筆頭として人種問題などに関し崇高なメッセージ性を伴っていた。この点はまた、後のマイケル・ジャクソンに別の視点の創作を促すポイントになったように思う。ほぼメンバーだけでプロデュースを行なった78年の『デスティニー〜今夜はブギー・ナイト〜』でひとつの区切りをつけたように、マイケル・ジャクソンはソロ作品に着手する。モータウン時代から「ベンのテーマ」を初めとする佳曲をソロとしてヒットさせてきた彼は、この78年、ダイアナ・ロスとの映画『ウィズ』でクインシー・ジョーンズとの運命的な再会を果たす。ジャズや映画のサウンドトラックで手腕を発揮してきたジョーンズだが、その幅広く息の長い活動ぶりは音楽面と同時にビジネス・マンとしての才覚の高さも示している。空前のディスコ・ブームを踏まえてジョーンズとジャクソンとは、ダンス・ミュージックの大衆性を活かした実にハイ・クォリティーな作品集を送り出す。時は79年。『オフ・ザ・ウォール』、である。
ダンス・ミュージックにヒット・レコードとしての可能性を問い直し、同時にレコーディング・テクノロジーの粋を集めて、いかにソウル・ミュージックの肉感性を封じ込めるかーそんなテーマ性を感じさせる『オフ・ザ・ウォール』は収録楽曲の粒の揃い方から、No.1を2曲含む計4曲の全米トップ10ヒットを生む。76年の『噂』(フリートウッド・マック)から顕著になり、『サタデイ・ナイト・フィーヴァー』のサントラで決定的となった、ひとつの作品集から多数のシングルを展開する手法である。実のところジャクソンのヒット曲パターンのすべてがこの時点で集約されていた。
『スリラー』〜奇跡の一枚
ジャクソンズとしての『トライアンフ』(80年)をはさみ、82年、歴史を変える一枚=『スリラー』を発表。延々と繰り返されるシングル・カットは7枚に及び、そのすべてが全米トップ10にランクされた。新たに加えられた最重要点はエポックメイキングなビデオ・クリップであろう。とりわけ最後のシングルとなったタイトル曲で製作された映像は、際立ったストーリー性や特殊メイク、そしてマイケル・ジャクソンそのものを記号化するゴースト・ダンスなど特記すべき要素に溢れている。MTV隆盛時代と交差したことなどが、『スリラー』の持つポテンシャルを最大級にアピールし、全世界で売れ続けた。単体で1億枚ともされる総セールス数は未来永劫破られぬ金字塔となる。もちろんその過程には、「スリラー」を主軸としたビデオ・アルバムの発売や、モータウン25周年イヴェントでの「ビリー・ジーン」の歴史的なパフォーマンス(多くはそこで彼の”ムーンウォーク”を初めて目撃し驚愕する)、そしてジャクソンズとしてのアルバム『ヴィクトリー』に伴うコンサート・ツアーなどの話題などの背景を抜きにはできない。それでも『スリラー』というレコードが成し遂げた偉業は誰にも覆せないものなのだ。
成功したスターの責務とみなされる人道的活動にも邁進したジャクソンは、85年の「ウィ・アー・ザ・ワールド」(U.S.A. フォー・アフリカ)での中心的な役割を果たし、この姿勢は後の「ヒール・ザ・ワールド」や「アース・ソング」に反映されている。
パターンとしては『スリラー』をそのまま踏襲した87年の『バッド』でも成功は繰り返される。そこでは、新しいブラック文化で次代を切り拓くことなるヒップホップとの対峙や、改めてテクノロジーをいかに血と肉とを踊らせるグルーヴに転化するかという野心的な試みがなされていた。『バッド』に伴い実現した来日公演で、彼が変わることなく超一流のステージ・パフォーマーであることが証明される。どれほどスーパー・スターとして巨万の富と名声を得ようとも、舞台でシャウトし囁き、そして誰にもできないダンスを舞うとき、彼はひとりのエンターテイナーとして最善を尽くした。踊れる身体を維持し続け、サーカスに匹敵するアクロバットや舞台効果で人々をスペクタクルへと誘う、まさしく本物のプロフェッショナルを全うするため、彼が費やした努力の時間を私は想像すらできない。
91年の『デンジャラス』ではクインシー・ジョーンズと別れ、ニュー・ジャック・スウィングで時代の寵児となったテディ・ライリーらと組む。先駆者だった人物が、自身の築いた標準で状況が成立した後に新たな革新を生み出すのはいかに困難か。シーンがジャクソンに次の10年を牽引する立場を担わせることは、なかった。ヒッツ・コンピレーションとの企画作品的な『HIStory PAST, PRESENT AND FUTURE BOOK 1』(95年)の後、01 年に届けられた『インヴィンシブル』では、やはりその時点の旬の人材としてロドニー・ジャーキンスらを起用する。結果的にはそれが生前最後のオリジナル・アルバムとなった。09年3月、ロンドンでのコンサートを行なうと発表。復活の場に世界の注目が集まる中、同年6月25日、ロス・アンジェルスの自宅で倒れ還らぬ人に。50歳。
マイケル・ジャクソンとは何者なのか?凡庸なもの言いだが、その問いには投げかける人の数だけの答えがあり、彼の業績が振り返られる度に新たな賛同者や反発者が生み出され、問いもまた繰り返されるのである。過去の真に優れたアーティストたちが、みなそうであるのと同様に。
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