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プロフィール

隼四郎
一度都会に出てみると地元のことが気になってくるものです。 そういう自分の体験から、鹿児島を散策しながら「あっとらんだむ」にいろんなことをお伝えできればいいなと思っています。 どうぞお気軽におつきあいください。
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2014年12月08日
☆記念日 桜島
memorial day sakurajima_20141208_081849-1.jpg

2014年12月8日の朝です。

1941年12月8日、日本海軍はハワイの真珠湾

に奇襲攻撃をかけ、開戦しました。

今日は、桜島も少し噴煙を上げています。

当時、ルーズベルトはすでに日本海軍による真珠湾攻撃

を知っていましたが、参戦の契機とするため、黙認

していました。

チャーチルは「これでアメリカが参戦できる」と

小躍りしたそうです。

そうです。完全に我が国は嵌められてしまっていたのです。

それ以降の多大な被害を考えるにあたって、いかに情報が

大切か、状況分析が大事かということを歴史の教訓として

私たち日本人は肝に銘じ、歴史から学ばなければならないと

思います。

今現在の自分の生活には関係ないからと、国際情勢に無関心であっては

ならない、ひとつ間違うと、たとえ一般庶民であろうと全てを失うことに

なるのです。

隣国には凶暴な軍事独裁国家が世界覇権を目論み、虎視眈々と我が国

の国土を狙っています。

こういう危機的な状況のもとで、憲法9条を守り抜いたら、日本という

国家が中国に呑みこまれ、日本国憲法そのものが消滅してしまいます。

中国の侵略行為は、未然に防がねばなりません。

そのために、国土防衛を強力に進める政権が、今の日本には必要なのです。





Posted by 隼四郎 at 11:14 | 歴史 | この記事のURL
2014年09月09日
☆ここは新照院町 無言坂
無言坂4_20140908_132956.jpg無言坂3_20140908_132941.jpg無言坂2_20140908_132905.jpg

ずっと以前から探索してみたい場所がありました。

鹿児島市の城山の西側にある新照院町から城山に登る道です。

そういう道があるということは全然聞いたことはありませんでしたが、いや、必ず

城山への登り口はあるはずだと確信めいた自信がありました。

そこで数年前、実際に行ってみました。

国道3号線から新照院町に入って数百メートル歩いて行きました。

全くの住宅地でしばらく行くと、国道の喧騒も全く聞こえず、静かな別世界に

なりました。

高い石垣が続き、なんだか江戸時代にタイムスリップしたかのような感覚になりました。

そして、ついにたどりつきました。

急な坂道になっていて、なんと、石段が見えてきました。

「やった!やっぱりあったんだ!」

石段はずっと山の上まで続いています。

道の傍らをみると「無言坂」のプレートが埋め込まれていました。

あ、無言坂というんだ。

でも名前の由来はなんだろうと思いまいたが、解説となるような表示は一切ありません。

西南戦争時に、山の頂上にある薩軍の本営に気づかれないように、官軍が無言で行けとで

も命を下したのかなと思ったりもします。

坂がかなり急でしたが、すぐに登り切りました。

城山団地から城山展望台へと抜ける道に出てきました。

出てきたら、なんだこんな身近なところに道があったんだと意外な感じがしました。

自分の確信通りに自分の足で確かめられたのは、ほんとうに面白かったですね。


♪帰りたい、帰れない、ここは無言坂〜

香西かおり ♪無言坂
https://www.youtube.com/watch?v=KGe8rbCkhNI


★鹿児島の夏を代表するスィーツです。魅力がいっぱいです。★



Posted by 隼四郎 at 10:08 | 歴史 | この記事のURL
2014年05月18日
☆比志島城趾


中世の山城跡です。

鹿児島市皆与志町の比志島城趾の本丸あたりだということです。

今は見事な竹林になっています。

どのような氏族が治めていたのか、歴史的背景はまだ確認しておりません。

今後、また興味深い史実が明らかになってくると思います。

比志島城跡1.jpg比志島城跡2.jpg

Posted by 隼四郎 at 18:56 | 歴史 | この記事のURL
2014年05月16日
☆忠犬ハチ公の…


忠犬ハチ公の初代を創作したのは、彫刻家 安藤照氏です。



以下は誕生地にある表示文です。

…………………………………………………………………


安藤照 誕生地

彫刻家安藤照は、1892年(明治25年)現在のここ鹿児島市立病院の北東の一角で生まれました。東京美術学校在学中に、帝国美術院展覧会(帝展)に入選したのをはじめ、その後、『流れ』『芽生え』『踊りの構図』『大空へ』が、次々に特選になり、『大空へ』は、第一回帝国美術院賞を受けました。のちに帝展委員・審査委員となり、彫刻の本質的な造形性、特に量感の表現を主張し、1929年(昭和4年)塊人社を結成。代表作に、西郷銅像や忠犬ハチ公銅像があります。


…………………………………………………………………


また、以下ウィキペディアからの引用です。


…………………………………………………………………

安藤照

本名 安藤照

生誕 1892年(明治25年)
鹿児島県鹿児島市新屋敷通町

死去 1945年(昭和20年)5月25日(満54歳没)
東京都

国籍 日本
分野 彫刻
最終学歴 東京美術学校

代表作
西郷隆盛像(鹿児島市)
忠犬ハチ公像(初代、東京都)

受賞
帝国美術院賞

安藤 照(あんどう てる、明治25年(1892年) - 昭和20年(1945年)5月25日)は、日本の彫刻家(彫塑)である。


来歴

1892年(明治25年)、鹿児島市新屋敷通町(現在、鹿児島市立病院敷地の一角に誕生碑がある)。明治40年(1907年)に旧制県立川辺中へ入学するが、まもなく旧制県立二中へ転校。二中を8年かけて卒業し、東京美術学校へ入学。美術学校時代に帝展入選を果たしているが、卒業後も第3、5、6回帝展にて特選を受賞、大正15年(1926年)の第7回帝展では特選に加えて帝国美術院賞を受賞した。翌昭和2年(1927年)には帝展審査員に就任。彫刻の本質的な造形性、中でも量感の表現を唱えた。昭和4年(1929年)、塊人社を結成。1945年(昭和20年)5月、アメリカ軍による東京大空襲の犠牲となって死亡した。享年54。


代表作


西郷隆盛像(鹿児島市)


西郷隆盛像

昭和3年(1928年)に東郷平八郎より依頼を受けてから、西郷の体格や外見の研究に1年を費やし、さらに国内の古美術や銅像見学に1年かけ、加えて銅像研究のため欧州へ渡った。帰国後7年を経て安藤は「身長5尺9寸、体重29貫、襟首19インチ、肥満であったが、肉つきは引き締まっており、相撲のため耳だこがあり、首は短く肩が小山のごとく盛り上がっている」との結論に至った。安藤が思い描いた構図は、故山の大地を、市民と同じ足で踏みしめ、胸を張って桜島と向き合う巨人だった。

かくして銅像は昭和12年(1937年)に完成した。また、土台製作の為に小根占(鹿児島県肝属郡南大隅町)より大小合わせて150有余の花崗岩を運ばせて、背景に城山と有機的に調和する小山を築き、造園した。西郷銅像について、安藤は『大西郷と銅像』(改造第十九巻九号、1937年)にて、次のように記述している。

「襟は十九インチ、身長は五尺九寸余、体重は二十九貫と云うので胴回りなどの研究を進めることもできた。翁の令孫隆治氏は柔道剣道の達人で相当偉大な体躯の持主であるが、この大将服を着用せられてなお二貫余の綿を入れなければならなかった。また私共が、二人も一しょに入れるような胴回りである」(文中に登場の西郷隆治は、二中において安藤(8回卒)の3年後輩(11回卒)で、卒業後は二中で柔道師範を務めた人物)作家の海音寺潮五郎は、著書『西郷隆盛』にて次のように述べている。

「これはぼくだけの見当だが、安藤は西郷の孫にあたる西郷隆治さんをモデルにし、それを彼の主観でアレンジして造形したのではないかと思っている。安藤は鹿児島二中の出身であるが、隆治さんも二中の出身だ。大体同じころに在学している見当でもある。隆治さんは西郷が奄美大島る流謫中にめとった島の娘アイカナの産んだ菊次郎の子で、西郷に最もよく似ているといわれている人である。(中略)ともあれ、安藤のつくった銅像は隆治さんによく似ている」

2008年(平成20年)12月30日の南日本新聞記事によると、西郷のモデルは、元・山形県議の男性であることが判明。安藤のアトリエで撮影された、銅像のひな型や肖像画などが写り込んだモノクロ写真が、男性の遺族宅で発見されたという。遺族は「(祖父の)目は隆治さんに似ていると思う」とも述べている。


忠犬ハチ公像(初代、東京都)

1932年に日本犬保存会の斎藤弘吉の寄稿から「忠犬ハチ公」が広く知られるようになったが、安藤は斉藤とかねてから知己であったことから是非ともハチ公の像を作りたいとの意を伝え、保存会からの依頼という形でハチ公像を作成した。当時ハチの飼い主となっていた小林菊三郎は代々木富ヶ谷に居住し、安藤のアトリエも初台にあったことから、小林がモデルとなるハチを連れて自宅から日参したという。

ハチ公像は1934年(昭和9年)4月21日に設置され、銅像の除幕式にはハチ自身(ハチは像完成の翌1935年3月に死亡)と300人もの著名人が参加した。この時完成した像は大東亜戦争の金属供出として1944年に撤去され、敗戦前日の1945年8月14日溶解されて機関車の部品の材料に充てられた。現在渋谷駅に立つ像は、原材料の銅不足のなか、銅像「大空に」を溶かして、息子・士の手によって1948年に完成したものである。

…………………………………………………………………



今月の25日は命日になります。

まだ道半ばで亡くなられたので、たいへん残念な思いがします。

でも、西郷さんの銅像と忠犬ハチ公の銅像というたいへん象徴的な像を創作されたことは、後世まで語り継がれると思います。

安藤照誕生地1.jpg安藤照誕生地2.jpg安藤照誕生地3.jpg西郷さん銅像.JPG

Posted by 隼四郎 at 21:46 | 歴史 | この記事のURL
2014年05月02日
☆♪妻をめとらば才たけて…


鹿児島市 山下町の名山小学校です。

前身は市尋校と呼ばれていたそうです。

現在の敷地は、戦前には鹿児島県立第二高等女学校がありました。

また、あの与謝野鉄幹が1880年(明治13年)から翌年まで、名山小学校に在籍していました。

昭和7年に市尋校の創立40周年を祝して、歌を詠んでいます。



なつかしき 名山小学

我が道を 知り得しことも

此処に 本(もと)づく

与謝野鉄幹



♪人を恋うる歌 与謝野鉄幹作詞 作曲者 不詳

http://m.youtube.com/watch?autoplay=1&v=iZawJIPucBY





名山小学校1.jpg名山小学校2.jpg名山小学校3.jpg

Posted by 隼四郎 at 03:46 | 歴史 | この記事のURL
2014年05月01日
☆薩摩藩財政改革の立役者
調所広郷は、まさに薩摩藩財政改革の立役者です。


鹿児島市天保山(てんぽざん)の松林の中に、その銅像が建てられています。

なぜ、天保山に建てられたのかと疑問に思っていましたが、調所広郷が天保山を造成したということで納得出来ました。

以下、その碑文の内容を紹介します。



(碑文)…………………………………………………………………

調所広郷の像
(通称 笑左衛門)

幕末に近い文政十年(1817年)薩摩藩の借金は、五百万両の巨額に達していた。

当時の藩の年収総額十数万両は、借金金利に遠く及ばず、正に破産の危うきにあった。

時の島津重豪公は、究極の策として一介の茶坊主上がりの調所広郷を家老に抜擢、藩財政改革を厳命した。

広郷はその期待に応え巨額の負債を解決し、あまつさえ五十万両の蓄えさえ残した。

更に藩政の興隆を図り、数々の土木工事を行った。平成五年八・六災害で惜しくも決潰あるいは撤去されたが、広く県民に親しまれた西田橋等五石橋も、天保山の造成も全てずの発案である。

改革は藩内に留まらず、広く海外交易にも力を注ぎ、琉球を通した中国貿易の拡大や、北海道に至る国内各地との物流の交易をはかって、藩財政の改革の実を挙げたのは、この調所広郷である。

だが歴史は時の為政者によって作られる。調所広郷は幕府に呼ばれ密貿易の罪を負い自害に追込まれ、今も汚名のままである。

しかし、斉彬公の行った集成館事業をはじめとする殖産興業、富国強兵策、軍備の改革の資金も、明治維新の檜舞台での西郷大久保の活躍も全て調所の命を賭け、心血を注いだ財政改革の成功があったからだと思う。

此処に調所の銅像を建立し、偉業を後世に遺ることを願う。


…………………………………………………………………


本当に調所広郷がいなかったら、薩摩からは明治維新を起こすことは出来なかったのでしょう。たいへんなピンチにウルトラCを演じてくれた功労者だと思います。歴史的な意義は計り知れないでしょう。

でも、借金を250年での延べ払いにするとかかなり強引な策を講じたり、奄美群島ではさとうきびだけのモノカルチャーを強いられ、貨幣流通を禁じられ、たいへんな犠牲もあったことも事実ですね。

また、調所広郷を題材にした「薩摩燃ゆ」を執筆された直木賞作家の安部龍太郎氏は、この本を上梓するまでは調所広郷のご子孫には知らせなかったそうです。

そして出版後、子孫の方にお知らせしたところ、一族以外には知るはずも無いことが書かれていたとたいへん驚かれたそうです。

昨年8月、鹿児島県立図書館で講演をされた時に言っておられました。

作家は、執筆する際には霊感やインスピレーションを得ることがあるのだろうと感銘しました。


調所広郷1.jpg調所広郷2.jpg調所広郷3.jpg

Posted by 隼四郎 at 16:46 | 歴史 | この記事のURL
2014年04月29日
☆勝岡城(犬迫塁跡について)

鹿児島市犬迫町にある山城の跡を訪れました。

運動靴を履いて急斜面を15分ほどかけて登り、頂上の平坦地に辿りつきました。牟礼が岡の風車群も遠望でき
ましたが、天候があまり良くなく、撮影は出来ませんでした。

戦国時代はこんな急斜面で攻防をしていたのかと思い、たいへんな苦労があったのだろうと昔が偲ばれました。

以下に入り口の案内板を紹介します。

…………………………………………………………………

ふるさと犬迫の一節に“朝日たださす勝岡城の真竹の林を吹きならす…”
と歌われている様に この上の勝岡城は南東に流れる犬迫川を自然ほ水堀として利用し登りつめると頂上は巾2
2メートル余りの平坦地となっていて、山頂からは吉野台地が一望でき遠く戦国の昔、白金の坂から攻めくる
敵軍の進入をのろしを上げて知らせたものと想像される。

特に牟礼ケ岡に林立する風力発電が遠望され、壮観そのものである。尚、眼下に農協、お寺、おはらべんとう、
市営住宅を始め一丁田地区の田園風景が展開され、横を走る登り勾配の三車線の県道は天に昇る感じさえする。

尚、登山の事故等については一切の責任のない事を申し添えます。

管理者 稲葉茂成

…………………………………………………………………

勝岡城1.jpg勝岡城2.jpg勝岡城3.jpg


Posted by 隼四郎 at 13:54 | 歴史 | この記事のURL
2014年04月28日
☆明治十年戦砲台跡


去る3月9日、鹿児島市武岡頂上にある長島美術館の敷地内にあるお茶室「椿庵」の御庭を訪れました。

この御庭は普段は一般開放はされておらず、入ることは出来ないそうですが、毎年一回だけ武岡地区の町内会の方々が入れることになっているそうです。

当日は小中学生も交えて総勢50名程での参加でした。歴史研究会のメンバーと共に、私も幸運にも参加させていただきました。

とても綺麗な御庭で、また、桜島も見事に冠雪していました。

また、庭の一角に石碑が建てられていて、明治十年の西南戦争時の砲台跡を表すものでした。

大正12年3月10日に建てられたと記してあります。

奇しくも訪問した日の翌日になりますね。

椿庵.jpg武岡砲台跡碑1.jpg武岡砲台跡碑2.jpg武岡砲台跡碑3.jpg

Posted by 隼四郎 at 15:19 | 歴史 | この記事のURL
2014年04月27日
☆リケジョの先駆けー丹下ウメ博士

最近、理科系を目指す女子が増えているそうです。

また、STAP細胞を発見した理研の小保方研究員が、今、時の人となっていますね。

ところで、鹿児島市の山形屋デパートの表玄関のすぐ左手脇に、鹿児島の理系女子の先駆けとも言うべき丹下
ウメ博士の胸像が設置されています。

胸像があることは分かっていても、その碑文を読む機会はなかなかないのではないかと思います。

そこで、今日は、その碑文の内容を紹介したいと思います。


(碑文)………………………………………………


化学の先覚者

鹿児島市金生町の新町ほか14町の戸長丹下伊左衛門の四女として明治6年(1873)に生まれ、幼時、事故で右
目を失明。

県立女子師範を卒業。18歳で名山小学校の教師。

28歳で日本女子大学家政科一回生に入学、卒業。

女性初の中等化学教員検定試験に合格。

大正3年、東北帝国大学理化大学化学科に女性初の入学。

卒業後、スタンフォード大学などで栄養化学を修め、帰国して日本女子大の栄養学の教授。

昭和15年、「ビタミンB2複合体」の研究で東京大学から農学博士の学位を受ける。

昭和30年(1955)82歳まで独身の血潮を学究一筋に注ぎ、東京の親戚宅で死去。


川越正則 撰

…………………………………………………………………(ここまで)



地元にこのような女傑とも言うべき優れた研究者がいたとは、たいへん驚きです。ハンディを抱えながらも立
派な業績を遺された姿勢にはたいへん感銘を受けますね。

身近にはたくさんの石碑が建てられていますが、その碑文を落ち着いて読むことはあまりありません。

しかしながら、そこにはたいへん貴重な情報が書かれており、そこから非常に多くの示唆を得ることができま
す。

今までそれらのたくさんの宝物をみすごしていたのだなとあらためて思いました。

これから、それらの宝物を一つ一つ拾い集めてご紹介できたらと思っています。

丹下ウメ博士胸像.jpg丹下ウメ博士石碑.jpg

Posted by 隼四郎 at 22:40 | 歴史 | この記事のURL
2013年11月18日
☆初画像、届いた知らせは…



先日、アメリカ駐日大使としてキャロライン・ケネディ氏が着任した。故ジョン・F・ケネディ元大統領の長女である。

元大統領がアーリントン墓地に埋葬された時、弟のジョン坊やが敬礼をした。その姿が世界の人々の涙を誘った。しかし、そのジョン坊やも今はもうこの世にいない。

その力量はまだ未知数ながらも、ケネディ一族の彼女が駐日大使として起用されたということは、東アジア情勢が緊迫の度を深めている今、日本国民に対して日本重視の姿勢をアメリカ政府が示したとも受けとめられる。

1963年11月22日の夜、翌朝日米間初の宇宙中継のテレビ画像が送られてくるというので、たいへんな期待感を持って床についた。

そして、翌11月23日の朝、テレビをつけて見るとお祭りムードどころかケネディ大統領が狙撃されたというニュースで大騒ぎになっていた。

宇宙中継の初画像は、大統領が狙撃されたテキサス州のダラスの様子で悲痛な情景が映し出されていた。

大きな希望が打ち砕かれ、悲惨なニュースを突きつけられたそのショックは大きく今でも鮮明な記憶として残っている。

奇しくもそれから丁度50年後に駐日大使として長女が着任した。今度こそ、大きな希望を実現してもらいたいと切に願う次第です。

日米が手を携え、大陸の侵略国家の野望を粉砕し、東アジアの平和と安定が実現しますよう心から願います。


初画像 悲報を告げて 暗転す

半世紀前 宇宙中継



Posted by 隼四郎 at 22:47 | 歴史 | この記事のURL
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