2013年08月22日
☆古代のロマン 歴史探索〜大隅国1300年
「祓うとか鎮めるというよりも安らかに天国へ昇って下さいという思いで建てられたのだと思います。」
「他の史跡との距離もきれいに二等辺三角形をかたどっていますので、ここに建てられたのも根拠があると思います。」
先日、「隼人塚」での現地研修会で、案内して下さった研究家の方はそのように説明して下さいました。
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701年、朝廷は大宝律令を完成させました。隼人の住む地域に対しても、律令のしくみをあてはめようとし、702年には薩摩国とたねのしまを置きました。さらに、713年には、日向国のきもつき・大隅・あいらの4郡を割いて大隅国を置きました。このあと、隼人たちは住んでいる国にもとづいて大隅隼人、薩摩隼人とよばれるようになりました。
朝廷は、戸籍づくりを進め、また隼人の有力者を郡司とよばれる役人に任命しようとしたのですが、隼人たちは武器をとって抵抗したようです。699年、702年、713年に戦いが起こり、朝廷は大軍を送ってこれを鎮めました。そして、薩摩国には肥後国から人々を移住させて高城郡をつくり、大隅国には豊前国・豊後国から人々を移住させて桑原郡をつくり、隼人たちを朝廷のしくみに従わせようとしました。
720年に、大隅守(国司の長官)が隼人に殺されてしまうという事件が起きました。朝廷は、大伴旅人を最高司令官として、1万人以上の兵を動員し、鎮圧までに約1年半をかけました。当時の日本の人口は500万人前後といわれていますから、この戦いがいかに大きかったかがわかります。
この戦いの時、隼人たちは7つの城を拠点として戦ったといわれています。そのうち、曽於石城(そのいわき)は、霧島市国分の城山、比売城(ひめのき)は霧島の姫城(ひめぎ)にあたると考えられます。これ以降、隼人との戦いはおこりませんでした。
*以上鹿児島県霧島市発行「大隅国建国1300年記念 大隅国へタイムワープ」パンフレットより抜粋引用しました。
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大和朝廷が全国統一をしていく中で隼人の人たちが8世紀に最後の抵抗をしたということ、そしてその霊たちを慰めるために隼人塚が建てられたということ。
隼人塚の五重の塔の側面には数々の菩薩像が刻まれていることからも、祓うというよりも霊を慰めるという趣旨が明らかですね。
今年は大隅国が置かれてから1300年になります。
霧島市では、大隅建国1300年記念事業として隼人舞の共演等、様々な催しが企画されています。
今まで薩摩と大隅の境がどの辺になるのかすら自分は知りませんでしたが、これを機会に歴史探索をしてみようと思っています。