こんにちは、というかこんばんは。
今、前回のブログ(その1)を読み返してみたら文章がヘタクソ過ぎてorz
と言うか抽象的すぎるうえにまとまってなくて分かりにくい〜
でもめげずに悪文を書き続けます(ぉぃ)
前回は、言葉に対してみんなばらばらのイメージを持っちゃうのに
それをエホバの証人は無視してるよ〜ということを書きました。一応。
今回は、有名な輸血禁止の教理を例に、
前回とはちょっと別の観点から言葉に対する無神経さを説明しようと思います。
(うまく説明できることを祈る・・・誰に?俺は神信じてないしなぁ・・・)
でもその前にちょっとだけ前回の補足・・・
言葉に対してみんなばらばらのイメージを持つのは仕方がないことですが、
言葉の意味をある程度限定してくれるものがあります。
それは前後の文章、つまり文脈です。
前回に引き続き「雪」の例をあげると
今年、最初の雪の華を/ふたり寄り添って
眺めているこの瞬間(とき)に/幸せがあふれだす(「雪の華」より)
と言えばロマンチックなイメージになり、
どこまでも白い/ひとりの雪の道
遠い国の母さん今日も/お話を聞いてください(「白い道」より)
となると冬の厳しさの象徴となります。
どういう意味で捉えたらいいか分からない単語は、
文脈で判断するのが読解の基本です。
さて今回の話に戻りますね(脱線しすぎ)
エホバの証人は
公式サイトで血についての考え方を示しています。
が・・・自分には、何というか、隔靴掻痒というか、それっぽいことを書いてはいるが何か話の筋が通ってないような、違和感があるんだよなぁ・・・
ついでに言うと、なんで新世界訳じゃない訳の聖書を引用してんだろ。。
あ、新世界訳には「命」の部分が「魂」って書いてある。ご都合主義だなー。
個人的な感想は置いておくとして、公式サイトから
今回論じたい部分だけ要点を取り出すと、
・・・・・・・・
1.創造者から見て血は命を表わす、と聖書に書いてある。
2.血を食べてはいけない、と聖書に書いてある。
3.考え深い人々は,静脈に血を取り入れることも禁止していると理解していたし、命を創造者からの賜物として尊重する人々は、血を取り入れることによって命を支えようとはしない。
・・・・・・・・
ということになります。
では、この説明を順に見ていきましょう。
1と2については、血をどうとらえるかは自由だと思うので、スルーするとして、
3には重大な問題があります。
まず、輸血に対する考えについて、聖書に根拠を持っていません。
「考え深い人々」(と、エホバの証人に呼ばれちゃった人々)が
そう言っている、と述べているにすぎません。
また、輸血も血を食べることに含まれる、ということは聖書を読んでいくと無理があります。
2の部分について
公式サイトには
>命の血がまだその中にある肉は食べてはならない
(創世記 9:4)とあり、
新世界訳の同じ部分は
>その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない
とあります。
この文から言えることは、
血と肉を同時に食べてはいけない、ただし血だけを食べることは、この文は明確な形で禁止または許可をしていない。
ということです。
まあ、さすがに肉を先に食べて、あとで血だけ別に飲んでもいいだろ、というのは屁理屈ですが、だれかが献血してくれた血を摂取することを、この文だけで禁止または許可することはできません。
そこで聖書での血の定義を確認していきたいと思います。
公式サイトの議論のとおり、血は命(または魂)を表しています。
で、献血した人って、献血を終えても生きているんですよね・・・
血は抜かれたけど生きている場合、抜かれた血のほうは命を表すのかと言えば、
表さないと答えるのが正しいのではないのでしょうか。
もし抜かれた血でも命を表すのであれば、
1.献血した人は命を持たない
2.血が抜かれると命は分割される
のどちらかになります。(どっちもあまり考えたくないが・・・)
また、献血でなくても、けがや蚊に刺された場合等、出血をした場合は全て同じことになります。
ゆえに、献血された血は聖書で言う
>その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない
の血には含まれないと考えるほうが妥当だと思います。
エホバの証人の考えは、血は命(または魂)を表すという点を無視して
血はダメ!血はダメ!!血はダメ!!!!!だけが先走っているわけです。
彼らには、自分たちの正当性を主張するのに必死で、聖書をじっくり読んで個々の語の意味を考えられてないのではないかと思います。
今日はここまで!(その3につづく)