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2015年11月25日

世界一の親日国パラオとの関係!



日本観光サイト「ジャポニズム」から人気の記事を紹介!

第5回目は「世界一の親日国パラオとの関係!」です。

元記事ははここ






・1919年のパリ講和会議によって、パラオはドイツの植民地支配を脱し日本の委任統治領になる。

・1944年、ペリリュー島の戦いでパラオのペリリュー島においてアメリカ軍と戦う。

・1945年8月、日本の敗戦と共に委任統治が終了し、アメリカの信託統治となる。

・1992年の独立に向けた住民投票で日系人のクニオ・ナカムラが大統領になる。

・1994年に独立。日本と国交を樹立する。

・1996年、崩壊したKBブリッジの再建を日本が無償で行う。

・1999年、首都コロールに日本大使館開館。

・2005年の小泉首相の靖国参拝にたいして支持を表明する。


パラオの植民地の歴史

1885年にパラオはスペインの植民地となります。
14年の支配を得て、パラオの人口は90%も減少します。

その後、これ以上収奪するものがないと判断したスペインは、ドイツに450万ドル(日本円で4億円くらい)で、パラオを含むミクロネシアの島々をドイツに売却してしまいます。

ドイツは、パラオの原住民を使役して、ココナッツの栽培などを行うもあまりうまく行っていません。

その後、第一次世界大戦でドイツが負けると、1919年に日本の委任統治領になります。その日本の統治で、パラオに南洋庁を設置し、パラオに、学校や病院、道路などを建設をはじめ、地元民の教育と、行政制度の確立、街のインフラの整備と産業振興をはじめます。

どうやって作ったかと言うと、日本の国費を使い、日本人がパラオに渡り作りました。
人口6000人くらいの国に、軍隊を除いてなんと2万5千人の職員を派遣しています。

そして、戦後はすべてのインフラをパラオの住民たちに無償で譲り渡しています。

日本の敗戦と共に約50年間アメリカの委託統治を受けることになります。

パラオの国旗
parao.png

パラオの国旗は、国民の間からデザインを一般公募した結果、全会一致で採用になった国旗です。周囲の青は太平洋を表し、真ん中の黄色い円は月を現しています。

月は日章旗の太陽との友好を示すものなのだそうです。

そして、パラオの国旗の満月は日の丸の旗の太陽とは違って,中心から少しズレています。
日本に失礼だからと、わざと中心をはずしたのだそうです。
これはパラオの人たちの慎み深い態度を表しているのだそうです。


KBブリッジ崩壊

KBブリッジはパラオ本島と首都(現在はコロールではなくマルキョク)があるコロール島の間に架かっている約250メートルの橋です。

1977年に、日本の鹿島建設の半額の入札を行った韓国の建設会社SOCIOによって建設されました。

建設直後から橋の中央部分がへこみ始め、補修・補強工事を何度も行うが1996年に真っ二つに折れて崩壊します。

電気・ガス・水道などのライフラインが通っていた為、首都機能が麻痺し、国家非常事態宣言を発令されます。
韓国の会社に賠償請求をしようとするも、倒産しており出来ませんでした。

日本は、それを受けて、飲料水の緊急輸送や仮設橋の設置などの建設を行い、さらに日本のODAにより橋が再建されます。

橋の正式名称は、「日本・パラオ友好の橋」(Japan-Palau Friendship Bridge)であり、通称で「日本パラオ友好橋」とも言われています。

ちなみに建設会社は鹿島建設で、それ以来パラオでは頑丈なもののことを「カシマ」と言うらしい。

日本人になりたかった。(2015年1月3日 産経新聞)

 〈君が代は 千代に八千代に さざれ石の〜…〉

明快な日本語で「君が代」を歌い上げた94歳になる老女は、続けて「海行かば」を口ずさみ始めた。

 〈海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(くさむ)す屍〜〉

歌詞の意味は理解しているという。ロース・テロイさん。
「テルコ」という日本人名も持ち、「日本人になれるものならなりたかった」と言った。

「緑の島のお墓」を作詞したアントニア・ウエンティさん(85)は「蛍の光」と「仰げば尊し」を歌って
涙を浮かべ、童謡の「浦島太郎」を歌って、「この歌は、『両親がしてはいけないということはやって
はいけない。罰が当たるよ』という意味を含んでいる」と言った。

テロイさんのいとこにイナボ・イナボさん(故人)という男性がいた。
元パラオ共和国政府顧問で、生前は、「日本軍と一緒に戦いたかった」と何度も口にしていたという。

イナボさんは平成7年8月15日、靖国神社での戦没者追悼中央国民集会に参加した際、
雑誌のインタビューにこう話している。

「日本には大切なものが4つあります。
天皇陛下と靖国神社と富士山と桜の花です。アメリカ人から『日本は小さな国だけどもルーツ、
根っこがあるから強い。それは天皇陛下と富士山と桜だ。それはアメリカにはない』と聞きました」

「日本人の戦いぶりはアジアの人々は皆知っているんですよね。
それで日本を尊敬しているわけです。
皇室と神社がある限り日本は倒れない。
日本人が安心していられるのは、天皇陛下がおられるからですよ。
天皇陛下がおられて、靖国神社があるからこそ日本は尊く、外国からも尊敬され、強い国となっています」
 イナボさんの日本への思い、そして歌詞の意味を確かめるように一言一言を丁寧に歌ったテロイさんとウエンティさん。2人の心に去来するものは何か。

天皇、皇后両陛下のパラオご訪問が検討されていることに話が触れると、
「最初、いらっしゃると聞いたときはだれも信じられなかった。まさかという気持ちで驚いた。
天皇陛下にお目にかかれることを非常に楽しみにしている」と興奮気味に話した。
(2015年4月8日から9日にかけて国際親善と慰霊の為、訪問が実現)








ペリリュー島の戦い

ペリリュー島とは、パラオ諸島のの中の小さな島です。その島で大東亜戦争末期、日米両軍によって73日間の死闘が繰り広げられました。

当時、ペリリュー島に東洋最大と言われる飛行場が建設されており、ペリリュー島はフィリピン防衛の要の島でした。

1943年、米軍は、アメリカ太平洋艦隊司令長官、連合軍中部太平洋方面の陸海空3軍の最高司令官であるチェスター・ニミッツ提督の指揮下、このパラオ・ペリリュー島の攻略作戦を計画します。

当時、ペリリュー島には、899名の島民がいました。
島民たちは、白人統治の時代を知っています。

日本兵と仲良くなって、日本の歌を一緒に歌っていた島民たちは、集会を開きました。
そして全会一致で彼らは、大人も子供も一緒になって日本軍とともにアメリカ軍と「戦おう」と決めました。

パラオの村民の会議は、古来からの習慣で村人全員が参加します。
話し合いは全員がひとり残らず納得するまで、何日でも続けて行われます。つまり全員が日本軍と共にアメリカ軍と戦うことを決心したのです。

全員一致で「日本軍とともに戦う」と決めた彼らは、代表数人で日本軍の守備隊長のもとに向かいました。

当時のペリュリューの守備隊長は、中川州男(なかがわくにお)陸軍中将(任期当時は大佐)です。
中川大佐がペリリュー島に赴任したのは1943年で、日本を出る時、奥さんに「今度はどちらの任地に行かれるのですか?」と聞かれた中川中将は、にっこり笑って「永劫演習さ」とだけ答えられたそうです。
「永劫演習」というのは、生きて帰還が望めない戦場という意味です。

そういう中川隊長なら、パラオの島民たちが、自分たちの頼み「一緒に戦うこと」をきっと喜んで受け入れてくれるに違いない。
ただでさえ、日本の兵隊さんたちは兵力が足りないのだから。

ペリュリューの村人たちは、そう思い、中川中将のもとを尋ねたのです。そして中川中将に、「わたしたちも一緒に、戦わせてください!」と強く申し出ました。
「村人全員が集まって、決めたんです。これは村人たち全員の総意です。」

中川隊長は、真剣に訴える彼らひとりひとりの眼を、じっと見つめながら黙って聞いておられたそうです。

一同の話が終わり、場に、沈黙が訪れました。

しばしの沈黙の後です。

中川隊長は、突然、驚くような大声をあげました。

「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」

烈迫の気合です。

村の代表たちは、瞬間、何を言われたかわからなかったそうです。
耳を疑った。

そのときは、ただ茫然としてしまいした。
指揮所を出てからの帰り道、彼らは泣いたそうです。断られたからではありません。土人と呼ばれたことがショックでした。怒りではありません。 あんなに仲良くしていたのに、という悲しみの方が大きかった。

日頃から、日本人は、自分たちのことを、仲間だと言ってくれていたのに、同じ人間だ、同じ人だ、俺たちは対等だと言ってくれていたのに。それが「土人?」信じていたのに。それはみせかけだったの?

集会所で待っている村人たちに報告しました。
みんな「日本人に裏切られた」という思いでした。ただただ悲しくて、悔しくて。みんな泣いてしまいました。

何日がが経ちました。
いよいよ日本軍が用意した船で、パラオ本島に向かって島を去る日がやってきました。
港には、日本兵はひとりも、見送りに来ません。島民たちは、悄然として船に乗り込みます。

島を去ることも悲しかったけれど、それ以上に、仲間と思っていた日本人に裏切られたという思いが、ただただ悲しかったのです。

汽笛が鳴りました。船がゆっくりと、岸辺を離れはじめました。

次の瞬間です。
島から「おおおおおおおおおおお」という声があがりました。島に残る日本兵全員が、ジャングルの中から、浜に走り出てきたのです。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、ちぎれるほどに手を振って彼らを見送ってくれたのです。

そのとき、船上にあった島民たちには、はっきりとわかりました。
日本の軍人さん達は、我々村人を戦火に巻き込んではいけないと配慮したのだ、と。
そのために、心を鬼にして、あえて「土人」という言葉を使ったのだと。

船の上にいる島民の全員の目から、涙があふれました。
そして、岸辺に見える日本兵に向かって、島の人たちは、なにか、自分でもわからない声をあげながら、涙でかすむ目を必死にあけて、ちぎれるほど手を振りました。
船の上から、ひとりひとりの日に焼けた日本人の兵隊さんたちの姿が見えました。誰もが笑っています。歌声が聞こえます。そこには中川隊長の姿もありました。他のみんなと一緒に笑いながら、手を振ってくれていたそうです。素敵な笑顔だったそうです。

当時の人は、その笑顔が、ずっとまぶたに焼き付いていたといいます。

1944年、ペリリュー島の戦いが始まります。日本軍10,500名、米軍総員48,740名です。

開始のその日から補給を断たれた日本軍の数百倍の火力をペリリュー島に投下し、「2,3日で陥落させられる」との宣言の下、海兵隊を主力とす第1陣28,000人のアメリカ軍が島に上陸を始めます。

その時です。日本軍の反撃が始まり、米軍の第一次上陸部隊は大損害を被り、一時退却をしています。
この戦闘で米軍の血で赤く染まった海岸は今でも「オレンジビーチ」と呼ばれています。

1か月半後には、米軍第1海兵師団が全滅しています。
米軍の司令官は心労から心臓発作を起こし、後方に送られています。

さらに、1か月後に、兵力弾薬も底を尽き、司令部は玉砕を決定します。
中川州男隊長、村井権治郎少将、飯田義栄中佐が、この日、司令部で割腹自決を遂げます。
その後に、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られました。

そして翌朝にかけて、根本甲子郎大尉を中心とした55名が、最後の突撃攻撃を敢行しました。こうして11月27日、ペリリュー島は、ついに陥落したのです。

水も食料も補給が全くない状態で、3日で終わるとされた戦闘は実に2か月半経過していました。

戦闘後、散らばる日本兵の遺体をしばらく経って戻ってきた島民たちがひとつひとつ、きれいに片付け、埋葬してくれています。

また、戦闘終結後も生き残りの日本兵34人が洞窟を転々として生き延び、終戦の2年後まで戦い続け、1947年に投降しています。

日本軍の戦死者10,695名・捕虜202名。米軍の戦死者2,336名・戦傷者8,450名、島民の死者・負傷者0名。

チェスター・ウィリアム・ニミッツ(ペリリュー島の戦いの敵将である司令官)
「ペリリューの複雑極まる防備に打ち勝つには、米国の歴史における他のどんな上陸戦にも見られない最高の損害比率(約四十パーセント の損害=米海兵師団の第一連隊を全滅させた)を出した。すでに制空権をとっていた米軍が、死傷者あわせて一万人を超える犠牲者を出し て、この島を占領したことは、今もって疑問である」と仰っています。

また、ペリリュー島にある「ペリリュー神社」にある石碑に
「諸国から訪れる旅人たちよこの島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを伝えられよ。米太平洋艦隊司令長官 C.W. ニミッツ」
という文を残しています。

パラオ独立記念の歌(ペリリュー島の戦いを歌っています。)

一 激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
  オレンジ浜を血で染めた
  つわものたちはみな散って
  ペ島はすべて墓(はか)となる
  (注:ペ島=ペリュリュー島のこと)

二 小さな異国のこの島を
  死んでも守ると誓いつつ
  山なす敵を迎え撃ち
  弾射ち尽くし食糧もない

三 兵士は桜を叫ぴつつ
  これが最期の伝えごと
  父母よ祖国よ妻や子よ
  別れの”桜"に意味深し

四 日本の”桜"は春いちど
  見事に咲いて明日は散る
  ペ島の”桜"は散り散りに
  玉砕れども勲功はとこしえに

五 今もののふの姿なく
  残りし洞窟の夢の跡
  古いペ島の習慣で
  我等勇士の霊魂守る 

六 平和と自由の尊さを
  身をこなにしてこの島に
  教えて散りし"桜花"
  今では平和が甦る

七 どうぞ再びペリリューヘ
  時なしさくらの花びらは
  椰子の木陰で待ちわびし
  あつい涙がこみあげる    

東日本大震災

国家を挙げて日本を支援してくれています。
この時にパラオ大統領は以下の命令を出しています。

「パラオ共和国憲法に定められた権限により、私、パラオ共和国大統領ジョンソン・トリビオンは、 2011年3月25日を日本における地震と津波の被害者に対して喪に服する国民の日と宣言し、 パラオ国民の同情と敬意を示すために、パラオ国内および世界各国のパラオ政府機関に対し、同日より5日間、半旗を掲げることを命じます。
2011年3月21日 大統領 ジョンソン・トリビオン」

日本に併合して欲しいと申し出があった。

パラオは佐藤内閣の時代に沖縄返還で揺れていた日本に、日本の一行政区にして欲しいと申し出たことがあります。当時パラオはアメリカの信託統治領だったので、対米関係を重視していた日本は丁重にお断りしています。




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2015年11月24日

かつて北陸に君臨した高志国。王と呼ばれた阿彦や「大国主」に求婚された姫とは!?



日本観光サイト「ジャポニズム」から人気の記事を紹介!

第4回目は「かつて北陸に君臨した高志国。王と呼ばれた阿彦や「大国主」に求婚された姫とは!?」です。

元記事ははここ






高志国

古代に北陸に存在した国のことである。
「古事記」には、高志国と書かれているが、『出雲国風土記』には古志国とあり、日本書紀は越国と書かれている。

その後、越後、越中、能登、越前に分かれることになる。

当時、鳥取県や島根県辺りに存在した古代出雲国が大軍を率いて高志国に攻め入ったが、高志国はこれを恐れて国を出雲に明け渡したとされる。

その後、大和朝廷が大彦命(第8代・孝元天皇の子)などを派遣して高志国を古代出雲国から奪い取ったと言われている。

しかし、大和政権は出雲系の神々の信仰を尊重して残したため、現在も越中の古い神社は出雲の神々を祭神としている。

三種の神器の一つ「天叢雲剣」

「草薙の剣」

「天叢雲剣」は、「草薙の剣」のことである。
出雲国の「スサノオノミコト」が高志国に存在した「ヤマタノオロチ」の尾を切り裂いた時に出てきた宝剣と言われる。

当時、出雲と高志国(越国)は交戦状態にあり、『出雲国風土記』には、「越の八口」の平定の記載があるため、出雲と高志国の勢力争いをヤマタノオロチ神話の原型や土台とする説がある。
福井県には九頭竜川など名称や地名が残っている為、信ぴょう性は高い。

また、三種の神器の一つである「八尺瓊勾玉」の翡翠も高志国で取れたものであるという説もある。

阿彦

古代越国を支配していた最大勢力を誇る豪族。「高志の国王」を名乗っていた。

阿彦は、富山湾の海上に強大な勢力を張っていた布勢の神「倉稲魂命(うげのみたま)」の子孫である「布勢比古」なる人物の子供か孫だと伝えられています。

大和朝廷の大彦命によって、越国が平定され、大和朝廷の手刀摺彦に統治を任せますが、越国の他の豪族は重く用いられますが阿彦は重く用いられませんでした。
これに阿彦は激怒して、抵抗を続けます。

阿彦の一族は、以前から日本海の対岸、支那大陸の事情に精通していたようで、特に阿彦の代になってからは大陸の勝れた物質文明を積極的に取り入れた他に、大陸的な専政君主政治を採用していました。
阿彦は、ツングース人である鄭鶴(ていかく)、徐章(じょしょう)という2人の人物を重く用いて、それらの政治を行っていました。

阿彦は一般の婦女子にも民衆にも極めて親切で、しかも厳正な政治を行ったので、人々は次第に新しい政治に馴れると共にその長所を悟り、喜んで彼に従う様になったので、阿彦の勢力は急速に拡張増大して行きます。

阿彦の乱

手刀摺彦等に抵抗を続ける阿彦のもとに、王権に不満を抱く豪族や内通する者が集まってきます。

そして、大和朝廷側の手刀摺彦等に攻めかかります。阿彦はこの奇襲攻撃により、手刀摺彦の「中央城」や「辰城」、「辻城」などの領域を除いた東部平野を手中に収め、西部平野への侵攻を企て、砺波郡枯山に堅固な堡を築き、近辺の山野を支配します。

手刀摺彦の副将である甲良彦舅は、阿彦の築いた枯山の堡を攻め、犬攻めや落石攻めなどによって敵将を討ち取ったりしますが、堡を破ることに失敗します。

この枯山の堡は、砺波市 の鬼ヶ城(別名:浅野谷城、安川城)ではないかと言われています。

阿彦征伐

この反乱を受けて、大和朝廷から大若子命が阿彦征伐に乗り出します。
この戦いは長引き3年近く続きます。

長く戦争が続いたことを、大若子命は憂っていると姉倉姫(この時代よりはるか昔の高志出身の女神)の神託があったと言われています。

その神託に従って、宮社を造営し祈願を行ない、討伐軍を再編成し、枯山の堡を攻めます。
そして、ようやく阿彦を討ち取ることに成功します。

大若子命は、姉倉姫の神徳を末長く顕彰するため社殿を造営するとともに、大竹野の北方神通川沿いの地(富山市八幡)に大己貴命(大国主ノ神)を祀る越中一宮を造営したと言われています。

阿彦の名残

我孫子、吾孫子、阿孫子、亜孫子、安彦、阿比古、吾彦、我子などは「阿彦」の当て字と言われています。
千葉県の我孫子市のほかにも大阪市住吉区我孫子、同泉大津市我孫子、奈良県橿原市我孫子、福岡県直方市我孫子、埼玉県羽生市我孫子など様々な地名にも使われています。







ヌナカワヒメ

ヌナカワヒメへの求婚

大国主は日本の国土を開拓して、農業・医療・商業を普及した神であるとされており、天照大御神に国を譲って、出雲大社に祭られた神として有名です。

その大国主は、高志国にヌナカワヒメという賢く美しい女性がいるという噂を聞きつけます。

正妻のスセリヒメがいるにも関わらず、ヌナカワヒメを嫁にしたいと考えた大国主は沢山の家来を引き連れて、高志国を訪れます。

しかし、大国主が何度ヌナカワヒメの舘を訪ねても、ヌナカワヒメは門を開いてくれません。

大国主は八千矛神(ヤチホコノカミ)という別名を持っていたのですが、その大国主がヌナカワヒメに次のような歌で想いを伝えます。

「ヤチホコノカミと呼ばれる私は広い日本のあちらこちらに妻を探し、遠い越の国まで訪ねてきました。この地に賢い美しい女性がいると聞いて、足しげく通い、求婚してきました。

太刀の緒も解かないまま、はおった上着も脱がないまま、乙女の寝ている舘の板戸をひたすらゆすぶって私は立ちすくんでいる。

すると緑深い山ではぬえが鳴き雉が鳴き鶏が鳴き、朝となりました。いまいましくも鳴く鳥です。いっそわが使いに命じてこれらの鳥を打ち殺してしまいたい。」

すると、舘の中からヌナカワヒメがやはり歌で答えます。

「ヤチホコノカミと呼ばれるあなた、私はか弱い女ですから入り江にいる水鳥のようにお互いに想いあえる殿方を強く求めております。

今でこそ私はこのようにあなたを無下に扱っていますけど、後にはあなたになびくこともあるでしょう。
だからお使いの方、その鳥を打ち殺したりなさらないで。緑深い山の陰に日が隠れて、真暗な夜になってから会いにいらしてください。

その時あなたは朝日のような笑みを満面にたたえ真白き私の腕を抱いて、若々しい胸を抱いてぎゅっと抱きしめて私の玉のように美しい腕で腕枕をして、のびのびと足をのばしておくつろぎになってください。

だから、どうか今夜は、そんなむやみに恋心を燃やしてくださいますな。ヤチホコノカミとよばれるあなた」

ヌナカワヒメの歌を受けて、オオクニヌシノミコトはその夜は我慢して次の夜にヌナカワヒメを訪ねていき、ご結婚なさいました。

その後、正妻・スメリヒメのヤキモチへと続いて行きます。

ちなみに御穂須須美命(ミホススミ)がヌナカワヒメと大国主の子供と言われています。

「越(こし)」、「高志」、「古志」にちなんだ名前

「コシヒカリ」(お米)、「越乃寒梅」(日本酒)、「古志神社」(富山県下新川郡朝日町)、「古志郡」(新潟県中越地方)などである。また、福井市には「高志」の地区名と名称が残っており多用されている。

出雲国古志郷(現・出雲市古志町・下古志町)

出雲国にあった古志郷の地名の由来は、古志の国の人たちが来て、堤を造ったが、その後そのまま住み着いたので古志と呼ぶようになったというものだそうです。

戦国時代の備後古志氏は広島県福山市の新庄と呼ばれた地域を支配した領主であるが、出雲古志氏の子孫で、古志吉信(毛利家)、古志重信(尼子家)などの武将を輩出している。

毛利氏に従ったが、関ヶ原の合戦で毛利が負けた際、削封されて萩に移ったが、それに従わなかった為に武士としての歴史を終えた。

子孫は、千葉県に住んでおり、古文書(古志家文書)を保管していました(1999年に出雲市に寄贈)。

それによると歴代の当主は、京極氏や尼子氏などの領主権力や杵築大社(出雲大社)などと密接な関係を結び、出雲国の歴史に重要な役割を果たしています。




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2015年11月21日

琉球王国を作ったのは源為朝の息子だった!琉球処分とは!?その真実に迫る!




日本観光サイト「ジャポニズム」から人気の記事を紹介!

第3回目は「琉球王国を作ったのは源為朝の息子だった!琉球処分とは!?その真実に迫る!」です。

元記事ははここ






琉球王国

1429年から1879年の450年もの間、沖縄本島を中心に存在した誇り高き王国。勢力圏は小さな離島の集合で、総人口17万人に満たない小さな王国でした。

琉球には元々「山南」「中山」「山北」と3つの国があったが、「中山」が「山南」「山北」を滅ぼして統一。琉球王の正式な称号は「琉球国中山王」。

1609年に島津藩の侵攻を受けて以降は、島津藩の支配下に入った。しかし、対外的には独立した王国として存在し、独自の文化を築き上げた。

琉球王国の始祖

真偽は不明だが、琉球王国の正史では12世紀に源為朝が沖縄県の地に逃れ、その子供が琉球王家の始祖・舜天になったとされる。源為朝の上陸の碑も建てられている。

源為朝は日本で初めて切腹をしたことで有名だが、その為朝が保元の乱で伊豆に流刑となったが、その途上船が嵐に逢い、沖縄本島の今帰仁に漂着して豪族となった、というものである。

そして、地の豪族大里按司の妹と結婚し、生まれた子を尊敦(後の舜天)と名付ける。
そして、その尊敦が中山王となったと言われる。

為朝自身は妻子を連れて大島へ戻ろうとして出航したが、まもなく台風が起こった。
舟人たちの迷信で「女が乗っているので、竜神の怒りを買ったのだ」と言い出す。やむなく為朝は妻子を浦添という処に残し、単身大島に戻っていったと伝わっている。

薩摩による琉球侵攻

琉球王国は16世紀の秀吉の明への遠征時にも、日本軍に食料を提供し、兵站の一部を賄っています。

そして1609年に、薩摩藩が3000名の兵を率いて琉球王国の奄美大島に進軍。
さらに沖縄本島に上陸し、首里城にまで進軍した。

琉球軍は島津軍より多い4000名の兵士を集めて対抗したが敗れた。
尚寧王が和睦を申し入れて首里城は開城。島津軍が首里城について、5日間の出来事だった。

それ以降、琉球王国は島津藩の属国となったが、支那にも朝貢を続け、両属という体制をとりながらも対外的には独立国家の体裁を保ち、独自の文化を維持した。








末期の琉球王国

東シナ海の中継貿易の中心の1つとして東南アジアなどとも貿易をして栄えていたが、16世紀に支那が支那人とアジア諸国(日本以外)との交易を認め出したことで大打撃を受ける。

大航海時代にヨーロッパ諸国が東シナ海に進出すると、さらに市場を失った。
その上、日本が戦国時代に東南アジアに進出し、日本人町を形成するほど貿易の中心となり、琉球の貿易は衰退した。

その後、日本が鎖国政策を行うと、薩摩藩が属国である琉球を使って貿易をした為に、命脈を保った。

しかし、19世紀には日本の開港5港や香港に貿易の中心が移り、琉球の貿易はほぼ失われた。

琉球の民衆は土地の所有が認められておらず、農業生産性も低く、税金が極めて高かった為に、貧しい生活を強いられていた。

台湾問題と琉球処分

琉球は元々「中国の属国」「日本の属国」と云う2つの国への二重属国という複雑な状況にありました。中国への属国は「形式的なもの」、日本への属国は「直接、日本が支配」との体制です。

そこに台湾事件が起きます。
台湾事件とは、台湾に漂流した琉球国人を台湾人が虐殺した事件です。
日本側は「琉球は日本属国であるから、台湾に軍事的制裁を与える姿勢」を示しましたが、中国側は「琉球は自国では無いので問題視しない見解」を示し、国際法的にも中国は琉球を放棄しています。

日本はこの問題を巧みに使い、琉球処分を行います。
これにより琉球国は、対外的にも日本国の一部になりました。

琉球国自身は王朝役人の中には中国寄りの人も何人かいましたが、琉球王国の腐敗政治による苛烈な税に苦しめられていた民衆は、琉球王国を支持せず、琉球処分を自然と受け入れています。(反乱などなく、むしろ支持されていたみたいです。)

支那は琉球処分について抗議はあったが、外交交渉の過程で、支那への先島分島問題が提案され、調印の段階まできたが、最終段階で清国が調印を拒否して分島問題は流産、琉球に対する日本の領有権が確定した。

なぜ併合でなく「処分」なのか

琉球処分は、琉球王国の日本国への併合という意味で使われることが多いが(このサイトもその様な使い方をしている所もある)、実質的には江戸時代初期の薩摩藩の琉球征伐の際に琉球王国は併合されています。

しかし日本は鎖国政策を行った為、支那との交易を望む薩摩藩は支那へ朝貢をしている琉球王国の立場を利用して交易を続けました。
王国をつぶさず、属国である琉球王国の支那への朝貢を許していたのもその為です。

つまり、琉球の民などは島津藩主の命令に従い、島津藩の領民と同じ立場でした。

琉球処分は、琉球王国の併合ではなく、江戸時代初期に既に併合していた琉球王国に残していた王族の身分的特権階級を最終的になくしたという政策です。

明治時代の武士の特権階級をなくした「秩禄処分」と同じようなニュアンスです。

なので、強制的な琉球王国の日本への併合と言うのは左寄りの人達の自虐史観の一貫である。

誇り高き琉球人

1515年にポルトガル人のトメ・ピレスは当時の琉球人の気質について書いている。

それによると「彼らは正直な人間で、奴隷や娼婦を買わないし、たとえ全世界とひきかえでも、自分たちの同胞を売るようなことはしない。彼らはこれについては死を賭ける。レキオ人(琉球人のこと)は偶像崇拝者である。彼らは色の白い人々で、シナ人よりも良い服装をしており、気位が高い。」と記してある。

琉球王国の文化

琉球舞踊

琉球舞踊は、中国からの使節を歓迎するために舞う宮廷舞踊「御冠船踊り」がその起源である。御冠船踊りはすべて貴士族の子弟のみによって踊られた。宮廷舞踊のことを明治以降の舞踊と区別する意味で、古典舞踊とも言う。古典舞踊には、老人踊り、若衆踊り、二才踊り、女踊り、打組み踊りなどがある。

琉球神道

古来より琉球にはアニミズム、祖霊崇拝、おなり神信仰を基礎とする固有の宗教があった。




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2015年11月20日

邪馬台国はどこにあったのか!?その謎に迫る!



日本観光サイト「ジャポニズム」から人気の記事を紹介!

第2回目は「邪馬台国はどこにあったのか!?その謎に迫る!」です。

元記事ははここ






邪馬台国論争

3世紀頃、日本にあったとされる邪馬台国が、どこにあったかと言う論争で、九州説、畿内説、出雲説、関東節、北陸説、東北説、沖縄説なんていうのもあったみたいである。

有力なのは九州説と畿内説で、奈良県の桜井市の纏向古墳が発見されてからは(その前から畿内説が有力だった)、畿内説でほぼ確定したかの様に言われるが、九州説を唱える学者はまだ在野などには多い。このサイトも九州説を支持しています。

邪馬台国の記述

2~3世紀に日本列島に存在したとされる国。支那(中国)の「三国志」と呼ばれる物語に出てくる日本の王国である。

三国の内、一番の大国であった「魏」という国の歴史書・「魏書」の日本のことが載っている部分、いわゆる「倭人伝」の部分に邪馬台国の記述がある。(本稿では魏志倭人伝とする)

これは、三国を統一した司馬一族がどれくらい凄かったかを現す為に、「倭国という遠い国からも貢物を持って来た」という風に出てくるものである為、必要以上に遠い国である様に書かれている。(書かれている距離をすべて足すと、日本より遠い国になってしまう。)

また、支那は支那以外の国を貶めて書く為、邪馬台国の「邪」やその国の女王・卑弥呼の「卑」など、実際の名前とは違う名前を当てはめている為、日本のどの国のどの部分を指しているか分かりにくくなっている。

その為、邪馬台国が日本の歴史のどの国で、卑弥呼は日本の歴史の誰を指しているのか議論が絶えない。

歴史教科書の嘘

日本に漢字や仏教などが伝わったのは6世紀頃で、朝鮮半島経由で伝わったと学校などでは教えられています。
これは、左よりの人達の自虐史観の一つです。

韓国の国定教科書などでも、6世紀の韓国の三国時代(百済、高句麗、新羅)に「すべての文化は韓国が日本教えてあげた」という風に書かれています。仏教、漢字、儒教、美術、音楽、歴史、医学、農業、紙、筆、墨、硯(すずり)の作り方など全てです。

しかし、九州で「漢委奴国王」の金印が見つかっています。これは西暦57年の物、つまり1世紀の物です。
印鑑が必要ということは文字を使って書類を書いていたということです。また、1世紀には直接大陸と国交があったことが後漢書などにも記載があります。
また、片部遺跡から出土した墨書土器に文字が墨書されています。

ちなみに朝鮮半島には「銅印」しか送っていません。

日本に文明を教えてあげたと言われる百済の成立は西暦346年で、日本の属国でした。世継ぎの皇子を日本に人質に出したりしていました。
このことは、日本書紀だけでなく、朝鮮の史書である三国史記にも繰り返し記述されています。

そして、魏志倭人伝に書かれている魏から女王たちに贈られた品々や位が、西の大月氏国に匹敵する最恵国への待遇でした。

ちなみに倭国、倭人の「倭」という文字も蔑称ではあるが、「にんべん」を使っていて、人として扱ってもらっていますw
朝鮮半島などは酷くて、「?族(わいぞく)」です。「?」というのは、汚穢(おわい)の「?」で、大小便や糞尿のことを言います。普通は「のぎへん」ですが、わざわざ「さんずい」を使っています。
支那は、周辺民族の名に、ろくな漢字を充てていませんが、いろいろある周辺民族の呼称のなかで、これほど汚い文字を与えられた民族は、他に例がありません。

これらのことは、当時から日本の文明は朝鮮半島より遥かに栄えていたことを示しています。

邪馬台国とは

魏志倭人伝では、親魏倭王卑弥呼は、約30の国からなる倭国の都としてここに住居していたとしています。

倭国は元々男王が治めていたが、国の成立(1世紀中頃か2世紀初頭)から70-80年後、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起きたと書かれています(倭国大乱の時期は2世紀後半)。
そこで、卑弥呼という女子を王に共立することによって、ようやく混乱が収まっり、弟が彼女を補佐し国を治めていたそうです。

女王は魏に使節を派遣し親魏倭王の封号を得たが、狗奴国との戦いがあった時期とされる248年頃から間もなく卑弥呼が死去し、男王が後継に立てられたが混乱を抑えることができず、「壱与」または「台与」が女王になることで収まったと書かれています。





邪馬台国が九州にあったと言う説

邪馬台国九州説では、福岡県の糸島市を中心とした北部九州広域説、福岡県の大宰府天満宮、大分県の宇佐神宮、宮崎県の西都原古墳群など諸説が乱立している。また、邪馬台国が”移動した"とする説(「東遷説」)と"移動しなかった"とする説がある。「東遷説」では、邪馬台国が畿内に移動してヤマト王権になったとしている。

邪馬台国九州説

このサイトでは、邪馬台国九州説を支持します。

魏志倭人伝よりも少し後の時代に書かれた支那の旧唐書(くとうじょ)という歴史書に、「日本国は、倭国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた」と書いてあります。

ここから分かることは、支那の言う倭国と日本は別の国であるということです。

さらに旧唐書には「倭国伝」と「日本国伝」があります。
その「倭国伝」の冒頭に「倭国とは古の倭奴国なり。唐の都から一万四千里、新羅の東南の大海中に在り。」と書いてあります。朝鮮半島の新羅から東南に海を渡った先にあるのが「倭国」ということです。

そして、「日本国は、倭国の別種だ。その日本国は、日の出の場所、つまり「倭国」からみて東方にある。そして東にあるから「日本」と名づけた」と書いてあります。

その上、「日本国の境目は、東西南北に各数千里、西のはずれと南のはずれは、いずれも大海であり、東の方角には大きな山があり、その山の向こうは、毛人の国だ」とあります。

つまり、西と南は海だけど、東の方には大きな山(富士山?)があり、その向こうは毛人(アイヌ?)が住んでいると言っています。

決定的な文章として、隋書に書いてる「倭国の真ん中には「阿蘇山」があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異として祭祀を執り行っている」との文です。
普通に山ではなく、「有阿蘇山」と山の名前が入っています。

つまり、倭国は九州にあったということです。
そして近畿内には、日本と言う国があったということになります。

余談ですが、「新唐書」には、「その「倭国」に、彦瀲(ひこなぎさ)の子の神武が立ち、改めて「天皇」を号して、大和州に移って統治した。次は綏靖、次は安寧、次は懿コ、次は孝昭、次は天安、次は孝靈、次は孝元、次は開化、次は崇神、次は垂仁、次は景行、次は成務、次は仲哀・・・」とあります。
そうです、記紀に書いてある「神武東征」のことです。

古事記や日本書紀が、神話でなく、実際の歴史書だったことが良く分かる文章です。
学校で学ぶようになることを願っています。


当時の日本人

学校では、毛皮を着て狩りなどをして暮らしていたと言う風に習い、漫画の日本の歴史なんかでも石の斧を持って、鹿などを追い回している絵を使っています。

しかし、支那の歴史書や古墳などから分かる日本は随分と違います。

旧唐書によれば、「甚だ文字を知り、俗人は佛法を敬う」とあります。
また、「布の衣装を着ている」「綿の帽子」との記述もあり、古墳(鳥浜貝塚など)などからも布が見つかっています。

日本人は朝鮮半島から漢字が伝わったと言われる随分前から漢字を使っており、庶民まで知っていたということです。

また、布を編む道具なども発達していたということが分かります。

他には「婦人は鮮やかな色のスカート」を履き、「銀で出来た花の形のかんざし」をさしていたそうです。

また、「争い事が起こると訴えを起こす」との文もあり、裁判制度もしっかりしていたことが伺えます。

そして、隋書には「倭国は大国だ。新羅、百済は倭国に珍しい物が多いと敬仰して常に通使が往来している」とあります。あの自分たち以外を認めない支那が倭国を「大国」と書き、新羅、百済が倭国に朝貢していたと書いてあります。

そして一番感動したのは「魏書」にある「風俗は規則正しく、婦人は淫らでなく、嫉妬を しない、盗みがなく、訴訟も少ない」という文です。

今も昔も日本人は、盗みなどしない国民性だったということが分かります。







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2015年11月19日

北方領土問題とは!戦後行われた占守島の戦いに勝たなければ北海道はソ連に占領されていた!?



日本観光サイト「ジャポニズム」から人気の記事を紹介!

第一回目は「北方領土問題とは!戦後行われた占守島の戦いに勝たなければ北海道はソ連に占領されていた!?」です。

元記事ははここ






日本の領土で、北海道の東北部にある歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島(色丹島および歯舞諸島は北海道の一部)の4島が有名ですが、樺太の南半分と千島列島はカムチャッカ半島の手前にある占守島までの千島列島の全部を指します。

少なくとも2010年までは、札幌国税局根室税務署の課税台帳には、日本の領土としての記述がありました。

しかし、民主党政権時代、国民に何も知らせることなく南千島から先の中部千島、北千島の島々を帳簿から削除されました。

このサイトでは、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島を北方領土、北方4島と書きます。

南樺太などの領土について

後述しますが、日本はサンフランシスコ講和条約で、樺太や北千島(北方4島以外)のすべての権利を放棄しました。

日本は、それらの領土の処分権を連合国に委ねましたが、連合国は北方領土の処分先を決めていません。

ロシアが実効支配していますが、サンフランシスコ講和条約にはロシアは入っていません。
なので、連合国が領土の処分先を決めるまでは、日本の領土のままと考えるのが普通です。

ちなみに軍事占領しただけでは、その土地は占領した国のものにはなりません。
例えば、イラクのフセイン政権を倒したアメリカはイラクを軍事占領しましたが、イラクはアメリカのものではありません。

条約などがあって初めて、その国のものになります。
日本とロシアの間にも、連合国とロシアの間にも南樺太などの領土に関する取り決めは一切ありません。

北方領土の歴史

日本が千島列島を領土としたのは大変古く、1635年に北海道の松前藩が樺太調査を行っており、その後の1644年の『正保御国絵図』には、松前藩が支配している蝦夷地として樺太や千島列島が載っている。

1700年には、北海道の松前藩が「全千島列島」を藩の知行地として幕府に届け出ています。

その後、ロシアの囚人たちが北千島に乱入してきたり、日本とロシアとの間で様々なトラブルがあり、1855年、日本とロシアとの間で、「日露和親条約」が締結されました。

この条約によって、南千島(北方4島)を日本領、それ以北(中部千島、北千島)をロシア領とすることが定められました。
要するに、北方4島は日本のものと確定したということです。

ところが日露和親条約で、「樺太は日露混在の島」と、曖昧な取り決めをしたため、1856年のクリミア戦争後、大量のロシア人が樺太に入り込み、日本人との間でトラブルが頻発するようになりました。

そこで、1875年に榎本武揚が特命全権大使としてロシアに赴き、「日本は樺太を放棄する」「代わりに千島列島を全部日本領とする」という「樺太千島交換条約」(サンクトペテルブルグ条約)をロシアとの間で締結します。

その後、1904年に日露戦争が勃発し、日本が勝利。日本とロシアとの間で、樺太の南半分を譲り受ける条約(ポーツマス条約)を結んでいます。

国際的には

2005年にEUが議会で「日本の北方領土を日本へ返還するようロシアに求める決議」を採択しています。また、 アメリカも北方4島における日本の主権を認めています。

ロシアの不法占拠

日本が降伏する4日前の8月11日にソ連軍が日本領の南樺太に侵攻してきます。これは1946年4月まで残っていた日ソ中立条約を破るものでした。

8月14日に日本はポツダム宣言受諾を通告します。

しかし、その後も8月25日に南樺太を占領。
9月3日から5日にかけて、降伏して武器を捨てている北方4島を武力で占領します。

占守島では、8月18日から23日にかけて、侵攻して来たソ連軍と戦車などを解体して武装解除途中の日本軍と交戦します。戦車などを組み立て直し、日本軍が勝利します。

この勝利がなければ、北海道までソ連軍が占拠するつもりだったらしく、戦後は朝鮮半島の様に日本が二つに分けられていた可能性は高い。






占守島の戦い

日本を守った英雄達

前述していますが、この戦いで日本軍が勝利しなければ、北海道までソ連軍が来て、日本の北海道は未だにロシア領だった可能性は高い。

しかし、この島を守っていた池田隊長始め、第91師団は日本を守った英雄として称えられるどころか、左よりの人達によってこの戦いを「無駄な戦い」、「戦死者は犬死に」と一蹴しています。残念でなりません。

ソ連軍がこの島に攻撃を仕掛けてきた8月18日は、日本が連合国に降伏して武装解除の準備をしていた時でした。
戦車部隊でも、車載銃砲や無線機の取り外しに始まり、爆砕や車両を海に沈めるなどの準備を進めていました。

そんな状態で疲れて寝静まっていた午前1時に突如攻撃が始まります。

戦争は終わったと思っていた第91師団は初め誰が攻撃して来たか分からなかったそうです。
しかし、放置すると皆殺しになってしまうと判断した第91師団は女性400人を北海道に逃がし、自分たちは戦いを選択します。

第91師団には、満州から転進した精鋭部隊の「士魂戦車隊」(戦車第11連隊)がいました。
率いるのは「戦車隊の神様」と呼ばれた池田末男少将(当時は大佐)です。

ソ連に攻められる前の晩は若い将校に「15日以降、俺は廃人になった。お前たち若いものは国へ帰って新しい国民を教育しろよ」などと話していたそうです。

攻めてきたソ連軍は、駆逐艦2隻、6千トン級の輸送船4隻、兵力13,000千人という、まさに海を覆わんばかりの大部隊です。
対する日本軍は武装解除途中の日本兵8,500人です。

当初、報告を聞いた師団参謀は、国籍不明といっても米軍だと思ったそうです。
後に相手がソ連とわかった時はびっくりしたそうです。

精鋭の戦車連隊は武装を分解中ですぐには出撃出来ない状態です。
それでも総員総出で武装を取り付け出撃しています。

池田隊長は自分の隊士たちに「玉砕して白虎隊になるか、一旦自重して後日再起をかける赤穂浪士になるか」と聞いたそうです。全員一致して、白虎隊になることを選択したと言われます。

ソ連軍との肉弾戦はおよそ40分にわたるものだったそうです。
普通、近代戦において銃撃戦というのは1〜2分程度で、5分も続けば長かったと言われる。
それが、40分です。いかに凄まじい戦いであったか分かります。

その戦いで池田隊長始め、96人が戦死しています。
池田隊長の最後は、対戦車銃を受け炎上しても、さらにしばらく前進して敵に向かっていたそうです。

戦いは4日続き、日本軍の勝利に終わります。
日本軍の死傷者約600名、ソ連軍の死傷者約3,000名でした。
ソ連軍は占守島を1日で落とす予定でした。4日伸びたことで、アメリカ軍が北海道に入り、結果的に北海道がソ連軍の手に落ちるのを防ぐことに成功しています。

当時のソ連政府機関紙「イズベスチャ」は、占守島の戦いについて、次のように書いています。
「占守島の戦いは、大陸におけるどの戦闘よりはるかに損害が甚大であった。8月19日はソ連人民の悲しみの日であり、喪の日である。」

大功ある第91師団は、この戦いの後、ソ連に日本本土に帰還させると騙されて、シベリアに強制連行されました。
島民25,000人とともに強制連行され、何故かシベリアに着いたのは5000人です。
(途中理由なく殺されたと言われる)

そして、シベリアに抑留された人々も、寒さと飢えと栄養失調のために、約1割がお亡くなりになりました。

日本を守った英雄達に対するあまりにも酷い現実と共に、北方4島は未だにロシアに不法占拠されたままである。







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