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2016年01月21日

源義経が天才だと評判をあげた「一ノ谷の戦い!」



日本観光サイト「ジャポニズム」から人気の記事を紹介!

第11回目は「源義経が天才だと評判をあげた「一ノ谷の戦い!」」です。


元記事ははここ






一ノ谷の戦い

平安時代の末期の1184年3月20日に摂津国福原および須磨(神戸市辺り)で行われた戦い。治承・寿永の乱(源平合戦)における戦いの一つ。一ノ谷合戦を考えるための文献史料としては、九条兼実の日記『玉葉』、同時代の日記形式で記述した歴史書『吾妻鏡』、それによく知られている『平家物語』がある。

源義経の奇襲によって源氏が勝ったと言われている。平氏方の陣の背後、鵯越ひよどりごえの急勾配の坂を一気に馬で駆け降り平家を討ったと言われている。義経の戦上手を伝える「鵯越の逆落さかおとし」の名場面として有名である。

背景

源義仲と源頼朝の対立

木曾義仲が京都に入り、戦いに敗れた平家は西海に逃れて屋島に拠を移していました。しかし全てに荒っぽい義仲を後白河法王は嫌い、義仲が法王の命を受けて西海に平家と戦いに行った隙に義仲打倒の命を源頼朝に出してしまいます。いったんは京都に戻って後白河法王を幽閉し、征夷大将軍に就任する義仲ですが、源範頼・義経の連合軍に破れ、義仲は戦死、巴御前は北陸へと落ちていきます。(1184.1.20 宇治川の合戦)

この源氏同士の抗争の間に勢力を立て直した平氏は、同年1月には大輪田泊に上陸して、かつて平清盛が都を計画した福原まで進出していた。平氏は瀬戸内海を制圧し、中国、四国、九州を支配し、数万騎の兵力を擁するまでに回復していた。平氏は同年2月には京奪回の軍を起こす予定をしていた。 1月26日、後白河法皇は、頼朝に平家追討と平氏が都落ちの際に持ち去った三種の神器奪還を命じる平家追討の宣旨を出した。

三種の神器

日本神話において、天孫降臨の時に、瓊瓊杵尊が天照大神から授けられたという鏡・玉・剣のこと。また、神話に登場した神器と同一とされる、あるいはそれになぞらえられる、日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物のこと。 三種の宝物とは、八咫鏡・八尺瓊勾玉・天叢雲剣(草薙剣)を指す。皇族はもとより天皇でさえもその実見はなされておらず、多くの面が謎に包まれている。この神器の内、鏡と剣の形代および勾玉を所持することが皇室の正統たる帝の証であるとして、皇位継承と同時に継承される。

八咫鏡(やたのかがみ)

記紀神話で、天照大神が天の岩戸に隠れた岩戸隠れの際、石凝姥命が作ったという鏡。天照大神が岩戸を細く開けた時、この鏡で天照大神自身を映し、興味を持たせて外に引き出し、再び世は明るくなった。のちに鏡は天照大神が瓊瓊杵尊に授けたといわれる。

八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)

八坂瓊曲玉とも書く。大きな玉で作った勾玉であり、一説に、八尺の緒に繋いだ勾玉ともされる。岩戸隠れの際に玉祖命が作り、八咫鏡とともに榊の木に掛けられた。

草那芸之大刀(くさなぎのつるぎ)


草薙剣(くさなぎのつるぎ)の旧名で、古事記では草那芸之大刀と記される。記紀神話では須佐之男命が出雲・簸川上(ひのかわかみ、現島根県安来地方の中国山地側、奥出雲町)で倒したヤマタノオロチの尾から出てきた剣。後、ヤマトタケルノミコトが譲り受け、移動中、周りを火で囲まれたとき、姫を守るため自らの周りの草を薙ぎ、火打石で草を焼いたとき帯刀していたことから予定調和の剣とされる。「焼津」の地名はこのとき草を焼いたことによる。

合戦の経過

源氏の内輪もめを好機とみた平家は京都を奪回すべく、現在の神戸の生田神社のかいわい、一ノ谷に陣を構えます。平家が安徳天皇を擁していることに苦慮した後白河法王は和平の道を探り、2月8日までは攻撃しないから話し合おうと平家に伝えたのですが、範頼・義経の軍はそれを無視して戦争を始めてしまいました。

1184年2月4日、鎌倉方は矢合せを7日と定め、範頼が大手軍5万6千余騎を、義経が搦手軍1万騎を率いて京を出発して摂津へ下った。
最初範頼の軍が東から、義経の軍が西から攻めて挟み撃ちにする予定だったのですが、熊谷直実たちが無茶な先陣争いから戦闘の発端を開いてしまい、まだ義経たちが六甲の山の中を進軍している内に、眼下では死闘が繰り広げられる結果になります。

ここで義経はその崖を駆け下りて戦闘に参加することを思い立ちます。そこで道案内をしていた地元の猟師に「この崖を降りれないか?」と尋ねますと、猟師はびっくりして「無理ですよ。時々鹿が駆け下りているのは見ますけど人馬には不可能です」と答えます。 すると義経は「鹿も四つ足、馬も四つ足、鹿に降りれて馬に降りれない筈がない」といい、手近な馬を2頭崖から突き落としてみました。 1頭は足を挫いて倒れるが、もう1頭は無事に駆け下った。すると義経は「心して下れば馬を損なうことはない。皆の者、駆け下りよ」と号令、義経は30騎ほどの先頭に立って崖を降りて行きます。 すると、殿に続けと、その他の者も大勢続いて降りていきました。途中からは佐原義連が崖を降りる先頭を務めました。これを「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」といいます。

断崖絶壁の上であり、平氏は山側を全く警戒していなかった。こうして思いも掛けない方角から敵軍が来たのに驚いた平氏は混乱して総崩れになり、昼頃には一ノ谷の合戦は決着が付いてしまいました。 この敗走で平氏一門の多くが討たれ、平氏は屋島へ逃れて、戦いは鎌倉方の勝利に終わった。

戦後

範頼軍は平通盛、平忠度、平経俊、平清房、平清貞を、義経・安田義定軍は、平敦盛、平知章、平業盛、平盛俊、平経正、平師盛、平教経をそれぞれ討ち取ったと言われているが『平家物語』や『吾妻鏡』など文献によって多少異なっている。

後白河法皇は捕虜になった重衡と三種の神器を交換するよう平氏と交渉するが、宗盛はこれを拒絶し、合戦直前の休戦命令に従っていたにも係らず、突然源氏に襲われたということに対する抗議と「休戦命令は平氏を陥れる奇謀ではなかったか」との後白河法皇への不審を述べ立てている。

合戦に大勝した鎌倉政権軍も戦略目標である三種の神器奪還には失敗しており、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いへと戦いはまだ続くことになる。



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2016年01月18日

「聖帝(ひじりのみかど)」と呼ばれた天皇



日本観光サイト「ジャポニズム」から人気の記事を紹介!

第10回目は「「聖帝(ひじりのみかど)」と呼ばれた天皇!」です。

元記事ははここ






第16代仁徳天皇


「聖帝(ひじりのみかど)」と呼ばれた天皇


日本の天皇は古代から今日まで続いています。世界中でも驚かれ、そしてそれは誇れることです。

日本の天皇は、初代の神武天皇以来2600年間、国民を「おおみたから」と呼んでいます。

国民は奴隷として搾取する対象ではなく、宝として大切にするという姿勢です。
仁徳天皇は、その姿勢で政治を行い、困窮者を救い、病者を慰問し、孤児や寡婦を扶助したと「日本書紀」にも書かれています。

このように天皇は国民を慈しみ、国民は天皇を敬愛して、天皇と国民が家族的な感情で結ばれた状態を理想としてきました。それは他の国々には見られない日本独自の伝統です。そして皇室が古代から今日まで絶えることなく続いてきました。
ちなみに仁徳天皇は日本武尊の曾孫です。


皇位継承


父親の応神天皇が崩御され、最も有力とされていた菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子と仁徳天皇は、互いに皇位を譲り合い、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子が亡くなった為、仁徳天皇が即位することになる(「日本書紀」では皇子は仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したとのこと)。実に応神天皇が亡くなられてから、三年後のことである。

民の竈(かまど)の話

民の竈は賑いにけり

仁徳天皇が即位したのは313年と言われています(諸説有)。
宮殿は難波高津宮(なにわのたかつのみや。大阪市中央区)。

屋根も葺(ふ)き直さず、色も塗らず、垂木や柱に飾り気のない質素な建築だったという。
仁徳天皇はこう考えていた。「民は耕作や機織りで忙しい。民を余分な宮殿造りに徴集しなければ、自然に富裕するというものだ」。

即位して4年目に、天皇が難波高津宮から遠くをご覧になられた。
そして、「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことであろう」と向こう三年の租税を免じた。

三年がたって、天皇が三国峠の高台に出られて、炊煙が盛んに立つのをご覧になり、かたわらの皇后に申された。
「朕はすでに富んだ。嬉ばしいことだ」
「変なことを仰言いますね。宮垣が崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだ、といえるのですか」
「よく聞けよ。政事は民を本としなければならない。その民が富んでいるのだから、朕も富んだことになるのだ」
天皇は、ニッコリされて、こう申されましたといいます。

ここまでは、よく知られた話ですが、実は、この話には、さらに後日談があります。
このお話を聞いた諸侯が、「皇宮が破れているのに、民は富み、いまでは、道にモノを置き忘れても、拾っていく者すらないくらいです。それでもなお税を納め、宮殿を修理させていただかないならば、かえって、わたしたちが天罰をうけてしまいます!」と、申し出たというのです。

それでも仁徳天皇は、引き続きさらに三年間、税を献ずることをお聞き届けにならなかった。そして六年の歳月がすぎたとき、やっと天皇は税を課し、宮殿の修理をお許しになったというのです。

その時の民の有様を「日本書紀」は、次のように生き生きと伝えています。

「民、うながされずして材を運び簣(こ)を負い、日夜をいとわず力を尽くして争いを作る。いまだ幾ばくを経ずして宮殿ことごとく成りぬ。故に今に聖帝(ひじりのみかど)と称し奉る。みかど崩御ののちは、和泉国の百舌鳥野のみささぎに葬し奉る。」

民は、仁徳天皇に深く感謝し、誰に強制されるわけでもなく、誰に促されるわけでもなく、自ら進んで、材料を運び、荷物を背負って荒れた皇宮を修理したというのです。それも、昼夜をいとわず、力を尽くし、競い合って皇宮の修理にあたった。ですから、いくばくも経たずに、皇宮は、きれいに治ったのです。
だから仁徳天皇は「聖のミカド」と呼ばれるようになった。
仁徳天皇がお亡くなりになると、人々は、和泉国の百舌鳥野に、御陵を作った。

そう日本書紀に書かれているのです。正式名称は「仁徳天皇百舌鳥耳原中陵(にんとくてんのうもずみみはらなかのりょう)」という。

日本初の大規模土木事業

なんと仁徳天皇は大規模な土木事業を行っています。
  ・難波の堀江の開削
  ・茨田堤(まんだのつつみ)の築造
  ・山背の栗隈県(くるくまのあがた)での灌漑用水の設置
  ・和珥池(わにのいけ)・横野堤(よこののつつみ)の築造
  ・感玖大溝(こむくのおおみぞ)の灌漑用水の掘削と広大な新田の開発

上記の5つの事業を行ったことが日本書紀に記載されています。
こうした大規模な土木工事とういうものが、誰のために誰がするものなのかといえば、まさに地域に住む民衆のためであり、民衆が働き、民衆が互いに協力し、民衆の真のリーダーがこれを推進する。公共工事としての土木事業は、水害から多くの人々の命と暮らし、そして田畑の作物を守ります。それは要するに、みんなの暮らしが安全で豊かになる、それをみんなで行う、ということです。

世界最大の陵墓「仁徳天皇陵」

世界三大墳墓

仁徳天皇陵はクフ王のピラミッドと秦の始皇帝陵とともに世界三大墳墓の一つに数えられます。その大きさは全長486メートルと世界最大の大きさを誇ります。


お墓が出来るまで


民衆は仁徳天皇がお亡くなりになると、その遺徳を讃え、和泉国の百舌鳥野に、御陵を作ったとあります。

大規模な古墳が平野部に集中していることから、古墳が出来たとされるのに、1つの説があります。それは、地元の土木工事の結果である。
堤防や、新田開発、灌漑用水の掘削などの大規模土木工事は、大量の土砂の掘削を伴なう。その土砂は、どこかに積み上げなければなりません。土砂の積み上げと、工事を遂行し、みんなをまとめてくれた大将の遺徳を讃え、みんなで感謝する。その一石二鳥が、古墳という盛土の墓所となったのではないか。そんな説です。
逆にいえば、古墳のあった場所は、古代において、その古墳で使用された土砂をはるかにしのぐ、大規模な土木工事が行われたところである、といえないかという仮説です。

大仙陵古墳という名前について

仁徳天皇のお墓でない可能性があるとの指摘があり、最近の教科書では「大仙陵古墳」となっているみたいです。
大きい山のような形状から「おおやま」つまり「大仙」となったみたいですが、「山」ではなく日本ではあまりなじみのない「仙」をわざわざ使い、「占領」をイメージさせるような意図が見え隠れします。

しかし、1684年の「堺境」と言う書物では、江戸時代の初期にはすでに当古墳が「仁徳天皇陵」と記載されているということと、日本人のルーツにも関わる大事な問題なので、このサイトでは仁徳天皇陵という名前で統一します。

発掘調査

1872年に堺県令税所(さいしょ)篤等による発掘が行われている。石棺の周辺から、甲冑・鉄刀、硝子坏・太刀金具が出土しました。この時の図などの記録の大半は関東大震災により焼失したためほとんど残っていない。



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2016年01月04日

日本とトルコの友情の物語!「エルトゥールル号遭難事件」



日本観光サイト「ジャポニズム」から人気の記事を紹介!

第9回目は「日本とトルコの友情の物語!「エルトゥールル号遭難事件」!」です。

元記事ははここ







■日本が海外となした心と心のキャッチボール。

エルトゥールル号遭難事件

1890年の出来事です。   
トルコ皇帝ハミル二世が日本に派遣した特使一行を乗せたトルコ軍艦エルトゥールル号が、帰路、暴風雨に遭遇してしまいます。   
そして、和歌山県串本町沖合で、岩礁に衝突し遭難しました。

この遭難事故で、トルコ特使を含む518名が死亡してしまいましたが、死を免れた69名は、地元漁民の手厚い救護により一命を取りとめます。
このとき串本の村人たちは、台風により漁ができず、自分たちの食べるものさえ無くなってしまうという状況にあったにもかかわらず、非常時のために飼っていた、最後に残ったにわとりまでも、トルコ人に食べさせ介護しました。

貧しい村人たちにとっても、ほんとうに命がけの救助と介護だったのです。
そして遭難者の遺体を引き上げ、丁重に葬った。

この話は、和歌山県知事から明治天皇に伝えられます。
後日、遭難者たちは明治天皇の命により軍艦2隻でトルコに送り届けられました。


後日談〜山田寅次郎〜

この話に同情した山田寅次郎という人物が、一民間人として新聞社などの協力を得ながら全国を歩いて 義捐金を集め、それを携えてトルコに渡ります。



1892年、イスタンブールに上陸した山田寅次郎は、外務大臣サイド・パシャに義捐金を手渡し、皇帝アビドゥル・ハミト二世に拝謁します。

山田寅次郎はトルコ側の要請で、そのままトルコに留まり、日本語を教えるとともに、日本とトルコの友好親善に尽くしました。

この時の教え子の中に、後にトルコ共和国初代大統領となる、ケマル・パシャがいます。
そのケマル・パシャこそ、トルコ革命の指導者であり、トルコ共和国の初代大統領、トルコ共和国の建国の父といわれるトルコの大英雄です。







さらに続きます。〜イラン・イラク戦争〜

時代は下って1985年。
エルトゥールル号遭難から95年後のことです。

イラクのサダム・フセイン大統領が、「今から40時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機をすべて打ち落とす」と宣言します。
3月17日のことです。



イランに住んでいた日本人は、慌ててテヘラン空港に向かおうとしたのだけれど、緊急事態です。
どの飛行機も満席で乗ることができません。

世界各国は自国民の救出をするために救援機を出したのだけれど、残念ながら日本政府はすばやい決定ができなかった。
自衛隊機の出動は、海外への派兵は憲法違反にあたると、当時日本の最大野党であった社会党(いまの社民党)が猛反対したのです。

そして、日本人だけがテヘランに取り残された。
宣言の刻限は、刻々と迫ってきます。

空港にいた日本人は、パニックに陥る。



そのとき、一機のトルコ航空の飛行機が到着します。

トルコ航空の飛行機は、日本人216名全員を乗せて、成田に向かって飛び立った。
タイムリミットまで、わずか1時間15分前のできごとでした。

このとき、なぜトルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかったのです。

後日、元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は次のように語ります。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
エルトゥールル号の事故に際して、日本人がしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。

私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。
トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。
今の日本人が知らないだけです。

それでテヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


さらに後日談があります。

時代がさらに下って、1996年のことです。
新潟県柏崎市に、新潟中央銀行がバックアップするテーマパーク「トルコ文化村」がオープンしました。

トルコ政府は、これを大いに喜び、日本とトルコの友情のためにと、柏崎市にトルコ共和国の建国の父  ケマル・パシャの像を寄贈してくれます。
 

ところが1999年、メインバンクの新潟中央銀行が経営破綻します。
トルコ村は資金繰りが悪化する。

2002年には、柏崎市がトルコ村を買い取るのだけれど、2004年には、トルコ村は倒産してしまいます。

その結果、日本とトルコの有効の象徴である「アタチュルク像」は、なんと、
「像が無造作に横倒しに放置され、ブルーシートに覆われて一部露出の状態」に放置されます。
 
  
ちなみに「ケマル・アタテュルク像」の寄贈に際し、ケマル・アタテュルクは本来トルコ建国の父であり、トルコの人々は、彼の凛とした軍装を好むけれど、トルコ大使館は、武装を嫌う日本に最大限に配慮して、非軍服姿の像を寄贈してくれています。
非軍服姿の「ケマル・アタテュルク像」というのは、それだけでもものすごく貴重な像なのです。

心配したトルコ大使館は、在日トルコ企業の出資も含めた支援を、柏崎市の会田洋市長に伝えます。
 
けれど社民党系の会田洋(あいだひろし)市長は再三のトルコ大使館からの申し出に返事もせず、支援を申し出た製菓会社のブルボンの再建計画も無視します。
 
さらに柏崎トルコ友好協会が柏崎市長会田洋に出した要望書、催告書も共に無視します。

この件では、トルコ大使館も激怒し、

「本件は、日本人らしからぬ注意力と几帳面さを欠いた行為であると思わざるをえません」と、外交文書としては、異例の厳しい抗議文何度も出しています。
(これも無視しています。)
 
結局、この「ケマル・アタテュルク像」は、日本財団によって、2010年3月18日、東京のお台場「船の科学館」に移設されて修復するとともに、一般公開され、今年5月中旬、修復終了とともに、トルコ軍艦エルトゥールル号ゆかりの地である和歌山県串本町に移設されました。




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2015年12月09日

総理大臣の靖国神社参拝問題。首相の靖国参拝は問題になるのか!?



日本観光サイト「ジャポニズム」から人気の記事を紹介!

第8回目は「総理大臣の靖国神社参拝問題!首相の靖国参拝は問題になるのか!?」です。

元記事ははここ








靖国神社

靖国神社は、元々1869年6月29日に明治天皇の思し召しによって「東京招魂社」という名前で建てられたが、1879年に「靖国神社」と改称された。国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社です。

「靖国」という社号も明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。

靖国神社には現在、幕末の1853年以降、明治維新、戊辰の役(戦争)、西南の役(戦争)、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争などの国難に際して、ひたすら「国安かれ」の一念のもと、国を守るために尊い生命を捧げられた246万6千余柱の方々の神霊が、身分や勲功、男女の別なく、すべて祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として斉しくお祀りされています。

靖国神社の御祭神

靖国神社には、明治維新のさきがけとなって斃れた坂本龍馬・吉田松陰・高杉晋作・橋本左内といった歴史的に著名な幕末の志士達だけでなく、戦場で救護のために活躍した従軍看護婦や女学生、学徒動員中に軍需工場で亡くなられた学徒など、軍属・文官・民間の方々も数多く含まれており、その当時、日本人として戦い亡くなった台湾及び朝鮮半島出身者やシベリア抑留中に死亡した軍人・軍属、大東亜戦争終結時にいわゆる戦争犯罪人として処刑された方々などの神霊も祀られています。

このように多くの方々の神霊が、身分・勲功・男女の区別なく、祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として一律平等に祀られているのは、靖国神社の目的が唯一、「国家のために一命を捧げられた方々を慰霊顕彰すること」にあるからです。

A級戦犯合祀

「A級戦犯」とは、1946年4月の極東国際軍事裁判(東京裁判)で起訴された日本側戦争指導者二十八名のことです。
1948年11月の判決で、全員が死刑を含む有罪となり、翌月23日(平成天皇の誕生日)に死刑が執行されました。

國神社には、「A級戦犯」とされた方々の内、刑死された七名と、受刑・未決拘禁中に病死した七名の計14名が昭和殉難者として、1978年に合祀されています。

「A級戦犯」とは「平和に対する罪」を含む理由により起訴された人々ですが、「平和に対する罪」は当時、国際法上の犯罪とされていませんでした。GHQは「A級戦犯」を裁くために、国際法にはない罪状を起訴事由に含めたわけですが、これは明らかな事後立法であり、近代刑法の原則である罪刑法定主義に反します。

ちなみに、B級戦犯の理由である「通例の戦争犯罪」は当時から戦争犯罪ですが、C級戦犯にあたる「人道に対する罪」は当時は国際法上の戦争犯罪ではありませんでした。

その後、「人道に対する罪」は国際法上の犯罪として確立されましたが、「平和に対する罪」は今日においても犯罪概念として確立しておりません。 「A級戦犯」とされた方々は、国内法の犯罪者でないことはもちろん、内外の国際法学者は、裁判自体が違法なものであったと認めています。

日本国政府は独立を回復すると、戦争裁判の犠牲者を「法務関係死亡者(略称・法務死)」として扱い、一般戦没将兵と同様の措置を講じてきました。その政府の対応に基づいて、國神社は「昭和殉難者」として合祀してきたのです。

ちなみによく誤解されていますが、岸信介、笹川良一は起訴はされたが、無罪になったのでA級戦犯ではありません。もっと厳密には松井岩根もA級戦犯ではありません。

靖國神社に代わる国立追悼施設建設問題

A級戦犯分祀論と並んで出てくるのが、靖国神社とは別に「無宗教の追悼施設を作る」という意見です。

無宗教だから政教分離に違反しないし、誰でもわだかまりなく追悼できる、というのですが、そもそも追悼行為自体が宗教行為です。 政教分離論の中では最も愚かな考えであると思われます。

さらにこの施設で行うのは追悼のみです。戦死者を顕彰すると戦争の肯定になるし、慰霊となると宗教行為となるから、ということですが、追悼のみ、つまり「悲しいですね」と悼むだけの施設を税金を掛けてわざわざ新たに作るということです。

無宗教の施設をと言う人には宗教や伝統についての観念が抜け落ちているのではないかと感じます。

そして一番の問題は、「作っても誰もお参りしない」ことです。

慰霊を考えている人は、靖国神社にお参りします。 しかし、無宗教の追悼施設を主張する人達は、もともと国の為に命を掲げて亡くなられた方に感謝していない人が多いからです。おそらく、靖国神社、千鳥ケ淵戦没者墓苑、全国にある護国神社のいずれにも参拝したことがない人たちによる主張だからです。







首相の靖国参拝について

首相の靖国参拝をめぐってもたらされる主な議論は、

・「A級戦犯」を祀る國神社への首相参拝は問題である
・東京裁判が不当だとしても、日本が講和条約で東京裁判を受け入れている以上、首相参拝は問題である
・首相が参拝するなら「A級戦犯」を分祀すべきだ
・政教分離に違反している。
・外国が批判している。

の5点である。

国内法では、犯罪者でない為、首相が参拝することは国内においては何の問題もありません。

また、個人参拝は良いが公式参拝は駄目だとする意見も存在します。

靖国神社は、国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰めています。この人達に感謝を示す人は、国の代表でなくてはなりません。
なので、むしろ個人参拝は行かなくても良いが、公式参拝は必ずしなくてはならないことです。

その当時の価値観で判断せずないがしろにすると、今後日本の為に命をかけて守ってくれる人はいなくなってしまいます。

サンフランシスコ講和条約

サンフランシスコ講和条約とは、第二次世界大戦以来の戦争状態を終結させるためにサンフランシスコで調印された日本と連合諸国との講和条約(『日本国との平和条約』)である。
終戦記念日は、1945年8月15日でなく、講和条約に調印した1951年9月8日、条約発効の翌4月28日とする議論もある。(ポツダム宣言受諾の9月2日という議論もある。)

サンフランシスコ講和条約受諾ですが、問題となるのが11条の「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする(以下略)」という文です。

一般に、第一次世界大戦までは、交戦国間が平和条約を締結して戦争状態を終結するにあたっては、条約中に「交戦法規違反者の責任を免除する規定」(アムネスティ条項)を設けて、戦犯(交戦法規違反者)の大赦を行うのが慣例であり、また、当該規定がなくとも、戦争終結に伴う戦犯の赦免は、国際法上当然のこととされてきました。

つまり、講和条約第11条は、アムネスティ条項を削除した上で、条約発効により主権を回復した日本政府が、戦争裁判の結果、服役中の受刑者を、日本政府の判断のみで釈放、赦免することがないよう、刑の執行を講和条約発効後も日本側に義務づけた規定なのです。

この11条の訳が「裁判を受諾し」となっているので誤解を招くのですが、英語の原文は「accepts the judgments」となっています。なので、「裁判の受諾」でなく、「判決の受諾」なのです。裁判の内容も含めて受諾したのではなく、諸判決を受諾したという意味です。

それに従い、講和条約の発効後も、国内外で約1,200名の戦争裁判受刑者が引き続き服役していました。
しかし日本政府は、戦犯の釈放・赦免を求める全国民的な運動や国会決議を受けて、関係国と早期釈放について交渉し、A級は1956年3月31日までに、B・C級は1958年5月30日をもって関係国の承諾を得て全員が釈放されました。

講和条約により主権を回復した日本が、戦争裁判の判決理由や正当性まで認めなければならないとしたら、そもそも何のための講和条約締結なのかわからなくなります。

A級戦犯分祀

首相参拝をめぐって、「A級戦犯」14柱を國神社の御祭神から分祀すべきだとする 議論があります。

「A級戦犯」とされた方々を國神社が合祀していることに何ら問題のないことは明らかです。

この「分祀論」の本質的な問題は、國神社の尊厳に直接関わる御祭神に関する事柄が、政治や報道の場において軽々しく、それも誤解に基づいて議論されているというところにあります。

そもそも、神社祭祀における分祀とは、人々の崇敬心に基づいて新しく神社を創建したり、あるいは神社に新たな御祭神を祀るために、元宮となる神社から御神霊をお迎えするための祭祀のことをいいます。

もとより、特定の祭神を御神座から「分離」するという意味での「分祀」は、神社神道の教学の上からも有り得ないものであり、このことは、國神社及び神社本庁が表明している通りです。

つまり、「分祀」をすると、神社が増えていくのであり、離れる訳ではありません。分祀というのは読んで字のごとく、「分けて」「祀る」ということです。
(例えば全国の稲荷神社は伏見稲荷大社から分祀されているわけですが、分祀されたからといって、大元の伏見稲荷の神さまがいなくなるわけではありません。)

政教分離に反する

政教分離について書いている憲法20条は、戦争放棄を書いている憲法9条以上にタブー視されています(公明党が与党にいるため)。

靖国神社参拝に関する政教分離の話は、靖国神社批判の為に出てきたものですが、はじめは靖国参拝によって軍国主義が復活するといった批判でした。
しかし、20年以上経ち、軍国主義が復活しなかったので、次に出てきたのが「政教分離に違反する」です。

しかし、厳格な政教分離など不可能です。

宗教系の私立高校、私立大学への補助も違憲になってしまいます。

この「政教分離」を日本に押しつけたアメリカでは、大統領が就任式で聖書に手を置くし、上下両院には専属の牧師がいて祈祷を行います。

毎年8月15日に首相が出席して日本武道館で行われる「全国戦没者追悼式」の壇上には「戦没者之霊」と書かれた標柱が立つが、政教分離上の問題にされたという話は出たことがない。

外国が批判している

外国と言っても、世界中でこれを批判しているのは戦争当時存在していなかった中国(当時は国民党の中華民国、現台湾)、韓国(北朝鮮)だけです。他の国は要人或いは武官が靖国神社に参拝している国が多数です。

日本の全てに文句言ってくる(首相が参拝していなくても文句を言ってきていたであろう)韓国は別として、中国の言い分を見てみると、侵略戦争の責任者であるA級戦犯を靖国神社に祀り、そこに首相が参拝するのは許せない、ということです。

興味深い事実は、A級戦犯が初めて合祀された後に大平首相、鈴木首相が20回近く参拝していますが、その時には中国は何も抗議していない、と言うことです。これは朝日新聞や毎日新聞などの日本のマスコミが大騒ぎして忠告したので、中国側も何も言わないわけにはいかなくなったという面が大きい。

1985年に、朝日新聞の加藤千洋という記者が「中国、日本的愛国心を問題視」という記事で、8月15日中曽根首相の参拝について繰り返し批判を書きます。戦後40年近く、A級戦犯が合祀されてから7年間、中国も何も問題にしていなかったにも関わらずです。

そしてそれを受けて社会党の田邊誠(2015年現在は民主党)が、わざわざ北京まで行って胡耀邦総書記( 当時 )に『 なんでもっと怒らないのか! 』と抗議します。それでも民主改革派で経済重視派だった胡耀邦総書記は、中曽根首相の靖国参拝に対して抑制的でした。

すると田邊誠は旧満州に行き、そこで演説などで更に煽ります。
その結果、『 靖国参拝反対 』が中国全土に広がり、胡耀邦は政治生命が危うくなった。
『 胡耀邦が危ないぞ 』というので、中曽根首相は翌年から靖国参拝をやめることになります。

なので、この外国(中国)の批判も、朝日新聞のねつ造から始まったものである。

ちなみに、靖国参拝とは関係がないが、この民主党の田邊誠氏は、わざわざ日本からお金と設計を持って行き、中国の南京市に南京大虐殺記念館を建てた人でもある。



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2015年12月06日

稀代の策略家・毛利元就はどうやって中国地方を制覇したのか!?



日本観光サイト「ジャポニズム」から人気の記事を紹介!

第7回目は「稀代の策略家・毛利元就はどうやって中国地方を制覇したのか!」です。

元記事ははここ






毛利元就

室町時代後期から戦国時代にかけて、活躍した戦国大名。

安芸(広島県西部)の小規模な国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、中国地方の覇者となり「戦国最高の知将」「謀神」などと評されるに至る。

用意周到かつ合理的な策略及び危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く稀代の策略家として名高い。

出生

1497年、安芸の国人領主・毛利弘元の次男として鈴尾城(安芸高田市)で誕生したと言われる。

兄・毛利興元が家督を継ぎ、1506年に父・弘元が死去すると、そのまま多治比猿掛城に住んでいたが、家臣の井上元盛によって所領を横領され、城から追い出されてしまう。
その哀れな境遇から「乞食若殿」と貶されていたという。

1511年に元服し、分家を立て、多治比(丹比)元就を名乗るようになる。多治比(「たじひ」だが地元では「たんぴ」と読む)殿と呼ばれるようになった。

1516年に兄・興元が亡くなり、その子・幸松丸が跡を継ぐも幼少のため、元就が後見人として家中を主導した。

西国の桶狭間

毛利弘元、興元と2代続く当主の急死に動揺した毛利家に、佐東銀山城主・武田元繁が侵攻。

武田軍の進撃に対し、元就は幸松丸の代理として出陣します。
元就にとって初陣でしたが、猛将として知られていた武田軍先鋒・熊谷元直率いる軍を元就は撃破し、熊谷元直は討死します。

武田元繁はその報に怒り、毛利軍と激突します。
戦況は数で勝る武田軍の優位で進んでいたが、又打川を渡河していた武田元繁が矢を受けて討死するに至り、武田軍は混乱して壊滅。
この戦いは「西国の桶狭間」と呼ばれ、毛利氏の勢力拡大の分岐点になった。

また、この勝利によって「毛利元就」の名が世に知られるようになる。

その後、鏡山城の戦いでも、その智略により戦功を重ね、毛利家中での信望を集めていった。

甥の毛利幸松丸がわずか9歳で死去すると、元就が27歳で家督を継ぐことになった。

元就の家督継承に不満を持った坂氏などの有力家臣団の一部が元就の異母弟・相合元綱を擁して対抗したが、元綱一派を粛清・自刃させるなどして家臣団の統率をはかった。

事件はこれで治まらず、謀反を起こした坂氏の一族で長老格であった桂広澄は事件に直接関係はなかったが、元就が止めるのも聞かず、一族の責任を取って自害してしまった。
元就の命を聞かずに勝手に自害したことで桂一族では粛清を受けるものと思い、桂元澄を中心に一族で桂城に籠った。

驚いた元就は児玉就忠を遣わして説得したが、桂元澄は応じなかったため、元就自らが桂城に単身乗り込み、元澄を説得して許したという。

勢力拡大

1529年に外戚で強大な権力を持っていた高橋氏一族を討伐。

高橋氏の持つ安芸から石見にかけての広大な領土を手に入れた。

1535年には、隣国の備後の多賀山城の多賀山如意を攻め、降伏させた。
一方で、長年の宿敵であった宍戸氏とは関係の修復に腐心し、娘を宍戸隆家に嫁がせて友好関係を築き上げた。
宍戸氏と誼を結ぶことで周防国守護の山内氏とも繋がりができた。

その他、天野氏や、熊谷氏とも誼を通じ、安芸国人の盟主としての地位を確保した。

1533年、周防国守護の大内家を通じて朝廷に4,000疋を献上し、毛利の先祖同様の従五位下右馬頭に叙任されることに成功している。
当時は形骸化していたとは言え、官位を得ることによって安芸国内の他の領主に対して朝廷・大内氏双方の後ろ盾があることを示す効果があったと考えられている。

1537年には、長男の毛利隆元を人質として、大内氏へ差し出して関係を強化した。

1539年には、従属関係にあった大内氏が、北九州の宿敵少弐氏を滅ぼし、大友氏とも和解したため、安芸武田氏の居城佐東銀山城を攻撃。当主の武田信実が逃亡しています。

しかし、翌年、尼子氏が3万の軍勢を率いて、毛利家の本拠地・吉田郡山城を攻撃。

元就は即席の徴集兵も含めてわずか3000の寡兵で籠城して尼子氏を迎え撃った。
家臣の福原氏や友好関係を結んでいた宍戸氏らの協力、そして遅れて到着した大内義隆の援軍・陶隆房の活躍もあって、この戦いに勝利し、安芸国の中心的存在となっていきます。

同年、再度武田軍の銀山城を攻めこれを攻略します。この時、元就は夜間に火を点けた草鞋千足を太田川に流し、佐東銀山城に籠る武田氏に動揺を与えたという伝承がある。

この戦いで安芸武田氏は滅亡します。

1542年に大内義隆を総大将とした尼子氏に対する第1次月山富田城の戦いにも、元就は従軍。しかし、大敗。

大内氏、尼子氏がこの戦いで安芸国内における影響力が低下し、常に大大名の顔色を窺う小領主の立場の脱却を目指すようになる。








毛利水軍

1544年、強力な水軍を持つ竹原小早川氏に三男・徳寿丸(後の小早川隆景)を養子に出し、水軍の取り込みにかかった。

竹原小早川氏に対しては、尼子派の山名氏に攻められた際に、大内軍と共に毛利軍も援軍に駆けつけている。
その戦いの最中、徳寿丸は元服して小早川隆景を名乗るようになった。

毛利元就隠居

。1546年、元就が隠居を表明して毛利隆元が毛利家当主となるが実権は元就が握ったままだった。

1547年には、妻の実家である吉川家に元春を送りこむ。
当時吉川家当主であった吉川興経は、家中の統制ができなくなっていた。

そこで吉川家の養子になった元春に家督を継がす為に、吉川家の家臣団は現当主を隠居させ、元春を当主に据えた。

小早川隆景を送りこんだ小早川家も小早川現当主を出家に追い込み、隆景を当主に据えることに成功し、小早川氏の水軍を手に入れた。

これにより安芸・石見に勢力を持つ吉川氏と、安芸・備後・瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏、両家の勢力を取り込み、安芸一国の支配権をほぼ掌中にした。

厳島の戦い

1551年、周防・長門などの大名・大内義隆が家臣の陶隆房の謀反によって殺害され、養子の大内義長が擁立される。

元就は以前からこの当主交代に同意しており、隆房と誼を通じて佐東銀山城や桜尾城を占領し、その地域の支配権を掌握。
隆房は元就に安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えた。

元就はこれを背景として、徐々に勢力を拡大して行く。
安芸頭崎城を陥落させ、平賀家を傘下に治めると、尼子晴久の安芸への侵入を撃退した。

この毛利氏の勢力拡大に危機感を抱いた陶隆房は、元就に支配権の返上を要求。
元就はこれを拒否したため、徐々に両者の対立は先鋭化していった。

そこに石見の吉見氏が陶隆房に反旗を翻した。
陶隆房は元就に援軍の依頼を出したが、陶が安芸の国人衆達にも出陣の催促を出していた。これは、毛利に安芸の権限を与えるという約束に反しており、息子・隆元が陶隆房に不信感を持っていたこともあり、陶隆房との対決を決意した。

しかし、陶隆房が動員できる大内軍30,000以上に対して当時の毛利軍の最大動員兵力は4,000〜5,000であった。

正面から戦えば勝算は無い。
そこで元就は得意の謀略により大内氏内部の分裂・弱体化を謀る。

1554年、陶晴賢(隆房より改名)の家臣で、知略に優れ、元就と数々の戦いを共に戦った江良房栄が「謀反を企てている」というデマを流し、本人の筆跡を真似て内通を約束した書状まで偽造し、晴賢自らの手で江良房栄を暗殺させた。

そして同年、「謀りごとを先にして大蒸しにせよ」の言葉通りに後顧の憂いを取り除いた元就は、反旗を翻した吉見氏の攻略に手間取っている陶晴賢に対して反旗を翻した。

晴賢は激怒し即座に重臣の宮川房長に3,000の兵を預け毛利氏攻撃を命令。
元就はこれを撃破したが、今度は陶晴賢自身が大軍を率いて厳島で対峙した。

厳島周辺の制海権を持つ村上水軍が毛利方についたこともあり、陶晴賢は自刃。

大内氏はその勢力を大きく弱め、衰退の一途を辿っていくことになる。

1556年に石見銀山を尼子晴久に取られるも、1557年に、大内氏の当主義長を討って、大内氏を滅亡に追い込んだ。

これにより九州を除く大内氏の旧領の大半を手中に収めることに成功した。

1558年、石見銀山を取り戻すべく毛利元就・吉川元春は小笠原長雄の籠る温湯城を攻撃し、落城させるも続く山吹城を攻めあぐね、撤退中に奇襲を受け尼子晴久にまたもや大敗している。

尼子氏・大友氏との戦い

1560年に尼子家の当主・尼子晴久が死去すると、1562年に出雲侵攻を開始する。

跡を継いだ尼子義久は毛利軍を迎え撃つも、元就は白鹿城を攻略し、難攻不落の名城・月山富田城を包囲して兵糧攻めにもちこむことに成功する。

それと並行して尼子軍の内部崩壊を誘うべく離間策を巡らせた。
これにより疑心暗鬼となった義久は、重臣である宇山久兼を自らの手で殺害。義久は信望を損ない、尼子軍の崩壊は加速してしまう。

この段階に至って元就は、粥を炊き出して城内の兵士の降伏を誘ったところ、投降者が続出した。

1566年、尼子軍は籠城を継続できなくなり、義久は降伏を余儀なくされた。

こうして元就は一代にして、中国地方8ヶ国を支配する大大名にのし上がったのである。

稀代の謀将の最期

1560年代の前半より元就は度々体調を崩していた。1571年に、つぃに吉田郡山城において死去。死因は老衰とも食道癌とも言われる。享年75。

三本の矢

死ぬ間際の元就が、3人の息子(隆元・元春・隆景)を枕元に呼び寄せて教訓を教えたという逸話がある。

元就は最初に、1本の矢を息子たちに渡して折らせ、次はさらに3本の矢束を折るよう命じた。
息子たちは誰も3本の矢束を折ることができなかったことから、1本では脆い矢も束になれば頑丈になることから、3兄弟の結束を強く訴えかけたという話である。

家臣・周辺国人への気遣い

元就は、家来が旬の花や自家製の野菜、魚や鳥などを土産に元就の所へ訪れるとすぐに対面して餅か酒のどちらかを上機嫌で振舞った。

その際、家来が酒が欲しいと言えば「普段から酒ほど気晴らしになることはない」と差し出し、下戸だと言えば「酒ほど悪いものはない。餅を食べてくれ」といって餅を振る舞っていた。



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2015年12月03日

実は下剋上ではなかった!?家柄が良かった北条早雲!



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第6回目は「実は下剋上ではなかった!?家柄が良かった北条早雲!」です。

元記事ははここ






北条早雲

戦国時代初期の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。伊勢 宗瑞(いせ そうずい)とも呼ばれる。

出自

一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とされてきたが、最近の研究では備中荏原荘(現岡山県井原市)で荏原荘の半分を領する領主(300貫といわれる)であったことがほぼ確定している。
早雲の父・伊勢盛定が幕府政所執事伊勢貞親と共に8代将軍足利義政の申次衆として重要な位置にいた事も明らかになってきている。

早雲はその父と京都伊勢氏当主で政所執事の伊勢貞国の娘との間に生まれた。決して身分の低い素浪人ではない。
後北条氏の重臣である大道寺氏や内藤氏も備中から出ている。

駿河下向

早雲が下向した原因は駿河・今川氏にある。
今川氏は足利一族であり、足利尊氏に属して戦功をあげ、駿河・遠江の守護職になった家柄であるから、一貫して足利の忠実な部将の一人であった。

その当主の今川義忠が討死し、義忠の室・北川の生んだ竜王丸(氏親)はわずか6歳。竜王丸が幼少のためお家騒動がもち上がり、朝比奈氏などが一族の小鹿範満を擁立して二派にわかれて争い、家臣団も分裂。そのために竜王丸は母・北川と駿府をのがれて身をかくした。

このお家騒動に調停役として竜王丸の母・北川の縁者として早雲が浮上したのである。

そして、早雲みずから竜王丸の後見人になるとともに、反目し合っている家老たちを説得し、妥協案を出して紛争をみごとに解決したという。

その後、京都へ戻り、9代将軍義尚に仕えて奉公衆になっている。

1487年、早雲は再び駿河へ下り、龍王丸を補佐すると共に石脇城(焼津市)に入って同志を集めた。早雲は兵を起こし、駿河館を襲撃して範満とその弟小鹿孫五郎を殺した。

龍王丸は駿河館に入り、2年後に元服して氏親を名乗り正式に今川家当主となる。

早雲は伊豆との国境に近い興国寺城(現沼津市)に所領を与えられた。
このとき早雲は、6人の部下を連れている。荒木兵庫、多目権兵衛、山中才四郎、荒川又次郎、大道寺太郎、在竹兵衛の6人だが、伊勢にいたとき知り合った友人で、早雲の志を聞いて、ともに下って来た者たちという。この6人が心を合わせて早雲を助け、北条氏の基礎を築いて行くことになる。







伊豆討入り

伊豆を支配していたを支配していた足利政知が没すると長男の茶々丸が異母兄弟の潤童子とその母・円満院を殺害して、強引に跡を継いだ。

同じく異母兄弟であった足利義澄が将軍に就任すると、母・円満院と兄弟の潤童子の敵を討つため、茶々丸の近隣に城を持つ早雲に敵討ちを命じた。

これを受けて早雲は、伊豆堀越御所の茶々丸を攻撃した。
このとき伊豆の豪族である鈴木繁宗、松下三郎右衛門尉らは早雲にいち早く参じたとされる。この事件を伊豆討入りといい、この時期に東国戦国期が始まったと考えられている。

早雲は伊豆国の統治を始め、高札を立てて味方に参じれば本領を安堵すると約束し、一方で参じなければ作物を荒らして住居を破壊すると布告した。
また、兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、病人を看護するなど善政を施し、茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の小領主や領民はたちまち早雲に従った。

そして、それまでの重い税制を廃して四公六民の租税を定め領民は歓喜し、伊豆一国は30日で平定されたと言われる。

伊豆の平定をする一方で、早雲は今川氏の武将としての活動も行っており、1494年頃から今川氏の兵を指揮して遠江へ侵攻して、中遠まで制圧している。
早雲と今川氏親は連携して領国を拡大していく。

小田原城奪取

早雲は相模の大森藤頼にたびたび進物を送るようになり、最初は警戒していた藤頼も心を許して早雲と親しく歓談するようになった。

ある日、早雲は箱根山での鹿狩りのために領内に勢子(獣を追い出す役割の人)を入れさせて欲しいと願い、藤頼は快く許した。
早雲は屈強の兵を勢子に仕立てて箱根山に入れる。

その夜、千頭の牛の角に松明を灯した早雲の兵が小田原城へ迫り、勢子に扮して背後の箱根山に伏せていた兵たちが鬨の声を上げて火を放つ。

数万の兵が攻め寄せてきたと、おびえた小田原城は大混乱になり、藤頼は命からがら逃げ出して、早雲は易々と小田原城を手に入れたと言われている。

今川氏の武将としての活動も続き、1501年から1504年には三河にまで進んでいる。

相模平定

その後、早雲は相模方面へ本格的に転進し、関東南部の制圧に乗り出す。
早雲と今川氏親は、徐々に相模に勢力を拡大していった。

1509年以降は、早雲は今川氏の武将としての活動はほとんど見られなくなり、早雲は相模進出に集中する。

江戸城にいた上杉顕定(扇谷上杉家)が大軍を率いて越後に出陣すると、この隙を突いて早雲は江戸城に迫った。
江戸城の当主上杉朝良は上野に出陣していたが、兵を返して早雲に反撃。

1510年まで、早雲と武蔵、相模で戦った。
早雲は手痛い敗北を喫し、扇谷上杉家との和睦で切り抜けた。

大軍を率いて越後に出陣していた上杉顕定は、長尾為景の逆襲を受けて敗死している。

その後、早雲は、扇谷上杉家に属し相模で大きな力を持っている三浦義同と戦った。

三浦氏の岡崎城を攻略し、三浦義同を住吉城に敗走させ、勢いに乗って住吉城も落とし、義同は三崎城に逃げ込んだ。

早雲は鎌倉に入り、相模の支配権をほぼ掌握する。
扇谷上杉軍が江戸城から救援に駆けつけるが、早雲はこれを撃破。

さらに三浦氏を攻略するため、鎌倉に玉縄城を築いた。

1516年、扇谷上杉軍が三浦氏救援のため玉縄城を攻めるが早雲はこれを打ち破り、三浦義同の篭る三崎城に攻め寄せた。激戦の末に三浦義同は討ち死にする。

名族三浦氏は滅び、早雲は相模全域を平定した。

その後、早雲は房総半島に渡り、1517年まで転戦している。

1518年、家督を嫡男・北条氏綱に譲り、翌年に死去した。

早雲の後を継いだ氏綱は北条氏(後北条氏)を称して武蔵国へ領国を拡大。以後、氏康、氏政、氏直と勢力を伸ばし、5代に渡って関東に覇を唱えることになる。

エピソード1

『北条記』『名将言行録』に見える早雲駿河下向時の一節には、大道寺太郎(重時)、荒木兵庫、多目権兵衛・山中才四郎・荒川又次郎・在竹兵衛らの仲間6人(御由緒六家)と、伊勢で神水を酌み交わして、一人が大名になったら他の者は家臣になろうと誓い合ったという話が残っている。

エピソード2

伊豆討入りに際して、早雲が修善寺に湯治と称して自ら密偵となり伊豆の世情を調べたとしている。



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2015年11月25日

世界一の親日国パラオとの関係!



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第5回目は「世界一の親日国パラオとの関係!」です。

元記事ははここ






・1919年のパリ講和会議によって、パラオはドイツの植民地支配を脱し日本の委任統治領になる。

・1944年、ペリリュー島の戦いでパラオのペリリュー島においてアメリカ軍と戦う。

・1945年8月、日本の敗戦と共に委任統治が終了し、アメリカの信託統治となる。

・1992年の独立に向けた住民投票で日系人のクニオ・ナカムラが大統領になる。

・1994年に独立。日本と国交を樹立する。

・1996年、崩壊したKBブリッジの再建を日本が無償で行う。

・1999年、首都コロールに日本大使館開館。

・2005年の小泉首相の靖国参拝にたいして支持を表明する。


パラオの植民地の歴史

1885年にパラオはスペインの植民地となります。
14年の支配を得て、パラオの人口は90%も減少します。

その後、これ以上収奪するものがないと判断したスペインは、ドイツに450万ドル(日本円で4億円くらい)で、パラオを含むミクロネシアの島々をドイツに売却してしまいます。

ドイツは、パラオの原住民を使役して、ココナッツの栽培などを行うもあまりうまく行っていません。

その後、第一次世界大戦でドイツが負けると、1919年に日本の委任統治領になります。その日本の統治で、パラオに南洋庁を設置し、パラオに、学校や病院、道路などを建設をはじめ、地元民の教育と、行政制度の確立、街のインフラの整備と産業振興をはじめます。

どうやって作ったかと言うと、日本の国費を使い、日本人がパラオに渡り作りました。
人口6000人くらいの国に、軍隊を除いてなんと2万5千人の職員を派遣しています。

そして、戦後はすべてのインフラをパラオの住民たちに無償で譲り渡しています。

日本の敗戦と共に約50年間アメリカの委託統治を受けることになります。

パラオの国旗
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パラオの国旗は、国民の間からデザインを一般公募した結果、全会一致で採用になった国旗です。周囲の青は太平洋を表し、真ん中の黄色い円は月を現しています。

月は日章旗の太陽との友好を示すものなのだそうです。

そして、パラオの国旗の満月は日の丸の旗の太陽とは違って,中心から少しズレています。
日本に失礼だからと、わざと中心をはずしたのだそうです。
これはパラオの人たちの慎み深い態度を表しているのだそうです。


KBブリッジ崩壊

KBブリッジはパラオ本島と首都(現在はコロールではなくマルキョク)があるコロール島の間に架かっている約250メートルの橋です。

1977年に、日本の鹿島建設の半額の入札を行った韓国の建設会社SOCIOによって建設されました。

建設直後から橋の中央部分がへこみ始め、補修・補強工事を何度も行うが1996年に真っ二つに折れて崩壊します。

電気・ガス・水道などのライフラインが通っていた為、首都機能が麻痺し、国家非常事態宣言を発令されます。
韓国の会社に賠償請求をしようとするも、倒産しており出来ませんでした。

日本は、それを受けて、飲料水の緊急輸送や仮設橋の設置などの建設を行い、さらに日本のODAにより橋が再建されます。

橋の正式名称は、「日本・パラオ友好の橋」(Japan-Palau Friendship Bridge)であり、通称で「日本パラオ友好橋」とも言われています。

ちなみに建設会社は鹿島建設で、それ以来パラオでは頑丈なもののことを「カシマ」と言うらしい。

日本人になりたかった。(2015年1月3日 産経新聞)

 〈君が代は 千代に八千代に さざれ石の〜…〉

明快な日本語で「君が代」を歌い上げた94歳になる老女は、続けて「海行かば」を口ずさみ始めた。

 〈海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(くさむ)す屍〜〉

歌詞の意味は理解しているという。ロース・テロイさん。
「テルコ」という日本人名も持ち、「日本人になれるものならなりたかった」と言った。

「緑の島のお墓」を作詞したアントニア・ウエンティさん(85)は「蛍の光」と「仰げば尊し」を歌って
涙を浮かべ、童謡の「浦島太郎」を歌って、「この歌は、『両親がしてはいけないということはやって
はいけない。罰が当たるよ』という意味を含んでいる」と言った。

テロイさんのいとこにイナボ・イナボさん(故人)という男性がいた。
元パラオ共和国政府顧問で、生前は、「日本軍と一緒に戦いたかった」と何度も口にしていたという。

イナボさんは平成7年8月15日、靖国神社での戦没者追悼中央国民集会に参加した際、
雑誌のインタビューにこう話している。

「日本には大切なものが4つあります。
天皇陛下と靖国神社と富士山と桜の花です。アメリカ人から『日本は小さな国だけどもルーツ、
根っこがあるから強い。それは天皇陛下と富士山と桜だ。それはアメリカにはない』と聞きました」

「日本人の戦いぶりはアジアの人々は皆知っているんですよね。
それで日本を尊敬しているわけです。
皇室と神社がある限り日本は倒れない。
日本人が安心していられるのは、天皇陛下がおられるからですよ。
天皇陛下がおられて、靖国神社があるからこそ日本は尊く、外国からも尊敬され、強い国となっています」
 イナボさんの日本への思い、そして歌詞の意味を確かめるように一言一言を丁寧に歌ったテロイさんとウエンティさん。2人の心に去来するものは何か。

天皇、皇后両陛下のパラオご訪問が検討されていることに話が触れると、
「最初、いらっしゃると聞いたときはだれも信じられなかった。まさかという気持ちで驚いた。
天皇陛下にお目にかかれることを非常に楽しみにしている」と興奮気味に話した。
(2015年4月8日から9日にかけて国際親善と慰霊の為、訪問が実現)








ペリリュー島の戦い

ペリリュー島とは、パラオ諸島のの中の小さな島です。その島で大東亜戦争末期、日米両軍によって73日間の死闘が繰り広げられました。

当時、ペリリュー島に東洋最大と言われる飛行場が建設されており、ペリリュー島はフィリピン防衛の要の島でした。

1943年、米軍は、アメリカ太平洋艦隊司令長官、連合軍中部太平洋方面の陸海空3軍の最高司令官であるチェスター・ニミッツ提督の指揮下、このパラオ・ペリリュー島の攻略作戦を計画します。

当時、ペリリュー島には、899名の島民がいました。
島民たちは、白人統治の時代を知っています。

日本兵と仲良くなって、日本の歌を一緒に歌っていた島民たちは、集会を開きました。
そして全会一致で彼らは、大人も子供も一緒になって日本軍とともにアメリカ軍と「戦おう」と決めました。

パラオの村民の会議は、古来からの習慣で村人全員が参加します。
話し合いは全員がひとり残らず納得するまで、何日でも続けて行われます。つまり全員が日本軍と共にアメリカ軍と戦うことを決心したのです。

全員一致で「日本軍とともに戦う」と決めた彼らは、代表数人で日本軍の守備隊長のもとに向かいました。

当時のペリュリューの守備隊長は、中川州男(なかがわくにお)陸軍中将(任期当時は大佐)です。
中川大佐がペリリュー島に赴任したのは1943年で、日本を出る時、奥さんに「今度はどちらの任地に行かれるのですか?」と聞かれた中川中将は、にっこり笑って「永劫演習さ」とだけ答えられたそうです。
「永劫演習」というのは、生きて帰還が望めない戦場という意味です。

そういう中川隊長なら、パラオの島民たちが、自分たちの頼み「一緒に戦うこと」をきっと喜んで受け入れてくれるに違いない。
ただでさえ、日本の兵隊さんたちは兵力が足りないのだから。

ペリュリューの村人たちは、そう思い、中川中将のもとを尋ねたのです。そして中川中将に、「わたしたちも一緒に、戦わせてください!」と強く申し出ました。
「村人全員が集まって、決めたんです。これは村人たち全員の総意です。」

中川隊長は、真剣に訴える彼らひとりひとりの眼を、じっと見つめながら黙って聞いておられたそうです。

一同の話が終わり、場に、沈黙が訪れました。

しばしの沈黙の後です。

中川隊長は、突然、驚くような大声をあげました。

「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」

烈迫の気合です。

村の代表たちは、瞬間、何を言われたかわからなかったそうです。
耳を疑った。

そのときは、ただ茫然としてしまいした。
指揮所を出てからの帰り道、彼らは泣いたそうです。断られたからではありません。土人と呼ばれたことがショックでした。怒りではありません。 あんなに仲良くしていたのに、という悲しみの方が大きかった。

日頃から、日本人は、自分たちのことを、仲間だと言ってくれていたのに、同じ人間だ、同じ人だ、俺たちは対等だと言ってくれていたのに。それが「土人?」信じていたのに。それはみせかけだったの?

集会所で待っている村人たちに報告しました。
みんな「日本人に裏切られた」という思いでした。ただただ悲しくて、悔しくて。みんな泣いてしまいました。

何日がが経ちました。
いよいよ日本軍が用意した船で、パラオ本島に向かって島を去る日がやってきました。
港には、日本兵はひとりも、見送りに来ません。島民たちは、悄然として船に乗り込みます。

島を去ることも悲しかったけれど、それ以上に、仲間と思っていた日本人に裏切られたという思いが、ただただ悲しかったのです。

汽笛が鳴りました。船がゆっくりと、岸辺を離れはじめました。

次の瞬間です。
島から「おおおおおおおおおおお」という声があがりました。島に残る日本兵全員が、ジャングルの中から、浜に走り出てきたのです。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、ちぎれるほどに手を振って彼らを見送ってくれたのです。

そのとき、船上にあった島民たちには、はっきりとわかりました。
日本の軍人さん達は、我々村人を戦火に巻き込んではいけないと配慮したのだ、と。
そのために、心を鬼にして、あえて「土人」という言葉を使ったのだと。

船の上にいる島民の全員の目から、涙があふれました。
そして、岸辺に見える日本兵に向かって、島の人たちは、なにか、自分でもわからない声をあげながら、涙でかすむ目を必死にあけて、ちぎれるほど手を振りました。
船の上から、ひとりひとりの日に焼けた日本人の兵隊さんたちの姿が見えました。誰もが笑っています。歌声が聞こえます。そこには中川隊長の姿もありました。他のみんなと一緒に笑いながら、手を振ってくれていたそうです。素敵な笑顔だったそうです。

当時の人は、その笑顔が、ずっとまぶたに焼き付いていたといいます。

1944年、ペリリュー島の戦いが始まります。日本軍10,500名、米軍総員48,740名です。

開始のその日から補給を断たれた日本軍の数百倍の火力をペリリュー島に投下し、「2,3日で陥落させられる」との宣言の下、海兵隊を主力とす第1陣28,000人のアメリカ軍が島に上陸を始めます。

その時です。日本軍の反撃が始まり、米軍の第一次上陸部隊は大損害を被り、一時退却をしています。
この戦闘で米軍の血で赤く染まった海岸は今でも「オレンジビーチ」と呼ばれています。

1か月半後には、米軍第1海兵師団が全滅しています。
米軍の司令官は心労から心臓発作を起こし、後方に送られています。

さらに、1か月後に、兵力弾薬も底を尽き、司令部は玉砕を決定します。
中川州男隊長、村井権治郎少将、飯田義栄中佐が、この日、司令部で割腹自決を遂げます。
その後に、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られました。

そして翌朝にかけて、根本甲子郎大尉を中心とした55名が、最後の突撃攻撃を敢行しました。こうして11月27日、ペリリュー島は、ついに陥落したのです。

水も食料も補給が全くない状態で、3日で終わるとされた戦闘は実に2か月半経過していました。

戦闘後、散らばる日本兵の遺体をしばらく経って戻ってきた島民たちがひとつひとつ、きれいに片付け、埋葬してくれています。

また、戦闘終結後も生き残りの日本兵34人が洞窟を転々として生き延び、終戦の2年後まで戦い続け、1947年に投降しています。

日本軍の戦死者10,695名・捕虜202名。米軍の戦死者2,336名・戦傷者8,450名、島民の死者・負傷者0名。

チェスター・ウィリアム・ニミッツ(ペリリュー島の戦いの敵将である司令官)
「ペリリューの複雑極まる防備に打ち勝つには、米国の歴史における他のどんな上陸戦にも見られない最高の損害比率(約四十パーセント の損害=米海兵師団の第一連隊を全滅させた)を出した。すでに制空権をとっていた米軍が、死傷者あわせて一万人を超える犠牲者を出し て、この島を占領したことは、今もって疑問である」と仰っています。

また、ペリリュー島にある「ペリリュー神社」にある石碑に
「諸国から訪れる旅人たちよこの島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを伝えられよ。米太平洋艦隊司令長官 C.W. ニミッツ」
という文を残しています。

パラオ独立記念の歌(ペリリュー島の戦いを歌っています。)

一 激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
  オレンジ浜を血で染めた
  つわものたちはみな散って
  ペ島はすべて墓(はか)となる
  (注:ペ島=ペリュリュー島のこと)

二 小さな異国のこの島を
  死んでも守ると誓いつつ
  山なす敵を迎え撃ち
  弾射ち尽くし食糧もない

三 兵士は桜を叫ぴつつ
  これが最期の伝えごと
  父母よ祖国よ妻や子よ
  別れの”桜"に意味深し

四 日本の”桜"は春いちど
  見事に咲いて明日は散る
  ペ島の”桜"は散り散りに
  玉砕れども勲功はとこしえに

五 今もののふの姿なく
  残りし洞窟の夢の跡
  古いペ島の習慣で
  我等勇士の霊魂守る 

六 平和と自由の尊さを
  身をこなにしてこの島に
  教えて散りし"桜花"
  今では平和が甦る

七 どうぞ再びペリリューヘ
  時なしさくらの花びらは
  椰子の木陰で待ちわびし
  あつい涙がこみあげる    

東日本大震災

国家を挙げて日本を支援してくれています。
この時にパラオ大統領は以下の命令を出しています。

「パラオ共和国憲法に定められた権限により、私、パラオ共和国大統領ジョンソン・トリビオンは、 2011年3月25日を日本における地震と津波の被害者に対して喪に服する国民の日と宣言し、 パラオ国民の同情と敬意を示すために、パラオ国内および世界各国のパラオ政府機関に対し、同日より5日間、半旗を掲げることを命じます。
2011年3月21日 大統領 ジョンソン・トリビオン」

日本に併合して欲しいと申し出があった。

パラオは佐藤内閣の時代に沖縄返還で揺れていた日本に、日本の一行政区にして欲しいと申し出たことがあります。当時パラオはアメリカの信託統治領だったので、対米関係を重視していた日本は丁重にお断りしています。




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2015年11月24日

かつて北陸に君臨した高志国。王と呼ばれた阿彦や「大国主」に求婚された姫とは!?



日本観光サイト「ジャポニズム」から人気の記事を紹介!

第4回目は「かつて北陸に君臨した高志国。王と呼ばれた阿彦や「大国主」に求婚された姫とは!?」です。

元記事ははここ






高志国

古代に北陸に存在した国のことである。
「古事記」には、高志国と書かれているが、『出雲国風土記』には古志国とあり、日本書紀は越国と書かれている。

その後、越後、越中、能登、越前に分かれることになる。

当時、鳥取県や島根県辺りに存在した古代出雲国が大軍を率いて高志国に攻め入ったが、高志国はこれを恐れて国を出雲に明け渡したとされる。

その後、大和朝廷が大彦命(第8代・孝元天皇の子)などを派遣して高志国を古代出雲国から奪い取ったと言われている。

しかし、大和政権は出雲系の神々の信仰を尊重して残したため、現在も越中の古い神社は出雲の神々を祭神としている。

三種の神器の一つ「天叢雲剣」

「草薙の剣」

「天叢雲剣」は、「草薙の剣」のことである。
出雲国の「スサノオノミコト」が高志国に存在した「ヤマタノオロチ」の尾を切り裂いた時に出てきた宝剣と言われる。

当時、出雲と高志国(越国)は交戦状態にあり、『出雲国風土記』には、「越の八口」の平定の記載があるため、出雲と高志国の勢力争いをヤマタノオロチ神話の原型や土台とする説がある。
福井県には九頭竜川など名称や地名が残っている為、信ぴょう性は高い。

また、三種の神器の一つである「八尺瓊勾玉」の翡翠も高志国で取れたものであるという説もある。

阿彦

古代越国を支配していた最大勢力を誇る豪族。「高志の国王」を名乗っていた。

阿彦は、富山湾の海上に強大な勢力を張っていた布勢の神「倉稲魂命(うげのみたま)」の子孫である「布勢比古」なる人物の子供か孫だと伝えられています。

大和朝廷の大彦命によって、越国が平定され、大和朝廷の手刀摺彦に統治を任せますが、越国の他の豪族は重く用いられますが阿彦は重く用いられませんでした。
これに阿彦は激怒して、抵抗を続けます。

阿彦の一族は、以前から日本海の対岸、支那大陸の事情に精通していたようで、特に阿彦の代になってからは大陸の勝れた物質文明を積極的に取り入れた他に、大陸的な専政君主政治を採用していました。
阿彦は、ツングース人である鄭鶴(ていかく)、徐章(じょしょう)という2人の人物を重く用いて、それらの政治を行っていました。

阿彦は一般の婦女子にも民衆にも極めて親切で、しかも厳正な政治を行ったので、人々は次第に新しい政治に馴れると共にその長所を悟り、喜んで彼に従う様になったので、阿彦の勢力は急速に拡張増大して行きます。

阿彦の乱

手刀摺彦等に抵抗を続ける阿彦のもとに、王権に不満を抱く豪族や内通する者が集まってきます。

そして、大和朝廷側の手刀摺彦等に攻めかかります。阿彦はこの奇襲攻撃により、手刀摺彦の「中央城」や「辰城」、「辻城」などの領域を除いた東部平野を手中に収め、西部平野への侵攻を企て、砺波郡枯山に堅固な堡を築き、近辺の山野を支配します。

手刀摺彦の副将である甲良彦舅は、阿彦の築いた枯山の堡を攻め、犬攻めや落石攻めなどによって敵将を討ち取ったりしますが、堡を破ることに失敗します。

この枯山の堡は、砺波市 の鬼ヶ城(別名:浅野谷城、安川城)ではないかと言われています。

阿彦征伐

この反乱を受けて、大和朝廷から大若子命が阿彦征伐に乗り出します。
この戦いは長引き3年近く続きます。

長く戦争が続いたことを、大若子命は憂っていると姉倉姫(この時代よりはるか昔の高志出身の女神)の神託があったと言われています。

その神託に従って、宮社を造営し祈願を行ない、討伐軍を再編成し、枯山の堡を攻めます。
そして、ようやく阿彦を討ち取ることに成功します。

大若子命は、姉倉姫の神徳を末長く顕彰するため社殿を造営するとともに、大竹野の北方神通川沿いの地(富山市八幡)に大己貴命(大国主ノ神)を祀る越中一宮を造営したと言われています。

阿彦の名残

我孫子、吾孫子、阿孫子、亜孫子、安彦、阿比古、吾彦、我子などは「阿彦」の当て字と言われています。
千葉県の我孫子市のほかにも大阪市住吉区我孫子、同泉大津市我孫子、奈良県橿原市我孫子、福岡県直方市我孫子、埼玉県羽生市我孫子など様々な地名にも使われています。







ヌナカワヒメ

ヌナカワヒメへの求婚

大国主は日本の国土を開拓して、農業・医療・商業を普及した神であるとされており、天照大御神に国を譲って、出雲大社に祭られた神として有名です。

その大国主は、高志国にヌナカワヒメという賢く美しい女性がいるという噂を聞きつけます。

正妻のスセリヒメがいるにも関わらず、ヌナカワヒメを嫁にしたいと考えた大国主は沢山の家来を引き連れて、高志国を訪れます。

しかし、大国主が何度ヌナカワヒメの舘を訪ねても、ヌナカワヒメは門を開いてくれません。

大国主は八千矛神(ヤチホコノカミ)という別名を持っていたのですが、その大国主がヌナカワヒメに次のような歌で想いを伝えます。

「ヤチホコノカミと呼ばれる私は広い日本のあちらこちらに妻を探し、遠い越の国まで訪ねてきました。この地に賢い美しい女性がいると聞いて、足しげく通い、求婚してきました。

太刀の緒も解かないまま、はおった上着も脱がないまま、乙女の寝ている舘の板戸をひたすらゆすぶって私は立ちすくんでいる。

すると緑深い山ではぬえが鳴き雉が鳴き鶏が鳴き、朝となりました。いまいましくも鳴く鳥です。いっそわが使いに命じてこれらの鳥を打ち殺してしまいたい。」

すると、舘の中からヌナカワヒメがやはり歌で答えます。

「ヤチホコノカミと呼ばれるあなた、私はか弱い女ですから入り江にいる水鳥のようにお互いに想いあえる殿方を強く求めております。

今でこそ私はこのようにあなたを無下に扱っていますけど、後にはあなたになびくこともあるでしょう。
だからお使いの方、その鳥を打ち殺したりなさらないで。緑深い山の陰に日が隠れて、真暗な夜になってから会いにいらしてください。

その時あなたは朝日のような笑みを満面にたたえ真白き私の腕を抱いて、若々しい胸を抱いてぎゅっと抱きしめて私の玉のように美しい腕で腕枕をして、のびのびと足をのばしておくつろぎになってください。

だから、どうか今夜は、そんなむやみに恋心を燃やしてくださいますな。ヤチホコノカミとよばれるあなた」

ヌナカワヒメの歌を受けて、オオクニヌシノミコトはその夜は我慢して次の夜にヌナカワヒメを訪ねていき、ご結婚なさいました。

その後、正妻・スメリヒメのヤキモチへと続いて行きます。

ちなみに御穂須須美命(ミホススミ)がヌナカワヒメと大国主の子供と言われています。

「越(こし)」、「高志」、「古志」にちなんだ名前

「コシヒカリ」(お米)、「越乃寒梅」(日本酒)、「古志神社」(富山県下新川郡朝日町)、「古志郡」(新潟県中越地方)などである。また、福井市には「高志」の地区名と名称が残っており多用されている。

出雲国古志郷(現・出雲市古志町・下古志町)

出雲国にあった古志郷の地名の由来は、古志の国の人たちが来て、堤を造ったが、その後そのまま住み着いたので古志と呼ぶようになったというものだそうです。

戦国時代の備後古志氏は広島県福山市の新庄と呼ばれた地域を支配した領主であるが、出雲古志氏の子孫で、古志吉信(毛利家)、古志重信(尼子家)などの武将を輩出している。

毛利氏に従ったが、関ヶ原の合戦で毛利が負けた際、削封されて萩に移ったが、それに従わなかった為に武士としての歴史を終えた。

子孫は、千葉県に住んでおり、古文書(古志家文書)を保管していました(1999年に出雲市に寄贈)。

それによると歴代の当主は、京極氏や尼子氏などの領主権力や杵築大社(出雲大社)などと密接な関係を結び、出雲国の歴史に重要な役割を果たしています。




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2015年11月21日

琉球王国を作ったのは源為朝の息子だった!琉球処分とは!?その真実に迫る!




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第3回目は「琉球王国を作ったのは源為朝の息子だった!琉球処分とは!?その真実に迫る!」です。

元記事ははここ






琉球王国

1429年から1879年の450年もの間、沖縄本島を中心に存在した誇り高き王国。勢力圏は小さな離島の集合で、総人口17万人に満たない小さな王国でした。

琉球には元々「山南」「中山」「山北」と3つの国があったが、「中山」が「山南」「山北」を滅ぼして統一。琉球王の正式な称号は「琉球国中山王」。

1609年に島津藩の侵攻を受けて以降は、島津藩の支配下に入った。しかし、対外的には独立した王国として存在し、独自の文化を築き上げた。

琉球王国の始祖

真偽は不明だが、琉球王国の正史では12世紀に源為朝が沖縄県の地に逃れ、その子供が琉球王家の始祖・舜天になったとされる。源為朝の上陸の碑も建てられている。

源為朝は日本で初めて切腹をしたことで有名だが、その為朝が保元の乱で伊豆に流刑となったが、その途上船が嵐に逢い、沖縄本島の今帰仁に漂着して豪族となった、というものである。

そして、地の豪族大里按司の妹と結婚し、生まれた子を尊敦(後の舜天)と名付ける。
そして、その尊敦が中山王となったと言われる。

為朝自身は妻子を連れて大島へ戻ろうとして出航したが、まもなく台風が起こった。
舟人たちの迷信で「女が乗っているので、竜神の怒りを買ったのだ」と言い出す。やむなく為朝は妻子を浦添という処に残し、単身大島に戻っていったと伝わっている。

薩摩による琉球侵攻

琉球王国は16世紀の秀吉の明への遠征時にも、日本軍に食料を提供し、兵站の一部を賄っています。

そして1609年に、薩摩藩が3000名の兵を率いて琉球王国の奄美大島に進軍。
さらに沖縄本島に上陸し、首里城にまで進軍した。

琉球軍は島津軍より多い4000名の兵士を集めて対抗したが敗れた。
尚寧王が和睦を申し入れて首里城は開城。島津軍が首里城について、5日間の出来事だった。

それ以降、琉球王国は島津藩の属国となったが、支那にも朝貢を続け、両属という体制をとりながらも対外的には独立国家の体裁を保ち、独自の文化を維持した。








末期の琉球王国

東シナ海の中継貿易の中心の1つとして東南アジアなどとも貿易をして栄えていたが、16世紀に支那が支那人とアジア諸国(日本以外)との交易を認め出したことで大打撃を受ける。

大航海時代にヨーロッパ諸国が東シナ海に進出すると、さらに市場を失った。
その上、日本が戦国時代に東南アジアに進出し、日本人町を形成するほど貿易の中心となり、琉球の貿易は衰退した。

その後、日本が鎖国政策を行うと、薩摩藩が属国である琉球を使って貿易をした為に、命脈を保った。

しかし、19世紀には日本の開港5港や香港に貿易の中心が移り、琉球の貿易はほぼ失われた。

琉球の民衆は土地の所有が認められておらず、農業生産性も低く、税金が極めて高かった為に、貧しい生活を強いられていた。

台湾問題と琉球処分

琉球は元々「中国の属国」「日本の属国」と云う2つの国への二重属国という複雑な状況にありました。中国への属国は「形式的なもの」、日本への属国は「直接、日本が支配」との体制です。

そこに台湾事件が起きます。
台湾事件とは、台湾に漂流した琉球国人を台湾人が虐殺した事件です。
日本側は「琉球は日本属国であるから、台湾に軍事的制裁を与える姿勢」を示しましたが、中国側は「琉球は自国では無いので問題視しない見解」を示し、国際法的にも中国は琉球を放棄しています。

日本はこの問題を巧みに使い、琉球処分を行います。
これにより琉球国は、対外的にも日本国の一部になりました。

琉球国自身は王朝役人の中には中国寄りの人も何人かいましたが、琉球王国の腐敗政治による苛烈な税に苦しめられていた民衆は、琉球王国を支持せず、琉球処分を自然と受け入れています。(反乱などなく、むしろ支持されていたみたいです。)

支那は琉球処分について抗議はあったが、外交交渉の過程で、支那への先島分島問題が提案され、調印の段階まできたが、最終段階で清国が調印を拒否して分島問題は流産、琉球に対する日本の領有権が確定した。

なぜ併合でなく「処分」なのか

琉球処分は、琉球王国の日本国への併合という意味で使われることが多いが(このサイトもその様な使い方をしている所もある)、実質的には江戸時代初期の薩摩藩の琉球征伐の際に琉球王国は併合されています。

しかし日本は鎖国政策を行った為、支那との交易を望む薩摩藩は支那へ朝貢をしている琉球王国の立場を利用して交易を続けました。
王国をつぶさず、属国である琉球王国の支那への朝貢を許していたのもその為です。

つまり、琉球の民などは島津藩主の命令に従い、島津藩の領民と同じ立場でした。

琉球処分は、琉球王国の併合ではなく、江戸時代初期に既に併合していた琉球王国に残していた王族の身分的特権階級を最終的になくしたという政策です。

明治時代の武士の特権階級をなくした「秩禄処分」と同じようなニュアンスです。

なので、強制的な琉球王国の日本への併合と言うのは左寄りの人達の自虐史観の一貫である。

誇り高き琉球人

1515年にポルトガル人のトメ・ピレスは当時の琉球人の気質について書いている。

それによると「彼らは正直な人間で、奴隷や娼婦を買わないし、たとえ全世界とひきかえでも、自分たちの同胞を売るようなことはしない。彼らはこれについては死を賭ける。レキオ人(琉球人のこと)は偶像崇拝者である。彼らは色の白い人々で、シナ人よりも良い服装をしており、気位が高い。」と記してある。

琉球王国の文化

琉球舞踊

琉球舞踊は、中国からの使節を歓迎するために舞う宮廷舞踊「御冠船踊り」がその起源である。御冠船踊りはすべて貴士族の子弟のみによって踊られた。宮廷舞踊のことを明治以降の舞踊と区別する意味で、古典舞踊とも言う。古典舞踊には、老人踊り、若衆踊り、二才踊り、女踊り、打組み踊りなどがある。

琉球神道

古来より琉球にはアニミズム、祖霊崇拝、おなり神信仰を基礎とする固有の宗教があった。




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2015年11月20日

邪馬台国はどこにあったのか!?その謎に迫る!



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第2回目は「邪馬台国はどこにあったのか!?その謎に迫る!」です。

元記事ははここ






邪馬台国論争

3世紀頃、日本にあったとされる邪馬台国が、どこにあったかと言う論争で、九州説、畿内説、出雲説、関東節、北陸説、東北説、沖縄説なんていうのもあったみたいである。

有力なのは九州説と畿内説で、奈良県の桜井市の纏向古墳が発見されてからは(その前から畿内説が有力だった)、畿内説でほぼ確定したかの様に言われるが、九州説を唱える学者はまだ在野などには多い。このサイトも九州説を支持しています。

邪馬台国の記述

2~3世紀に日本列島に存在したとされる国。支那(中国)の「三国志」と呼ばれる物語に出てくる日本の王国である。

三国の内、一番の大国であった「魏」という国の歴史書・「魏書」の日本のことが載っている部分、いわゆる「倭人伝」の部分に邪馬台国の記述がある。(本稿では魏志倭人伝とする)

これは、三国を統一した司馬一族がどれくらい凄かったかを現す為に、「倭国という遠い国からも貢物を持って来た」という風に出てくるものである為、必要以上に遠い国である様に書かれている。(書かれている距離をすべて足すと、日本より遠い国になってしまう。)

また、支那は支那以外の国を貶めて書く為、邪馬台国の「邪」やその国の女王・卑弥呼の「卑」など、実際の名前とは違う名前を当てはめている為、日本のどの国のどの部分を指しているか分かりにくくなっている。

その為、邪馬台国が日本の歴史のどの国で、卑弥呼は日本の歴史の誰を指しているのか議論が絶えない。

歴史教科書の嘘

日本に漢字や仏教などが伝わったのは6世紀頃で、朝鮮半島経由で伝わったと学校などでは教えられています。
これは、左よりの人達の自虐史観の一つです。

韓国の国定教科書などでも、6世紀の韓国の三国時代(百済、高句麗、新羅)に「すべての文化は韓国が日本教えてあげた」という風に書かれています。仏教、漢字、儒教、美術、音楽、歴史、医学、農業、紙、筆、墨、硯(すずり)の作り方など全てです。

しかし、九州で「漢委奴国王」の金印が見つかっています。これは西暦57年の物、つまり1世紀の物です。
印鑑が必要ということは文字を使って書類を書いていたということです。また、1世紀には直接大陸と国交があったことが後漢書などにも記載があります。
また、片部遺跡から出土した墨書土器に文字が墨書されています。

ちなみに朝鮮半島には「銅印」しか送っていません。

日本に文明を教えてあげたと言われる百済の成立は西暦346年で、日本の属国でした。世継ぎの皇子を日本に人質に出したりしていました。
このことは、日本書紀だけでなく、朝鮮の史書である三国史記にも繰り返し記述されています。

そして、魏志倭人伝に書かれている魏から女王たちに贈られた品々や位が、西の大月氏国に匹敵する最恵国への待遇でした。

ちなみに倭国、倭人の「倭」という文字も蔑称ではあるが、「にんべん」を使っていて、人として扱ってもらっていますw
朝鮮半島などは酷くて、「?族(わいぞく)」です。「?」というのは、汚穢(おわい)の「?」で、大小便や糞尿のことを言います。普通は「のぎへん」ですが、わざわざ「さんずい」を使っています。
支那は、周辺民族の名に、ろくな漢字を充てていませんが、いろいろある周辺民族の呼称のなかで、これほど汚い文字を与えられた民族は、他に例がありません。

これらのことは、当時から日本の文明は朝鮮半島より遥かに栄えていたことを示しています。

邪馬台国とは

魏志倭人伝では、親魏倭王卑弥呼は、約30の国からなる倭国の都としてここに住居していたとしています。

倭国は元々男王が治めていたが、国の成立(1世紀中頃か2世紀初頭)から70-80年後、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起きたと書かれています(倭国大乱の時期は2世紀後半)。
そこで、卑弥呼という女子を王に共立することによって、ようやく混乱が収まっり、弟が彼女を補佐し国を治めていたそうです。

女王は魏に使節を派遣し親魏倭王の封号を得たが、狗奴国との戦いがあった時期とされる248年頃から間もなく卑弥呼が死去し、男王が後継に立てられたが混乱を抑えることができず、「壱与」または「台与」が女王になることで収まったと書かれています。





邪馬台国が九州にあったと言う説

邪馬台国九州説では、福岡県の糸島市を中心とした北部九州広域説、福岡県の大宰府天満宮、大分県の宇佐神宮、宮崎県の西都原古墳群など諸説が乱立している。また、邪馬台国が”移動した"とする説(「東遷説」)と"移動しなかった"とする説がある。「東遷説」では、邪馬台国が畿内に移動してヤマト王権になったとしている。

邪馬台国九州説

このサイトでは、邪馬台国九州説を支持します。

魏志倭人伝よりも少し後の時代に書かれた支那の旧唐書(くとうじょ)という歴史書に、「日本国は、倭国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた」と書いてあります。

ここから分かることは、支那の言う倭国と日本は別の国であるということです。

さらに旧唐書には「倭国伝」と「日本国伝」があります。
その「倭国伝」の冒頭に「倭国とは古の倭奴国なり。唐の都から一万四千里、新羅の東南の大海中に在り。」と書いてあります。朝鮮半島の新羅から東南に海を渡った先にあるのが「倭国」ということです。

そして、「日本国は、倭国の別種だ。その日本国は、日の出の場所、つまり「倭国」からみて東方にある。そして東にあるから「日本」と名づけた」と書いてあります。

その上、「日本国の境目は、東西南北に各数千里、西のはずれと南のはずれは、いずれも大海であり、東の方角には大きな山があり、その山の向こうは、毛人の国だ」とあります。

つまり、西と南は海だけど、東の方には大きな山(富士山?)があり、その向こうは毛人(アイヌ?)が住んでいると言っています。

決定的な文章として、隋書に書いてる「倭国の真ん中には「阿蘇山」があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異として祭祀を執り行っている」との文です。
普通に山ではなく、「有阿蘇山」と山の名前が入っています。

つまり、倭国は九州にあったということです。
そして近畿内には、日本と言う国があったということになります。

余談ですが、「新唐書」には、「その「倭国」に、彦瀲(ひこなぎさ)の子の神武が立ち、改めて「天皇」を号して、大和州に移って統治した。次は綏靖、次は安寧、次は懿コ、次は孝昭、次は天安、次は孝靈、次は孝元、次は開化、次は崇神、次は垂仁、次は景行、次は成務、次は仲哀・・・」とあります。
そうです、記紀に書いてある「神武東征」のことです。

古事記や日本書紀が、神話でなく、実際の歴史書だったことが良く分かる文章です。
学校で学ぶようになることを願っています。


当時の日本人

学校では、毛皮を着て狩りなどをして暮らしていたと言う風に習い、漫画の日本の歴史なんかでも石の斧を持って、鹿などを追い回している絵を使っています。

しかし、支那の歴史書や古墳などから分かる日本は随分と違います。

旧唐書によれば、「甚だ文字を知り、俗人は佛法を敬う」とあります。
また、「布の衣装を着ている」「綿の帽子」との記述もあり、古墳(鳥浜貝塚など)などからも布が見つかっています。

日本人は朝鮮半島から漢字が伝わったと言われる随分前から漢字を使っており、庶民まで知っていたということです。

また、布を編む道具なども発達していたということが分かります。

他には「婦人は鮮やかな色のスカート」を履き、「銀で出来た花の形のかんざし」をさしていたそうです。

また、「争い事が起こると訴えを起こす」との文もあり、裁判制度もしっかりしていたことが伺えます。

そして、隋書には「倭国は大国だ。新羅、百済は倭国に珍しい物が多いと敬仰して常に通使が往来している」とあります。あの自分たち以外を認めない支那が倭国を「大国」と書き、新羅、百済が倭国に朝貢していたと書いてあります。

そして一番感動したのは「魏書」にある「風俗は規則正しく、婦人は淫らでなく、嫉妬を しない、盗みがなく、訴訟も少ない」という文です。

今も昔も日本人は、盗みなどしない国民性だったということが分かります。







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